通読箇所:出エジプト記25:10-22 ヨブ記10-11章 ルカ22:54-71
※この記事は、要点だけを抜き出して理解できる内容ではありません。モーセ五書・旧約・新約の連続した文脈の中でのみ読まれることを意図しています。
人はとっさに自分を取り繕う。しかし主イエスは、死が確定する状況の中でさえ、真実のまま静かに進まれた。何があっても私たちを贖うという揺るぎない意志を持ち続けながら。
真理の前に立つとき、人はどんな態度をとるのか。隣人の苦しみさえ神学的な正当性で片づけ、それを正しいと思い込む。しかし神は、血による贖いの場所から、何が真実かを語られる。
【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。
目次
第一部:トーラー(出エジプト記25:10-22)
神はそこで語られる——契約の箱と贖いのふたが指し示すもの
※この第一部だけで、今日の中心メッセージが示されます。「神は律法の要求を満たした血の場所から、私たちに語りかけてくださる」——これが今日の福音です。
出エジプト記25章は、幕屋の設計図が始まる章である。神はモーセに、まず何よりも先に「契約の箱」の設計を告げられた。幕屋の中心、至聖所の中心、そこに置かれるべきものから話が始まるのは偶然ではない。神はご自身の臨在の場所、人と出会う場所を、最初に語られたのである。
箱はアカシヤ材で作られ、内側も外側も純金で覆われた。長さ二キュビト半(約112cm)、幅と高さは一キュビト半(約67cm)。四隅に金の環が取り付けられ、金をかぶせたアカシヤ材の棒が通された。この棒は「抜いてはならない」と命じられた(25:15)。契約の箱は常に移動できる状態でなければならなかった。神の臨在は、石造りの神殿に固定されるのではなく、民とともに旅をするものだったからである。
箱の中に納めるものについて、神はこう言われた。「わたしが与えるさとしをその箱に納める」(25:16)。「さとし」とはヘブライ語でエドゥート(עֵדוּת)、「証言・あかし」を意味する。後にシナイ山でモーセに与えられる十戒の石板がここに納められることになる。神のご性質、神の義、神の要求——それが箱の中に収められた。
ここで立ち止まって考えたい。箱の中には律法がある。神の完全な義の要求がある。人間はその要求を満たすことができない。ならば人間はどうやって神に近づけるのか。この問いへの答えが、次に語られる「贖いのふた」である。
贖いのふた——カポレット(כַּפֹּרֶת)
「また、純金の『贖いのふた』を作る」(25:17)。ヘブライ語ではカポレット(כַּפֹּרֶת)という。語根はカパル(כָּפַר)、「覆う・贖う・なだめる」を意味する動詞である。カポレットとは文字通り「覆うもの」——律法の入った箱の上に置かれる蓋である。
しかしこれは単なる蓋ではない。年に一度、大贖罪日(ヨム・キプール)に、大祭司だけが至聖所に入り、このカポレットの上に動物の血を振りかけた(レビ記16章)。その瞬間、民の罪は覆われた。律法の要求は、血によって一時的に満たされた。
この構造を把握することが重要である。律法(神の要求)は箱の中にある。贖いの血はカポレット(蓋)の上に注がれる。神はカポレットの上から語られる。律法を「通して」ではなく、血による贖いを「通して」、神は人と語り合われる。これが旧約の礼拝の根本構造だった。
二体のケルビム——向き合う存在
カポレットの両端には、槌で打って作った二体の金のケルビムが置かれた。「ケルビムは翼を上のほうに伸べ広げ、その翼で『贖いのふた』をおおうようにする。互いに向かい合って、ケルビムの顔が『贖いのふた』に向かうようにしなければならない」(25:20)。
注目したいのは、ケルビムの視線の方向である。彼らは互いを見ているのではなく、カポレット(贖いのふた)を見つめている。天の存在が、贖いの場所を見つめている。ペテロの手紙第一1:12はこう言う。「それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです」。福音の奥義——罪人が神に赦される、その贖いの業——は、天の存在でさえ魅了され、覗き込みたいと願うものだというのである。
