出エジプト記1章・歴代誌上20-21章・ルカ2章21-38節
2026年1月10日 通読
はじめに
今日の通読箇所は、一見バラバラに見える三つの箇所ですが、深い霊的なつながりがあります。
出エジプト記1章では、ヨセフを「知らない」王が登場し、イスラエルを迫害します。歴代誌上21章では、ダビデが罪を犯しながらも神の憐れみを経験し、将来の神殿敷地を獲得します。ルカ2章では、シメオンとアンナという二人の老人が、長年待ち続けた救い主に出会います。
これらを結ぶ共通テーマは「神の時を待つ」ことです。
その前に、もし時間がありましたら、このYouTubeをお聞きください。
旧約の王や預言者たちは、主イエス・キリストをはっきりとは理解できていなかったと思います。おぼろげながらに、やがて来られる救い主を信じていたのではないでしょうか。
けれども私たちは、新約聖書を通してキリストの贖いと豊かさを知ることができる時代に生きています。旧約の時代の人々がこれを知ったら、泣いて喜ぶのではないでしょうか。
このことを黙想しつつ、今日もみ言葉を開きました。
「知らない王」と「待ち続けた老人たち」
忘却がもたらすもの
出エジプト記1章8節に、聖書の中でも最も不吉な言葉の一つが記されています。
「そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し」
ヨセフはかつてエジプトを飢饉から救った恩人でした。しかし世代が変わり、その恵みは忘れ去られました。
この「忘却」が何をもたらしたでしょうか。恐れ、迫害、そして奴隷化です。ファラオは「イスラエル人が増えすぎた」と恐れ、彼らを重労働で抑圧しました。
神の約束は人間の策略を超える
しかし興味深いパラドックスが起こります。
「しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がった」(1:12)
ファラオの計画は完全に裏目に出ました。これは神がアブラハムに与えた約束「子孫を星のように増やす」(創世記15:5)が、人間の策略を超えて成就することを示しています。
迫害されればされるほど、信仰者は増えていく。これは教会の歴史でも繰り返されてきた原理です。テルトゥリアヌスは「殉教者の血は教会の種である」と語りました。
二つの姿勢の対比
| 出エジプト記の王 | シメオン・アンナ |
| 過去を「忘れた」 | 約束を「覚えていた」 |
| 恵みを「知らない」 | 救いを「待ち望む」 |
| 恐れから「迫害」する | 信仰から「礼拝」する |
| 民を「奴隷」にする | 民の「解放」を宣言する |
私たちはどちらの側にいるでしょうか。神の恵みの歴史を忘れて目の前の状況に恐れを抱く「ファラオ」になるのか、それとも約束を握りしめて待ち続ける「シメオン」になるのか。
⏳ 神の時を待つ者たち
出エジプト記1章・歴代誌上21章・ルカ2章から学ぶ「二つの姿勢」
― 出エジプト記1:8
― ルカ2:25
神の恵みの歴史を忘れて恐れを抱く「ファラオ」になるのか
それとも約束を握りしめて待ち続ける「シメオン」になるのか
迫害が激しくなっても
神は忘れていなかった
しかしその場所を備えた
ソロモンの時を待った
そしてついに
見届けた
聖霊にとどまっていた
祈り断食していた
祭壇を築き、代価を払った
「主よ、お話しください。しもべは聞いております」
ダビデの人口調査の罪とオルナンの打ち場
なぜ「数える」ことが罪だったのか
歴代誌上21章1節にはこうあります。
「サタンがイスラエルに対して立ち、イスラエルの人口を数えるようにダビデを誘った」
聖書には民数記で神が人口調査を命じた箇所もあります。問題は調査そのものではなく、その動機でした。
ヨアブでさえ「どうしてイスラエルを罪のあるものとなさるのですか」(21:3)と反対しました。将軍が王に逆らうほどの危険を感じていたのです。
考えられるダビデの動機:
- 軍事力への信頼 ― 「神の守り」ではなく「兵士の数」を頼みとする
- 高慢 ― 「自分がこれだけの民を治めている」という自己誇示
- 不安からの確認 ― 神の約束を信じきれず、目に見える数字で安心しようとする
これは私たちへの問いかけでもあります。ブログのアクセス数、献金額、礼拝出席者数…。数字そのものが悪いわけではありませんが、それが「神への信頼」に取って代わるとき、同じ罪に陥ります。
「主の手にかかって倒れよう」
