2026年2月19日の聖書通読 契約の血といちじくの芽—時を読む者、神を知る者—

聖書の名言集
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通読箇所:出エジプト記24章1-8節 / ヨブ記4-5章 / ルカ21章29-38節

神への近さは、知識の深さで測れるのでしょうか。

祈りの長さで測れるのでしょうか。

それとも、まったく別の何かによって——開かれるのでしょうか。

※この記事は、要点だけを抜き出して理解できる内容ではありません。モーセ五書・旧約・新約の連続した文脈の中でのみ読まれることを意図しています。

【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。

第一部:トーラー(出エジプト記24章1-8節)

契約の血——神への距離が、縮められた日

シナイ山のふもとに、イスラエルの民全体が集まっていた。神はすでに十戒を語り(出エジプト20章)、様々な律法を与えられた(21-23章)。そして今、その言葉を「契約」として正式に結ぶ時が来た。それが出エジプト記24章の場面である。

しかしここで、神は驚くべき命令を下される。

「あなたとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は、主のところに上り、遠く離れて伏し拝め。モーセひとり主のもとに近づけ。」(24:1-2)

同じ山に上りながら、距離が違う。これは単なる儀式上のルールではない。神はここで、霊的な現実を空間で表現されている。

七十人の長老は神の臨在の輝きを見た——後の記述(24:10-11)によれば、彼らはイスラエルの神を見て、食べ、飲んだ。それ自体、驚異的な恵みである。しかしモーセは雲の中に入り、四十日四十夜そこに留まった(24:18)。見ることと、入ることは違う。近さには段階がある。

この「距離の構造」は、後に幕屋の設計にそのまま投影される。外庭、聖所、至聖所——すべての民、レビ人、祭司、大祭司という同心円状の近さ。神はご自身の聖さと、人を近づける恵みの両方を、この構造によって同時に啓示しておられる。

では、何が距離を縮めるのか。

モーセは翌朝早く、山のふもとに祭壇を築いた。十二の石の柱を立て、若者たちに全焼のいけにえと和解のいけにえを献げさせた。そして血を二つに分けた。半分を祭壇に、半分を民に。

ここで登場するのが「契約の血」という言葉である。ヘブライ語では דַּם הַבְּרִית(ダム・ハ・ブリート)——ダムは血、ブリートは契約・誓いを意味する。

血を二分するこの行為は、契約が双方向であることを示している。祭壇は神の側、民は人間の側。血という命そのものを媒介として、神と人が結ばれる。民はここで二度、応答した。

「主の仰せられたことは、みな行います。」(24:3)

「主の仰せられたことはみな行い、聞き従います。」(24:7)

これは誠実な応答だった。しかし読者はすでに知っている——この民が、わずか四十日後に金の子牛を作ることを(32章)。「行います」という約束は、人間の意志の上に立っている限り、必ず破られる。だからこそ、血が必要だった。契約は言葉だけでは成立しない。命をもって封印される。

この場面から、約千五百年が過ぎた夜、イエスは杯を取り、こう言われた。

「これはわたしの血、契約の血です。罪の赦しのために、多くの人のために流されるものです。」(マタイ26:28)

ここでイエスは意図的に出エジプト24:8を引用しておられる。原語で見ると τὸ αἷμα τῆς διαθήκης(ト・ハイマ・テース・ディアテーケース)——これはヘブライ語の דַּם הַבְּרִית(ダム・ハ・ブリート)をギリシャ語に直訳したものである。

・ダム = αἷμα(ハイマ)= 血

・ハ・ブリート = τῆς διαθήκης(テース・ディアテーケース)= 契約の

言語スペルカタカナ発音意味・備考
ヘブライ語דַּם הַבְּרִית(ダム・ハ・ブリート)ダム・ハ・ブリート契約の血
ギリシャ語τὸ αἷμα τῆς διαθήκηςト・ハイマ・テース・ディアテーケース契約の血(マタイ26:28)

