聖書の名言集:禁止する批評と禁止しない批評の違い【英語あり】

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マタイの福音書

聖書の名言集:「批判と判断は違う」というタイトルにしようかと思ったのですが、これでは何とでも解釈できてしまうので分かりやすく、字義どおりに解釈できるこのタイトルにしました。

主イエスが禁止する批評と、禁止しない批評 があります。

しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

But of the tree of the knowledge of good and evil, thou shalt not eat of it: for in the day that thou eatest thereof thou shalt surely die.

(創世記2:1)

このみ言葉が語っている「善悪の木の実を取って食べる」という行為は善悪を判断することで、

良く知らないことを分かっていると勘違いして浅はかに判断し善とか悪とか、または優劣を決めるのは罪だとということです。これが善悪の実を取って食べる行為です。

人から誤解された経験があると思うのですが、辛いですよね。誤解プロセスには、物事や相手のことをよく知りもしないで自分の経験から判断して優劣をつけたり、善とか悪とかを決めつけられることがあります。その結果、理不尽に裁かれて誤解となります。誤解の加害者は大抵無意識にしています。被害者はひどく傷つきます。差別を受けたような疎外感を持つこともあります。

緑のハート

誤解は、どんな関係でもありうることなので、なんとなく検討が付くと思います。誤解し、誤解された経験があるなら、加害者、被害者の両方の経験をしていると思います。経験をしているということは相手の気持ちが分かるステージに来ているので感謝すべきだと思います。

人は全知全能ではないです。正しく裁くことのできるのは、誤解なく真相を知る神様だけです。私も誤解したり誤解されたりの経験をしています。それですので人間には期待できないほどの鋭い洞察をされる神様のすばらしさも知ることが出来たので感謝しています。

しかし、聖書を読むと主イエスは、善悪の判断や、批判、批評などを全面禁止しているわけではないことが分かると思います。主イエスは、正しく見分けたり、注意深く判断する知恵は必要だと語られています。

① 聖書の名言:「批評」マタイ:さばいてはいけません

人をさばくな。自分がさばかれないためである。

 Judge not, that ye be not judged.

(マタイ7:1)

高い基準を知ると、自分に当てはめて反省するより、ついつい人に当てはめて裁いちゃいます。

これは罪人の特徴で、聖められる途上にある私の中にもあります。

旧約聖書にある、出エジプトの民が、何度も神を裏切り文句を言うシーンや歴代誌の王たちの失敗を見て、「あ~あ、またやってる、あれだけ神の奇跡を見た後なのに!」と簡単に批評して裁いてしまいますが~

これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。

 Now all these things happened unto them for examples: and they are written for our admonition, upon whom the ends of the world are come.

(第一コリント10:11)

旧約聖書は、この私の為の教訓です。心して受け取りたいと思います。(”◇”)ゞ

ここに新約聖書だけでなく、旧約聖書も学ぶ必要があるという根拠があります。

実際、新婚旅行で、エジプトからイスラエルへ行く、モーセが率いた行程を少し体験したのですが、

きつかったです。(>_<) 果てしなく見える荒野にはコンビニはもちろんないですし、出されたランチボックスは、調理してない生で、おまけに皮も向いていない玉ねぎやニンジンが入っていて、

「ふーーー 昨日は、早朝にシナイ山に登ってクタクタなのに、このお弁当・・・食べるのか・・・」と思っちゃいましたから、少しイスラエルの民の気持ちが分かりました。

添乗員さんが気をきかせて作ってくれた日本のおにぎりが、涙が出るほど美味しかったです。

モーセは年の割にかなりのタフマンだったのですね。恐れ入りました。

 

② 聖書の名言:「批評」マタイ:偽預言者を見分ける

にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。 あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。 そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。

Beware of false prophets, which come to you in sheep’s clothing, but inwardly they are ravening wolves.
Ye shall know them by their fruits. Do men gather grapes of thorns, or figs of thistles?
Even so every good tree bringeth forth good fruit; but a corrupt tree bringeth forth evil fruit.