三つの裁きの選択肢(飢饉、敵の蹂躙、疫病)を前にして、ダビデはこう答えました。
「大変な苦しみだ。主の御手にかかって倒れよう。主の慈悲は大きい。人間の手にはかかりたくない」(21:13)
罪を犯した後でも、ダビデは神の性質を正しく理解していました。人間の残酷さより、神の憐れみを信じたのです。
実際、21章15節で「主は災いを思い返され」ました。神の裁きには「悔い改めへの招き」が含まれています。これが「神の心にかなう人」と呼ばれた理由の一つでしょう。
「代価を払う」ことの意味
オルナンは麦打ち場と牛を「すべて差し上げます」と申し出ました。しかしダビデは断りました。
「わたしは代価を十分支払って買い取らなければならない。あなたのものを主にささげることはできない。無償で得た焼き尽くす献げ物をささげることはできない」(21:24)
真の礼拝には「犠牲」が伴います。何の痛みもない、何の代価も払わない「献げ物」は、本当の献げ物ではありません。
私たちの礼拝、奉仕、献金は「代価を払った」ものでしょうか。それとも「余りもの」でしょうか。
金六百シェケルの価値
歴代誌上21:25では「金六百シェケル」とありますが、並行記事のⅡサムエル24:24では「銀五十シェケル」です。
一つの説明は、サムエル記の五十シェケルは「麦打ち場と牛」のみの代金で、歴代誌の六百シェケルはより広い「土地全体」(将来の神殿敷地)の代金だったという解釈です。
金一シェケルは約11.4グラムとされるので、六百シェケルは約6.8kgの金、現代の価値で約8,000万円以上になります。ダビデがいかに重い代価を払ってこの土地を獲得したかがわかります。
モリヤ山・オルナンの打ち場・神殿敷地の同一性
聖書はこの場所に特別な意味を与えています。決定的な聖句を見てみましょう。
「ソロモンはエルサレムのモリヤ山に主の宮を建て始めた。そこは、主がダビデの父に現れた所、すなわちエブス人オルナンの打ち場である」(Ⅱ歴代誌3:1)
この一節で、聖書は三つの出来事を一本の線で結んでいます。
| 時代 | 出来事 | 聖書箇所 |
| アブラハム | イサク奉献 | 創世記22章「モリヤの地」 |
| ダビデ | 祭壇を築く・裁きが止まる | 歴代誌上21章 |
| ソロモン | 神殿建設 | Ⅱ歴代誌3:1 |
聖書は意図的に「アブラハム → ダビデ → ソロモン → 神殿」を贖いの線で結んでいます。
共通テーマ:
- 父が独り子を捧げる(アブラハム→イサク、父なる神→御子)
- 神が備える犠牲(「主の山には備えがある」創22:14)
- 血によって死が止められる
- 贖いが礼拝の中心となる
オルナンの打ち場とダビデの幕屋の違い
ここで重要な区別があります。「オルナンの打ち場」と「ダビデの幕屋」は同じ場所ではありません。
| 項目 | オルナンの打ち場 | ダビデの幕屋 |
| 位置 | モリヤ山(神殿の丘) | シオン(ダビデの町) |
| 象徴 | 贖い・犠牲・裁きの停止 | 臨在・賛美・恵みによる近づき |
| 関連 | 神殿礼拝の基礎 | 終末的回復の型(アモス9:11) |
両者は対立ではなく、「贖い → 臨在 → 栄光」という連続の中に位置づけられます。
🏔️ モリヤ山 ― 贖いの系譜
アブラハム → ダビデ → ソロモン → キリスト
一つの場所に刻まれた救いの物語
アブラハムは信仰によってイサクを捧げようとし、神は身代わりの雄羊を備えられた。
「主の山には備えがある」(22:14)
人口調査の罪による疫病が、オルナンの打ち場で止められた。
ダビデは金600シェケルを払い、この土地を獲得した。
アブラハムの奉献、ダビデの祭壇と同じ場所に、神殿が建設された。
聖書自身がこの同一性を証言している。
アブラハムが息子を捧げようとしたあの山で、父なる神は御子を捧げられた。
すべての型と予表が成就した。
アブラハム→イサク
父なる神→御子キリスト
「主の山には備えがある」
身代わりの死
疫病の停止
罪の赦し
神殿の敷地
新しい契約
そこは、主がダビデの父に現れた所、
すなわちエブス人オルナンの打ち場である」
「アブラハム → ダビデ → ソロモン → 神殿 → キリスト」を
一本の贖いの線で結んでいます
これは偶然ではなく、救済史の中核構造です
シメオンとアンナ ― 待ち続けた信仰者たち
シメオンについての興味深い伝承
聖書にはシメオンの年齢は記されていませんが、正教会の伝承には驚くべき物語があります。
