2026年2月11日聖書通読  ネヘミヤの厳格さとイエスの憐れみ—律法の真の目的—

聖書の名言集
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 出エジプト20章12節から17節 ネヘミヤ記12章13章 ルカ18章18節から43節

—律法の完成としてのキリスト—守ることから信じることへ—

この記事は、要点だけを抜き出して理解できる内容ではありません。出エジプト記・ネヘミヤ記・ルカの福音書の連続した文脈の中でのみ読まれることを意図しています。

【読み方のご案内】 第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。 時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。

では第一部から始めましょう。

第一部:トーラー(出エジプト記20:12-17)

十戒後半—人間関係における神の基準

十戒の後半部分、第五戒から第十戒までが今日の箇所です。前半(第一戒〜第四戒)が神との関係について規定しているのに対し、後半は人間同士の関係について語っています。

第五戒:「あなたの父と母を敬え」(20:12)

興味深いことに、この戒めには約束が付いています。「あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである」。十戒の中で約束を伴う唯一の戒めです。

ヘブライ語で「敬え」はכַּבֵּד(カベッド)で、「重んじる」「栄誉を与える」という意味です。この語根כבדは「重い」という意味でもあり、父母を「重要な存在として扱う」ことを命じています。

パウロはエペソ6:2-3でこの戒めを引用し、「これは第一の戒め、約束を伴う戒めです」と強調しています。家族関係が社会の基礎であり、神との契約関係の土台であることを示しています。

第五戒の特別な位置—神と人間を結ぶ架け橋

第五戒は、十戒全体の構造の中で特別な位置を占めています。

前半の第一戒から第四戒は、神との関係について規定しています。後半の第六戒から第十戒は、人間同士の関係について規定しています。そして第五戒は、その両者を結ぶ架け橋として機能しているのです。

なぜでしょうか?

「父と母を敬う」ということは、単なる家族倫理ではありません。これは神から与えられた権威への敬意という、より広い原則を示しています。

親は、子どもにとって最初に出会う権威者です。神は見えませんが、親は目に見えます。子どもが親を敬うことを学ぶとき、それは同時に、目に見えない神の権威を敬う訓練にもなっているのです。

ハイデルベルク信仰問答は、この「父母」について「わたしの父や母、またすべてわたしの上に立てられた人々」と解釈しています。つまり、親だけでなく、教師、指導者、そして究極的には天の父への敬意を含んでいるのです。

イエス様も「わたしの父またあなたがたの父」(ヨハネ20:17)と言われました。地上の父を敬うことは、天の父を敬うことへと続いていくのです。

このように、第五戒は:

  • 約束を伴う唯一の戒め
  • 神との関係と人間関係の結節点
  • 地上の権威を通して、天の権威への敬意を学ぶ原則

という三重の意味で、十戒の中で特別な位置を占めています。

第六戒:「殺してはならない」(20:13)

ヘブライ語לֹא תִרְצָח(ロー・ティルツァッハ)。ここで使われている動詞**רצח(ラツァッハ)**は、単なる「殺す」という意味ではなく、「違法に殺す」「謀殺する」という意味です。正当な理由のない人命の奪取を禁じています。

イエス様は山上の説教で、この戒めを内面的な怒りや憎しみにまで拡大されました(マタイ5:21-22)。律法の文字だけでなく、その精神を明らかにされたのです。

第七戒:「姦淫してはならない」(20:14)

לֹא תִנְאָף(ロー・ティンアフ)。結婚の聖性を守る戒めです。イエス様はこれも、情欲をもって見ることにまで拡大されました(マタイ5:27-28)。

第八戒:「盗んではならない」(20:15)

לֹא תִגְנֹב(ロー・ティグノヴ)。他者の所有物に対する尊重を命じています。

第九戒:「偽りの証言をしてはならない」(20:16)