同じ言葉が、ヘブライ語からギリシャ語に着替えて、マタイ26章に現れている。

最後の晩餐の場にいた弟子たちはみなユダヤ人だった。幼い頃から出エジプト記を繰り返し聞いて育った人たちである。イエスが「契約の血」と言われた瞬間——説明不要で、全員が同時に出エジプト24:8のあの場面を思い浮かべたはずだ。「あの型が、今、ここで成就している」という衝撃とともに。

しかし決定的な違いがある。モーセの契約は「行います、聞き従います」という人間の約束に基づいていた。新しい契約は、人の誓いではなく神ご自身の命に基づいている。破れることのない契約。なぜなら、契約を守る側が神だからである。

ヘブル書はこの逆転を鮮やかに描く。「彼(キリスト)は、新しい契約の仲介者です」(ヘブル9:15)。動物の血は毎年繰り返し献げられた。しかしキリストの血は「一度限り」(ヘブル9:26)、永遠の効力を持つ。

そしてあの幕屋の構造——外庭、聖所、至聖所という距離の体系——は、十字架の瞬間に根底から変わった。

「すると、見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」(マタイ27:51)

モーセだけに許されていた「近づき」が、今やすべての者に開かれた。ヘブル10:19-22はここに聖書神学の頂点の一つを置く——「わたしたちはイエスの血によって、大胆に聖所に入ることができます」。

シナイ山のふもとで流された血は、十字架の血の影(型)だった。型は本物が来れば役割を終える。しかし型は無意味ではない——本物の輪郭を、あらかじめ描いていたのである。

神への距離は、知識によって縮まらない。行いの誓いによっても縮まらない。血によって——開かれる。

トーラーポーションを続けていくと、レビ記で大贖罪日が出てきます。その時に、ユダヤ人の歴史的背景を持たない私たち日本人にも、この点が一気に繋がるはずです。どうぞ楽しみにしていてください。


第二部:旧約(ヨブ記4-5章)

知ることと知らないこと——エリファズの神学と、ヨブの叫び

エリファズがついに口を開いた。

ヨブ記の冒頭三章、ヨブは沈黙し、嘆き、自分の生まれた日を呪った(3章)。その痛みの叫びを聞いて、友人の中で最初に語り始めたのがテマン人エリファズである。

テマンはエドムの地にある知恵で名高い町だった(エレミヤ49:7)。エリファズは当時の世界でいえば、最高の知識人の一人だったと考えてよい。彼は慎重に言葉を選ぶ。「もし、だれかがあなたにあえて語りかけたら、あなたはそれに耐えられようか。しかし、だれが黙っておられよう」(4:2)——語ることへの躊躇を示してから、語り始める。これは知者の作法である。

しかし、ここに最初の亀裂がある。

語ってはならない時に、語らずにいられない——これが「知者」の陥穽である。ヨブに必要だったのは答えではなかった。ヨブ記2:13はこう記している。「彼らは七日七夜、ヨブとともに地面に座っていた。ヨブの苦しみが非常に大きいのを見たので、だれも彼にひと言も語りかけなかった。」沈黙こそが最初の正しい応答だった。しかしヨブが口を開くや否や、エリファズも口を開いてしまった。

エリファズの論理は整然としている。

「不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ」(4:8)

これは因果応報の神学である。蒔いたものを刈り取る——これ自体は聖書の原則の一つであり、嘘ではない(ガラテヤ6:7)。しかし問題は、真理の一部を全体として適用することにある。

エリファズの論法はこうだ。苦しみは罪の結果である→ヨブは苦しんでいる→ゆえにヨブには罪がある。この三段論法は論理的に見えて、神の自由を人間の論理に閉じ込めている。神はご自分の理由でヨブを試練に渡されたのに、エリファズはその神の主権を「因果応報」という箱の中に収めてしまった。

そしてエリファズには、自分の神学を支える霊的体験があった。

「一つのことばが私に忍び寄り、そのささやきが私の耳を捕らえた。夜の幻で思い乱れ……一つの霊が私の顔の上を通り過ぎ、私の身の毛がよだった」(4:12-15)