伝承によれば、シメオンは七十人訳聖書(セプトゥアギンタ)を翻訳した72人の学者の一人でした。彼がイザヤ7:14を翻訳する際、「処女」ではなく「若い女」と訳そうとしたところ、天使が現れて彼の手を止め、「あなたはこの言葉が成就するのを見届けるであろう」と告げたとされています。
七十人訳の翻訳は紀元前3世紀中頃に始まったので、イエス誕生まで約250〜300年。この伝承に従えば、シメオンは300〜360歳でイエスに出会ったことになります。
もちろん、これは聖書的根拠のない伝承です。しかし、この物語が重要視される理由は、イザヤ7:14の「アルマー(עַלְמָה)」を「パルテノス(παρθένος=処女)」と訳した七十人訳の翻訳の正当性を裏付けるためでした。
シメオンの賛歌と預言
シメオンの賛歌(ヌンク・ディミティス)は美しい平和の歌です。
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」(ルカ2:29-30)
しかしその直後、マリアへの厳しい預言が続きます。
「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」(2:35)
救いの喜びと苦しみが同時に語られています。キリストの救いは十字架を通して来ました。マリアの「剣で刺し貫かれる心」は、その救いの代価の一部でした。
✴「剣で心を刺し貫かれる」― これはマリアが十字架のもとに立つことの預言です。
ヨハネ19:25に記されているあの場面:
「イエスの十字架のそばには、その母と、母の姉妹と、クロパの妻マリアと、マグダラのマリアとが立っていた」
マリアは自分の胎から生まれた「わが子」が、十字架につけられて死んでいくのを目の当たりにしました。母親にとって、これほどの苦しみはありません。
シメオンがあの40日目の赤ちゃんを抱きながら、約33年後の十字架の場面まで見通していた―これは聖霊による預言の深さを示しています。
興味深い対比:
- シメオンは「安らかに去らせてください」と平安の中で死を迎える
- マリアは「剣で心を刺し貫かれ」苦しみの中で立ち続ける
シメオンの役割は「見届けて去る」こと。マリアの役割は「見届けて、なお生き続ける」こと。
どちらも尊い召しですが、マリアに求められたものは、ある意味でシメオンより厳しかったかもしれません。
👴 シメオンの伝承
正教会に伝わる七十人訳聖書翻訳者としてのシメオン
ルカ福音書2:25-26には、シメオンの年齢や経歴については何も書かれていません。
しかし、この伝承は初代教会以来の信仰理解を反映しており、学ぶ価値があります。
七十人訳聖書の翻訳開始
プトレマイオス2世の命により、72人のユダヤ人学者がヘブライ語聖書をギリシア語に翻訳。
伝承によれば、シメオンはこの72人の一人だった。
イザヤ7:14の翻訳で躊躇
シメオンがイザヤ書7:14を翻訳しようとした時、
「処女が身ごもって男の子を産む」という預言に疑いを持った。
「若い女」と訳そうとして、手を止めた。
「あなたはこの預言の成就を見届ける」
天使が現れてシメオンの手を止め、こう告げた:
「あなたはこの言葉が成就するのを見届けるまで死なない」
約束の成就 ― 幼子イエスとの出会い
約300年後、シメオンは神殿で幼子イエスを抱き、ついに約束が成就した。
「今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます」
「若い女性」「出産可能な若い女」
「処女」「未婚の女性」
見よ、おとめがみごもって男の子を産む。
その名は『インマヌエル』と呼ばれる」
伝承によれば、シメオンが「パルテノス(処女)」と訳すことを躊躇したため、
天使がその預言の成就を自分の目で見届けるまで生きると告げた
この伝承は聖書的根拠を持ちませんが、
初代教会以来、イザヤ7:14の「処女」翻訳の正当性を裏付けるために語り継がれてきました。
ルカ2:26の「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」という約束を、
この伝承は壮大な物語として解釈しています。
いずれにせよ、シメオンは「待ち望む者」の模範です。
何年待とうとも、神の約束は必ず成就する ― それがシメオンの証しです。
アンナ ― アシェル族の女預言者
アンナについて、聖書は詳細な情報を与えています。
- アシェル族(失われた10部族の一つ!)