(マタイ7:15-17)

先ほどもお伝えしましたけれど、主イエスは「さばいてはいけません」と言われていますが、批評や善悪の判断をしてはいけないという意味ではありません。偽預言者をその行いの結ぶ実によって、見分けなさいと言われていますから。

見分ける判断が出来ないと偽預言者に騙されてしまいます。

銀行マンが大量の札束から「なんか違う」と偽札を神業のように一瞬にして見分けるのは、普段から本物に触れる機会が多いからだそうです。偽物が現れた時、正しく見分けられるように普段から本物である聖書を読んでおきたいです。

 

もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。

Moreover if thy brother shall trespass against thee, go and tell him his fault between thee and him alone: if he shall hear thee, thou hast gained thy brother.

(マタイ18:15)

 

 

 




 

 

兄弟が罪をおかしていて危険な時は、注意深く判断して、愛を持って忠告する必要を主イエスは説いています。そのことで兄弟が、我に返って間違いに気が付いてくれたら嬉しいですし、さらに兄弟を地獄の苦しみから救うことになるので二倍に嬉しいことです。天に国籍を持つ兄弟を得たことになりますからね。

ただ、忠告するのは、考え方の違いなどというような、微妙な問題ではなくて、あからさまに罪だと分かるよほどのことだと思います。

毅然として互いに自分の意見を素直に語り話し合えるならいいのですが、そうでないからと言って、忠告するのは、相手の考えを悪と決めつけることで、善悪の木の実を食べる行為になり、すなわち罪を犯すことになります。

相手の為に愛をもって忍耐強くとりなし祈る事を積み重ねる方が安全です。

まして本人がいないところで陰口を言うべきではない。。。のです。。。

痛い言葉です。本人を目の前にして言えないから陰で愚痴るのでしょうけれど・・

本人がいないところで本人の気持ちを代弁することは、良くも悪くも仮説で話すことであって、誤解が深まります。本来すべきことではないです。分かってはいるのですが・・・

 

③ 聖書の名言:「批評」マタイ:自分のはかりで、はかられる

あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。 

For with what judgment ye judge, ye shall be judged: and with what measure ye mete, it shall be measured to you again.

(マタイ7:2)

自分が裁いた言葉で裁かれるという皮肉な結果になるのですよね。それにしても自分の口を制御できたら、十分成長した人だと思いますが、それが難しいです。

わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。 

For in many things we offend all. If any man offend not in word, the same is a perfect man, and able also to bridle the whole body.

(ヤコブ3:2)

完全な人」とありますが、原語であるギリシャ語の直訳的な詳訳聖書では「十分に成長を遂げた人格者」と訳されています。本来の意味は原語の方ですから安心してください。神様は私達が完璧であるようには求めておられません。

しかし、私たちを日々成長させてくださる方です。

だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。

Therefore judge nothing before the time, until the Lord come, who both will bring to light the hidden things of darkness, and will make manifest the counsels of the hearts: and then shall every man have praise of God.

(第一コリント4:5)

隠されていることすべてを知っているわけではない私達は安易に悪とか善とかを判断して、人を称賛したり、罪に定めたりしてはならないし、

また今は人から誤解されていても、心の中までご存じで、隠されたことをすべて見通されておられる神様にその時が来れば「あなたは良くやった、忠実なしもべだ」と言われて誉を受けるのです。

この世は結局のところ全知全能で愛の神様が統治されるので、安心して神様の御前に歩んでいけます。

④ 聖書の名言:「批評」マタイ:人の欠点はよくわかる

 

なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。

And why beholdest thou the mote that is in thy brother’s eye, but considerest not the beam that is in thine own eye?

(マタイ7:3)

自分の大きな欠点は気が付かないし、大目に見て棚に上げてしまうのですが、人の小さなちりのような欠点はよく気が付いて、責めようとします。

なんだか これも心に刺さるみ聖書の名言です。

⑤ 聖書の名言:「批評」マタイ:自分の目に梁があるから真実が見えない

自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。

Or how wilt thou say to thy brother, Let me pull out the mote out of thine eye; and, behold, a beam is in thine own eye?

(マタイ7:4)

そうですね、自分の心がねじ曲がっていて、さらに罪があるのに、どうして相手のことを指摘して正す権利があるでしょうか。

裁きの思いが心を満たしている時は、自分を買いかぶって高慢になっている証拠ですね。

それとなく気が付いているのですが、つい裁いてしまって高慢になってしまう者です。

 

⑥ 聖書の名言:「批評」マタイ:自分の目から梁を取り除く

 

 

 




 

 

偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう

Thou hypocrite, first cast out the beam out of thine own eye; and then shalt thou see clearly to cast out the mote out of thy brother’s eye.