לֹא תַעֲנֶה בְרֵעֲךָ עֵד שָׁקֶר(ロー・タアネー・ヴェレアハ・エッド・シャケル)。直訳すると「あなたの隣人に対して偽りの証人となってはならない」。法廷での証言における真実性を要求していますが、より広く、隣人についての真実を語る責任を示しています。

第十戒:「欲しがってはならない」(20:17)

לֹא תַחְמֹד(ロー・タハモッド)。「貪る」「渇望する」という意味。隣人の家、妻、奴隷、家畜、すべてのものを貪ってはならない、と。

この戒めは他の戒めと根本的に異なります。前の戒めは外面的な行為を禁じていますが、この戒めは内面の欲望を禁じています。つまり、神は行動だけでなく、心の中まで見ておられ、それを聖なるものにするよう求めておられるのです。

パウロはローマ7:7でこう語っています。「律法が『むさぼってはならない』と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう」。つまり、この第十戒によって、パウロは律法の霊的な次元に気づかされ、自分の内面の罪深さを知ったのです。

二つの石板の構造

伝統的に、十戒は二枚の石板に記されていたとされています。第一の石板には神との関係(第一戒〜第四戒)が、第二の石板には人間関係(第六戒〜第十戒)が記されていました。

では、第五戒はどちらの石板に属していたのでしょうか?

これについては諸説ありますが、第五戒が両方の石板を橋渡しする位置にあったことは確かです。神を敬うことと、神が立てられた権威(親、指導者)を敬うことは、切り離すことができないのです。

そして、十戒の最後に置かれた第十戒は、外面的な行為から内面的な欲望へと、律法の要求を深化させます。第五戒が「見える権威」から「見えない権威(神)」への架け橋であるように、第十戒は「見える行為」から「見えない心」への架け橋なのです。

十戒が指し示す完全な服従—そして人間の限界

これら十の戒めは、神の民が聖なる共同体として生きるための基準です。しかし同時に、これは人間の限界を示すものでもあります。

第十戒まで来ると、私たちは気づきます。外面的な行いだけでなく、内面の思いまで完全に聖なるものにすることは、人間の力では不可能だと。

今日の新約の箇所で、金持ちの青年が「そのようなことはみな、小さい時から守っております」(ルカ18:21)と言いますが、イエス様は彼にもう一つのことを求められます。それは彼の心の奥底にある偶像—富への執着—を明らかにするためでした。

律法は完全な服従を要求します。そしてその要求によって、私たちは自分の不完全さを知り、救い主を必要としていることに気づくのです。パウロが言うように、「律法は私たちをキリストへ導くための養育係となった」(ガラテヤ3:24)のです。

【図解】十戒の構造を視覚化してみましょう。十戒がどのように二つの関係性(神との関係・人間との関係)に分かれ、そして第十戒が特別な位置にあるかが分かります。

十戒の構造

十戒の構造—二つの関係性と架け橋となる第五戒

前半(第一戒〜第四戒)
神との関係
第一戒
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない
第二戒
偶像を造ってはならない。それを拝んではならない
第三戒
あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない
第四戒
安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ
後半(第六戒〜第十戒)
人間との関係
第六戒
殺してはならない
第七戒
姦淫してはならない
第八戒
盗んではならない
第九戒
偽りの証言をしてはならない
🌉 第五戒—神と人間を結ぶ架け橋
第五戒
あなたの父と母を敬え(約束を伴う唯一の戒め)
第五戒の特別な位置づけ:
  • 約束を伴う唯一の戒め:「あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである」
  • 神との関係と人間関係の架け橋:前半(第1-4戒)と後半(第6-10戒)を結ぶ結節点
  • 「父」の二重の意味:地上の父と母、そして天の父への敬意を含む可能性
  • 権威への敬意:すべての正当な権威(親、教師、指導者、そして究極的には神)を敬う原則