この体験は本物だったかもしれない。しかしその霊が語った言葉は「人は神の前に正しくありえようか」(4:17)——断罪で終わっている。

ここで「霊の識別」という問いが生まれる。神の御霊が語る時、それは罪を示すことがある。しかしその目的は回復であって断罪ではない。断罪で終わる「啓示」は、注意深く吟味される必要がある。霊的体験は正しい神学を保証しない——ヨブ記はそれをはっきり示している。

5章でエリファズは語り続ける。

「ああ、幸いなことよ。神に責められるその人は。だから全能者の懲らしめをないがしろにしてはならない」(5:17)

この言葉は美しい。ヘブル12:5-6はこの箇所を引用する。言葉の内容として間違いではない。しかしヨブへの適用として、これは完全に的外れである。神はヨブを懲らしめているのではない。神はヨブを信頼しておられた(1:8「彼のような者は地上にひとりもいない」)。

エリファズは神について正しいことを言いながら、ヨブの現実を見ていなかった。これが友人の失敗の本質である。神学的正確さと、目の前の人への愛は、別の能力である。パウロはコリント第一13:2でこう言った。「たとい……すべての知識があっても、愛がなければ、私は無に等しい」。

ヨブ記の結末(42:7)で、神はエリファズに言われる。

「あなたとあなたの二人の友人は、わたしについて正しいことを語らなかった。わたしのしもべヨブのようには。」

エリファズは神について多くの正しいことを語った。しかし神は「正しいことを語らなかった」と言われた。これは矛盾ではない。神について語ることと、神を正しく語ることは違う。

ヨブはただ叫んだ。不満を訴えた。それでも神はヨブの側に立たれた。なぜか。ヨブは神に向かって叫んでいた。エリファズは神について語っていた。神との距離という点で、叫びは神学的議論よりも近い場所にある。

神への近さは、知識では測れない。ヨブの激しい叫びは、実は最も深い信仰の形だったのかもしれない。神がいると信じなければ、神に訴えることすらできないのだから。

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第三部:新約(ルカ21章29-38節)

いちじくの芽——時を読む者、目を覚ます者

イエスはエルサレム神殿で教えておられた。弟子たちが神殿の美しさを指して言った時、イエスは驚くべき言葉を返された——「この石が一つも崩されずに他の石の上に残ることはない」(21:6)。その言葉から始まった終末の教えが、29節のたとえへと流れ込んでくる。

「いちじくの木や、すべての木を見なさい。木の芽が出ると、それを見て夏の近いことがわかります。そのように、これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい」(29-31節)

「すべての木」という言葉

旧約聖書においていちじくはしばしばイスラエルの象徴として用いられた(ホセア9:10、ミカ4:4、ゼカリヤ3:10)。そのため多くの解釈者が「いちじくの木の芽=イスラエルの国家的回復」と読んできた。1948年のイスラエル建国をその成就として見る終末論的解釈もある。

しかしイエスは「いちじくの木や、すべての木」と言われた。この「すべての木」という言葉が、特定の民族への限定を緩めている。イエスが強調しておられるのは、いちじくの木そのものではなく、しるしを読む能力ではないだろうか。

農夫は木の芽を見て季節を知る。特別な啓示を必要としない。長年の観察と、自然への注意深さがあれば誰でもわかる。イエスは終末のしるしについても、同じ自然な観察力を求めておられる。

見えなくなるのは、なぜか

なぜ、この当たり前の観察力を、わざわざ教える必要があるのか。

「あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい」(34節)

木の芽は毎年出る。しかし酔っている農夫は気づかない。見えなくなるのは、しるしが消えるからではない。見る側が鈍くなるからである。

「放蕩」「深酒」「この世の煩い」——これら三つは一見異なるように見えて、同じ効果を持つ。いずれも心を現在の感覚に縛りつける。放蕩と深酒は快楽への没入、この世の煩いは不安への没入。どちらも「今、ここ」の感覚が視野を塞ぎ、永遠の次元への感受性を失わせる。

