【通読箇所】 出エジプト記24章9〜18節 / ヨブ記6〜7章 / ルカ22章1〜30節
目次
はじめに
「見よ。わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、
わたしはその人のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
(黙示録3章20節)
なんと主イエスは私達と共に食事をするために私達が戸を開けるのを待っておられるのです
主イエスは今も、あなたの戸の外に立って、叩いて待っておられます。
押しつけがましく押し入るのではなく、静かに戸を叩きながら。招かれるのを待ちながら。
この言葉はラオデキヤの教会——熱くも冷たくもない、中途半端な信仰に安住していた教会——に向けて語られました。しかし同時に、時代を超えてすべての人に語りかけている言葉でもあります。神は人間と食卓を共にすることを、ずっと切望しておられる。その切望は、歴史の中で何度も、何度も、形を変えて現れてきました。
今日の通読はその旅を辿ります。
シナイ山の頂で七十四人の長老たちが神の御前で飲み食いをした場面から、最後の晩餐でイエスが「この食事をすることをどんなに望んでいたことか」と語られた夜まで——そして、神の国で完成する小羊の婚宴まで。一本の糸が、聖書全体を貫いています。
ヨブは灰の中で死を望みながら叫び続けました。その声も、神は聞いておられた。食卓から最も遠く感じられる場所にいる時も、神は戸の外に立っておられます。
あなたは今、どこにいますか。
神の食卓への招きは、今日も届いています。
※この記事は、要点だけを抜き出して理解できる内容ではありません。モーセ五書・旧約・新約の連続した文脈の中でのみ読まれることを意図しています。
【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。
第一部:山の上の食卓——契約は血と会食で結ばれる
通読箇所:出エジプト記24章9節〜18節
出エジプト記24章は、聖書全体の中でも最も驚くべき場面のひとつである。シナイ山のふもとで律法が読み上げられ、民が「主が語られたことをすべて行います」と応答した後(24:3)、モーセは血をもって契約を批准した。そして——そこから始まるのが、今日の通読箇所である。
神を「見た」人々
「そうして、彼らはイスラエルの神を仰ぎ見た」(24:10)
モーセ、アロン、ナダブ、アビフ、そして七十人の長老——合わせて七十四人が山に登り、イスラエルの神を仰ぎ見た。これは聖書の中で極めて稀な出来事である。通常、神を見ることは死を意味すると理解されていた(出33:20)。しかし24:11はこう記す——「神はイスラエル人の指導者たちに手を下されなかった」。
ここで使われているヘブライ語「חָזָה(ハーザー)」は、単なる物理的な視覚ではなく、預言的なビジョンを受けるという意味合いを持つ言葉である。エゼキエルやイザヤが神の御座を「見た」時に使われるのと同じ語根。彼らは神の臨在の啓示を受けたのであり、それは圧倒的な恵みによるものだった。
御足の下に広がる「サファイヤを敷いたようなもの、透き通っていて青空のような」光景——この描写はエゼキエル書1章の御座のビジョンと連動しており、神の栄光の輝きを人間の言語で表現しようとした限界の美しさである。
契約の食卓
そして続く言葉が衝撃的である。
「彼らは神を見、しかも飲み食いをした」(24:11)
古代中東の慣習において、条約(契約)を締結した後、両者が共に食事をすることは契約批准の証であった。単なる儀式ではなく、「私たちは今、契約関係にある」という生きた確認の行為。神がイスラエルと契約を結び、その場で共に食卓を囲んだ——これは神が一方的に距離を置く超越的な存在ではなく、食卓を共にすることを望む神であることを示している。シナイ山の山上で行われたこの会食は、聖書全体を貫く「神の食卓」というテーマの最初の明確な表れである。
神の時間の中で待つ
「主の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は六日間、山をおおっていた。七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた」(24:16)
