2025年12月7日 デボーション|創世記32章22-32節、第二サムエル22-23章、マルコ1章21-45節
目次
はじめに
今日の通読箇所は、創世記のヤコブ、サムエル記のダビデ、マルコの福音書のイエス様と、時代も人物も異なる三つの箇所です。
しかし読み進めるうちに、一つのテーマが浮かび上がってきました。
「砕かれた者が用いられる」
神様は、自分の力で立とうとする者のももを打ち、罪を犯した者をなお用い、栄光ではなく十字架へ向かう道を歩まれました。
この逆説的な神様の御業を、今日の箇所から味わっていきましょう。
今日の箇所の通読用参考図解はこちらから
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1. 創世記32:22-32|ヤコブの格闘
「あの人」と「神」——なぜ両方の表現があるのか
この箇所を読んで、一つの疑問が浮かびました。
28節では神ご自身が「あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ」と宣言しています。ところが32節では「あの人がヤコブのもものつがい、腰の筋肉を打ったからである」と、まだ「人」という表現が使われています。
神だと分かったのに、なぜ「あの人」なのでしょうか。
ヘブライ語原文を見ると、32節の「あの人」は הָאִישׁ(ハーイーシュ)で、冠詞付きの「その人」です。これは叙述者(モーセ)の視点から、読者に向かって「あの格闘した人物」を指し示しています。
一方、28節で神ご自身が אֱלֹהִים(エロヒーム=神)と宣言している部分は、神の視点からの啓示です。
この「人」と「神」の二重性は、受肉前のキリスト(神学用語でTheophanyまたはChristophany) を示唆しているという解釈が、古くから支持されてきました。ホセア12:3-5では、この出来事を振り返って「御使い」とも呼んでいます。
神でありながら人の姿をとって現れる——これは、後にベツレヘムで完全な形で実現する受肉の予型とも言えるのです。
「神と戦って勝った」とはどういう意味か
「あなたは神と戦い、人と戦って、勝った」(28節)
この「勝った」という言葉も不思議です。なぜなら、ヤコブは格闘の最中にももを打たれて負傷しているからです(25節)。体力的には明らかに負けています。
ヘブライ語で「戦った」と訳されている動詞は שָׂרָה(サーラー)で、「格闘する、奮闘する」の意味です。この動詞から「イスラエル」(יִשְׂרָאֵל)という名前が生まれました。
では、どういう意味で「勝った」のでしょうか。
26節を見てください。神が「わたしを去らせよ」と言ったとき、ヤコブはこう答えました。
「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
ヤコブは、ももを打たれ、足が外れ、もう自分の力では立てない状態になっても、神を離さなかった。これが「勝利」でした。
力で勝ったのではありません。しがみつき続けることで勝ったのです。
掴む者ヤコブから、しがみつく者イスラエルへ
ヤコブという名前の意味は「踵を掴む者」です(創世記25:26)。彼は生まれた時から兄エサウの踵を掴んでいました。
その後の人生も「掴む」ことの連続でした。長子の権利を掴み、父の祝福を策略で掴み、ラバンのもとで富を掴んだ。すべて自分の手で獲得してきた人生です。
ペヌエルの夜、神はそのヤコブのももを打ちました。
ももの付け根(股関節)は、人が自分の足で立ち、自分の力で歩くための要です。神はヤコブの「自分で立つ力」を打ち砕いたのです。
しかし、砕かれた後のヤコブは変わりました。以前は策略で祝福を奪っていた。この夜、彼はしがみついて、求めて祝福を受けた。
掴む者ヤコブから、しがみつく者イスラエルへ。
これが神との格闘の結果でした。
私たちへの適用
この箇所を読んで、深く共感することがあります。
私たちは自分の力で自我に勝てません。知らずに持っているプライドを、自分で砕くことはできません。
でも神様は、さまざまな出来事を通して、私たちのももを打ってくださいます。自分の力で立とうとする自我を砕き、謙遜にさせてくださいます。
自分が持っていると思っていた清さも、正直さも、誠実さも、神の前では偽物だった。本当の姿は小さくて、汚れていて、貧しくて、価値のないものだった——そう本当の意味で悟るには、神の力に頼るほかありません。
でも、そう悟った者こそが、「私を祝福してください」と神にしがみつくことができるのです。
2. 第二サムエル22-23章|ダビデの賛歌と勇士たち
22:51「ダビデとそのすえ」——ダビデ契約とメシア預言
第二サムエル22章は、ダビデの壮大な賛歌です。その最後の節にこう記されています。
「主は、王に救いを増し加え、油そそがれた者、ダビデとそのすえに、とこしえに恵みを施されます。」(22:51)