神はそこで語られる
「わたしはそこであなたと会見し、その『贖いのふた』の上から……あなたに語ろう」(25:22)。神が語られる場所は特定されている。それはカポレット——贖いのふたの上からである。
この構造が、何百年もの時を経て、新約聖書においてイエス・キリストにそのまま適用される。パウロはローマ書3:25でこう書いた。「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました」。
「なだめの供え物」——ここで使われたギリシャ語はヒラステーリオン(ἱλαστήριον)である。旧約聖書のギリシャ語訳(七十人訳聖書)で、カポレット(贖いのふた)を翻訳した言葉がまさにこのヒラステーリオンだった。パウロは偶然この言葉を選んだのではない。「キリスト・イエスこそが真のカポレットだ」という宣言である。
さらに、ヘブライ書4:16はこう呼びかける。「私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」。「恵みの御座」——これもまたヒラステーリオンである。旧約では大祭司だけが、年に一度だけ近づくことのできた場所。今や私たちは「大胆に」近づくことができる。
今日の適用
私たちが神の前に立つとき、律法の要求が正面にある。しかし、キリストの血が「贖いのふた」として、律法と私たちの間に置かれている。神は今、その血の場所から私たちに語りかけてくださる。
旧約の大祭司は年に一度、恐れながら至聖所に入った。今、私たちは「大胆に」、いつでも、恵みの御座——真のカポレットであるキリストのもとに——近づくことができる。神はそこで語られる。
原語整理
●ヘブライ語
| 原語 | 発音 | 意味 | 箇所 |
| כַּפֹּרֶת | カポレット | 贖いのふた・覆うもの | 出25:17,20 |
| כָּפַר | カパル | 覆う・贖う・なだめる(語根) | 語根 |
| עֵדוּת | エドゥート | 証言・あかし・さとし | 出25:16 |
●ギリシャ語
| 原語 | 発音 | 意味 | 箇所 |
| ἱλαστήριον | ヒラステーリオン | 贖いのふた/なだめの供え物(ロマ3:25)/恵みの御座(ヘブ4:16) | ロマ3:25 ヘブ4:16 |
| ἐμβλέπω | エンブレポー | じっと見つめる・見通す | ルカ22:61 |
●対応関係
| 旧約ヘブライ語 כַּפֹּרֶת カポレット 契約の箱の蓋・大祭司だけ近づけた | → | 七十人訳(LXX) ἱλαστήριον ヒラステーリオン カポレットのギリシャ語訳 | → | 新約・成就 キリスト・イエス御自身 誰でも大胆に近づける恵みの御座 |
第二部:旧約(ヨブ記10-11章)
神に向かって叫ぶ者——ヨブの苦悩と友人の誤りが教えること
ヨブ記10章は、人間が神に向かって発した言葉の中で、最も激しい部類に入る。ヨブは自分の不平を「ぶちまける」と宣言し(10:1)、神に直接問いかける。「なぜ私と争われるかを、知らせてください」(10:2)。
これは反逆だろうか。不信仰だろうか。そうではない。ヨブが神に向かって叫んでいるという事実そのものが、彼の信仰の証拠である。神など存在しないと思う者は、神に向かって叫ばない。ヨブは神が確かにおられ、自分の状況をご存知であると信じているから、激しく問うのである。
造り主への訴え
「あなたの御手は私を形造り、造られました」(10:8)。「あなたは私を乳のように注ぎ出し、チーズのように固め、皮と肉とを私に着せ、骨と筋とで私を編まれたではありませんか」(10:10-11)。
ヨブは神が自分の造り主であることを知っている。そしてその造り主に向かって言う——「なぜ滅ぼそうとされるのか」と。注目したいのは10:7である。「あなたは、私に罪のないことを知っておられ」——ヨブは神が自分の潔白を知っていると確信している。しかし苦しみは現実にある。この矛盾がヨブを極限まで追い詰める。これは「なぜ正しい者が苦しむのか」という人類普遍の問いである。
ツォファルの誤り——正しい神学、間違った適用