六日間——モーセは山の上で待った。雲に覆われ、神の栄光が目の前にありながら、呼ばれるまで動かない。この待機は断食に等しい状態であったと考えられる。それでも神は「六日」経ってから呼ばれた。神の側の主権で時が定められ、人はその時を待つ。
さらにモーセはその後、「四十日四十夜」山にいた(24:18)。民の側から見れば、一ヶ月以上である。その間、民は不安に揺れ、後の金の子牛事件へと転落していく。
ここに鋭い問いが立ち上がる——神は民が不安になることをご存知だったはずである。なぜ待たせたのか。
ひとつの答えは、神の時間は人間の不安を基準にしていない、ということである。しかし同時に、この四十日は単なる試練ではなく、神がモーセに律法の全体を伝えるために必要な時間でもあった。神が「遅い」と感じられる時、たいてい神の側では膨大な準備が行われている。モーセの忍耐は際立っている。呼ばれるまで待ち、呼ばれたら雲の中に入り、四十日神の言葉を聞き続けた。この姿勢——「主よ、語ってください、しもべは聞いております」という態度——が、神の山での会食と律法受領を可能にした。
第二部:嵐の中の誠実——ヨブの叫びは信仰の崩壊か
通読箇所:ヨブ記6章〜7章
ヨブ記6〜7章は、読む者を不快にさせる章である。これほど率直に神へ向かって「死なせてくれ」「なぜ私を的にするのか」と叫ぶ声が聖書に記録されていること自体、驚くべきことだ。しかしこの不快さこそ、ヨブ記が聖書正典に含まれている理由のひとつである。
友人への反論——慰めの失格
6章はエリファズへの反論から始まる。エリファズは5章で「神に訴えよ」「苦しみには意味がある」と語った——神学的には正しそうな言葉を。しかしヨブはそれを切り捨てる。
「私の苦悶の重さが量られ……それは、きっと海の砂よりも重かろう」(6:2-3)
ヨブが求めているのは神学的説明ではない。6:14に彼の本音が現れる——
「落胆している者には、その友から友情を。さもないと、彼は全能者への恐れを捨てるだろう」
これは鋭い洞察である。適切な時に友情(ヘブライ語:חֶסֶד / ヘセド——契約的な愛、誠実な愛)を示さない友人は、苦しむ者を神から引き離す危険がある。エリファズたちは「神の代弁者」のつもりで語っているが、ヨブの目には彼らは「裏切る川」(6:15)——炎天に干上がってしまう、当てにならない水源として映っている。今日の教会においても、苦しむ人に最初に必要なのは正しい神学より、共にいることである。ヨブはその原則を苦しみの中から語っている。
「聖なる方のことばを拒んだことがない」
6章の最も重要な言葉は6:10である。
「私はなおも、それに慰めを得、容赦ない苦痛の中でも、こおどりして喜ぼう。私は聖なる方のことばを拒んだことがないからだ」
ここに逆説がある。ヨブは死を望んでいる(6:9)。しかし死を望みながら、神のことばへの忠実を告白している。感情は限界まで爆発しているが、信仰の土台は揺れていない。これは信仰の崩壊ではなく、炉の中での信仰の純化である。
神に向けられた叫び
7章でヨブの訴えは神に直接向かう。ヘブライ語「צָבָא / ツァバー」——「苦役」と訳されているこの言葉は、軍役・強制労働の意味を持つ。人生が戦場のような苦役であるという鮮烈なイメージ。
そして7:17-18——「人とは何者なのでしょう。あなたがこれを尊び、これに御心を留められるとは。また、朝ごとにこれを訪れ、そのつどこれをためされるとは」
この言葉は詩篇8:4と同じ問いである。しかし詩篇8篇は賛美として、ヨブ7章は苦情として、同じ問いが語られている。神への関心が祝福ならば賛美になり、苦しみの中では「なぜ放っておいてくれないのか」という叫びになる。これが人間の信仰の正直な振れ幅である。
注目したいのは、ヨブが神に「答えてくれ」と叫んでいることである——沈黙している神に向かって語り続けている。神を完全に見捨てた者は、もう神に語りかけない。ヨブの叫びは、苦しみの中での絶えない神との格闘であり、それ自体が信仰の証拠である。ヨブ記42章で神はエリファズに「あなたは私についてわたしのしもべヨブのように正しいことを語らなかった」と言われる。神学的に正しく見えた友人たちではなく、叫び続けたヨブの言葉を神は「正しい」と言われた。
第三部:最後の食卓——過越しが成就するとき
通読箇所:ルカ22章1節〜30節
