2026年2月7日の聖書通読「自分の場所で建て直す—完璧でなくても参加できる神の回復プロジェクト—」

聖書の名言集
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完璧でなくても参加できる神の回復プロジェクト—

【はじめに】

「自分の家の前」—それがあなたの持ち場です。専門家である必要はありません。完璧である必要もありません。ただ、そこで誠実に、本物でいればいいのです。神の回復プロジェクトは、そうやって実現してきました。義父の助言を謙虚に受け入れたモーセ、それぞれの場所で働いた金細工人や娘たち、走り寄る父に抱きしめられた放蕩息子—今日の三つの箇所は、私たちを招いています。「さあ、あなたの場所で、再建に取りかかろう」と。

通読箇所:出エジプト記18章 ネヘミヤ記2章、3章 ルカ福音書15章

※この記事は、要点だけを抜き出して理解できる内容ではありません。モーセ五書・旧約・新約の連続した文脈の中でのみ読まれることを意図しています。

【読み方のご案内】 第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。 時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。

「我に聞かしめよ主の物語、世にもたぐいなき良き物語」「聞くたび読むたび心とけゆき、感激の涙で目は曇るなり」この歌詞そのまま今日の私の思いです。放蕩息子の話を読んで、涙が溢れました。通読の後にでも、もしよろしかったらお聞きください。

目次

第一部:トーラーポーション(出エジプト記18章)—外からの知恵、内なる謙虚さ—

イテロの訪問—神の証人としての異邦人

出エジプト記18章は、一見すると物語の流れを中断する「幕間劇」のように見えるかもしれません。しかし、この章には神の民の組織化という、きわめて重要な転換点が記されています。

モーセのしゅうと、ミデヤンの祭司イテロが登場します。彼は「神がモーセと御民イスラエルのためになさったすべてのこと」を聞き、モーセの妻チッポラと二人の息子を連れてやって来ました(18:1-2)。

ここで注目したいのは、イテロの立ち位置です。彼はイスラエル人ではありません。ミデヤン人、つまり異邦人です。しかし彼は、神の偉大さを認識する者でした。

モーセが「主がイスラエルのために、パロとエジプトとになさったすべてのこと」を語ると、イテロは喜び、こう告白しました:

「主はほむべきかな。主はあなたがたをエジプトの手と、パロの手から救い出し、この民をエジプトの支配から救い出されました。今こそ私は主があらゆる神々にまさって偉大であることを知りました」(18:10-11)

この告白には、深い神学的意味があります。イテロは「今こそ私は知りました」(עַתָּה יָדַעְתִּי、アター・ヤダティ)と言っています。「知る」(יָדַע、ヤダ)は、ヘブライ語で単なる情報的知識ではなく、経験的・関係的な認識を意味します。

イテロは、出エジプトの証を聞いて、主が唯一の真の神であることを体験的に認識したのです。そして全焼のいけにえと神へのいけにえを捧げ、アロンとイスラエルのすべての長老たちと共に、神の前で食事をしました(18:12)。

これは、後の時代の異邦人の救いの予型です。ルツ、ラハブ、そしてやがて福音によって神の民に加えられる全世界の人々の先駆けとして、イテロはここに立っています。

指導者を見守る者の目

翌日、イテロはモーセの働きを観察しました。民は朝から夕方まで、モーセのところに立っていました。モーセは一人で、すべての民をさばいていたのです(18:13)。

イテロは率直に言いました: 「あなたのしていることは良くありません。あなたも、あなたといっしょにいるこの民も、きっと疲れ果ててしまいます」(18:17-18)

ここに、イテロの卓越した資質が現れています。彼は:

1. 観察力—一日の働きを見て、問題の本質を見抜いた
2. 率直さ—「良くありません」(לֹא־טוֹב、ロー・トーブ)と明確に指摘した
3. 共感力—モーセだけでなく、民の疲労も心配した
4. 建設的提案—批判だけでなく、具体的解決策を示した

そしてイテロは、組織構造の青写真を提示しました:

「あなたはまた、民全体の中から、神を恐れる、力のある人々、不正の利を憎む誠実な人々を見つけ出し、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上に立てなければなりません」(18:21)

この組織構造は、三つの要素から成り立っています:

(1)指導者の資質

  • 神を恐れる(אַנְשֵׁי־חַיִל、アンシェー・ハイル)—神への畏敬が第一
  • 力のある人々—能力と実行力
  • 不正の利を憎む誠実な人々—道徳的誠実さ

興味深いことに、この資質は後の時代、使徒の働き6:3で執事を選ぶ基準にも反映されています:「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち」。

(2)階層的構造 千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長—これは軍隊組織に似た、明確な責任系統です。

(3)権限の委譲 「大きい事件はすべてあなたのところに持って来、小さい事件はみな、彼らがさばかなければなりません」(18:22)

モーセの謙虚さ—神の器の本質

ここで最も重要なのは、モーセの応答です。

モーセは、神と直接対話する預言者です。シナイ山で神と顔と顔を合わせて語る者です。エジプトの宮廷で教育を受け、40年間羊飼いとして訓練された者です。

それなのに、モーセは義父イテロの助言を、謙虚に受け入れました。

「モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、すべて言われたとおりにした」(18:24)

モーセは言わなかったのです:

  • 「私は神と直接話しているのだから、あなたの助言は不要だ」
  • 「私のやり方が最善だ」
  • 「外部の人間に何がわかるのか」

むしろ、イテロの言葉の中に神の導きを認めました。

これは、私たちへの深い教訓です。神は、思いがけない場所から、思いがけない人を通して語られることがあります。重要なのは、誰が語ったかではなく、その言葉が神の知恵に適っているかです。

イテロ自身も、この点を理解していました。彼は助言の前置きとして、こう言いました: 「私はあなたに助言をしましょう。どうか神があなたとともにおられるように」(18:19)

イテロは、自分の助言が最終的には神の確認を必要とすることを知っていたのです。そして続けて言いました: 「もしあなたがこのことを行えば、──神があなたに命じられるのですが──」(18:23)

つまり、「私の助言を実行するなら、それは神があなたに命じられることが前提です」という謙虚さがありました。

組織化の神学—秩序は神の性質

イテロの助言による組織化は、単なる実務的改善ではありません。これは神学的真理を反映しています。

秩序は、神の性質の表れです。

創世記1章で、神は混沌(תֹהוּ וָבֹהוּ、トフー・ワボフー)から秩序ある世界を創造されました。光と闇を分け、海と陸を分け、すべてを「種類にしたがって」組織されました。