「父母を敬うとは、地上において命を生み出し、神を示す存在を重く取り扱うことです」—この戒めは、神の権威が人間社会の中でどのように反映されるかを示しています。

第十戒—外面から内面へ
第十戒
欲しがってはならない(隣人の家、妻、奴隷、牛、ろば、すべてのもの)
特別な位置づけ:
• 第一戒〜第九戒:外面的な行為を禁じる
• 第十戒:内面的な欲望を禁じる
• ヘブライ語「חמד(ハマド)」=貪る、渇望する
• 神は行動だけでなく、心の中まで見ておられる
• パウロ:「律法が『むさぼってはならない』と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかった」(ローマ7:7)
十戒全体が示すもの
1. 完全な聖さの要求
神は外面だけでなく、内面まで聖なるものであることを求めておられる。第五戒は、神への敬意が人間社会の中でどのように具体化されるかを示し、第十戒は、その聖さが心の最も深いところまで及ぶことを示している。

2. 人間の限界の露呈
外面的な行いは努力で守れるかもしれないが、内面の欲望まで完全に聖くすることは人間には不可能。第五戒が求める完全な敬意、第十戒が禁じる内面的な貪欲—これらは人間の限界を明らかにする。

3. キリストへの導き
「律法は私たちをキリストへ導くための養育係となった」(ガラテヤ3:24)
律法の要求によって、私たちは自分の不完全さを知り、救い主を必要としていることに気づく。第五戒で示される権威への服従も、第十戒で明らかにされる心の罪も、すべて私たちをキリストへと導く。

4. 恵みによる救い
「人にはできないことが、神にはできる」(ルカ18:27)
律法の完全な遵守は不可能だが、キリストを信じる信仰によって義とされる。そして聖霊によって、律法が求める愛—神への愛と隣人への愛—を生きることができるようになる。

第二部:旧約(ネヘミヤ記12章、13章)

城壁奉献式の喜び—そして徹底的な改革

ネヘミヤ記12章は、再建されたエルサレムの城壁の奉献式の記録です。そして13章は、ネヘミヤがペルシャに一時帰国した後、エルサレムに戻って発見した様々な問題と、その徹底的な是正について記されています。

12章:城壁奉献式の壮大な賛美

ネヘミヤ12:27-43は、城壁奉献式の様子を生き生きと描いています。レビ人たちが各地から集められ、シンバル、十弦の琴、立琴に合わせて感謝の歌を歌いました。

二つの大きな聖歌隊が組織され、一つは城壁の上を右に、もう一つは左に進み、最終的に神殿で合流しました(12:31-40)。その音楽は「はるか遠くまで聞こえた」(12:43)とあります。

この喜びの根源は何でしょうか。12:43は明確に語っています。「神が彼らを大いに喜ばせてくださったからである」。彼らの喜びは、城壁が完成したという人間的な達成感だけではなく、神ご自身が彼らに与えてくださった喜びでした。

13章:深刻な霊的退廃の発覚

しかし、12章の華々しい奉献式の後、ネヘミヤはペルシャ王アルタシャスタのもとへ戻り(13:6)、しばらくしてからエルサレムに帰って来ました。そこで彼が発見したのは、深刻な霊的退廃でした。

(1)神殿の部屋がアンモン人トビヤに提供されていた(13:4-9)

大祭司エルヤシブが、かつて穀物のささげ物、乳香、器物、十分の一が保管されていた大きな部屋を、アンモン人トビヤに提供していました。

申命記23:3-4には、「アモン人とモアブ人は主の集会に加わってはならない」と明確に記されています(ネヘミヤ13:1-2も参照)。それなのに、大祭司自身がこの律法を破り、異邦人に神殿の聖なる空間を提供していたのです。

ネヘミヤの反応は激烈でした。「私は大いにきげんを悪くし、トビヤ家の器具類を全部、その部屋から外へ投げ出し」(13:8)。そして部屋を清め、神殿の器物を元に戻しました。

(2)レビ人への支給が停止していた(13:10-13)