「そのすえ」と訳されているヘブライ語は זַרְעוֹ(ザルオー)で、「子孫、末裔、種」を意味します。
この表現は、第二サムエル7章のダビデ契約を思い起こさせます。
「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」(第二サムエル7:12-13)
「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」(7:16)
「とこしえに」と訳されているのは לְעוֹלָם(レオーラーム)で、「永遠に、いつまでも」を意味します。
ダビデの肉体的な子孫による王朝は、歴史的には途絶えました。バビロン捕囚によってユダ王国は滅び、王座に座る者はいなくなりました。
しかし「とこしえ」の約束は嘘ではありません。この約束は、永遠の王であるメシアによってのみ成就するのです。
新約聖書は、この約束がイエス・キリストにおいて実現したことを証言しています。
「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」(マタイ1:1)
「神である主は彼にその父ダビデの王座をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」(ルカ1:32-33)
「わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」(黙示録22:16)
ダビデは自分の賛歌の中で、自分を超えた存在を預言していました。彼の「すえ」への恵みは、イエス・キリストを信じる私たちにも及んでいるのです。
23:14「要害」はどこか
23章には、ダビデの勇士たちの記録があります。その中で、三勇士がベツレヘムの井戸から水を汲んできた話が記されています(13-17節)。
「そのとき、ダビデは要害におり、ペリシテ人の先陣はそのとき、ベツレヘムにあった。」(23:14)
「要害」はヘブライ語で מְצוּדָה(メツダー)で、「要塞、砦」を意味します。
この時点では、ダビデはまだエルサレム(シオン)を征服する前だったと考えられます。文脈を見ると、13節に「アドラムのほら穴」が言及されており、ペリシテ人がベツレヘム近くに陣を敷いています。
したがって、この「要害」はアドラム近辺の岩の要害——サウルから逃れていた時代にダビデが身を隠していた場所の近く(第一サムエル22:1-4)と考えられます。
三勇士とベツレヘムの水——なぜダビデは飲まなかったのか
「ダビデはしきりに望んで言った。『だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ。』」(23:15)
この言葉を聞いて、三人の勇士はペリシテ人の陣営を突破し、命がけでベツレヘムの井戸から水を汲んできました。
ところがダビデは、その水を飲みませんでした。
「ダビデは、それを飲もうとはせず、それを注いで主にささげて、言った。『主よ。私がこれを飲むなど、絶対にできません。いのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。』」(23:16-17)
不思議な箇所です。渇いていたから望んだのに、なぜ飲まなかったのでしょうか。
ダビデは、三勇士が命をかけて汲んできた水を「血」に例えました。レビ記17:10-14によれば、血を飲むことは律法で禁じられています。ダビデにとって、この水はもはや単なる飲み水ではなく、部下たちの献身そのものでした。
だから彼は、自分の個人的な渇きを満たすためではなく、神への捧げ物として注ぎ出したのです。
ここにダビデの深い霊性が表れています。自分のわがままな願いのために部下の命が危険にさらされた——その反省もあったかもしれません。三勇士の忠誠心は神々しいほどですが、ダビデの応答もまた、神を畏れる者のそれでした。
37人の勇士リスト——名前だけの人々の価値
23章の勇士リストを読んで、最も心を打たれたのは、実は名前だけの人々です。
ヤショブアム、エルアザル、シャマ——この三人には輝かしい武勇伝が記されています。しかし23:24以降の「三十人」の多くは、名前と出身地だけ。何をしたかは書かれていません。
でも、彼らはそこにいたのです。
ダビデがサウルに追われて洞窟に隠れていた時、彼らはそこにいた。ペリシテ人と戦う時、彼らは剣を握っていた。記録に残る大活躍はなくても、王のそばで忠実に仕えた。
これは、多くのクリスチャンの姿ではないでしょうか。
派手な奇跡を起こすわけでもない。説教で何千人を救いに導くわけでもない。でも、日曜日ごとに礼拝に来る。祈り会で静かに祈る。トラクトを一枚配る。ブログを一つ書く。
神様はその一人一人の名前を覚えておられます。「三十七人」という数字の中に、一人一人がカウントされているのです。
異邦人の勇士たち——ウリヤの名前が語る沈黙の告発
37人のリストの中には、異邦人も含まれています。