人の子の前に立つ

言語原語・発音意味
ギリシャ語σταθῆναι ἔμπροσθεν τοῦ υἱοῦ τοῦ ἀνθρώπου人の子の前に立つ

「立つ」という動詞は、裁きの場で倒れずに立っていること、すなわち赦されて立っていることを含意している。倒れずに立つことは、自分の行いの完全さによるのではない。出エジプト24章で見た契約の血——その血の上に立つ者だけが、人の子の前に立つことができる。

37-38節は静かな場面で締めくくられる。「さてイエスは、昼は宮で教え、夜はいつも外に出てオリーブという山で過ごされた。民衆はみな朝早く起きて、教えを聞こうとして、宮におられるイエスのもとに集まって来た」。

イエスご自身が、昼と夜のリズムの中に生きておられた。そして民衆は「朝早く」起きた——飢え渇く魂が、自然に動かされて早朝に向かう。義務ではなく、引き寄せられるように。

ここに油断せずに祈る者の姿がある。大げさな決意ではなく、朝ごとに御言葉の前に出ていくという、静かで継続的な習慣。それが「わなのように臨む日」に倒れない者を作る。

第四部:全体の一貫性

近さの神学——血によって、叫びによって、目を覚ますことによって

今日の三つの箇所は、一見まったく異なる世界を描いている。シナイ山のふもとで行われた契約の儀式、友人に責められるヨブの苦悩、そしてエルサレム神殿でのイエスの終末の教え。時代も場所も状況も違う。しかしこれら三つを貫く一本の糸がある。

神への近さ、という問いである。

第一の道:血による近さ

出エジプト記24章は、神への近さが段階的であることを示した。七十人の長老は遠く離れて伏し拝んだ。モーセだけが雲の中に入った。同じ山に上りながら、距離が違う。そしてその距離を縮めたのは、民の資格でも知識でも行いでもなかった。血だった。

モーセが民に血を注ぎかけた時、何かが変わった。神の言葉と人間の間に、命そのものが介在した。「これは、主があなたがたと結ばれる契約の血である」——この一言が、距離を神学的事実として確定させた。

第二の道:叫びによる近さ

ヨブ記4-5章は、神への近さが知識では測れないことを示した。エリファズは神について多くの正しいことを語った。しかし神は最終的に「あなたはわたしについて正しいことを語らなかった」と言われた。

一方ヨブは、神に向かって叫び、訴え、時に激しい言葉を投げかけた。神学的に整理された言葉ではなかった。しかし神はヨブの側に立たれた。この逆転が示すのは、神への近さは言葉の正確さではなく、向かう方向によって決まるということである。叫ぶためには神がそこにいると信じなければならないのだから。

第三の道:目を覚ますことによる近さ

ルカ21章は、神への近さが継続的な目覚めによって保たれることを示した。木の芽を見て夏を知る農夫の観察力——それは特別な能力ではない。しかし放蕩、深酒、この世の煩いによって心が沈み込んでいれば、その自然な感受性は失われる。

そして「人の子の前に立つ」ために必要なのは、毎朝御言葉の前に出ていくという静かな習慣だった。イエスご自身が昼は教え夜は祈り、民衆は朝早く起きてイエスのもとに集まった——これが油断せずに祈る者の具体的な姿である。

三つの道が一つに収斂する

血は、自分の力では近づけない者を近づける。叫びは、自分の完全さを手放した者が神に向かう。目を覚ますことは、自分の力で立ち続けようとすることをやめ、御言葉に依り頼むことである。

どの道も、自分への信頼を手放すところから始まる。

民は「行います」と言った。エリファズは「私は知っている」と言った。この世の煩いは「自分でどうにかしなければ」と囁く。これらはすべて、自分の側に重心を置く態度である。

