出エジプト13章17節から22節 第二歴代誌34章35章 ルカ11章37節から54節
今日の聖書通読は、出エジプト記、歴代誌、そしてルカの福音書です。それぞれの箇所は時代も状況も異なり、一見すると関連が見えにくいかもしれません。
このメッセージは、通読箇所を短く要約することを目的としていません。むしろ、神が確かに語っておられるにもかかわらず、人が「聞かなかった」ために起こった出来事、そして「聞かなかった心」がもたらす結果に目を向けるためのものです。
もし今日、情報としてではなく、「聞く者」として御言葉の前に立ちたいと願うなら、少し時間を取って、共にこの通読を歩んでいただければ幸いです。
※この記事は、要点だけを抜き出して理解できる内容ではありません。モーセ五書・旧約・新約の連続した文脈の中でのみ読まれることを意図しています。
【読み方のご案内】 第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。
目次
第一部:トーラー—雲の柱と火の柱、離れることのない導き
神が選ばれた「回り道」
イスラエルの民がエジプトを出た時、神は彼らを最短ルートで導かれませんでした。地中海沿岸を北上する「ペリシテ人の道」は、カナンまでわずか数週間の距離でした。しかし神は、彼らを「葦の海に向かう荒野の道」へと回らせました(13:18)。
その理由を、聖書は驚くほど率直に記しています:
「神はこう考えられた。『民が戦いを見て心変わりし、エジプトに引き返すといけない』」(13:17)
神は、ご自分の民の弱さをよくご存じでした。彼らはまだ、戦う備えができていなかった。奴隷として400年以上過ごした民が、すぐに戦士になれるわけがありません。だから神は、彼らの状態に合わせて道を選ばれたのです。
ここに、神の深い配慮があります。神は私たちに不可能を要求されるのではなく、私たちが耐えられる道を用意してくださいます(Iコリント10:13参照)。
ヨセフの遺骸—約束の確かさ
モーセは、ヨセフの遺骸を携えて行きました(13:19)。これは単なる遺体の運搬ではありません。
創世記50:24-25で、ヨセフは兄弟たちに言いました:
「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上らなければならない」
ヨセフは死の床で、神の約束の成就を確信していました。そして数百年後、その約束は実現し始めています。ヨセフの遺骸は、「神は約束を必ず守られる」という生きた証拠として、民とともに旅をしました。
私たちも時に、約束の成就を見ることなく人生を終えるかもしれません。しかし神の約束は、私たちの生涯を超えて確かです。
雲の柱と火の柱—栄光の臨在
「主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた」(13:21)
これは「栄光の雲」、ヘブライ語でシェキナー(שְׁכִינָה)と呼ばれる、神ご自身の臨在の現れです。
※「シェキナー」は後代ユダヤ教で用いられる用語で、聖書本文の「主の栄光の臨在」を指す神学的表現である。
「離れることはなかった」の意味
13:22の言葉は、非常に力強いものです:
「昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった」
ヘブライ語ではלֹא־יָמִישׁ(ロー・ヤーミーシュ)—強い否定形で「決して離れなかった」という意味です。
ここで注目したいのは、この時点で民はまだ何も成し遂げていないということです:
- まだ荒野の試練も経験していない
- まだ律法も受け取っていない
- まだ不平不満を言い始めてもいない
それでも神は、彼らと共におられました。神の臨在は、彼らの信仰や行いではなく、神の約束に基づいていたのです。
昼も夜も—途切れることのない導き
雲の柱と火の柱は、民が「昼も夜も進んで行くため」(13:21)に与えられました。
これは単なる方向指示ではありません:
- 昼の雲:砂漠の焼けつく太陽から守る日陰
- 夜の火:暗闇の中での光と暖かさ、そして安全
詩篇121:5-6が美しく歌います:
「主はあなたを守る方、主はあなたの右手をおおう陰。昼も、日があなたを打つことはなく、夜も、月があなたを打つことはない」
私たちへの適用—聖霊の内住
私たちはこの臨在を羨ましく思います。目に見える雲や火があれば、どれほど信仰が簡単だろうかと。
しかし、新約の私たちには、もっと深い臨在が与えられています。
主イエスは約束されました:
「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(ヘブル13:5) 「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタイ28:20)
そして聖霊が、私たちの内に住んでおられます(Iコリント6:19)。雲の柱は外側から導きましたが、聖霊は内側から導かれます。
時に遠く感じられる理由
それでも時に、神が遠く感じられることがあります。なぜでしょうか?