11章でナアマ人ツォファルが登場する。彼の言葉は神学的には正確な部分が多い。「あなたは神の深さを見抜くことができようか」(11:7)——これは真実である。しかしツォファルは致命的な誤りを犯している。ヨブが罪を犯したと決めつけた上で、この正しい神学を適用しているのである。
ヨブ記の最後(42:7)で神はツォファルたちにこう言われる。「おまえたちはわたしについて、わたしのしもべヨブが語ったように、正しいことを語らなかった」。神学的命題が正しくても、人に当てはめる場所と時が間違えば、神を正しく語ったことにならない。これはすべての慰め手への厳粛な警告である。
ヨブとツォファルの対比
ツォファルは神のシステムを守ろうとした。「苦しみは罪の結果である」という図式を守ることで神の義を弁護しようとした。しかし結果として、ヨブを傷つけ、神について誤ったことを語った。
ヨブは神そのものに向き合おうとした。図式ではなく、生きた神に向かって問いかけた。時に言葉は荒れ、限界を超えた表現も出てくる。しかし神は最後にヨブの言葉を「正しかった」と言われた。神が求めておられるのは、完璧に整理された神学的言語ではなく、たとえ荒削りであっても神に向かって向き合う魂の誠実さなのかもしれない。
今日の適用
苦しんでいる人のそばにいるとき、私たちはツォファルになる誘惑を受ける。正しい聖句を、正しい神学を、しかし間違ったタイミングで語る。言葉自体は正しくても、傷を深めることがある。
ヨブ記が示す慰め手の姿は、まず沈黙することである。ヨブの三人の友人が最初にしたこと、それは「七日七夜、地面に座って、だれも彼に一言も言わなかった」(ヨブ2:13)ことだった。
実は私自身、病の苦しみの中で信仰年数の長い方から理屈で裁かれた経験がある。悔しさと痛みがあった。しかしその痛みすら忘れ、分からないことだらけのまま、ただ主に賛美を捧げ続けたとき、賛美の中で癒しが訪れた。ヨブが最後に経験したのも、完全な理解ではなく、神との直接の出会いだった。
第三部:新約(ルカ22:54-71)
毅然と証言されたイエス、沈黙したペテロ——同じ夜の対比
ルカ22章54節から71節は、同じ夜に起きた二つの場面が交互に描かれている。大祭司の家の中庭でのペテロの否認と、議会でのイエスの尋問。この二つの場面を並べて読むと、対比があまりにも鮮やかで、ルカが意図的にこの構造を作ったことがわかる。
ペテロの否認——恐れが真実を封じたとき
ペテロはイエスを「遠く離れてついて行った」(22:54)。この「遠く離れて」という表現が既に彼の内面を示している。完全に離れることもできず、しかし近くにいる勇気もない。中途半端な距離が、彼の心の状態そのものだった。
中庭の火のそばで、三度にわたって問われるたびにペテロは否定した。そして鶏が鳴いた瞬間、イエスが振り向いてペテロを見つめられた(22:61)。「見つめられた」というギリシャ語はエンブレポー(ἐμβλέπω)、「じっと見つめる、見通す」という意味を持つ。責める目ではなかっただろう。すべてを知った上で、それでも愛する目だったのではないか。ペテロは外に出て、激しく泣いた。
イエスの証言——命がかかっても真実を語る
場面は変わって議会の場。「あなたがキリストなら、そうだと言いなさい」(22:67)。
イエスの答えの核心は22:69にある。「しかし今から後、人の子は、神の大能の右の座に着きます」——これはダニエル書7:13-14の「雲に乗って来る人の子」の直接的な引用である。イエスは自分が審判者として神の右に座る方であることを宣言した。そして「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです」と答えられた(22:70)。この答えが死刑判決に直結することをイエスは知っておられた。それでも真実を語られた。
対比の核心
同じ夜、同じ時刻に起きたことを並べると——ペテロは命が惜しくて真実を語れなかった。イエスは命が失われることを知りながら真実を語られた。ペテロが否定した相手は女中や見知らぬ男たちだった。イエスが証言した相手は最高議会——当時のユダヤ社会で最も権威ある法廷だった。圧力が大きければ大きいほど、真実を語ることは難しくなる。イエスはその最大の圧力の下で、最も明確に真実を語られた。
今日の適用