コリント第一14:33は言います: 「神は混乱の神ではなく、平和の神なのです」

そして14:40: 「すべてのことを適切に、秩序をもって行いなさい」

出エジプト記18章の組織化は、後の幕屋建設(出エジプト25-40章)、レビ記の祭儀規定、民数記の宿営配置へと続く、神の民の秩序化の始まりなのです。

二人の息子の名前—モーセの信仰告白

この章の冒頭で、モーセの二人の息子が紹介されています:

ゲルショム(גֵּרְשֹׁם)—「私は外国にいる寄留者だ」(18:3)
エリエゼル(אֱלִיעֶזֶר)—「私の父の神は私の助けであり、パロの剣から私を救われた」(18:4)

この名前は、モーセの信仰の旅路を物語っています。

ゲルショムは、モーセがミデヤンに逃亡した時に生まれました。名前の由来は「גֵּר שָׁם」(ゲール・シャーム、そこでの寄留者)。モーセは自分を「外国にいる者」と認識していました。

しかし第二の息子エリエゼルの名前には、救いの証があります。「אֱלִי אֱלֹהֵי אָבִי」(エリ・エロヘー・アビ、私の神は私の父の神)—これはアブラハム、イサク、ヤコブの神への信仰告白です。

興味深いことに、「エリエゼル」という名前は、創世記15:2に登場するアブラハムの家令の名前と同じです。アブラハムのエリエゼルは、「跡取り」になるかもしれなかった者でしたが、神の約束の子イサクが生まれることで、その役割を譲りました。

モーセのエリエゼルという名前には、「神が助けてくださる」という信頼が込められています。

「見送る」という別れ—互いの場所へ

この章は、イテロの帰郷で終わります:

「それから、モーセはしゅうとを見送った。彼は自分の国へ帰って行った」(18:27)

イテロは、モーセと民の組織化を助け、全焼のいけにえを捧げ、神の偉大さを告白しました。そして自分の国へ帰って行ったのです。

これは重要な点です。イテロはイスラエルに留まりませんでした。彼には、彼自身の場所、彼自身の召命がありました。

神の働きは、多様です。ある者は留まり、ある者は去ります。ある者は前線に立ち、ある者は後方で支えます。ある者は長期的に関わり、ある者は一時的に助言を与えます。

イテロは、自分の役割を理解していたのです。彼は助言者として来ました。そして助言が受け入れられたのを見て、満足して帰って行きました。

これもまた、私たちへの教訓です。神の働きにおいて、私たちは:

  • 自分の場所を知る必要があります
  • 自分の季節を理解する必要があります
  • 役割の完了を認識する必要があります

イテロは、モーセの代わりになろうとはしませんでした。彼はモーセがより良くモーセであるための助けとなりました。

第二部:旧約(ネヘミヤ記2章、3章)—「自分の家の前」を建て直す—

王の前での勇気—恐れと信仰の間で

ネヘミヤ記2章は、一人の献酌官の心の葛藤から始まります。

アルタシャスタ王の第二十年のニサンの月(紀元前445年3-4月頃)、ネヘミヤは王の前で酒を差し出しました。しかし彼の顔には、これまでなかった悲しみの表情がありました(2:1)。

王は気づきました: 「あなたは病気でもなさそうなのに、なぜ、そのように悲しい顔つきをしているのか。きっと心に悲しみがあるに違いない」(2:2)

ここで重要な記述があります: 「私はひどく恐れて」(2:2)

なぜネヘミヤは恐れたのでしょうか?

ペルシャの宮廷では、王の前で悲しい顔を見せることは、王への不満を暗に示すものと受け取られる可能性がありました。最悪の場合、死刑に値する無礼でした。エステル記4:2には、「王の門の中には、荒布を着て入ることは許されなかったからである」とあります。

しかしネヘミヤは、もはや隠すことができませんでした。エルサレムへの重荷が、彼の全存在を覆っていたのです。

彼は答えました: 「王よ。いつまでも生きられますように。私の先祖の墓のある町が廃墟となり、その門が火で焼き尽くされているというのに、どうして悲しい顔をしないでおられましょうか」(2:3)

この答えには、知恵がありました。ネヘミヤは:

  • 「エルサレム」という政治的に敏感な名前を避け、「先祖の墓のある町」と言った
  • 個人的な敬虔さ(先祖への敬意)を強調した
  • 王の同情を引く表現を選んだ

天への瞬間的祈り—行動の前の霊的準備

王は尋ねました: 「では、あなたは何を願うのか」(2:4)

ここで、聖書の中でも最も美しい一節の一つが来ます:

「そこで私は、天の神に祈ってから、王に答えた」(2:4)

この「祈ってから」は、長い祈りの時間ではありません。会話の流れの中での、瞬間的な、しかし真剣な祈りです。

ヘブライ語で「祈る」(פָּלַל、パーラル)は、もともと「仲裁する、とりなす」という意味です。ネヘミヤは一瞬のうちに、自分と神の間で対話し、神の導きを求めたのです。

これは、常に神とつながっている生活の表れです。ネヘミヤは:

  • 特別な祈りの時間だけでなく
  • 日常の会話の中でも
  • 決断の瞬間にも
  • 神に頼り、神に聴く習慣を持っていました

テサロニケ第一5:17の「絶えず祈りなさい」は、まさにこのような祈りの生活を指しています。

具体的な計画—ビジョンと現実の架け橋

天の神に祈った後、ネヘミヤは王に具体的な要請をしました:

1. 旅の許可(2:5) 2. 旅の安全のための通行証(2:7) 3. 建築資材の供給(2:8)

そして聖書は記録します: 「私の神の恵みの御手が私の上にあったので、王はそれをかなえてくれた」(2:8)

ここに、神の主権と人間の責任の調和が見られます:

  • 神の恵みの御手が働いた—神の主権
  • ネヘミヤは具体的に計画し、要請した—人間の責任

ネヘミヤは「神が何とかしてくださる」と漠然と期待したのではありません。彼は:

  • エルサレムまでの距離を計算し
  • 必要な材木の量を見積もり
  • 調達先(王の御園の番人アサフ)まで特定していました

信仰は、無計画の言い訳ではありません。 むしろ真の信仰は、神が与えてくださった知恵を用いて、最善の計画を立てることを含みます。

反対者の登場—神の働きには必ず抵抗がある

ところが、ネヘミヤが川向こうの総督たちのところに着くと、早くも反対者が現れました:

「ホロン人サヌバラテと、アモン人で役人のトビヤは、これを聞いて、非常に不きげんになった。イスラエル人の利益を求める人がやって来たからである」(2:10)

ここで注目したいのは、トビヤが「アモン人」と記されていることです。

アモン人は、申命記23:3-6で「主の集会に加わってはならない。十代目になっても、決して主の集会に加わることはできない」と定められた民でした。その理由は、出エジプトの時にイスラエルに敵対したからです。

ここに、霊的な対立の構図が見えます:

  • ネヘミヤ:神の都エルサレムの回復を求める
  • サヌバラテとトビヤ:その回復を妨げようとする

神の働きには、必ず反対があります。しかしその反対自体が、この働きが神からのものである証拠でもあります。なぜなら、サタンは神の働きには必ず抵抗するからです。

夜の秘密調査—祈りに支えられた知恵

エルサレムに着いて三日後、ネヘミヤは夜中に起きました(2:11-12)。

そして、ごく少数の者と共に、夜のうちに城壁を調査しました(2:12-15)。彼は:

  • 谷の門から出発し
  • 竜の泉を通り
  • 糞の門に至り
  • 城壁のくずれた状態を詳細に調べました

興味深いのは、ネヘミヤが乗っていた「獣」(בְּהֵמָה、ベヘマー)についての記述です(2:14)。おそらくロバだったと思われますが、「私の乗っている獣の通れる所がなかった」とあります。

これは、城壁の破壊がいかに徹底的だったかを示しています。瓦礫が積み重なり、ロバさえ通れない状態だったのです。

しかしより重要なのは、ネヘミヤの調査方法です:

「私の神が、私の心を動かしてエルサレムのためにさせようとされることを、私はだれにも告げなかった」(2:12)

なぜ秘密にしたのでしょうか?いくつかの理由が考えられます:

1. 敵への情報漏洩を防ぐため サヌバラテとトビヤは既に警戒していました(2:10)。具体的計画を知られれば、妨害の準備をされてしまいます。

2. 現実に基づいた計画を立てるため 実際の状況を見る前に大きなことを語れば、後で「できない」と言わざるを得なくなるかもしれません。

3. 神との親密な交わりを保つため まず神と二人きりで、この重荷を分かち合う時間が必要でした。

4. 批判や否定的意見に惑わされないため 調査段階で多くの人に相談すれば、「無理だ」「危険だ」という声で、信仰が揺らぐかもしれません。

ネヘミヤの行動パターンは:

  1. 祈り(1:4-11)
  2. 神の導きを待つ(1:1から2:1まで4ヶ月)
  3. 機会をつかむ(2:4)
  4. 現実を調査する(2:12-15)
  5. 人々を動員する(2:17-18)

この順序は、私たちの働きのモデルとなります。

時が来た—証と信仰の公表

調査を終えたネヘミヤは、ついに人々に語りました:

「あなたがたは、私たちの当面している困難を見ている。エルサレムは廃墟となり、その門は火で焼き払われたままである。さあ、エルサレムの城壁を建て直し、もうこれ以上そしりを受けないようにしよう」(2:17)

ネヘミヤは:

  • 現状を直視させた(「困難を見ている」)
  • 具体的問題を明示した(「廃墟」「門は焼かれた」)
  • 明確な目標を示した(「城壁を建て直し」)
  • 動機を語った(「そしりを受けないように」)

そして、最も重要なこととして:

「私に恵みを下さった私の神の御手のことと、また、王が私に話したことばを、彼らに告げた」(2:18)

ネヘミヤは、神の恵みの証を語ったのです。これが人々の心を動かしました。

人々の応答は即座でした: 「さあ、再建に取りかかろう」(2:18)

再び現れる反対—しかし毅然とした応答

しかし、サヌバラテ、トビヤ、そして新たにアラブ人ゲシェムが現れ、あざけりました:

「おまえたちのしているこのことは何だ。おまえたちは王に反逆しようとしているのか」(2:19)

彼らの戦術は:

  • あざけり—働きを小さく見せる
  • 侮蔑—人格攻撃
  • 政治的脅迫—「王への反逆」という告発

これに対するネヘミヤの応答は、明確で力強いものでした:

「天の神ご自身が、私たちを成功させてくださる。だから、そのしもべである私たちは、再建に取りかかっているのだ。しかし、あなたがたにはエルサレムの中に何の分け前も、権利も、記念もないのだ」(2:20)

この宣言には、三つの要素があります:

1. 信仰の告白—「天の神ご自身が、私たちを成功させてくださる」
2. アイデンティティの確認—「そのしもべである私たちは」
3. 境界線の設定—「あなたがたには…何の分け前も、権利も、記念もない」

ネヘミヤは、反対者と議論しませんでした。弁明もしませんでした。ただ、神への信頼を宣言し、境界線を引いたのです。

ネヘミヤ記3章—「自分の家の前」の神学

そしてネヘミヤ記3章は、聖書の中でも独特な章です。この章全体が、誰がどこを修理したかの記録なのです。

一見すると、退屈な名簿に見えるかもしれません。しかし、この章には深い神学が込められています。

大祭司から始まる—霊的リーダーシップの模範

「こうして、大祭司エルヤシブは、その兄弟の祭司たちと、羊の門の再建に取りかかった」(3:1)

城壁再建は、大祭司から始まりました

これは重要な点です。霊的指導者が:

  • 口だけでなく、行動で示した
  • 他の人に命令するだけでなく、自ら参加した
  • 最初に立ち上がった

羊の門(שַׁעַר הַצֹּאן、シャアル・ハツォーン)は、神殿の犠牲のための羊が運ばれる門でした。大祭司がこの門を建て直したのは、象徴的です—礼拝の回復が最優先だったのです。

そして彼らは門を「聖別した」(קָדַשׁ、カーダシュ)と記されています(3:1)。城壁建設は、単なる土木工事ではなく、神聖な奉仕だったのです。

「契約に基づく犠牲礼拝の回復が、共同体再建の出発点として示された」

「自分の家に面する所」—個人的責任と当事者意識

3章を通して、繰り返し現れるフレーズがあります:

  • 「自分の家に面する所を修理し」(3:10)
  • 「彼らの家に面する所を修理した」(3:23)
  • 「自分の家の近くを修理した」(3:23)
  • 「自分の部屋に面する部分を修理した」(3:30)