出エジプトの民も、紅海の前で恐れ、荒野で不平を言いました。雲の柱が目の前にあっても、彼らは神を疑いました。
つまり、神の臨在を「感じる」かどうかは、臨在そのものの問題ではなく、私たちの心の状態によることが多いのです。
しかし、感情や感覚がどうであれ、真理は変わりません:
主は離れることがない(לֹא־יָמִישׁ)
雲の柱が民の前から離れなかったように、主イエスは世の終わりまで共におられ、聖霊は私たちのうちに住み続けておられます。
問題は神の臨在ではなく、**私たちが「聞いているか」**なのです。
ここまでで、雲の柱と火の柱がもたらす恵み—神の離れることのない導き—を十分に味わえたことと思います。もし時間があれば、第二部以降で、この「離れることのない臨在」歴史の中でどう展開していくかをご覧ください。そして主イエスがどう真実を語られたかをご覧ください。特にヨシヤ王の物語には、深い問いが隠されています。
第二部:旧約—ヨシヤの改革と「変装」の謎
八歳の王の決断
ヨシヤは八歳で王となりました(34:1)。父アモンは二年間の悪政の後、家臣に暗殺されました。祖父マナセは55年間、ユダ史上最悪の偶像礼拝を行った王です。
このような家系に生まれたヨシヤが、なぜ主に従う道を選んだのか。聖書は理由を説明しません。ただ、こう記します:
「彼は主の目にかなうことを行い、父祖ダビデの道に歩み、右にも左にもそれなかった」(34:2)
「右にも左にもそれなかった」—これは申命記5:32の言葉で、完全な従順を意味します。
段階的な改革
ヨシヤの改革は、段階的に進みました:
- 治世第8年(16歳):父祖ダビデの神を求め始める(34:3)
- 治世第12年(20歳):偶像を除き始める(34:3)
- 治世第18年(26歳):神殿修理と律法の書の発見(34:8)
注目したいのは、律法の書が発見される前から、ヨシヤは主を求めていたことです。16歳の時点で、彼は既に主に心を向けていました。
失われていた律法の書
34:14で、大祭司ヒルキヤは「モーセを通して示された主の律法の書」を見つけます。
これはおそらく申命記、あるいはモーセ五書の一部でした。長年、神殿の中で失われていた—いや、意図的に隠されていた可能性もあります。マナセの55年間の偶像礼拝の時代に。
書記シャファンが王の前でそれを朗読すると(34:18)、ヨシヤは衣を引き裂きました(34:19)。
なぜか?彼は律法を聞いて、イスラエルがどれほど神の基準から離れているかを理解したからです。
女預言者フルダの預言
ヨシヤは使者を遣わして、女預言者フルダに主のみこころを尋ねさせました(34:22)。
フルダの預言には、二つの面がありました:
(1)イスラエルへの裁き(34:24-25):
「見よ。わたしはこの場所とその住民の上にわざわいをもたらす…わたしの憤りはこの場所に注がれ、消えることはない」
主の怒りは「消えることはない」(לֹא תִכְבֶּה ロー・ティクベー)—強い否定形です。第一部で見た「離れることはない」(לֹא־יָמִישׁ)と同じ構造です。
罪の刈り取りは、もはや避けられませんでした。
(2)ヨシヤへの恵み(34:27-28):
「あなたは心を痛めて神の前にへりくだり…わたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる…あなたは平安のうちに自分の墓に集められる。あなたは自分の目で、わたしがこの場所とその住民にもたらす、すべてのわざわいを見ることはない」
主の怒りは消えないが、ヨシヤ個人には平安が約束されました。
サムエル以来の過越し
ヨシヤは治世第18年、驚くべき規模の過越しを執り行いました(35:1-19):
- 羊とやぎ:38,600匹(王3万、高官2,600、レビ人の長5千)
- 牛:3,800頭
聖書は記します:
「預言者サムエルの時代以来、イスラエルでこのような過越しのいけにえが献げられたことはなかった」(35:18)
悔い改めと過越しの関係
ここで興味深い点があります。聖書の中で大規模な過越しが記録される時、それは常に悔い改めと改革の後です:
- ヒゼキヤの過越し(歴代誌30章):偶像礼拝からの悔い改め
- ヨシヤの過越し(歴代誌35章):律法の再発見と悔い改め
- バビロン捕囚後の過越し(エズラ6章):神殿再建と民の聖別
過越しは単なる年中行事ではありません。それはエジプトからの救出を再体験する行為—神の贖いを思い起こし、新たに献身する時です。
真の悔い改めは、必ずキリストの十字架(過越しの小羊の完全な成就)を見上げることに繋がります。
神の箱の帰還
35:3で、ヨシヤはレビ人に言います:
「聖なる箱を、イスラエルの王ダビデの子ソロモンが建てた宮に据えなさい。もはやあなたがたはそれを肩に担ぐことはない」
これは驚くべき発言です。神の箱は、ソロモンが至聖所に安置して以来(I列王8:6)、そこにあるはずでした。
なぜレビ人が「担いでいた」のか?