レビ人と歌うたいたちへの十分の一の支給が止まっていたため、彼らは神殿での奉仕を放棄し、自分の農地に逃げ去っていました。

ネヘミヤは代表者たちを厳しく詰問し、「どうして神の宮が見捨てられているのか」(13:11)と言いました。そしてレビ人たちを呼び戻し、忠実な管理者を任命して、十分の一の分配制度を再建しました。

(3)安息日が商業活動によって汚されていた(13:15-22)

ユダの人々が安息日に酒ぶねを踏み、荷物を運び、商売をしていました。さらにツロの人々が魚やいろいろな商品を運んで来て、安息日にエルサレムで売っていました。

ネヘミヤはユダの指導者たちを詰問しました。「あなたがたの先祖も、このようなことをしたので、私たちの神はこのすべてのわざわいを、私たちとこの町の上に送られたではないか。それなのに、あなたがたは安息日を汚して、イスラエルに下る怒りを加えている」(13:18)。

バビロン捕囚という「わざわい」の原因の一つが安息日違反だったことを、ネヘミヤは指摘しています。そして彼らが再び同じ罪を繰り返していることに、激しい危機感を抱いたのです。

ネヘミヤは安息日の前夕にエルサレムの門を閉じさせ、安息日が終わるまで開かせませんでした。商人たちが城壁の外で夜を過ごすと、彼らを脅して追い払いました(13:19-21)。

(4)異教徒との通婚(13:23-29)

アシュドデ人、アモン人、モアブ人の女性をめとっているユダヤ人たちがいて、その子どもたちはユダヤ語を話せませんでした。

ネヘミヤの反応は激しいものでした。「私は彼らを詰問してのろい、そのうちの数人を打ち、その毛を引き抜き」(13:25)。そして彼らに誓わせました。「あなたがたの娘を彼らの息子にとつがせてはならない。また、あなたがたの息子、あるいは、あなたがた自身が、彼らの娘をめとってはならない」。

ソロモンでさえ、外国の女たちによって罪を犯させられたことを例に挙げています(13:26)。大祭司エルヤシブの孫が、サマリヤ人の指導者サヌバラテの婿になっていたため、ネヘミヤは彼を追放しました(13:28)。

ネヘミヤの徹底性—その意味と限界

ネヘミヤの改革は徹底的でした。彼は妥協を許さず、律法違反を厳しく処罰し、神の基準を回復しようとしました。

この徹底性は、当時の状況では必要だったと言えます。なぜなら、イスラエルは共同体全体が異教化する危険に直面していたからです。個人の信仰の問題ではなく、神の民としてのアイデンティティそのものが失われようとしていました。

しかし同時に、ネヘミヤの厳格さには限界もあります。彼の改革は主に外面的な遵守に焦点を当てています。異邦人を排除し、安息日の商売を禁じ、混血結婚を解消させる—これらは重要ですが、心の変革まで達しているでしょうか。

ネヘミヤ自身、繰り返し神に祈っています。「私の神。どうか、このことのために私を覚えていてください」(13:14、22、31)。「私の神。どうか彼らのことを思い出してください」(13:29)。

彼は自分の改革が完全ではないことを知っていたのではないでしょうか。外面的な規則の遵守を強制することはできても、人々の心を変えることはできない。それは神のわざであることを、彼は理解していたのだと思います。

現代への問いかけ—安息日と商業活動

一つの問いが浮上します。「安息日に商売をしたら駄目なのですね。私の息子は日曜日にパン屋さんと営業しているけれどクリスチャンです」。

この問いに対して、いくつかの視点を提供したいと思います。

まず、旧約の安息日(土曜日)と新約の主の日(日曜日)は、厳密には異なるものです。初代教会のクリスチャンたちは、キリストの復活を記念して日曜日に集まりましたが、安息日の律法をそのまま日曜日に適用したわけではありません。

パウロはローマ14:5-6でこう語っています。「ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。日を守る人は、主のために守っています」。

