聖書の名言集「狭き門」に関する聖書のおすすめ名言【英語有】

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門マタイの福音書

名言集である聖書が伝える「狭き門」は、命に至る門です。

永遠の命を持つ者が生きる場所、天のみ国へ入るの希望の門です。しかし、「狭き門」と言うくらいなので、そこを通過する事はそんなに難関なのでしょうか?

答えは「ノー」です。条件をクリアするならだれでも平等に入っていける「狭き門」です。

ですから安心してください。東大やハーバードに入れるほどの天才でなくても入れますし、猛勉強しなくても入れます。知識や学歴、富を蓄えなくても、さらに働きや功績も関係ありません。

もっと言うなら、人々から認められるような正しい人でなくても、人の目から見ていかにも知恵深そうな人格者でなくてもいいのです。ましてや、美しく愛される人でなくてもいいのです。もしそんなことが条件ならだれ一人天のみ国に入れる人はいません。美貌は永遠ではなく朽ちていきます。

そして「狭き門」を見いだしても、そこを通る決断をするのは私たち自身です。

「狭き門」について、聖書の名言集から見ていきます。

日本語訳は口語訳

英語訳はキング・ジェームズ・バージョン(KJV)です。

①聖書の名言 「狭き門」:マタイ7:13-14

貧弱に見える門かも

 

狭い門からはいれ。滅びにいたる門大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い 命にいたる門狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない

Enter ye in at the strait gate: for wide is the gate, and broad is the way, that leadeth to destruction, and many there be which go in thereat:
Because strait is the gate, and narrow is the way, which leadeth unto life, and few there be that find it.

(マタイ7章13節、14節)

気になるのは、滅びにいたる門は大きく、その道が広い、そこから入る者が多いとあるので、広く受け入れてくれそうだし、皆が入って行く門だからと言って、そこが安全だとは限らないと言うことです。それこそ滅びにいたる門、地獄への門かも知れないということです。

平等に入ることのできる「狭き門」なのですが名言集である聖書に、その門は狭く細く見つける者が少ないとありますね。

「命にいたる門」と言われるからには、さぞかし荘厳で立派で、人々が好むようなカッコいい門なのだろうと想像していたら、案外そうではなくて、「え?ここなの?ここを入って行くの?」と思うような門かも知れません。もしかして、カッコ悪いかも知れないし、人には高く評価されず、かえって批判される孤独で、はた目から見て辛そうな道のりかもしれません。

②聖書の名言 「狭き門」:マタイ7:21

門2

 




 

人生を終えた時の行先は天国それとも地獄、実は中間がないのです。

この二つしか行く道はありません。

人生は一度きりです。逃したら後はありません。取り返しのつかないことになる前に、

天のみ国への入り口、「狭き門」を目指して安心してこの人生を歩んでいきたいです。

わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。

Not every one that saith unto me, Lord, Lord, shall enter into the kingdom of heaven; but he that doeth the will of my Father which is in heaven.

(マタイ7:21)

ここに「主よ、主よ」という者がみな天国に入るのではないときっぱり言われています。神様のことを「主よ」と呼ぶくらいだから、主のことを知識レベルでは知っている人ですね。「主よ」と呼んでも天国に入れるのではなく、とあるので、地獄行の人もいると言うことです。

天の父なる神のみ心を行う者だけが入るのですと書かれています。

天の父のみ心を行うとは、どういう人のことなのでしょうか?

それは、自分が心の貧しい者だと自覚して神の義により頼む人です。

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「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。

Blessed are the merciful: for they shall obtain mercy.