ペテロはこの夜の失敗の後、復活のイエスに出会い、完全に回復される(ヨハネ21章)。五旬節の後、かつて「知りません」と言った同じ口で、エルサレムの民の前に立ち「イエスは主であり、キリストです」と大胆に証言した(使徒2:36)。
ペテロの否認は終わりではなかった。主の「見つめる目」が彼を捕らえ、回復させた。私たちも真実を語れなかった瞬間がある。しかしイエスは今も振り向いて、私たちを見つめておられる。責めるためではなく、回復させるために。
第四部:全体の一貫性
血の場所から語られる神、真実を語られる神
今日の三箇所を貫く一本の糸がある。それは「神はどこから、どのように語られるか」という問いである。
出エジプト記25章で神はこう言われた。「わたしはそこであなたと会見し、その『贖いのふた』の上から……あなたに語ろう」(25:22)。神が語られる場所は特定されていた。律法の要求が血によって覆われた、そのカポレットの上からである。裁きの場所からではなく、贖いの場所から神は声を発せられる。
ヨブ記10・11章では、神は沈黙しておられるように見えた。友人ツォファルは神学的図式で答えを出そうとした。しかし神は図式の中にはおられなかった。神はヨブ記の最後に嵐の中から直接語りかけられる——整理された議論の場ではなく、生きた出会いの場から語られた。
ルカ22章では、イエスが議会の前で語られた。「今から後、人の子は神の大能の右の座に着きます」——これはカポレットの上から語られた神の声の、究極の成就である。キリスト御自身が贖いのふたとなり、その場所から神の最終的な言葉を語られた。
三つの場面に共通する構造
出エジプト記のカポレットは、律法と人間の間に置かれた。血が注がれ、その場所から神が語られた。これは予型である。ヨブ記のヨブは、苦しみの中で神に向き合い続けた。整然とした神学では満足せず、神そのものを求めた。ルカのイエスは、死を前にして真実を語られた。三つの場面すべてで、神は「システム」や「図式」からではなく、血と苦しみと誠実さが交わる場所から語られている。
主イエスへの愛
今日の箇所を読み終えて、一つの感情が残る。議会の前に立たれたイエスの姿——死が確定する状況で、それでも「わたしはそれです」と答えられた毅然とした姿。「りりしい」という言葉では足りない。雅歌の花嫁が「私の愛する方は」と叫ぶように、この方への深い愛着が湧き上がる。
信仰とは教義への同意だけではない。この方への、人格への、深い愛である。カポレットが指し示していたのも、ヨブが嵐の中で出会ったのも、議会の前で毅然と立たれたのも——すべて同じお方である。御使いたちが贖いのふたを覗き込みたいと願うように、私たちもこの方に恋い焦がれてよい。いや、それこそが聖書が私たちに求めている応答なのかもしれない。
——了——
📖 原語整理表
2026年2月22日 出エジプト記25章・ローマ書3章・ヘブライ書4章
ヘブライ語| 原語 | 発音 | 意味 | 箇所 |
|---|---|---|---|
| כַּפֹּרֶת | カポレット | 贖いのふた・覆うもの 契約の箱の蓋。大贖罪日に血が注がれる場所 |
出25:17,20 |
| כָּפַר | カパル | 覆う・贖う・なだめる カポレットの語根動詞 |
語根 |
| עֵדוּת | エドゥート | 証言・あかし・さとし 箱に納められた十戒の石板を指す |
出25:16 |
| 原語 | 発音 | 意味 | 箇所 |
|---|---|---|---|
| ἱλαστήριον | ヒラステーリオン |
贖いのふた/なだめの供え物/恵みの御座 LXXでカポレットの訳語。新約でキリストに適用 |
ロマ3:25 ヘブ4:16 |
| ἐμβλέπω | エンブレポー |
じっと見つめる・見通す 単なる「見る」ではなく、深く見通す視線 |
ルカ22:61 |
動物の血が年一度注がれた
大祭司だけが近づけた
「なだめ・贖いの場所」
旧約→新約の架け橋
→ ἱλαστήριον
御自身の血による一度限りの贖い
ヘブ4:16 「恵みの御座」
→ ἱλαστήριον
誰でも大胆に近づける場所

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