つまり、新約においては、特定の日を守ることよりも、その日をどのように主のために用いるかという心の姿勢が重視されています。

また、ネヘミヤが問題視したのは、安息日の労働そのものというより、商業活動によって共同体全体が神を礼拝する時間を失っていたことでした。安息日は「主の聖なる日」(イザヤ58:13)であり、共同体全体が神を礼拝し、神との関係を新たにする日でした。

現代の文脈では、日曜日に働くこと自体が罪なのではなく、礼拝と安息の時を持てているかが問われるべきでしょう。医療従事者、警察官、消防士など、日曜日にも働かなければならない職業は多くあります。パン屋さんもその一つかもしれません。

重要なのは、別の日に主を礼拝する時間を確保しているか、また仕事そのものを主への奉仕として行っているか、という点だと思います。

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第三部:新約(ルカ18:18-43)

二つの対照的な出会い—金持ちの青年と盲人

ルカ18章後半には、イエス様と二人の人物との対照的な出会いが記されています。一人は裕福な役人、もう一人はエリコの盲人です。

金持ちの青年—律法の完全な遵守では足りない

ある役人がイエス様に質問しました。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」(18:18)。

イエス様はまず、「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません」(18:19)と問われました。これは興味深い応答です。イエス様は、この青年が「尊い」という言葉を軽々しく使っていることを指摘されたのか、それとも、ご自身の神性を暗示されたのか。おそらく両方の意味が含まれているでしょう。

次にイエス様は十戒の後半部分を列挙されます。「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え」(18:20)。

注目すべきは、イエス様が第十戒「欲しがってはならない」を省略されていることです。なぜでしょうか。それはこれから明らかになります。

青年は答えました。「そのようなことはみな、小さい時から守っております」(18:21)。彼は自分が外面的には律法を完全に守ってきたと確信していました。

しかしイエス様は言われました。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい」(18:22)。

この要求によって、イエス様は青年の心の奥底にある偶像を明らかにされました。彼は富への執着という形で、第十戒「欲しがってはならない」を破っていたのです。

彼は「非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである」(18:23)。彼は永遠のいのちを求めていましたが、それを得るために富を手放すことはできませんでした。

イエス様は言われました。「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」(18:24-25)。

これを聞いた人々は驚いて言いました。「それでは、だれが救われることができるでしょう」(18:26)。当時のユダヤ人の考えでは、富は神の祝福のしるしでした。もし金持ちが救われないなら、誰が救われるのか、という疑問は当然でした。

イエス様の答えは核心を突いています。「人にはできないことが、神にはできるのです」(18:27)。

ここに、律法主義と福音の根本的な違いがあります。律法の完全な遵守は人間には不可能です。しかし、神にはできる。救いは人間の努力や功績によってではなく、神の恵みと力によって与えられるのです。

ペテロがすかさず言いました。「ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました」(18:28)。イエス様は答えられました。「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません」(18:29-30)。

金持ちの青年は富を手放せませんでしたが、弟子たちはすべてを捨ててイエス様に従いました。そしてイエス様は、神の国のために捨てた者は、「この世にあってその幾倍かを受け」ると約束されました。

イエスの受難予告—弟子たちの理解不能

その直後、イエス様は三度目の受難予告をされます(18:31-33)。「人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります」。

しかし、「弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった」(18:34)。

なぜ弟子たちは理解できなかったのでしょうか。彼らはまだ、メシアが栄光の王として来られることを期待していました。苦しみを受けて死ぬメシアという概念は、彼らの理解を超えていたのです。

しかし、次の盲人の物語は、真の理解とは何かを示しています。

エリコの盲人—見えない目が見た救い主

イエス様がエリコに近づかれたとき、ある盲人が道ばたで物ごいをしていました(18:35)。

群衆が通るのを聞いて、彼は何事かと尋ねました。「ナザレのイエスがお通りになるのだ」と聞くと、彼は大声で叫びました。「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」(18:38)。

