異教の母から生まれても、あなたが家系の転換点になれる
はじめに
日本人クリスチャンの多くは「第一世代」です。両親も祖父母も仏教や神道という環境で、自分だけが信仰を持ったという方が少なくありません。
「うちの家系には信仰の土台がない」 「親が理解してくれない」 「先祖代々の宗教を裏切るようで…」
そんな葛藤を抱えている方に、今日の聖書箇所は力強い希望を語っています。
創世記38章、列王記第一14-15章、マルコ6章。一見バラバラに見えるこれらの箇所に、「母の影響力」という共通のテーマが流れています。そして同時に、「たとえ親が異教徒でも、あなたの信仰の決断が系図を変える」という希望のメッセージも。
目次
1. シュアの娘とタマル — 名前のない母、名前を残す嫁(創世記38章)
創世記38章で、ユダはカナン人の女性と結婚します。
「そこでユダは、あるカナン人で、その名をシュアという人の娘を見そめ、彼女をめとって彼女のところに入った」(38:2)
興味深いことに、この女性には名前が記されていません。ただ「シュアの娘」(ヘブライ語:バト・シュア)とだけ。三人の息子を産んだ正妻なのに、聖書は彼女の名前を記録しませんでした。
ユダの霊的な落ち込み
ユダは兄弟たちから離れ、カナン人の中に住み、カナン人の娘と結婚しました。これは彼の霊的な状態を象徴しています。
その霊的落ち込みの極みが、タマルとの出来事です。ユダは遊女と思った女性に、自分の**印形(ホタム)、ひも(ペティール)、杖(マテー)**を渡してしまいます。
これらは単なる持ち物ではありません。
- 印形 — 法的文書の認証に使う個人の署名。現代で言えば実印やマイナンバーカードのようなもの
- ひも — 印章を首にかける紐。印章とセットで個人を特定する
- 杖 — 家長の権威、部族の長であることを示す象徴
つまりユダは、自分のすべてのアイデンティティと権威を証明するものを、欲望に目がくらんで手放してしまったのです。
しかし神の逆転が起こる
驚くべきことに、この出来事から生まれたペレツは、やがてダビデ王の先祖となり、メシアであるイエス・キリストの系図に連なります(マタイ1:3)。
名前のない正妻「シュアの娘」ではなく、「遊女のふり」をした嫁タマルが系図に名を刻まれる。神様の評価基準は、社会的地位や血筋ではなく、信仰と義への渇望なのです。
2. 王母マアカとアサ王 — 母の偶像を退けた王(列王記第一14-15章)
列王記を読んでいると、王の記録には必ずと言っていいほど「彼の母の名は○○」と記されていることに気づきます。
- 「彼の母の名はナアマといい、アモン人であった」(14:21)
- 「彼の母の名はマアカといい、アブシャロムの娘であった」(15:2)
なぜこれほど母の名を強調するのでしょうか。それは、王の霊的方向性に、母が決定的な影響を与えていたからです。
アサ王の勇気ある決断
特に注目すべきは、アサ王の決断です。
「彼はまた、彼の母マアカがアシェラのために憎むべき像を造ったので、彼女を王母の位から退けた。アサはその憎むべき像を切り倒し、これをキデロン川で焼いた」(15:13)
古代において、王母を退けることは非常に大きな決断でした。母への敬意や周囲の反発を考えれば、どれほど勇気が必要だったことでしょう。
しかしアサは、母への情より神への忠誠を優先しました。
その結果、聖書はアサについてこう記録しています。
「アサは父ダビデのように、主の目にかなうことを行った」(15:11) 「アサの心は一生涯、主と全く一つになっていた」(15:14)
親の信仰を受け継ぐこともできる。親の不信仰を断ち切ることもできる。 どちらも私たちの選択であり、どちらも恵みによって可能なのです。
預言者アヒヤ — 肉体の目と霊の目
この時代の預言者アヒヤについて、興味深い記述があります。
「アヒヤは年をとって目がこわばり、見ることができなかった。しかし、主はアヒヤに言われた。『今、ヤロブアムの妻が子どものことで、あなたに尋ねるために来ている。その子が病気だからだ…入って来るときには、彼女は、ほかの女のようなふりをしている』」(14:4-5)
驚くべき詳細さです。肉体の目は見えなくなっていたのに、霊的には誰よりもはっきりと見えていた。肉体の目と霊の目の逆転です。
この時代の預言者は「見る者」(ヘブライ語:ローエー)と呼ばれていました(サムエル記第一9:9)。聖霊がすべての信者に与えられる前の時代、神は特定の預言者に集中的に語られたのです。また、ヤロブアムの罪は非常に深刻だったため、神は詳細な裁きの言葉を送る必要がありました。
変装しても神の目はごまかせない。これは私たちへの厳粛な警告であると同時に、「神は私たちのすべてをご存知の上で愛してくださる」という慰めでもあります。
3. ヘロデヤと娘 — 操る母の影響力(マルコ6章)
マルコ6章では、バプテスマのヨハネの殉教が記録されています。