この原則は、深い知恵を示しています。

「自分の家の前」を修理することには、いくつかの利点があります:

1. 当事者意識 自分の家の前ですから、完成後に最も恩恵を受けるのは自分自身です。手抜きをすれば、自分が困ります。

2. 専門知識の不要 その場所の状態を誰よりも知っています。毎日そこを通っているのですから。

3. 継続的管理 完成後も、毎日目にする場所です。維持管理も自然に行われます。

4. 公平性 誰もが「自分の場所」を持っています。不公平感が生まれにくい仕組みです。

5. 全体性 一人一人が自分の場所を担当すれば、城壁全体が完成します。

これは、コリント第一12章の「キリストのからだ」の原型と言えます。

「ですから、目が手に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うことはできないし、頭が足に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うこともできません」(コリント第一12:21)

城壁も、からだも、すべての部分が必要なのです。

多様な参加者—専門家でなくても

3章のリストを注意深く読むと、驚くべき多様性が見えてきます:

祭司たち(3:1, 22, 28)—霊的指導者 金細工人(3:8, 31, 32)—技術者 香料作り(3:8)—商人 地区の長たち(3:9, 12, 14, 15, 16, 17, 18, 19)—行政官 レビ人(3:17)—宮に仕える者 商人たち(3:32)—ビジネスマン 娘たちといっしょに(3:12)—女性も参加

そして、城壁建設の専門家は一人もいません。

彼らは:

  • 祈る人々
  • 金を扱う人々
  • 香料を作る人々
  • 行政を行う人々
  • 商売をする人々

でも、城壁を建てる人々になったのです。

ここに、深い励ましがあります:

神の働きは、専門家だけのものではありません。
誰もが、「自分の場所」を持っています。
完璧でなくても、参加することに意味があります。

テコアの「すぐれた人たち」—協力しなかった者の記録

しかし、3章には対照的な記録もあります:

「その次に、テコア人たちが修理したが、そのすぐれた人たちは彼らの主人たちの工事に協力しなかった」(3:5)

「すぐれた人たち」(אַדִּירֵיהֶם、アディレヘム)は、貴族階級、有力者たちでした。彼らには:

  • 知識があった
  • 資源があった
  • 影響力があった

でも、彼らは協力しなかったのです。

おそらく彼らは思ったでしょう:

  • 「これは私たちの仕事ではない」
  • 「肉体労働は身分にふさわしくない」
  • 「専門家に任せるべきだ」

しかし、神は彼らの名前を記録されました。「協力しなかった」という永遠の記録として。

一方、テコアの一般の人々は、二倍働きました。3:27には「そのあとに、テコア人が、突き出ている大きなやぐらに面している所から、オフェルの城壁までの続きの部分を修理した」とあります。

彼らは、自分たちの分だけでなく、「すぐれた人たち」が放棄した部分まで修理したのです。

シャルムの娘たち—女性の参加

特に注目したいのは、3:12の記述です:

「その次に、エルサレムの残りの半区の長、ロヘシュの子シャルムが、自分の娘たちといっしょに修理した」

「娘たちといっしょに」(וּבְנֹתָיו、ウベノタイウ)—この一言が、どれほど重要か。

当時の中東社会で、城壁建設のような肉体労働に女性が参加することは、通常ありませんでした。しかしシャルムの娘たちは、父と共に働いたのです。

これは、何を意味するでしょうか:

1. 緊急性の認識 状況が深刻で、全員の参加が必要だった

2. 家族単位の奉仕 シャルムは、娘たちを神の働きに巻き込んだ

3. 神の働きにおける男女の協力 後の時代、フィリポの四人の娘たち(使徒21:9)、プリスキラとアクラ(使徒18章)など、女性の働きの先駆け

4. 素人による再建の証明 もし専門家が必要なら、女性には参加できなかったでしょう。でも「自分の家の前」なら、誰でも参加できたのです。

城壁全体の完成—個々の働きの統合

3章の最後は、こう結ばれています:

「かどの二階の部屋と羊の門の間は、金細工人と商人たちが修理した」(3:32)

羊の門—これは、3:1で大祭司が建て直し始めた門です。そして今、城壁は完全に一周しました。

一人一人が「自分の場所」を担当した結果、城壁全体が完成したのです。

これは、神の働きの美しい絵です:

  • 誰一人として、城壁全体を建てることはできない
  • しかし、全員が自分の場所を担当すれば、全体が完成する
  • 専門家でなくても、参加できる
  • 大切なのは、完璧さではなく、忠実さ

第三部:新約(ルカ15章)—失われた者を迎え入れる父の心—

パリサイ人のつぶやき—誰が「正しい人」なのか

ルカ15章は、ある緊張した状況から始まります。

「さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。『この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする』」(15:1-2)

「つぶやいて」(διεγόγγυζον、ディエゴンギュゾン)という動詞は、不平を小声で繰り返し言う様子を表します。彼らは公然と批判するのではなく、陰でつぶやいていたのです。

パリサイ人と律法学者たちの論理は、こうでした:

  • 正しい人は罪人と交わらない
  • 神に近い人は、罪人から離れている
  • 聖別とは、分離することだ

しかしイエスは、まったく異なる神の姿を示そうとされました。

そして、三つのたとえ話を語られました。

第一のたとえ—失われた羊と羊飼いの探索

「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか」(15:4)

このたとえには、いくつかの驚くべき要素があります。

1. 一匹のための九十九匹の放置 羊飼いは、九十九匹を野原に残して、一匹を探しに行きます。これは経済的には非合理的です。九十九匹を危険にさらして、一匹を探すのですから。

しかし、これが神の愛の論理なのです。

2. 「見つけるまで」(ως ερ、ヘオース・ヘウレー) 羊飼いは、見つけるまで探し続けます。諦めません。「もう十分探した」とは言いません。

3. 「大喜びで」(χαίρων、カイローン) 見つけたら、羊飼いは叱りません。「なぜ迷ったのか」と問い詰めません。ただ大喜びで、その羊をかついで帰ります。

「かついで」(ἐπιτίθησιν ἐπὶ τοὺς ὤμους、エピティテーシン・エピ・トゥース・オーモゥス)—肩の上に置いて。

これは、キリストの十字架の型です。イエスは私たちの罪を肩に負ってくださいました(イザヤ53:4「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」)。

4. 共に喜ぶ招き 羊飼いは一人で喜ぶのではなく、「友だちや近所の人たちを呼び集め」ます(15:6)。喜びは、分かち合うためにあるのです。

そしてイエスは言われました:

「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです」(15:7)

「悔い改める必要のない九十九人の正しい人」—これは皮肉でしょうか?それとも文字通りでしょうか?