お気づきでしょうか、この「ダビデの子」という呼びかけは、明確なメシア告白です。

「ダビデの子」は、旧約聖書が約束していたメシア、ダビデの王座に永遠に座る王を指す称号です(2サムエル7:12-16、イザヤ9:6-7、エレミヤ23:5-6)。

盲人は目が見えませんでしたが、イエスが誰であるかを信仰の目で見ていました。金持ちの青年は肉体の目で見ていましたが、イエスの正体を理解していませんでした。弟子たちも、イエスと共にいながら、受難と復活の意味を理解できませんでした。

しかしこの盲人は、肉体の目は見えなくても、イエスがメシアであることを信じていたのです。

周囲の人々は彼を黙らせようとしましたが、彼はますます叫び立てました(18:39)。イエス様は立ち止まり、彼を連れて来るように命じられました。

「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられると、彼は答えました。「主よ。目が見えるようになることです」(18:41)。

イエス様は言われました。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです」(18:42)。

「あなたの信仰があなたを直した」—この言葉は重要です。イエス様は、彼の癒しが彼の信仰に応答したものであることを明らかにされました。

彼はたちどころに目が見えるようになり、「神をあがめながらイエスについて行った」(18:43)。そして「これを見て民はみな神を賛美した」。

律法遵守と信仰告白の間

金持ちの青年と盲人の対比は鮮明です。

金持ちの青年

  • 律法を守ってきたと主張
  • しかし心の中に偶像(富)があった
  • イエスに従うことを拒否
  • 悲しんで去った

盲人

  • 律法を守ることはできなかった(物ごいをする生活)
  • しかしイエスをメシアと信じた
  • 癒され、イエスに従った
  • 神を賛美した

律法の完全な遵守は、救いの条件ではありません。なぜなら、人間には不可能だからです。しかし、イエス・キリストを信じる信仰によって、「人にはできないこと」が「神にはできる」のです。

盲人は目が見えるようになっただけでなく、霊的にも開かれました。彼は最初から信仰の目でイエスを見ていましたが、今や肉体の目でもイエスを見ることができるようになったのです。

そして彼は「イエスについて行った」—これこそ、真の弟子の姿です。

第四部:全体の一貫性—律法の真の目的

三つの箇所を貫くテーマ

今日の三つの箇所は、一つの明確なテーマで貫かれています。それは律法の真の目的です。

トーラーは十戒の後半を提示し、神が人間関係においても完全な聖さを求めておられることを示しました。特に第十戒「欲しがってはならない」は、外面的な行為だけでなく、内面の欲望までも聖なるものにするよう求めています。

旧約のネヘミヤは、この律法を徹底的に守ろうとしました。彼は異邦人を排除し、安息日を守らせ、混血結婚を解消させました。しかし彼の改革は主に外面的な遵守に焦点を当てており、心の変革までは達していませんでした。ネヘミヤ自身、繰り返し「私を覚えていてください」と神に祈っています。彼は自分の限界を知っていたのです。

新約のイエス様は、律法の真の目的を明らかにされました。金持ちの青年は外面的には律法を守っていましたが、心の中に偶像—富への執着—がありました。一方、盲人は律法を完全に守ることはできませんでしたが、イエスをメシアと信じる信仰を持っていました。そしてイエス様は、「あなたの信仰があなたを直した」と言われました。

律法は何のために与えられたのか

パウロはガラテヤ3:24でこう語っています。「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためなのです」。

律法の目的は、私たちに完全な行いを要求することによって、私たちが自分の力では義とされることができないことを示すことです。律法は私たちの罪を明らかにし、救い主を必要としていることを教えてくれます。

ローマ3:20は言います。「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです」。

十戒は、神の聖さの基準を示します。しかしそれは同時に、人間がその基準に達することができないことを示すのです。特に第十戒「欲しがってはならない」は、私たちの内面の欲望までも神の目に晒します。