しかし契約の血は一方的に流された。ヨブの叫びは自分の正しさへの執着を少しずつ手放していく過程だった。そして「油断せずに祈る」とは、自分の霊的状態を自分で管理しようとすることをやめ、神の前に毎朝出ていくことである。

今日の三箇所が語りかける言葉を、一つにまとめるとすればこうなる。

神への近さは、あなたの知識によって測られない。あなたの誓いによって保証されない。あなたの霊的管理能力によって維持されない。

それは血によって開かれ、叫びによって深められ、目を覚ますことによって守られる。

そしてその血はすでに流された。その叫びは神に届いている。その朝は、また来る。

神への近さ——出エジプト24章から十字架へ

神への近さ——距離の神学

出エジプト記24章から幕屋へ、そして十字架へ

① シナイ山——距離の構造(出エジプト24:1-2)
☁️
雲の中——モーセ
「モーセひとり主のもとに近づけ」 神と直接語り合う。雲に入り、40日留まる
最も近い
↑ 近
🏔️
山の途中——アロン、ナダブ、アビフ、七十人の長老
「遠く離れて伏し拝め」 神の輝きを見た。食べ、飲んだ(24:10-11)
近い
↓ 遠
⛰️
山のふもと——イスラエルの民
「民もモーセといっしょに上ってはならない」 血を注ぎかけられる場所
遠い
② 契約の血——距離を縮めるもの(出エジプト24:6-8)
🏛️ 神の側
祭壇に血を注ぐ
(半分)
🩸
←→
דַּם הַבְּרִית
ダム・ハ・ブリート
契約の血
👥 民の側
民に血を注ぎかける
(半分)
民「行います、聞き従います」→ しかし破られる運命
契約の確かさは民の誓いではなく、血そのものにある
ヘブライ語:דַּם הַבְּרִית(ダム・ハ・ブリート) ギリシャ語:τὸ αἷμα τῆς διαθήκης(ト・ハイマ・テース・ディアテーケース)
同じ構造が幕屋へ投影される
③ 幕屋——距離の構造が空間になる
至聖所
大祭司のみ・年に一度
モーセの「雲の中」に対応
聖所
祭司のみ
アロンたちに対応
外庭
レビ人
七十人の長老に対応
幕屋の外
一般のイスラエルの民
山のふもとの民に対応
神はご自身の聖さと、人を近づける恵みの両方を、この距離の構造によって同時に啓示された
約1500年後——十字架
④ 十字架——距離の構造が崩壊する
最後の晩餐(マタイ26:28)
「これはわたしの血、契約の血です」
→ 出エジプト24:8を意図的に引用
→ しかし民の誓いではなく神の命が根拠
幕が裂けた(マタイ27:51)
「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」
→ 至聖所への道が開かれた
→ 大祭司だけの特権がすべての者
✦ ヘブル10:19-22
「わたしたちはイエスの血によって、大胆に聖所に入ることができます
モーセだけに許されていた「近づき」が、今やすべての者に開かれた
— これは出エジプト24章から流れてくる川の到達点
全体の流れ
シナイ山の
距離の構造 出エジプト24章
幕屋に
投影される レビ記・民数記
十字架で
完成・開放される マタイ27:51/ヘブル10章
神への近さは、知識によって測られない。行いの誓いによって保証されない。
血によって——開かれる。
型(シナイ・幕屋)は本物(十字架)が来れば役割を終える。
しかし型は無意味ではない——本物の輪郭を、あらかじめ描いていた。

2026年2月19日 今日の原語整理

出エジプト記24章・ルカ21章

出エジプト記24章

言語スペルカタカナ発音意味・備考
ヘブライ語דַּםダム
ヘブライ語בְּרִיתブリート契約、誓い
ヘブライ語דַּם הַבְּרִיתダム・ハ・ブリート契約の血

最後の晩餐・ヘブル書(対応箇所)