おそらく、イエスはパリサイ人たちの自己認識を反映しておられるのです。彼らは自分たちを「正しい人」と見なしていました。しかし、本当に「悔い改める必要のない」人など、いるのでしょうか?

ローマ3:23は言います:「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄光を受けることができず」

つまり、私たちは皆、失われた羊なのです。

第二のたとえ—失われた銀貨と女性の探索

「また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか」(15:8)

このたとえは、失われた羊のたとえと似ていますが、いくつかの違いがあります。

1. 女性が探す 第一のたとえは羊飼い(男性)、第二のたとえは女性。もしかすると、これは三位一体の異なる位格の働きを示唆しているかもしれません。

  • 羊飼い=御子イエス(積極的に探しに出る)
  • 女性=聖霊(内側から照らし、きよめる)

2. 「あかりをつけ」(πτει λύχνον、ハプテイ・リュクノン) 聖霊の働きは、照らすことです。ヨハネ16:8「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」。

暗闇の中では、失われたものは見つかりません。光が必要です。

3. 「家を掃いて」(σαρο τν οκίαν、サロイ・テーン・オイキアン) 掃除は、きよめの象徴です。聖霊は、私たちの心の隠れた場所まで掃き清め、罪を明らかにされます。

4. 「念入りに捜す」(ζητε πιμελς、ゼーテイ・エピメローズ) 「念入りに」(ἐπιμελῶς、エピメローズ)は、「注意深く、徹底的に」という意味です。聖霊の探索に、手抜きはありません。

5. 銀貨(δραχμή、ドラクメー)の価値 一ドラクメは、一日分の賃金でした。それほど大きな額ではありません。しかし、女性にとっては貴重でした。

これは、一人一人の魂の価値を表しています。世界から見れば「取るに足らない」と思われる人でも、神の目には計り知れない価値があるのです。

そして、この女性も「友だちや近所の女たちを呼び集めて」喜びを分かち合います(15:9)。

イエスは結論されました:

「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです」(15:10)

天では、一人の罪人の悔い改めが、大きな祝祭なのです。

第三のたとえ—放蕩息子と待ち続ける父

そしてイエスは、三つの中で最も長く、最も感動的なたとえ話を語られました。

「ある人に息子がふたりあった」(15:11)

弟息子の堕落—自由の濫用

弟息子は、父に言いました: 「お父さん。私に財産の分け前を下さい」(15:12)

この要求は、当時の文化では非常に無礼なものでした。なぜなら、これは事実上「お父さん、あなたが死んだことにして、私の取り分を今すぐください」と言っているのと同じだからです。

しかし、父は分けてやりました(15:12)。

これは、神が人間に与えられた自由意志の絵です。神は、私たちを強制的につなぎ止めることはされません。去りたいなら、去ることを許されます。

弟息子は「遠い国に旅立った」(15:13)。ギリシャ語ではχώραν μακράν(コーラン・マクラン、遠い地方)。これは単に地理的距離だけでなく、ヘブライ的思考では神から遠く離れた状態を意味します。

そして「放蕩して湯水のように財産を使ってしまった」(15:13)。「放蕩して」(ἀσώτως、アソートース)は、「無節制に、浪費的に」という意味です。

すべてを使い果たした後、飢饉が起こり、彼は豚の世話をする仕事に就きました(15:15)。

豚の世話—ユダヤ人にとって、これ以上の屈辱はありませんでした。レビ記11:7で豚は汚れた動物とされていました。神の民が、汚れた動物の世話をする—これは、堕落の極みです。

そして彼は「豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった」(15:16)。

孤独と絶望—これが罪の行き着く先です。

「我に返ったとき」—悔い改めの始まり

しかし、転機が来ました:

「しかし、我に返ったとき彼は、こう言った」(15:17)

「我に返った」(εἰς ἑαυτὸν δὲ ἐλθών、エイス・ヘアウトン・デ・エルソーン)は、直訳すると「自分自身の中に来た」。これは、正気に戻ることを意味します。

罪は、一種の狂気です。それは私たちを本来の自分から遠ざけます。悔い改めは、本来の自分に戻ることなのです。

彼の思考は、こうでした:

「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ」(15:17)

彼は、父の家の豊かさを思い出しました。そして決心しました:

「立って、父のところに行って、こう言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください』」(15:18-19)

この告白には、真の悔い改めの要素が含まれています:

1. 罪の認識—「私は罪を犯しました」
2. 二重の罪責—「天に対して」(神への罪)「またあなたの前に」(人への罪)
3. 謙虚さ—「資格はありません」
4. 具体的行動—「立って、行って」

父の走り寄る姿—神の愛の極致

そして、聖書の中で最も美しい場面の一つが来ます:

「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」(15:20)

この一節には、驚くべき詳細が詰まっています。

1. 「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ」 父は、待っていたのです。毎日、道を見つめて、息子の帰りを待っていたのです。

2. 「かわいそうに思い」(σπλαγχνίσθη、エスプランクニステー) この動詞は、「内臓が動く」という意味の言葉から来ています。深い憐れみ、腸がちぎれるような同情を表します。

3. 「走り寄って」(δραμεν、エドラメン) 当時の中東文化では、年配の男性が走ることは威厳に反する行為でした。長い衣をまとった老人が走るには、裾をたくし上げなければなりません。それは見苦しいとされました。

しかし父は、威厳も何も忘れて走ったのです。

これが、天の父の愛です。私たちが神に向かって一歩踏み出すとき、神は走り寄ってくださるのです。

4. 「抱き、口づけした」(πέπεσεν π τν τράχηλον ατο κα κατεφίλησεν、エペペセン・エピ・トン・トラケーロン・アウトゥー・カイ・カテフィレーセン)

「抱き」は、直訳すると「彼の首の上に倒れかかった」。これは、強く抱きしめる様子です。

「口づけした」(κατεφίλησεν、カテフィレーセン)は、繰り返し口づけすることを意味します。

父は、息子を完全に受け入れたのです。

息子の告白—しかし父の応答はそれ以上

息子は準備していた言葉を言い始めました:

「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません」(15:21)