(マタイ7:5)

神によって聖くされた者だけが人を導くことが出来ます。

自分の梁に気が付いた時はその都度、自分の正義ではなく、神の義(主イエスの十字架)により頼み悔い改め祈るなら赦され、正しい知恵を祈り求めることもできます。

イエス様の実家の職業は大工で、イエス様も公生涯の前には手伝っておられたことと思います。それなので、梁とちりという例えをされたのかと思いますが、ちりと比べたら、梁って・・・(-_-;)

梁(はり、りょう)とは建物の水平短径方向に架けられ、床や屋根などの荷重を柱に伝える材のことであり、

ほとんど目がふさがれていて物が見える状態ではないですね。

梁

 

ダビデ王が罪を犯したと気づいて、悔い改めた時に書かれた詩編の一部です。

慰められ励まされますので、すみません長いですが紹介します。

口語訳はネットでもありますので、お時間のある方は詩編51篇を読まれるといいと思います。

神よ、わたしのために清い心をつくり、
わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。
わたしをみ前から捨てないでください。
あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。
あなたの救の喜びをわたしに返し、
自由の霊をもって、わたしをささえてください。
そうすればわたしは、とがを犯した者に
あなたの道を教え、
罪びとはあなたに帰ってくるでしょう。

Create in me a clean heart, O God; and renew a right spirit within me.
Cast me not away from thy presence; and take not thy holy spirit from me.
Restore unto me the joy of thy salvation; and uphold me with thy free spirit.
Then will I teach transgressors thy ways; and sinners shall be converted unto thee.

(詩編51:10-13)

 

⑦ 聖書の名言:「批評」マタイ:聖書で犬や豚は偽善者や汚れた者をさします。

 

「裁くな」「兄弟の目からちりを取り除く」の教えの後に  このみ言葉が続きます。

聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。

(マタイ7:6)

熟慮して相手に伝えても相手によっては口論や冒涜の機会を与えるだけになることがあります。

主イエスもパリサイ人や律法学者たちから、この経験をされました。

「兄弟の目からちりを取り除く」時、相手によって起こりうることを

あらかじめ想定されて教えてくださっているようです。

 

これは、犬や豚を育てることが汚れているということではありません。

聖書の比喩です。関連聖句を紹介します。

ことわざに、「犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われても、また、どろの中にころがって行く」とあるが、彼らの身に起ったことは、そのとおりである。

But it is happened unto them according to the true proverb, The dog is turned to his own vomit again; and the sow that was washed to her wallowing in the mire.

(第2ペテロ2:22)

 

愚かな者の耳に語ってはならない、
彼はあなたの言葉が示す知恵をいやしめるからだ。                  Speak not in the ears of a fool: for he will despise the wisdom of thy words.

(箴言23:9)

 

あざける者を戒める者は、自ら恥を得、
悪しき者を責める者は自ら傷を受ける。
あざける者を責めるな、
おそらく彼はあなたを憎むであろう。
知恵ある者を責めよ、彼はあなたを愛する。

He that reproveth a scorner getteth to himself shame: and he that rebuketh a wicked man getteth himself a blot.
Reprove not a scorner, lest he hate thee: rebuke a wise man, and he will love thee.

(箴言9:7-8)

 

祈りつつ聖書を確認しながら記事を書いていると、主が語って下さり、

私自身が一番学ばされ、恵まれていると思います。

自分の貧しさ、神様のみ言葉の深さを、また気づかせていただいたこと感謝します。 (#^^#)

 

ノアの「主はあなたを見捨てない・だから大丈夫」です

 

ノアが発表してきた新しい賛美は、私たちを通して与えられただけで、すべての賛美は神様からクリスチャン全員に与えられた共有財産だと考えています。そのために、多くの人々が、もっと自由に賛美を使うことかできるように、1992年からSGM(Sharing Gospel Music)という、誰もが賛美を自由に使用、コピーできるシステムを提唱し始めました。現在、ノアのCDには、すべてSGMマークがついています。

 

 

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