ネヘミヤは外面的な規則を強制することで共同体を守ろうとしましたが、それだけでは人々の心は変わりません。彼の改革の後も、イスラエルは再び堕落していきます。

なぜなら、律法は罪を示すことはできても、罪から救うことはできないからです。

イエス・キリスト—律法の完成

しかし、イエス・キリストは律法を完成されました。

マタイ5:17でイエス様は言われました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです」。

イエス様は、律法が要求する完全な義を、ご自身の生涯において成就されました。そして十字架で私たちの罪を負い、復活によって新しいいのちの道を開いてくださいました。

金持ちの青年は、自分の力で律法を守り、永遠のいのちを得ようとしました。しかしイエス様は、「人にはできないことが、神にはできるのです」と言われました。

救いは人間の努力や功績によるのではなく、神の恵みと力によって与えられます。そしてそれは、イエス・キリストを信じる信仰によって受け取るのです。

盲人は、律法を完全に守ることはできませんでした。しかし彼はイエスを「ダビデの子」と呼び、メシアとして信じました。そして彼の信仰が、彼を癒し、救ったのです。

律法と恵み—対立ではなく調和

ここで重要なのは、律法と恵みは対立するものではない、ということです。

律法は神の聖さの基準を示し、私たちに罪を自覚させます。そして私たちをキリストへと導きます。キリストにおいて、律法の要求は満たされ、私たちは恵みによって義とされます。

そして、キリストを信じた者は、聖霊によって内側から変えられ、律法の求める義を生きるようになります。ローマ8:3-4はこう語っています。「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです」。

ネヘミヤの外面的な改革では達成できなかったこと—心の変革—が、聖霊によって可能になるのです。

ネヘミヤの厳格さとイエスの憐れみ

今日のタイトルは「ネヘミヤの厳格さとイエスの憐れみ—律法の真の目的」です。

ネヘミヤの厳格さは、当時の状況では必要でした。彼は共同体全体が異教化する危険から神の民を守ろうとしました。彼の情熱と献身は賞賛に値します。

しかし、ネヘミヤの改革だけでは不十分でした。外面的な規則の遵守を強制することはできても、人々の心を変えることはできなかったからです。

イエス・キリストは、律法が最終的に指し示していた方です。イエス様は律法を成就し、私たちに新しい心を与えてくださいました。

金持ちの青年に対して、イエス様は「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります」と言われました。それは彼の心の中にある偶像でした。外面的には完璧に見えても、心の中に神以外のものを第一にしているなら、それは律法違反なのです。

しかし盲人に対して、イエス様は「あなたの信仰があなたを直した」と言われました。彼は外面的には何も誇るものがありませんでしたが、心からイエスを信じていました。そして彼は癒され、救われ、イエスに従う者となりました。

現代の私たちへの適用—見えない目と見える心

私たちも、金持ちの青年のように外面的に立派に見えるかもしれません。教会に通い、聖書を読み、奉仕をしているかもしれません。しかし、心の中に偶像はないでしょうか。

それは富かもしれないし、他人からの評価かもしれないし、自分の義かもしれません。

盲人は肉体の目が見えませんでしたが、信仰の目でイエスを見ました。私たちも、肉体の目で見えるものに頼るのではなく、信仰の目でイエスを見る必要があります。

2コリント5:7は言います。「私たちは、見えるところによってではなく、信仰によって歩んでいます」。

律法は私たちに神の基準を示し、私たちの不完全さを自覚させます。しかしそれは私たちを絶望させるためではなく、キリストへと導くためです。

そしてキリストにあって、「人にはできないことが、神にはできる」のです。

ネヘミヤの厳格さは、神の聖さへの情熱を示しています。イエスの憐れみは、罪人を愛し、救おうとする神の心を示しています。そして両方とも、律法の真の目的—神の民を聖なる者とし、神との交わりに生きる者とすること—を指し示しているのです。

そうであるなら、私たちは自分の姿に打ちひしがれる時、失敗をして残念な時、そんな時こそ主の十字架を見上げたいと願います。神が私たちを遅すぎないうちに、聖なる者とし神との交わりに生きる者とするために気づきを与えてくださったのだと感謝したいと願います。

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