名前出身聖書箇所ウリヤヘテ人23:39ツェレクアモン人23:37イグアルツォバの出(アラム系の可能性)23:36
異邦人でありながら、イスラエルの神に仕え、ダビデの精鋭部隊に加わった人々がいたのです。これは後のメシア王国の予型とも言えます。イエス・キリストのもとに、すべての国民が集まる——その先取りです。
そして、このリストの最後に記された名前がウリヤです。
ダビデの最も忠実な勇士の一人。異邦人でありながらイスラエルの神に仕えた人。契約の箱が戦場にある間、自分の家に帰ることさえ拒んだ敬虔な人。
その妻を奪い、その命を奪ったのが、ダビデ自身でした。
このリストは、ダビデの栄光の記録であると同時に、ダビデの罪の重さを静かに告発しています。聖書は英雄を美化しません。神の恵みと人間の罪を、両方正直に記録するのです。
3. マルコ1:21-45|イエスの宣教
権威ある教え、癒やし、悪霊の追放
マルコ1章は、イエス様の公生涯の始まりを描いています。
カペナウムの会堂で教えられると、人々は驚きました。「律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである」(22節)。
汚れた霊を追い出し(23-26節)、シモンのしゅうとめの熱病を癒やし(29-31節)、夕方になると町中の病人や悪霊につかれた人々が集まってきました(32-34節)。
イエス様の評判は、ガリラヤ全地に広まりました。
朝早くの祈りと使命への集中
しかし、この箇所で最も心に残るのは35-38節です。
「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(35節)
前日、イエス様は町中の病人を癒やし、悪霊を追い出されました。疲れ切っているはずです。それなのに、翌朝最初にしたことは祈りでした。
弟子たちが追いかけてきて言いました。「みんながあなたを捜しております」(37節)。
人気絶頂です。カペナウムに留まれば、さらに多くの人が集まってきたでしょう。しかしイエス様はこう答えられました。
「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」(38節)
イエス様は、人の期待より、父なる神から与えられた使命に従われました。
忙しい時こそ祈りの時間を守ること。人気や成功に流されず、本来の使命に集中すること。これは私たちへの模範です。
ツァラアトの人の信仰——「お心一つで」
40節以降には、ツァラアト(かつて「らい病」と訳された皮膚病)に冒された人がイエス様のもとに来た場面が記されています。
「お心一つで、私をきよくしていただけます。」(40節)
この告白は、ヤコブの「私を祝福してくださらなければ」と同じ信仰の姿勢です。
「お心一つで」——私には何の力もない。何の功績もない。ただあなたの恵みだけが頼りです。
イエス様は深くあわれみ、手を伸ばして彼に触れ、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われました(41節)。
ツァラアトの人に触れることは、律法的には汚れを受けることでした。しかしイエス様は、汚れを受けるどころか、触れることできよめを与えられたのです。
4. 三箇所をつなぐテーマ|砕かれた者が用いられる
今日の通読箇所を並べて読んで、一つのテーマが浮かびました。
「砕かれた者が用いられる」
- ヤコブは、ももを打たれて足を引きずりながらイスラエルとなった
- ダビデは、深刻な罪を犯した後も「主は生きておられる。ほむべきかな」と歌った
- イエス様は、群衆が押し寄せる中でも「寂しい所」で祈り、栄光ではなく十字架へ向かう道を歩まれた
ヤコブの足の傷は、彼が神と出会った証でした。 ダビデの詩篇は、赦された罪人の賛美でした。 イエス様の宣教は、最終的に十字架の死へと向かう道でした。
そしてツァラアトの人の「お心一つで」という告白は、ヤコブの「私を祝福してくださらなければ」と響き合っています。
自分には何もない。ただあなたの恵みだけが頼り——この告白こそが、神の前に立つ者の姿勢なのです。
おわりに
「本当の姿は小さくて、汚れていて、貧しくて、価値のないものだ」
そう悟ることは、絶望ではありません。むしろ、そう悟った者こそが、神の前に「私を祝福してください」と言えるのです。
神様は、名前だけしか記されない勇士たちの一人一人を覚えておられます。派手な活躍はなくても、忠実にそこにいた者たちを。
あなたの名前も、神様のリストに書き加えられています。
砕かれた者を、神様は用いてくださいます。
今日の通読箇所
- 創世記32:22-32
- 第二サムエル22-23章
- マルコ1:21-45
聖書初心者にもわかりやすくnoteの方で、この記事を紹介しています、よろしかったらどうぞ
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