(マタイ5:7)

ここに「天国は心の貧しい者たちのものである」と、ズバリ書いてあります。

 

③聖書の名言 「狭き門」:ヘブル10:19-20

神様のみ心は、この「山上の垂訓」全体の中にしっかり記され、ぎっしり詰まっています。神のみ心を行うために山上の垂訓の教えを完全に行うことは、それこそ難関です。

しかし、心の貧しい者になれば難しいことではないのです。主イエスが、すでに私たちの罪の身代わりに裁かれたからです。主イエスが私たちの罪の代価を支払ってくださいました。ですから、私たちは、もう許されています。このことを信じ受け入れるだけでいいのです。

この時点で、完全に主の教えを行えてなくても、諦めずに主イエスを信頼して主イエスの指し示す方向へ歩み始めていればいいのです。

兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、 彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、

Having therefore, brethren, boldness to enter into the holiest by the blood of Jesus,
By a new and living way, which he hath

(ヘブル10:19-20)

自分の心の貧しい姿に目をそらさずに本当に貧しい者だと自覚した者は、主イエスの完成された十字架の赦しの御業、主イエスの十字架の約束に感謝してより頼むしかないのだと悟ります。

主イエスが、命の門に入る道を開いてくださっているので、私達には頼るところがあります。大胆に主イエスの血潮にすがって入って行くことが出来ます。それですので、狭き門に入る為に頑張らなくてもいいのです。

少し休憩します。賛美を聞いてくださいね。

ノア 「頑張らなくていいのさ」

④聖書の名言 「狭き門」:マタイ7:22

日本庭園の門

 

 

 




 

その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。

Many will say to me in that day, Lord, Lord, have we not prophesied in thy name? and in thy name have cast out devils? and in thy name done many wonderful works?

(マタイ7:22)

見出す者がわずかしかいない狭き門を見出していたにもかかわらず・・・

「主よ」と叫びながら、神様からいただいた言葉(預言の言葉)で人々を励まし、強い信仰を持って、神様の不思議な奇跡を何度も現わされる人生を歩んでいたにもかかわらず!

なんと 悪霊を追い出し、主のみ名によって多くの力ある奇跡を行いとあるので、癒された人々もいたと思います。

それにもかかわらず!

天の門の前でイエス様に「私はお前を知らない」と言われて天の国に入れない人たちがいるというのです。

これは一大事です。

 

⑤聖書の名言 「狭き門」:マタイ7:23

閉じられた門

 

7:23そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

And then will I profess unto them, I never knew you: depart from me, ye that work iniquity.

(マタイ7:23)

行ってしまえて・・・それって、天国に入れないと言うことですよね。

ここにある例えは、普通の信徒ではなく、強い信仰を持ったかなり偉大な伝道者だと思います。

それでも 「あなたを全く知らない、不法を働く者どもよ去れ」とは、驚きです。

その方たちは初めは主のみ心を行っていたのだと信じます。成功の経験を積むうちに、貧しい者の自覚がいつしかなくなって、神の義により頼まなくなった人、自分の義により頼んだ人のことを言っています。

成功することを神様は悪いとは決して言われていません。自分がどのようなところから救われたのかを忘れ、貧しい者のであることを忘れると、自分が神様のようになって、自分の義、正しさを前面に出してしまうことが神様のみ心にかなわないと言われていると思います。

どうしても人間は、人を差別したり、特別意識を持ったり、自分が正しく相手が間違っているという高慢の罠にかかるのだと思います。

 

成功することは素晴らしいのですが、高慢になって、地獄に落ちるくらいなら、その時に成功しない方がずっといいのかもしれません。それほど地獄は苦しいところですから。

 

華々しく活躍して、人々に称賛される道は、カッコ良くて、麗しくて、いかにも好ましく見える道です。広い道です。活躍できることは素晴らしいのですが、成功している時に落とし穴があります。

⑥聖書の名言 「狭き門」:ルカ10:20

美しく見える死の海の門

しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。

Notwithstanding in this rejoice not, that the spirits are subject unto you; but rather rejoice, because your names are written in heaven.

(ルカ10:20)

これは、主のみ名によって悪霊を追い出したことを喜んでいた弟子たちに語った言葉です。

主イエスは、大切な教訓を念を押すように語ってくださっています。人は完全ではないし、地上にいる間は、完成の途上であることを忘れてはならないと思います。

ぜんぜん大伝道者でない私でも、少しばかりうまくいくと、自分の力に慢心して高慢になる傾向があります。主イエスのこの名言、今何かうまくいっていることよりむしろ、「わたしの名が天に記されていることを喜ぶ」ことを大切にしたいと思います。

美しく好ましい門、成功の道、それは死の海にいたる罠が待ち受ける門かも知れないのですから。

浅はかで、弱い者なので、情熱的なパウロが残してくれたこのみ言葉を握って、勇気づけられて生きたいと思います。

信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。

Looking unto Jesus the author and finisher of our faith; who for the joy that was set before him endured the cross, despising the shame, and is set down at the right hand of the throne of God.