おそらく、マナセの治世(55年間)に、神の箱は神殿から移動させられていたのです。偶像礼拝の王たちが、至聖所を汚したか、あるいは敬虔な祭司たちが箱を守るために隠したか。
ヨシヤは箱を元の場所に戻し、レビ人に言います:「もう担ぐ必要はない。神殿で仕えなさい」
これは単なる物理的な移動ではありません。神の臨在が本来あるべき場所に戻る—それが真の改革です。
メギドでの悲劇—「変装」の謎
すべてが順調に見えました。ヨシヤは主に従い、改革を成し遂げ、過越しを祝った。
しかし、35:20以降、物語は急転します。
エジプトの王ネコが、ユーフラテス河畔のカルケミシュで戦うために北上してきました。ヨシヤは彼を迎え撃つために出陣します。
ネコは使者を送って言いました(35:21):
「ユダの王よ、私とあなたと何の関係があるのか。今日は、あなたを攻めに来たのではない。私が戦っている王家に向かって行くところなのだ。神は、早く行くように命じておられる。私とともにおられる神に逆らうことはやめよ。さもなければ、神があなたを滅ぼされる」
「神の御口から出た」言葉
ここで、聖書は非常に重要な証言をします(35:22):
「しかし、ヨシヤは身を引かず、かえって彼と戦おうとして変装し、神の御口から出たネコのことばを聞かなかった」
ヘブライ語は明確です:מִפִּי אֱלֹהִים(ミッピー・エローヒーム)—「神の口から」
歴代誌の著者は、ネコの言葉が本当に神からだったと証言しているのです。
なぜヨシヤは聞かなかったのか?
これは深い謎です。ヨシヤほど主に忠実だった王が、なぜ神の声を聞き損なったのか?
いくつかの可能性があります:
(1)信仰的先入観
ヨシヤの目には、エジプトは:
- イスラエルを奴隷にした国(出エジプト記)
- 預言者たちが警告してきた「南に助けを求めるな」の対象(イザヤ30:2-3、31:1)
- 信頼できない同盟国
だから「エジプトの王が『神が命じた』と言っても、それは策略に違いない」と判断したのかもしれません。
(2)信仰的熱心さゆえの盲点
ヨシヤは18年間、改革に全力を注ぎました:
- 偶像を徹底的に破壊
- 律法の書を再発見し、従順に従った
- サムエル以来の最大の過越しを実施
この「主のために戦う」姿勢が、「エジプトをカナンの地に通過させてはならない」という使命感に繋がったのかもしれません。
(3)「変装」が示すもの
最も心を打つのは、ヨシヤが変装したという事実です。
これは:
- アハブがラモテ・ギルアデで変装したのと同じパターン(歴代誌18:29)
- 不安や恐れがあった証拠
もし本当に「神が共におられる」という確信があったなら、変装する必要はなかったはずです。
「良い人」の失敗
ここに、深い教訓があります。
ヨシヤの失敗は、悪意からではありませんでした。それは熱心さゆえの盲点から来ました。
私たちも同じ危険があります:
- 聖書をよく学んでいるからこそ、「神はこう語られるはず」という枠を作る
- 信仰的に正しいと思う立場を取っているからこそ、異なる声を「悪からのもの」と決めつける
- 主のために戦っているという自負があるからこそ、「これは主の戦いだ」と確信してしまう
しかし、聖書は繰り返し示します。神は時に、予想外の方法で語られる:
- バラムのろばを通して(民数記22章)
- 異教の王ネブカデネザルを「わたしのしもべ」と呼び(エレミヤ25:9)
- ペルシャの王キュロスを「わたしの牧者」と呼ばれる(イザヤ44:28)
そして今、エジプトの王ネコを通して。
預言の成就という側面
もう一つの視点があります。これは単なる悲劇ではなく、預言の成就でもありました。