しかし、「雇い人のひとりにしてください」という最後の部分を言う前に、父は彼の言葉を遮りました。

父は、しもべたちに命じました:

「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか」(15:22-23)

父が息子に与えたものは:

1. 一番良い着物(στολὴν τὴν πρώτην、ストレーン・テーン・プローテーン)
これは、尊厳の回復です。ぼろぼろの服を着た息子に、最高の衣を着せました。

イザヤ61:10「主は私に、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ」—これは、キリストの義を着せられることの型です。

2. 指輪(δακτύλιον、ダクテュリオン)
これは、印章の指輪でした。つまり、権威の回復です。息子は再び、父の代理として行動する権利を得たのです。

3. 履物(ὑποδήματα、ヒュポデーマタ)
奴隷は裸足で歩きました。履物は、自由人の印でした。息子は、奴隷ではなく、息子としての地位を回復されたのです。

4. 肥えた子牛(τὸν μόσχον τὸν σιτευτόν、トン・モスコン・トン・シテウトン)
これは、特別な機会のために太らせてあった子牛です。つまり、父は息子の帰還を最高の祝祭としたのです。

そして父は言いました:

「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」(15:24)

「死んでいた」—罪の中にいる状態
「生き返り」—悔い改めて神に立ち返った状態

これが、**新生(Born Again)**の絵です。

兄息子の反応—正しさの落とし穴

しかし物語は、ここで終わりません。

兄息子が畑から帰って来ると、家から音楽と踊りの音が聞こえました(15:25)。

事情を聞いた兄は、おこって、家に入ろうともしませんでした(15:28)。

父が出て来てなだめると、兄は言いました:

「ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか」(15:29-30)

兄息子の言葉には、いくつかの問題があります:

1. 「私はお父さんに仕え」(γώ σοι δουλεύω、エゴー・ソイ・ドゥーレウオー)
「仕え」は、奴隷として仕えるという意味の動詞です。兄は、父との関係を義務として捉えていました。息子としての喜びではなく、奴隷としての労働として。

2. 「戒めを破ったことは一度もありません」
これは、自己義認です。本当にそうでしょうか?今、兄が示している怒りと憎しみは、戒めを破っていないと言えるでしょうか?

3. 「子山羊一匹下さったことがありません」
兄は、自分の奉仕に対する報酬を期待していました。しかし、父との関係は契約労働ではありません

4. 「このあなたの息子」
兄は「私の弟」とは言いませんでした。「あなたの息子」と言って、関係を断ち切りました。

父の応答は、優しく、しかし明確でした:

「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか」(15:31-32)

父は、二つのことを指摘しました:

1. 「おまえはいつも私といっしょにいる」
これは特権です。父の臨在、父との交わり—これ以上の祝福があるでしょうか?

2. 「私のものは、全部おまえのものだ」
兄は、何一つ失っていませんでした。すべては、既に彼のものだったのです。

そして父は、関係を回復しようとしました: 「おまえの弟は」—父は、兄弟関係を思い出させました。

三つのたとえの一貫性—三位一体の探索

三つのたとえを並べてみると、一つのパターンが見えてきます:

失われた羊:羊飼いが積極的に探しに出る
失われた銀貨:女性が内側から徹底的に探す
失われた息子:父が待ち続け、走り寄る

これは、もしかすると三位一体の働きを表しているのかもしれません:

御子イエス:良い羊飼い(ヨハネ10:11)として、失われた羊を探しに来られた
聖霊:光を照らし、心を掃き清め、罪を示される
父なる神:待ち続け、悔い改める者を走り寄って迎えられる

パリサイ人への答え—誰のための祝宴か

ルカ15章全体を通して、イエスはパリサイ人たちの批判(15:2「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする」)に答えておられます。

イエスのメッセージは明確です:

天の父は、失われた者が見つかることを喜ばれる。
神の心は、罪人の悔い改めに向かっている。
義人は、この喜びに参加すべきである。

兄息子の態度は、パリサイ人たちの態度でした。彼らは:

  • 自分たちは正しいと思っていた
  • 罪人を軽蔑していた
  • 神の恵みを理解していなかった
  • 自分たちの「功績」を誇っていた

しかし、真の義人は、罪人の救いを共に喜ぶ者です。

なぜなら、私たちは皆、かつては失われた羊だったからです。
私たちは皆、かつては失われた銀貨だったからです。
私たちは皆、かつては放蕩息子だったからです。

エペソ2:1-5: 「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって…しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストと共に生かし」

出エジプト、ネヘミヤ、ルカのつながり

ルカ15章を、今日の他の箇所と並べて読むとき、一つの流れが見えてきます。

出エジプト18章では、イテロが外から来て、組織を整えました。
ネヘミヤ2-3章では、それぞれが「自分の家の前」を建て直しました。
ルカ15章では、失われた者が父の家に帰って来ました。

すべてに共通するのは:

神は、回復を願っておられる。
そして、人間の応答を待っておられる。
完璧でなくても、参加することができる。

第四部:全体の一貫性—「自分の場所で建て直す」神の回復プロジェクト—

三つの箇所を貫く一本の糸

出エジプト記18章、ネヘミヤ記2-3章、ルカ15章—一見すると、これらは異なる時代、異なる状況、異なる主題を扱っているように見えます。

しかし、三つの箇所を通して読むとき、一本の赤い糸が見えてきます。

それは:神の回復の働きと、それへの人間の応答です。

第一の共通点—外からの助け、内からの謙虚さ

出エジプト18章で、私たちはイテロというミデヤン人を見ました。彼はイスラエル人ではありません。しかし彼は、モーセの働きを観察し、知恵ある助言を与えました。

そして重要なのは、モーセがその助言を受け入れたことです。

ネヘミヤ記2章で、私たちはペルシャの王アルタシャスタを見ました。彼は異邦人の王です。しかし「私の神の恵みの御手が私の上にあったので、王はそれをかなえてくれた」(2:8)とネヘミヤは証しています。

神は、思いがけない場所から、思いがけない人を通して、働かれるのです。

ルカ15章では、この真理がさらに深まります。失われた羊、失われた銀貨、失われた息子—彼らは皆、「外」にいました。神の民の「内」ではなく、「外」に。

しかし、羊飼いは外に探しに行きました。女性は家の隅々まで探しました。父は、遠くから帰ってくる息子を待ち続けました。

神の恵みは、境界線を越えるのです。

第二の共通点—組織化と個人化の調和

出エジプト18章で、私たちは組織構造の確立を見ました:

  • 千人の長
  • 百人の長
  • 五十人の長
  • 十人の長

これは、全体の秩序です。

しかし同時に、イテロの助言には個人への配慮もありました: 「あなたの重荷を軽くしなさい」(18:22) 「あなたはもちこたえることができ」(18:23)

ネヘミヤ記3章は、この調和の完璧な実例です。

城壁全体という大きなプロジェクトがありました。しかしその実現方法は、一人一人が「自分の家の前」を修理することでした。

全体と個の調和。 組織と個人の統合。

ルカ15章でも、同じパターンが見られます。

「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にある」(15:7)

神は、一人一人を大切にされます。群衆の中の一人ではなく、名前を持った、顔を持った、物語を持った一人として。

しかし同時に、その一人の救いは「天にある喜び」「神の御使いたちに喜びがわき起こる」(15:10)—つまり、全天的な出来事なのです。

第三の共通点—完璧でなくても参加できる

出エジプト18章で、モーセは完璧な指導者ではありませんでした。彼は組織運営の知恵を、義父から学ぶ必要がありました。

しかし、それでも神は彼を用いられました。

ネヘミヤ記3章で、城壁を建て直した人々は専門家ではありませんでした:

  • 祭司たち(3:1)
  • 金細工人(3:8)
  • 香料作り(3:8)
  • 商人たち(3:32)
  • 娘たちといっしょに修理した父(3:12)

彼らは城壁建設のプロではありませんでした。でも「自分の家の前」なら、建て直すことができました。

ルカ15章で、放蕩息子は完璧な悔い改めをしたわけではありません。

彼の動機は、まず飢えでした(15:17「私はここで、飢え死にしそうだ」)。純粋に父を慕ったからではなく、生き延びるためでした。

彼の計画は、雇い人になることでした(15:19)。息子としての回復を期待していたわけではありません。

しかし父は、走り寄って抱きしめました(15:20)。

不完全な動機でも、 不完全な計画でも、 父に向かう一歩があれば、 父は走り寄ってくださる。

これは、私たちへの大きな励ましです。

完璧である必要はありません。 専門家である必要はありません。 ただ、自分の場所で、応答すればいいのです。

第四の共通点—反対の中での前進

出エジプト18章では、明示的な反対者は出てきません。しかし、組織化の必要性そのものが、困難な状況を示しています。モーセは「朝から夕方まで」(18:13)民をさばき、疲れ果てていました。

ネヘミヤ記2章では、反対者が明確に登場します:

  • ホロン人サヌバラテ
  • アモン人で役人のトビヤ
  • アラブ人ゲシェム(2:19)

彼らは「非常に不きげん」(2:10)になり、「あざけり」「さげすみ」(2:19)、「王に反逆しようとしているのか」(2:19)と脅迫しました。

しかしネヘミヤは、毅然と答えました: 「天の神ご自身が、私たちを成功させてくださる」(2:20)

ルカ15章でも、反対がありました。

パリサイ人と律法学者たちの「つぶやき」(15:2)です。

そして物語の中では、兄息子の「怒り」(15:28)です。

神の働きには、必ず反対があります。

しかしその反対は、この働きが神からのものである証拠でもあります。なぜなら、サタンは神の回復の働きに必ず抵抗するからです。

重要なのは、反対にどう応答するかです:

  • モーセ:謙虚に助言を受け入れ、改善した
  • ネヘミヤ:信仰を宣言し、境界線を引いた
  • イエス:たとえ話で、神の心を説明された

第五の共通点—神の主権と人間の責任の調和

出エジプト18章で、イテロは言いました: 「もしあなたがこのことを行えば、──神があなたに命じられるのですが──」(18:23)

イテロの助言は知恵でしたが、最終的な決定権は神にあることを認めていました。

同時に、モーセには実行する責任がありました。「モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、すべて言われたとおりにした」(18:24)

ネヘミヤ記2章は、この調和の完璧な例です。

ネヘミヤは「天の神に祈ってから、王に答えた」(2:4)—神への依存

しかし同時に、具体的な計画を立て、資材を要請し、通行証を求めました—人間の責任

そして彼は証ししました: 「私の神の恵みの御手が私の上にあったので、王はそれをかなえてくれた」(2:8)

神の恵み(主権)と、ネヘミヤの行動(責任)が、調和していました。

ルカ15章でも、同じ調和が見られます。

羊飼い、女性、父—すべて積極的に探し、待ち、走り寄ります。これは神の主導です。

しかし、羊は見つけられるまで迷い、銀貨は探されるまで失われ、息子は「立って、父のところに行」(15:20)かなければなりませんでした。

神は主導権を持ちながら、人間の応答を待たれる。

これが、聖書全体を貫く真理です。

第六の共通点—回復の目的は交わり

出エジプト18章で、組織化の目的は何だったでしょうか?

単に効率のためでしょうか?

いいえ、イテロ自身が示しています。

「イテロは、全焼のいけにえと神へのいけにえを持って来たので、アロンは、モーセのしゅうととともに神の前で食事をするために、イスラエルのすべての長老たちといっしょにやって来た」(18:12)

目的は、神との交わりでした。

そして組織化によって、モーセも民も疲れ果てることなく、神との交わりを持てるようになりました。

ネヘミヤ記3章で、城壁再建の目的は何だったでしょうか?

単に防衛のためでしょうか?

いいえ、ネヘミヤは言いました: 「さあ、エルサレムの城壁を建て直し、もうこれ以上そしりを受けないようにしよう」(2:17)

エルサレムは、神の都です。神殿がある場所です。城壁の回復は、神の名の栄光の回復でした。

そして城壁があることで、民は安心して神を礼拝できるようになります。

ルカ15章では、この目的が最も明確です。

見つかった羊のために、「友だちや近所の人たちを呼び集め」て喜びます(15:6)。 見つかった銀貨のために、「友だちや近所の女たちを呼び集め」て喜びます(15:9)。 帰って来た息子のために、「肥えた子牛をほふり」、「食べて祝」います(15:23-24)。