(ヘブル12:2)

ここで言われている「」は主イエスのことです。

⑦聖書の名言 「狭き門」:黙示録7:14-17

門3

 

 

 




 

 

 7:14わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。 7:15それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。 7:16彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。 7:17御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。

(黙示録7:14-17)

私はここを読むたび、感謝が溢れます。心が厚くなります。

子羊の血で衣を洗いとは、自分の力により頼まず、主イエスの十字架の血潮により頼み、その約束を信じ自分の口で宣言し続け、日々悔い改め心を聖くした人たちのことです。

自分の貧しさを知り、主イエスを信じ受け入れ救いの恵みを与えられることは神様の御業です。

わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。

In whom we have redemption through his blood, the forgiveness of sins, according to the riches of his grace;

(エペソ1:7)

しかし、日々主の十字架の血潮により頼み、悔い改めて聖くする、衣を白くするのは、聖霊様に助けられながら、私たちの意思も必要です。「白くした」と能動的に書かれていますよね。神様と二人三脚で、日々歩み続ける人を、天のみ国で、子羊なる主イエスご自身が牧者となって命の水の泉に導いてくださり、ことごとく涙はぬぐわれます。

「主イエスの十字架の血潮を宣言する祈り」は、ただ、ご利益宗教的に、五穀豊穣、家内安全の為にするのではありません。もっと大切で、深い意義があります。

日々の悔い改めがいらない人はいないと思います。

それですので、「主イエスの十字架の血潮を宣言する祈り」を必要としない人もいません。

 

⑧聖書の名言 「狭き門」:黙示録12:11

門4

兄弟たちは、
小羊と彼らのあかし言葉とによって、
彼にうち勝ち、
死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。

And they overcame him by the blood of the Lamb, and by the word of their testimony; and they loved not their lives unto the death.

(黙示録12:11)

原文では、「子羊」「血」「あかし」「言葉」の前に原文では「この」と入っています。

この子羊のこの血と

このあかしの、この言葉の故にとなっています。

この」は子羊の血のことを指しています。

 

要するに

イエス様が私たちの身代わりに十字架にかかって血を流され罪を赦されていること(証)を

信じ信仰を持って宣言し続けた(言葉)のゆえに彼に(悪魔)に打ち勝ち死に至るまでもその命を惜しまなかった(自己中心的我に死ぬことを惜しまなかった)ということです。

実際に殉教された方々の事も指しているのですが、自己中心に死ぬ事も指しています。

自分の貧しさを知り、自分の正しさ、義ではなく、神の義、主イエスの十字架により頼んで日々を歩んだということです。永遠の命に関わる重要な事なので何度も重複しますがここは熱く訴えます。

これは自分にも言い聞かせています。

イエス様の十字架で流された血潮を感謝して、「悔い改め」という「狭き門」、命にいたる道を悟らせていただき日々歩んでいきたいと思います。

ネットの礼拝や、神学校でこの宝石のような真理を学び悟った日、

私は所属教会のクリスマス礼拝で直ぐに証しました。

「黙示録7章が私達の集合場所です、いいですか、ここで会いましょう」と。

 

ノア の「十字架なきゃ生きてけない」です。

 

ノアが発表してきた新しい賛美は、私たちを通して与えられただけで、すべての賛美は神様からクリスチャン全員に与えられた共有財産だと考えています。そのために、多くの人々が、もっと自由に賛美を使うことかできるように、1992年からSGM(Sharing Gospel Music)という、誰もが賛美を自由に使用、コピーできるシステムを提唱し始めました。現在、ノアのCDには、すべてSGMマークがついています。

 

 

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