女預言者フルダは言いました(34:28):
「あなたは平安のうちに自分の墓に集められる。あなたは自分の目で、わたしがこの場所とその住民にもたらす、すべてのわざわいを見ることはない」
ヨシヤが戦死することで:
- 彼は「平安のうちに」召される—バビロン捕囚の苦しみを見ることなく
- 同時に、神の裁きへの道が開かれる
メギドでの戦いの後、ユダは急速にバビロンの支配下に入っていきます。ヨシヤの死は、時代の転換点でした。
エレミヤの哀歌
「エレミヤはヨシヤのために哀歌を作った。男女の歌い手は、ヨシヤのことをその哀歌で語り伝えるようになり、今日に至っている。これはイスラエルの慣例となり、まさしく哀歌に記されている」(35:25)
この「哀歌」は、エレミヤ書には直接的な記述がありません。しかし、旧約聖書の第三部門(ケトゥビーム/諸書)に「哀歌」(אֵיכָה エーカー)という独立した書があります。
伝統的にはエレミヤの作とされていますが、現代学者は主にエルサレム陥落についての哀歌と見ます。ただし、35:25の「哀歌に記されている」という表現から、失われた哀歌集があった可能性もあります。
いずれにせよ、ヨシヤの死は民に深く悼まれました。最も主に忠実だった王の、あまりに早い死でした。
第二部から学ぶこと
ヨシヤの物語は、私たちに問いかけます:
どんなに主に忠実でも、私たちには盲点がある。
だからこそ、謙遜に「聞く」姿勢が必要です。
ヨシヤは「聞かなかった」(לֹא־שָׁמַע ロー・シャマー)。
私たちは毎日、「主よ、お話しください。しもべは聞いております」(Iサムエル3:9-10)と祈る必要があります。
「聞く」—שָׁמַע(シャマー)。これこそ、信仰の核心です。
第三部:新約—主イエスの妥協なき真実
食事の招待と驚き
パリサイ人が主イエスを食事に招きました(11:37)。これは好意的な行為に見えます。しかし、すぐに緊張が生まれます。
「そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て驚いた」(11:38)
ヘブライ語:θαυμάζω(タウマゾー)—「驚く、不思議に思う」という動詞です。
パリサイ人にとって、食事の前の儀式的な手洗いは当然のことでした。これはモーセの律法ではなく、「長老たちの言い伝え」(マルコ7:3)—口伝律法でした。
しかし主イエスは、あえてそれをされませんでした。なぜか?
外側と内側
主イエスの答えは、直接的で容赦ないものでした:
「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や皿の外側はきよめるが、その内側は強欲と邪悪で満ちています」(11:39)
ギリシャ語では明確な対比があります:
- ἔξωθεν(エクソーテン)—外側
- ἔσωθεν(エソーテン)—内側
そして主は続けます:
「愚かな者たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか」(11:40)
これは深い神学的真理です。神は人間を、外見だけでなく心も含めて創造されました。だから、外側だけをきよめて内側を放置することは、創造主を侮る行為なのです。
「内にあるものを施しに用いなさい」
11:41の言葉は、やや難解です:
「とにかく、内にあるものを施しに用いなさい。そうすれば、見よ、あなたがたにとって、すべてがきよいものとなります」
ギリシャ語:τὰ ἐνόντα δότε ἐλεημοσύνην(タ・エノンタ・ドテ・エレーモシュネーン)—「内にあるものを施しとして与えなさい」
これは何を意味するのか?