ルカ22章は、歴史が一点に収束する瞬間の記録である。何百年もの過越しの記念が、ついにその実体と向き合う夜——イエスは「この過越しの食事をすることをどんなに望んでいたことか」と言われた。神が食卓を切望していた。
裏切りの準備と過越しの準備
章は二つの「準備」が同時進行する緊張から始まる。祭司長たちはイエスを殺す方法を準備し(22:2)、イエスは過越しの食事を準備させる(22:8)。そしてユダに「サタンが入った」(22:3)——ルカはこの出来事を霊的な次元で捉えている。人間の陰謀の背後に、より大きな霊的戦いが動いていた。しかしイエスはすべてをご存知の上で、淡々と準備を進められた。「町に入ると、水がめを運んでいる男に会う」(22:10)——この預言的な正確さは、イエスがこの夜の全体を掌握していたことを示している。裏切られる側が、その夜の段取りを完全に制御していた。
「どんなに望んでいたことか」
「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越しの食事をすることをどんなに望んでいたことか」(22:15)
ギリシャ語原文では「ἐπιθυμίᾳ ἐπεθύμησα(エピテュミア エペテュメサ)」——「切望に切望した」という強意の重複表現である。なぜイエスはこの食事をこれほど切望されたのか。それはこの食卓が、出エジプト以来すべての過越しが指し示してきた「実体」だったからである。エジプトの夜に屠られた子羊の血、鴨居に塗られた血——それらはすべてこの夜の「影」であり、イエスご自身がその「実体」として食卓に着こうとしていた。
過越しの成就という問い
「過越しが神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越しの食事をすることはありません」(22:16)
ここで注目したいのは、イエスが過越しをまだ「成就していないもの」として語っていることである。十字架の前夜の時点で、過越しは完成に向かっていた——しかしまだ完成していなかった。翌日の十字架によって「神の小羊」が屠られ、過越しは新しい次元で成就する。しかしその完全な成就は、さらに先——「神の国において」実現する。パウロはこの構造をコリント人への手紙第一5:7で「キリストは、私たちの過越しの小羊として、屠られました」と表現した。
新しい契約の食卓
「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」(22:20)
出エジプト24章でモーセは動物の血を民に注ぎかけ「これは主があなたがたと結ばれたすべての言葉についての契約の血である」と言った(24:8)。その契約の血が、ここでイエスご自身の血に置き換えられる。動物の血による古い契約から、神の子の血による新しい契約へ——これは代替ではなく、成就である。
食卓の三段階:
シナイ山の契約の食卓(出24章) → 最後の晩餐の新契約の食卓(ルカ22章) → 神の国の完成の食卓(ルカ22:30)
最後の晩餐の荘厳な夜に、弟子たちの間で「誰が一番偉いか」という論争が起きた(22:24)。しかしイエスは怒らなかった。静かに、しかし根本的に違う価値観を示された。「わたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています」(22:27)——神の国の食卓では、仕える者が最も大きい。
第四部:一本の糸——神は食卓を切望している
通読箇所全体を貫く神学的テーマ
今日の三つの箇所は、一見すると全く異なる世界を描いている。シナイ山での荘厳な神顕現、灰の中で死を望むヨブの叫び、裏切りの影が差す最後の晩餐——しかしこれらを貫く一本の糸がある。それは「神は人間と共にいることを切望している」というテーマである。
食卓というシンボルの完成
出エジプト24:11で七十四人の長老たちが神の御前で飲み食いした場面から始まった「神の食卓」というテーマは、聖書全体を静かに流れ続ける。注目したいのは、この食卓が常に契約と結びついているという事実である。シナイ山の食卓は律法契約の批准であり、最後の晩餐は新しい契約の締結であった。神が人間と食卓を囲むという行為は、単なる親密さの表現ではなく、神が人間との契約関係に入ることを選ばれたという宣言である。ルカ22:15の「どんなに望んでいたことか」——ギリシャ語の強意重複表現「ἐπιθυμίᾳ ἐπεθύμησα」が示す神の切望は、出エジプト24章の食卓から続く神の一貫した姿勢の頂点である。