言語スペルカタカナ発音意味・備考
ギリシャ語αἷμαハイマ
ギリシャ語διαθήκηディアテーケー契約、遺言
ギリシャ語τὸ αἷμα τῆς διαθήκηςト・ハイマ・テース・ディアテーケース契約の血(マタイ26:28)

ルカ21章

言語スペルカタカナ発音意味・備考
ギリシャ語σταθῆναιスタテーナイ立つこと(不定詞)・倒れずに立っていること
ギリシャ語ἔμπροσθενエンプロスセン〜の前に
ギリシャ語υἱὸς τοῦ ἀνθρώπουヒュイオス・トゥー・アンスローポゥ人の子(ダニエル7:13の称号)

補足メモ

διαθήκη(ディアテーケー)について

「契約」と訳されますが、もともとギリシャ語では「遺言」の意味が強い言葉です。

ヘブライ語の בְּרִית(ブリート)は双方合意の「契約」に近いですが、ギリシャ語訳ではあえて「遺言」のニュアンスを持つ言葉が選ばれました。

ヘブル9:16-17がこれを利用して「遺言は遺言者の死によって効力を持つ」と論じるのは、この言葉の選択が意図的だったからです。

イエスの死なしには新しい契約は発効しない——という神学がこの一語に込められています。

בְּרִית(ブリート)ヘブライ語διαθήκη(ディアテーケー)ギリシャ語
双方合意の契約一方的な遺言・処分
「行います」という応答が必要遺言者の死によって発効する
シナイ契約(出エジプト24章)新しい契約(ヘブル9:15-17)

σταθῆναι(スタテーナイ)について

動詞 ἵστημι(ヒステーミ)の不定詞形。「立てるように」という目的節で使われています。

裁きの場で「立つ」のか「倒れる」のかという対比が背景にあり、単なる物理的な立位ではなく、審判に耐えて立っているという意味合いを持ちます。

「人の子の前に立つ」(ルカ21:36)——その立ちは、自分の義ではなく契約の血の上に立つ者に与えられる。

今日の原語まとめ

ヘブライ語 3語 / ギリシャ語 5語

ブリート/ディアテーケーの対比は、旧約と新約の契約神学を理解するための核心語。

※今日の原語整理の中で、ブリート(ヘブライ語・契約)とディアテーケー(ギリシャ語・遺言)の違いに触れました。この二つの言葉の間に、旧約から新約への神学的な大転換が隠されています。いつか独立した記事として丁寧に取り上げますので、楽しみにしていてください。

私は原語の意味に魅了され、ブログ「聖書の名言集」では原語を調べながら執筆しています。

原語の深みを「難しい学術情報」としてではなく、「御言葉がもっと輝いて見える窓」として届けたい——それがこのブログの願いです。

ダム・ハ・ブリートという言葉を知ると、出エジプト24章とマタイ26章が一本の線で繋がる瞬間が生まれます。その感動は、教職者だけのものにしておくには惜しすぎます。

原語の知識が信仰の喜びに変わる時、祈りが生まれます。

リバイバルとは回復です。特別な何かが天から降ってくる前に、私たち一般信徒の霊的状態が御言葉によって回復していくことから始まります。み言葉と祈りが、その土台です。原語からみ言葉を学び直すと、目が開かれ、自然に祈りへと導かれていきます。日本の一般信徒が御言葉の深みに触れてリバイバルの火が燃える——その一端を担えるなら、これ以上のことはありません。

学んでも忘れることがあります。でも、忘れてもかまいません。またここに戻って読めば、思い出せますから。聖書箇所で確かめたいこと、思い出したいことがあった時は、トーラーポーションで該当箇所を特定して目次をたどれば、たどり着けます。

その時々に感動して、心に留め、何度も御言葉を思い起こして反芻する——そのうちに記憶にとどまり、祈りの言葉となっていくこともあります。私は「反芻するなら御言葉と決めています」。み言葉は何度反芻しても自分を傷つけません。過去の傷や恨み、愚痴を反芻するよりずっと祝福の基となります。

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