おそらく、心の中にあるもの—憐れみ、愛、正義—それを実際の行動として表しなさいという意味です。外側の儀式ではなく、内側の変革が必要なのです。
六つの「わざわいだ」
主イエスは、六回「わざわいだ」(οὐαί ウーアイ)を宣言されます。
これはヘブライ語のהוֹי(ホーイ)に対応する言葉で、預言者たちが使った嘆きと警告の叫びです(イザヤ5:8, 11, 18, 20, 21, 22など)。
第一のわざわい—優先順位の逆転(11:42)
「わざわいだ、パリサイ人。おまえたちはミント、うん香、あらゆる野菜の十分の一を納めているが、正義と神への愛をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ」
パリサイ人は、庭のハーブに至るまで十分の一を計算していました。これ自体は悪いことではありません。
しかし、彼らは重要なことを見失っていた:
- 正義(κρίσις クリシス)—公正な裁き、社会的正義
- 神への愛(ἀγάπη τοῦ θεοῦ アガペー・トゥー・テウー)
ミカ6:8が要約します:
「主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか」
第二のわざわい—名誉欲(11:43)
「わざわいだ、パリサイ人。おまえたちは会堂の上席や、広場であいさつされることが好きだ」
- πρωτοκαθεδρία(プロートカテドリア)—第一の席
- ἀσπασμός(アスパスモス)—挨拶、敬礼
彼らは人からの栄誉を求めていました。しかし主イエスは後に言われます:
「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたが、どうして信じることができるでしょうか」(ヨハネ5:44)
第三のわざわい—隠れた汚れ(11:44)
「わざわいだ。おまえたちは人目につかない墓のようで、人々は、その上を歩いても気がつかない」
当時、墓は白く塗られて、人々が誤って触れて汚れないようにされていました(マタイ23:27参照)。
しかし「人目につかない墓」は、見えないまま人を汚します。
パリサイ人は外見上は敬虔に見えますが、実際には周囲を霊的に汚染しているのです。
第四のわざわい—重荷を負わせる(11:46)
律法の専門家が反論すると(11:45)、主イエスは彼らにも向けられます:
「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本触れようとはしない」
これは偽善の本質です:
- 他人には厳しい基準を課す
- 自分はその基準に従わない
主イエスは対照的に言われました:
「疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます…わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いのです」(マタイ11:28-30)
第五・第六のわざわい—預言者たちの拒絶(11:47-52)
「わざわいだ。おまえたちは預言者たちの墓を建てているが、彼らを殺したのは、おまえたちの先祖だ」(11:47)
これは鋭い指摘です。彼らは:
- 過去の預言者たちを記念する
- しかし現在の預言者(主イエス)を拒絶する
11:50-51で、主は「アベルの血から…ザカリヤの血に至るまで」と言われます。
- アベル:最初の殉教者(創世記4章)
- ザカリヤ:「祭壇と神の家の間で殺された」—おそらく歴代誌24:20-22のゼカリヤ(ヘブライ語聖書では歴代誌が最後の書)
つまり、聖書全体を通じた預言者殺しを、この世代が背負うことになる、という警告です。
そして最後(11:52):
「わざわいだ、律法の専門家たち。おまえたちは知識の鍵を取り上げて、自分は入らず、入ろうとする人々を妨げたのだ」
「知識の鍵」—これは神の真理への鍵です。彼らは:
- 聖書を研究している
- しかし自分自身は神の国に入らない
- さらに、他の人々も入れないように妨害する
ヨシヤとの対比—変装 vs 真実
ここで、第二部のヨシヤと対比させると、深い洞察が得られます。
| ヨシヤ | パリサイ人 | |
| 動機 | 良い(主への熱心) | 悪い(人からの栄誉) |
| 外見 | 変装した | 外面を飾った |
| 結果 | 神の声を聞き損なった | 神の声(主イエス)を拒絶した |
ヨシヤは良い動機で変装し、失敗しました。 パリサイ人は悪い動機で外面を飾り、裁かれました。
しかし主イエスは:
- 変装せず、真実を語られた
- それゆえに、十字架への道を歩まれた
主が妥協されなかった理由
ここで重要な問いがあります。主イエスは「敵を愛せよ」「右の頬を打たれたら左の頬も向けなさい」と教えられました(ルカ6:27-29)。
それなのに、なぜここでは妥協せず、むしろ対決を深められたのか?
