福音を伝える時、私は聖書の創世記の言葉を語ります。
はじめに神は天と地とを創造された。
創世記1:1
そうすると、聞いてくださった方が応答してくれます。
「日本では家の宗教を継がなければ家族の裏切り者になるということもあるし、
創世記とか天地創造とか聞くと、日本の天地創造の物語である古事記を連想させられ、
それがそのまま教育勅語に繋がり、我こそは神シンドロームが現れて、
日本人の心に戦争や、思想の抑圧、迫害、争いに対するトラウマが沸き上がるので、
日本は無神論者が多いのではないか、そのイメージが払拭できたら、
キリスト教を受け入れる人々がもっと起こされるだろう」
という応答です。
「学校で進化論しか学ばないのに、創造論をあえて語るというのもマイノリティー感があるし、
無神論、進化論の方が上に逆らわなくていいし平和でいられて楽だから」・・・と
え?この時代にそんなこと考える?
創世記⇒創造論⇒天地創造⇒古事記⇒教育勅語⇒戦争⇒抑圧⇒迫害
という構図は考えてもみませんでした。
しかし、幼い頃から、古事記を教育勅語として読んでいた人達にとっては
そういう思いが沸き上がることがあるそうです。
そこで、聖書の神を信じたいけれど、こういうことがあるから怖いという方に
私が今できる精一杯の知識と、学びからの素朴な分かち合いになるのですが、
客観的に私に分かる範囲で事実を並べて考えてみました。とても繊細な問題です。
考え方を押し付けること自体が抑圧になりかねません。
それですので、私が出した結論がすべてだとは言いません。
吟味して受け取ってくださったら嬉しいです。
①聖書の創世記から古事記、教育勅語、戦争の印象を払拭できたら信じる
私の結論は、聖書にある創世記の天地創造と、古事記の天地創造は違うと考えます。
理由は、聖書では決して被造物を礼拝の対象としないからです。
根拠にできる聖書の名言がこれらです。⇩
あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。
それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし、
わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。
115:4彼らの偶像はしろがねと、こがねで、
人の手のわざである。
115:5それは口があっても語ることができない。
目があっても見ることができない。
115:6耳があっても聞くことができない。
鼻があってもかぐことができない。
115:7手があっても取ることができない。
足があっても歩くことができない。
また、のどから声を出すこともできない。
115:8これを造る者と、これに信頼する者とはみな、
これと等しい者になる。
5:19肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、 5:20偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、 5:21ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。
それだから、愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。
1:14神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、 1:15天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。 1:16神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。 1:17神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、 1:18昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。
神社の参拝の形や歌の発音が、ユダヤの形や言葉に似ていると言われるのはなぜか?
もしかしたら、
紀元前722年に北イスラエル王国がアッシリアによって滅亡した時、失われたイスラエルの10部族のどれかの部族が中国を経由して日本に渡ってきたと想像します。その途中で、異国の文化と融合し被造物を八百万の神とし参拝するようになったと思われます。
古事記では天照大神(太陽を司る女神)をはじめ、
月星太陽、天地のありとあらゆる被造物を八百万の神として参拝の対象としています。
儀式の中に似ているところがあるから、ユダヤから伝わっている可能性があると仮定するなら、
聖書の神がそのまま伝わったのではなく、異文化と融合して伝わっていると私は思います。
こういうことから、
まとまりのあるものが紀元前5世紀から4世紀頃に成立したと言われる旧約聖書と
8世紀初めに成立したと言われる古事記は同じではなく、
聖書と教育勅語も同じではないということです。
それはなぜか、何度も確認するのですが、
聖書の教えでは、月や星、太陽は被造物なので、
聖書が被造物に礼拝することを積極的に教えることはありえないからです。
神以外を拝することが偶像礼拝です。
偶像礼拝が入った時点で聖書の教えではなくなります。
すなわち、
創世記⇒創造論⇒天地創造⇒古事記⇒教育勅語⇒戦争⇒抑圧⇒迫害
という、この構図もなくなります。
②聖書の創世記から、世の初めから、おられたイエス・キリストは
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1:1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 1:2この言は初めに神と共にあった。 1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
ヨハネ1:1-3
イエス・キリストは天地創造のはじめからおられました。詳しくは↓の③を参照ください。
↓こちらの①には天地創造に関わられた主イエスが紹介されています。
イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。
ヘブル人への手紙13:8
このイエス・キリストは、昨日まで神であって、明日は人となる方ではありません。
人間の体を持って地上にお生まれになってくださったイエス・キリストは、
私達罪人を救うため人となられ、同時に神です。
天皇陛下は政治に利用されて神宣言をされたと私は受け止めています。
人間である方が神宣言をされるのは真に痛ましく
私ごときには想像できないほど御辛い事だったと思います。
それでも敗戦後マッカーサーの前で、ご自分の命はどうなっても、
日本国民を助けてほしいと願ってくださった方です。
そのお心が敗戦後の日本国民を支えてきたのだと、
父から何度も聞かされ、聞くたび胸が熱くなりました。
1946年(昭和21年)
連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) が教育勅語の朗読と神聖的な取りあつかいを禁止。
天皇の人間宣言は、連合国占領下の日本で1946年(昭和21年)1月1日に官報により発布された昭和天皇の詔書
戦争は終わりました。
人間宣言により、天皇は人間であって、礼拝の対象ではないと公に、また歴史的に認められました。
天皇が人間として認められ、天皇のお言葉として発布された教育勅語に抑圧される世も去りました。
人が人として生きることを許されている時代を当たり前と思わずに感謝したいと思います。
そして天皇家の祝福の為に日本の祝福の為に祈りたいと思います。
私は日の丸の旗、日本の国旗を誇りに思います。
また、当時中学校の教員であった内村鑑三が、教育勅語奉読式で最敬礼をしなかったことで激しく非難されることがありました。
この内村鑑三不敬事件は、教育勅語が絶対的なものであると知らしめることにもなり、また、小学校令により教育勅語の奉読が定められるきっかけにもなりました。
1903年に国定教科書の制度が始まると、翌1904年には教育勅語の趣旨に沿った修身科という科目の教科書も国定となり、広く国民に浸透してきました。
日本史辞典.comより抜粋
勇敢なキリスト者である内村鑑三も今の世を知ったら、喜ぶと思います。
現在、日本は信教の自由が認められている素晴らしい国です。
聖書は古事記とも教育勅語とも関係はありません。
以上のことから、
安心して、あなたの自由意思で聖書を読み、信仰を持たれたら良いと思います。
日本を愛する若者たちの祈りの賛美です。「ニッポン」
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