- ファヌエルの娘
- 若い時に嫁いでから7年間夫と暮らした
- 寡婦となり、84歳になっていた
- 神殿を離れず、断食と祈りで夜も昼も神に仕えていた
アシェル族とは
アシェル(אָשֵׁר)はヤコブの8番目の息子で、レアの女奴隷ジルパから生まれました。名前は「幸い、祝福された」という意味です。
| 母親 | 息子たち |
| レア(正妻) | ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルン |
| ラケル(正妻) | ヨセフ、ベニヤミン |
| ビルハ(ラケルの女奴隷) | ダン、ナフタリ |
| ジルパ(レアの女奴隷) | ガド、アシェル |
アシェル族は北王国イスラエルに属していたので、紀元前722年のアッシリア捕囚で離散した「失われた10部族」の一つです。
しかし、アンナが「アシェル族」と明記されていることは驚くべきことです。北王国滅亡後約700年以上経っても、自分の部族的アイデンティティを保っていた敬虔な残りの民がいたのです。
👨👩👦👦 ヤコブの12人の息子たち
母親別分類 ― アンナが属した「アシェル族」を知る
📖 名前の意味
アシェル(אָשֵׁר) = 「幸い」「祝福された」
― 創世記30:13(レアの言葉)
🗺️ 相続地
カナンの北西部・地中海沿岸
フェニキアの都市ツロ・シドンの近く
― 創世記49:20
⚠️ 北王国滅亡後
紀元前722年のアッシリア捕囚で離散
「失われた10部族」の一つに
✨ しかし…
アンナは約700年後も
「アシェル族」のアイデンティティを保っていた!
すべての部族が完全に失われたわけではない
敬虔なユダヤ人は部族的アイデンティティを保ち続けた
神は「失われた」部族をも覚えておられる
この二人がペアで幼子イエスを迎えることで
分裂した王国、散らされた部族が
キリストにおいて一つにされることが暗示されている
イエスは「全イスラエル」の救い主である
シメオンとアンナのペアの神学的意味
ルカは意図的に男女をペアで登場させています。シメオンは南ユダ系(おそらくレビ族か祭司系統)、アンナは北イスラエル系(アシェル族)。
この二人がペアで幼子イエスを迎えることで、分裂した王国、散らされた部族がキリストにおいて一つにされることが暗示されています。
イエスは「全イスラエル」の救い主であるというメッセージです。
私たちへの適用
ダビデの告白と私たちの立場
歴代誌21:29-30にはこう記されています。
「そのころ、モーセが荒れ野で造った主の幕屋も、焼き尽くす献げ物をささげる祭壇も、ギブオンの聖なる高台にあり、ダビデは主の御使いの剣を恐れ、神を求めてその御前に行くことができなかった」
裁きの剣を見たダビデは、聖なる神の前に出ることへの恐れに動けなくなりました。
しかし、私たちには主イエスの十字架の血潮の覆いがあります。ヘブル書10:19-22はこう告げています。
「こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます…新しい生ける道を通って…心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ…近づこうではありませんか」
ダビデが見て恐れたあの御使いの剣は、私たちのためにキリストご自身が受けてくださいました。だから私たちは「恐れずに」ではなく、「畏れつつも大胆に」御前に出られるのです。
シメオンとアンナ ― 二つの召し
シメオンは「私は去ります」と言いました。彼の役割は「見届ける」ことでした。
しかしアンナは「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」(2:38)のです。彼女の役割は「伝える」ことでした。
シメオンのように「見届けて去る」召しもあれば、アンナのように「見届けて語り続ける」召しもあります。どちらも尊い奉仕です。
「神の時を待つ」とは
今日の三箇所を結ぶ共通テーマは「神の時を待つ」ことです。
- 出エジプト記1章 ― イスラエルは400年以上エジプトで待った。迫害が激しくなっても、神は忘れていなかった
- 歴代誌21章 ― ダビデは神殿を建てることを許されなかったが、その場所を備えた。ソロモンの時を待った
- ルカ2章 ― シメオンとアンナは何十年も救い主を待った。そしてついに見届けた
待つことは受動的ではありません。
シメオンは「待ち望みながら」聖霊にとどまっていました。アンナは「待ち望みながら」祈り断食していました。ダビデは「待ち望みながら」祭壇を築き、代価を払いました。
能動的に待つ。備えながら待つ。仕えながら待つ。これが聖書の教える「待つ」姿勢です。
まとめ ― 驚くばかりの恵み
今日の通読を通して、神の忠実さと救いの計画の一貫性を深く感じます。
ヨセフの恵みを忘れた王がいても、神は忘れませんでした。ダビデが罪を犯しても、神は憐れみの中で将来の神殿の場所を備えさせました。そして何百年も待ち続けた老人たちは、ついに約束の成就を目撃しました。
私たちもまた「待つ者」です。キリストの再臨を待ちながら、シメオンやアンナのように「聖霊にとどまり」「祈りと断食で」主に仕え続ける者でありたいと願います。
「主よ、お話しください。しもべは聞いております」
下記のnoteの方では、聖書初心者の方にも分かるように、記事を書いています。是非読んでくださいね 👇


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