答えは:真理のためです。
パリサイ人との「友好関係」を維持することよりも、人々を偽善から解放することの方が重要でした。
11:53-54は記します:
「イエスがそこを出て行かれると、律法学者たち、パリサイ人たちはイエスに対して激しい敵意を抱き、多くのことについてしつこく質問攻めを始めた。彼らは、イエスの口から出ることに、言いがかりをつけようと狙っていた」
主イエスは、この敵対がどこに向かうかをご存じでした。しかし、真実を曲げられませんでした。
「聞く」か「拒む」か
第一部で、雲の柱は「離れることがなかった」と学びました。 第二部で、ヨシヤは「聞かなかった」と学びました。
ここで、パリサイ人は意図的に拒絶しているのです。
ヨシヤは良い動機で聞き損ないましたが、パリサイ人は悪い動機で聞くことを拒みました。
そして主イエスは、彼らが「聞く」機会を最後まで与え続けられました—たとえそれが、ご自身の十字架に繋がるとしても。
第四部:全体の一貫性—神の臨在と「聞く」心
三つの箇所を貫く糸
今日の三つの箇所は、一見バラバラに見えるかもしれません:
- 出エジプトの荒野の旅
- ヨシヤの改革と悲劇的な死
- 主イエスとパリサイ人の対決
しかし、これらを貫く一本の糸があります。それは**「聞く」(שָׁמַע シャマー)**という主題です。
神の臨在は離れない—しかし
第一部で見たように、雲の柱と火の柱は「離れることがなかった」(לֹא־יָמִישׁ)のです(出エジプト13:22)。
神の臨在は:
- イスラエルの信仰に依存していなかった
- 彼らの行いによって左右されなかった
- 神の約束に基づいていた
しかし、臨在が「そこにある」ことと、私たちがそれを「認識する」ことは別です。紅海の前で民は恐れ、荒野で不平を言いました—雲の柱が目の前にあっても。
ヨシヤは聞かなかった
第二部で見たように、ヨシヤは「神の御口から出たネコのことばを聞かなかった」(לֹא־שָׁמַע)のです(歴代誌35:22)。
なぜ最も主に忠実だった王が、神の声を聞き損なったのか?
おそらく:
- 「神はこう語られるはず」という先入観
- 「これは主の戦いだ」という確信
- エジプトの王を通して神が語られるとは思わなかった
ヨシヤの失敗は、悪意からではありませんでした。それは熱心さゆえの盲点でした。
パリサイ人は拒絶した
第三部で見たように、パリサイ人は主イエスの言葉を聞いても、意図的に拒絶しました(ルカ11:53-54)。
彼らは:
- 預言者たちの墓を建てながら、現在の預言者を拒む
- 知識の鍵を持ちながら、自分も入らず、他人も入れさせない
- 外側をきよめながら、内側を強欲で満たす
ヨシヤが「聞き損なった」のに対し、パリサイ人は「聞くことを拒んだ」のです。
「シャマー」の深い意味
ヘブライ語のשָׁמַע(シャマー)は、単に「音を聞く」以上の意味があります。それは:
- 聞く—耳で音を受け取る
- 理解する—意味を把握する
- 従う—聞いたことに応答する
申命記6:4、「シェマー・イスラエル」(聞け、イスラエルよ)は、ユダヤ教の最も重要な宣言です:
「聞け(שְׁמַע)、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である」
これは単なる情報伝達ではありません。それは全存在をもって聞き、応答せよという呼びかけです。
三つの段階—臨在、聞き損ない、拒絶
今日の箇所は、信仰における三つの段階を示しているとも言えます:
第一段階:神の臨在(出エジプト)
神の臨在は、私たちの状態に関わらず「離れることがない」。
これは福音の土台です。私たちが主を愛する前に、主が私たちを愛されました(Iヨハネ4:19)。私たちが忠実になる前に、主は忠実でおられます(IIテモテ2:13)。
主イエスは約束されました:
「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(ヘブル13:5)
しかし、臨在が保証されているからといって、私たちが「聞く」努力をしなくて良いわけではありません。
第二段階:聞き損ない(ヨシヤ)
ヨシヤの例は、誠実な信仰者でも間違えることを示します。
彼の失敗から学べること:
- 謙遜さの必要性—「私は絶対に正しい」という態度は危険
- 柔軟性の必要性—神は予想外の方法で語られる
- 識別力の必要性—熱心さだけでは不十分
Iサムエル3:9-10のサムエルの祈りは、今も有効です:
「主よ、お話しください。しもべは聞いております」
第三段階:意図的な拒絶(パリサイ人)
パリサイ人の例は、宗教的知識が心の硬さと共存できることを示します。
彼らは:
- 聖書を暗記していた
- 律法を細部まで守っていた
- しかし心は閉ざされていた
これは最も危険な状態です。なぜなら、自分が聞いていると思い込んでいるからです。
外側と内側—改革の本質
今日の三つの箇所すべてに、外側と内側の対比があります:
出エジプト:
- 外側—雲の柱と火の柱(見える臨在)
- 内側—民の心の状態(恐れと不信仰)
ヨシヤ:
- 外側—徹底的な改革、最大の過越し
- 内側—変装(不安?確信の欠如?)