すべて、交わりの回復です。

父と息子の交わり。 家族の交わり。 共同体の交わり。

そして究極的には、神と人との交わりです。

これが、回復の最終目的なのです。

「自分の場所で建て直す」という召命

三つの箇所を通して、一つの召命が浮かび上がってきます。

私たちは、それぞれの場所で、神の回復の働きに参加できる。

モーセには、モーセの場所がありました—イスラエルの指導者として。 イテロには、イテロの場所がありました—知恵ある助言者として。

ネヘミヤには、ネヘミヤの場所がありました—エルサレムの城壁再建者として。 大祭司エルヤシブには、羊の門がありました(3:1)。 金細工人には、金細工人の場所がありました(3:8)。 シャルムとその娘たちには、彼らの家の前がありました(3:12)。

羊飼いには、失われた羊を探す場所がありました。 女性には、失われた銀貨を探す家がありました。 父には、放蕩息子を待つ場所がありました。

そして、私たちにもそれぞれの場所があります。

ある人には、家庭で子どもを育てる場所が。 ある人には、職場で誠実に働く場所が。 ある人には、地域教会で仕える場所が。 ある人には、言葉で福音を伝える場所が。 ある人には、祈りで執り成す場所が。

これが、私たちの「家の前」です。

私たちは専門家ではないかもしれません。 有名な伝道者ではないかもしれません。 神学博士ではないかもしれません。

でも、私たちの家の前なら、建て直すことができます。

そして、一人一人が自分の場所を担当すれば、城壁全体が完成するのです。

完璧でなくても本物でいい

「完璧でなくても本物でいい」—この言葉は、今日の三つの箇所すべてに裏付けられています。

モーセは完璧ではありませんでした。 彼は義父から組織運営を学ぶ必要がありました。 でも彼は本物でした—謙虚に学び、神に聴き、民に仕えました。

ネヘミヤ3章の人々は専門家ではありませんでした。 金細工人、香料作り、商人、娘たち—城壁建設のプロではありません。 でも彼らは本物でした—自分の場所で、誠実に働きました。

放蕩息子の悔い改めは完璧ではありませんでした。 動機は飢えでした。計画は雇い人になることでした。 でも彼の「立って、父のところに行」く一歩は本物でした。

そして父は、走り寄って抱きしめました

神が求めておられるのは、完璧さではありません。

本物の心です。 誠実な応答です。 自分の場所での忠実さです。

ピリピ2:13とコロサイ1:29—神の働きと私たちの応答

二つの聖句を見てみましょう。

ピリピ2:13「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」

今日の三つの箇所、すべてにこの真理が現れています。

モーセに、イテロの助言を受け入れる謙虚さを与えたのは神でした。 ネヘミヤに、エルサレムへの重荷を与えたのは神でした—「私の神が、私の心を動かして」(2:12)。 放蕩息子が「我に返った」(15:17)のも、神の働きでした。

神が志を立てさせてくださる。

しかし同時に:

コロサイ1:29「このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています」

モーセは「すべて言われたとおりにした」(18:24)—労苦しながら実行しました。 ネヘミヤは夜通し城壁を調査し、人々を動員しました—奮闘しました。 ネヘミヤ3章の人々は、それぞれ自分の場所で修理しました—労苦しました。 放蕩息子は「立ち上がって、自分の父のもとに行った」(15:20)—行動しました

神が働き、私たちも働く。 神が力を与え、私たちは奮闘する。

これが、神人協力(synergism)の美しさです。

日本への適用—今、ここで

今日の箇所は、日本のクリスチャンへの深いメッセージを持っています。

日本の教会は、しばしば感じることがあります: 「私たちには専門家がいない」 「もっと学んだ人がいれば」 「海外のような資源があれば」

しかし、ネヘミヤ3章は答えます:

専門家は必要ありません。 必要なのは、自分の家の前を建て直す人々です。

金細工人は金細工人のまま、城壁を建てました。 香料作りは香料作りのまま、参加しました。 娘たちは娘たちのまま、働きました。

日本のクリスチャンも、日本のクリスチャンのまま、神の働きに参加できるのです。

聖書を学び始めたばかりの人も、 長年信仰を持っている人も、 牧師でない一般信徒も、

それぞれが「自分の家の前」を建て直すことができます。

ある人は家庭で、 ある人は職場で、 ある人は地域で、 ある人は言葉で、 ある人は祈りで。

完璧である必要はありません。 ただ、自分の場所で、誠実に、本物でいればいいのです。

放蕩息子の涙—私たち自身の物語

放蕩息子の箇所は、多くの人の心を打ちます。

なぜなら、これは私たち全員の物語だからです。

私たちは皆、かつて:

  • 遠い国にいました
  • 神から離れていました
  • 自分の力で生きようとしました
  • 飢え、渇き、孤独でした

でも、「我に返った」とき、 神に向かって一歩踏み出したとき、

父は走り寄ってくださいました。

威厳も何も忘れて。 「どうして遅かったのか」とも言わず。 「もっと早く帰って来るべきだった」とも言わず。

ただ、抱きしめてくださいました

そして、最高の衣を着せ、 指輪をはめ、 履物をはかせ、 肥えた子牛をほふり、 祝宴を開いてくださいました。

これが、私たちの神です。

結び—自分の場所で、今日から

三つの箇所を通して、一つの招きが聞こえてきます。

「さあ、再建に取りかかろう」(ネヘミヤ2:18)

あなたの「再建」は何でしょうか?

それは壮大なプロジェクトである必要はありません。 世界を変えるビジョンである必要はありません。

ただ、あなたの家の前を建て直すことです。

  • あなたの家族との関係を建て直す
  • あなたの地域教会に仕える
  • あなたの賜物を用いて神の国に貢献する
  • あなたの言葉で、聖書の真理を伝える
  • あなたの経験を通して、神の恵みを証しする

そして覚えてください:

完璧である必要はありません。 モーセも、ネヘミヤ3章の人々も、放蕩息子も、完璧ではありませんでした。

専門家である必要はありません。 金細工人も、香料作りも、娘たちも、専門家ではありませんでした。

ただ、本物でいてください。 誠実に、謙虚に、忠実に。

そして、自分の場所で始めてください。

なぜなら、一人一人が自分の場所を担当すれば、 城壁全体が完成するからです。

そして、失われた者が見つかれば、 天で大きな喜びがわき起こるからです。

天の神ご自身が、私たちを成功させてくださいます(ネヘミヤ2:20)。

神は、みこころのままに、私たちのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです(ピリピ2:13)。

私たちは、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘します(コロサイ1:29)。

さあ、再建に取りかかりましょう。

それぞれの場所で。 それぞれの賜物で。 それぞれの時に。

完璧でなくても、本物で。

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