ヘロデ王は、ヨハネを「正しい聖なる人と知って、彼を恐れ、保護を加えていた」(6:20)。当惑しながらも「喜んで耳を傾けていた」のです。
つまり、ヘロデには良心がありました。しかし、妻ヘロデヤの影響力が、その良心を押しつぶしました。
「そこで少女は出て行って、『何を願いましょうか』とその母親に言った。すると母親は、『バプテスマのヨハネの首』と言った」(6:24)
母の言葉が、一人の預言者の命を奪いました。
4. 信仰は恵みを受け取る「器」
マルコ6章には、もう一つ重要な教えがあります。
「それで、そこでは何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた」(6:5-6)
イエス様が「できなかった」というのは、力の限界ではありません。神様のみわざが現れるためには、信仰の協力が必要だったのです。
信仰は、恵みを受け取る「器」のような役割を果たします。神様は人間の自由意志を尊重されます。信仰という器を差し出す時、そこに恵みが注がれる。故郷の人々は、その器を差し出さなかったのです。
神の子でさえ、人間の不信仰には「驚かれた」。私たちの信仰(または不信仰)は、神様にとってそれほど重要なのです。
5. 霊的戦いは二人で — 弟子たちの派遣から
イエス様は弟子たちを「ふたりずつ」遣わされました(マルコ6:7)。これには聖書的な根拠があります。
- 「一人の証人だけでは…二人または三人の証人によって」(申命記19:15)
- 「ふたりはひとりよりもまさっている…倒れれば、助け起こしてくれる」(伝道者の書4:9-10)
- 「ふたりが心を一つにして祈るなら…」(マタイ18:19-20)
霊的な働き、特に霊的戦いにおいては、一人で戦わないことが大切です。相互の励まし、証言の確かさ、一人が語り一人が祈るという役割分担。霊的権威は共同体の中で強められます。
「足の裏のちりを払い落としなさい」の意味
「もし、あなたがたを受け入れない場所…そこから出て行くときに、そこの人々に対する証言として、足の裏のちりを払い落としなさい」(6:11)
これは単なる清めの行為ではありません。ユダヤ人が異邦人の地から帰る時に足の塵を払う習慣がありました。つまり、福音を拒絶した者は「異邦人」のように扱われるという厳粛な警告のしるしだったのです。
同時に、拒絶された弟子たちにとっては、心機一転して次に向かうためのジェスチャーでもありました。拒絶の痛みを引きずらない。心を清めて、次の町へ。
創世記3:14で、蛇は「腹ばいで歩き、ちりを食べる」と宣告されました。足についた塵を払い落とすことは、その傷から生まれる苦々しさを、霊的な敵に餌として与えないことにもつながるかもしれません。
まとめ — あなたが家系の転換点になれる
今日の箇所から見えてくる三つのパターン:
| 箇所 | 母 | 結果 |
| 創世記38章 | シュアの娘(カナン人) | 名前は残らず。しかし嫁タマルが系図に |
| 列王記15章 | マアカ(偶像崇拝者) | 息子アサが母を退け、主に従う |
| マルコ6章 | ヘロデヤ | 娘を通して預言者を殺す |
母の影響力は大きい。しかし、最終的な選択は私たち自身にあります。
テモテの信仰は「まず祖母ロイスと母ユニケ」に宿っていました(Ⅱテモテ1:5)。信仰の継承は素晴らしいことです。
しかしアサ王のように、たとえ母が間違った道にいても、自分は神に従う決断ができるのです。
日本人クリスチャンの多くは「第一世代」です。それは弱さではありません。あなたが、家系における信仰の転換点として神様に選ばれたということです。
あなたの信仰の決断が、子や孫の世代への祝福の土台となります。
今日の祈り
「主よ、たとえ私の家系に信仰の土台がなくても、あなたは私を選び、呼び出してくださいました。私がこの家系における信仰の第一世代として、次世代への祝福の器となることができますように。信仰という器を差し出します。あなたの恵みを注いでください。イエス様のお名前によって祈ります。アーメン」
📖 聖書に見る「母の影響力」パターン
※名前の記録なし
嫁タマルが系図に刻まれる
アシェラ像を造った偶像崇拝者
主の目にかなう王となる
ヨハネを恨み、殺したいと思っていた
バプテスマのヨハネを殺害
しかし、最終的な選択は私たち自身にある。
あなたが家系の転換点になれる。
🏺 信仰は恵みを受け取る「器」
イエス様を「大工の息子」としか見なかった
行うことができず」(マルコ6:5)
信仰の協力が必要
(マルコ5:34)
恵み
の器
わざ
神様は人間の自由意志を尊重される。
信仰という器を差し出す時、そこに恵みが注がれる。
私たちが信仰の器を開いて差し出しているかどうか。
「主よ、私は信じます。信仰のないところを助けてください」(マルコ9:24)

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