神の時間と人間の不安
出エジプト24章のモーセは六日間待たされ、民は四十日待たされた。ヨブは苦しみの中で「いつまで」と叫んだ。最後の晩餐の夜、弟子たちは翌日何が起きるか理解できていなかった。三つの箇所に共通するのは、神の時間が人間の不安を超えているという現実との格闘である。しかし神の「遅さ」や「沈黙」が、神の不在を意味しないということがある。モーセが待たされた六日間、神の栄光は山の上にあった。ヨブが叫んでいた間、神はヨブの言葉を聞いていた。最後の晩餐の夜、弟子たちには見えていなかったが、翌日の十字架はすでに神の計画の中にあった。
ヨブの位置——食卓の手前で
今日の通読でヨブは食卓から最も遠い場所にいる。灰の中で、死を望み、友人たちに裏切られ、神の沈黙の中で叫んでいる。しかしヨブ記全体の構造を見ると、ヨブ記42章の結末でヨブは回復し、友人たちのために執り成しの祈りを捧げ、神と和解する。ヨブ記もまた「食卓への旅」である——苦しみの底から、神との関係の回復へ。興味深いことに、ヨブ記42:11で回復したヨブの元に兄弟姉妹や知人たちが集まり、共に食事をしたと記録されている。嘆きの書であるヨブ記も、食卓の回復で終わる。
過越しの成就という視点から
ルカ22:16の「過越しが神の国において成就するまで」という言葉は、今日の通読全体に光を当てる。出エジプトの過越しは「型」であった。シナイ山の食卓も、最後の晩餐も、それぞれの時代における「成就途上の現実」であった。そして過越しの完全な成就は、神の国において実現する——黙示録19:9に記録された「小羊の婚宴」として。
出エジプト記24章:契約の食卓(過去)
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ヨブ記6-7章:食卓から最も遠い場所(嘆きの底)
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ルカ22章:新契約の食卓(成就の途上)
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黙示録19:9:小羊の婚宴(完全な成就)
ヨブの嘆きの位置は、この流れの中で意味を持つ。人間が食卓から最も遠く感じる瞬間にも、神は食卓への道を備えている。苦しみの底は、神の計画の外ではない。
仕える神という逆説
シナイ山で神は食卓を「提供した」——七十四人は神の御前で飲み食いした。最後の晩餐でイエスはパンと杯を「配った」——給仕する者として弟子たちに仕えた。そしてイエスは「わたしは給仕する者のようにしています」と言われた(ルカ22:27)。神は食卓の主人であると同時に、給仕する方である。この逆説は、聖書の神の性質の核心に触れている。全能の神が、人間との食卓のために仕える側に立つ——それがイエス・キリストの生涯全体が示したことであり、十字架はその究極の表現であった。
山の食卓から神の国の食卓へ——過越しはまだ成就の途上にある。しかしその完成を切望しているのは、人間だけではない。「どんなに望んでいたことか」と言われたイエスの言葉が、それを証明している。
【図解について】
上記の「食卓の流れ」を視覚化したHTML図解を記事末尾に添付しています。出エジプト記からヨブ記、ルカ福音書、黙示録へと続く「神の食卓」のタイムラインを図で確認できます。
山の食卓から神の国の食卓へ
過越しが成就するとき——出エジプト記・ルカ福音書・黙示録を貫く「神の食卓」の流れ
古代中東の慣習で、契約締結後の共食は批准の証。 神がイスラエルとの律法契約を食卓で確認された。
חָזָה(ハーザー)——預言的ビジョンとして「見た」
「私は聖なる方のことばを拒んだことがない」(6:10)
苦しみの底は、神の計画の外ではない。
ヨブ記もまた食卓の回復(42:11)で終わる。
動物の血による古い契約から、 イエスの血による新しい契約へ。 シナイ山の食卓が、ここで新しい形で現れる。
「切望に切望した」——原語の強意重複表現
シナイ山から始まった「神の食卓」の旅が、 神の国における小羊の婚宴として完成する。 過越しの完全な成就。 神と人が永遠に共に食卓を囲む時。
——黙示録 19:9

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