パリサイ人:
- 外側—杯と皿のきよめ、十分の一、会堂の上席
- 内側—強欲と邪悪、正義と愛の欠如
主イエスが求められたのは、外側と内側の一致です(ルカ11:41):
「内にあるものを施しに用いなさい。そうすれば、見よ、あなたがたにとって、すべてがきよいものとなります」
真のきよさは、内側から外側へ流れ出るものです。
悔い改めと過越し—キリストの十字架へ
ヨシヤの改革の中心に、過越しがありました(歴代誌35章)。
過越しは、エジプトからの救出を記念する祭りです。しかしそれは同時に、来るべき贖いの予型でもありました。
過越しの小羊は、キリストの十字架を指し示していました:
「私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです」(Iコリント5:7)
真の悔い改めは、必ず十字架を見上げることに繋がります:
- 自分の罪を認める
- キリストの血による贖いを受け入れる
- 新しい生き方へと歩み出す
ヨシヤが「サムエル以来」の過越しを行ったように、私たちも繰り返し十字架に立ち返る必要があります。
主イエスの妥協なき真実
主イエスがパリサイ人に妥協されなかったのは、真理のためでした。
ヨシヤは良い動機で変装し、失敗しました。 パリサイ人は悪い動機で外面を飾り、裁かれました。
しかし主イエスは:
- 変装せず
- 外面を飾らず
- 真実を語り続けられた
それがどこに向かうか、主はご存じでした。パリサイ人たちは「激しい敵意を抱き」(ルカ11:53)、やがて主を十字架につけます。
しかし主は、真実を曲げられませんでした。なぜなら、真理こそが人を自由にするからです(ヨハネ8:32)。
「聞く耳のある者は聞きなさい」
主イエスは繰り返し言われました:
「聞く耳のある者は聞きなさい」(マタイ11:15、13:9、13:43など)
これは命令であると同時に、招きでもあります。
神の臨在は「離れることがない」—それは確かです。 しかし、その臨在の中で「聞く」かどうかは、私たちの選択です。
三つの問い
今日の箇所は、私たちに三つの問いを投げかけます:
(1)あなたは神の臨在を信じていますか?
- 雲の柱は離れませんでした
- 主イエスは「世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と約束されました
- 聖霊はあなたのうちに住んでおられます
(2)あなたは謙遜に「聞いて」いますか?
- ヨシヤのように、先入観で神の声を聞き損なっていませんか?
- 「神はこう語られるはず」という枠を作っていませんか?
- 予想外の方法で語られる神に、心を開いていますか?
(3)あなたは外側と内側が一致していますか?
- パリサイ人のように、外面だけを整えていませんか?
- 宗教的な活動をしながら、心は別の場所にありませんか?
- 内にある憐れみと正義を、実際の行動として表していますか?
恵みの招き
最後に、希望の言葉を語りたいと思います。
ヨシヤは聞き損ないましたが、神は彼を愛し続けられました。「平安のうちに」召されたのです。
パリサイ人は拒絶しましたが、主イエスは最後まで真理を語り続け、招き続けられました。
そして出エジプトの民は、恐れ、つぶやき、反逆しましたが—雲の柱は離れませんでした。
これが福音です。
神の愛は、私たちの失敗を超えています。
詩篇103:13-14が歌います:
「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。主は、私たちの成り立ちを知り、私たちが土のちりにすぎないことを心に留めておられる」
私たちは失敗します。聞き損ないます。時に拒絶さえします。
しかし、主の臨在は「離れることがない」(לֹא־יָמִישׁ)のです。
だからこそ、私たちは毎朝、新しく祈ることができます:
「主よ、お話しください。しもべは聞いております」
そして主は、今日も語っておられます。

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