2026年2月12日の聖書通読 神の宮をなおざりにしない —御名を担い、子どものように受け取る—

聖書の名言集
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神の宮をなおざりにしない

御名を担い、子どものように受け取る—

「みだりに唱えてはならない」——この戒めを読むたびに、私たちは口先の問題だと思いがちだ。しかしヘブライ語の原文は、まったく違うことを語っている。あなたは神の名を「空虚に担って」いないだろうか?

【通読箇所】出エジプト記20章7〜11節/ネヘミヤ記10章・11章/ルカの福音書18章1〜17節

この記事は、要点だけを抜き出して理解できる内容ではありません。モーセ五書・旧約・新約の連続した文脈の中でのみ読まれることを意図しています。

【読み方のご案内】 第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。

第一部 トーラーポーション — 出エジプト記20章7〜11節

御名を「空虚に担う」とはどういうことか

十戒の第三戒「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない」——この戒めは、しばしば神の名を軽々しく口にすることへの警告として理解される。もちろんそれも含まれるが、ヘブライ語原文はさらに深い意味を持っている。

「みだりに唱える」と訳されている部分は、原語では לֹא תִשָּׂא אֶת־שֵׁם־יהוה אֱלֹהֶיךָ לַשָּׁוְא(ロー・ティッサー・エト・シェム・アドナイ・エロヘーハ・ラッシャーヴ)である。ここで注目すべきは「唱える」と訳されている動詞 נָשָׂא(ナーサー)が、本来「持ち上げる・運ぶ・担う」を意味する語であるということだ。そして לַשָּׁוְא(ラッシャーヴ)は「空虚に・無意味に・偽って」という意味を持つ。

つまりこの戒めの直訳は、「あなたの神、主の名を空虚に担ってはならない」となる。これは単なる言葉遣いの問題ではない。主の名を担う者——すなわち「主を信じる」と告白する者——が、その名にふさわしくない生き方をすること、中身のない信仰を掲げることへの厳粛な警告である。

イスラエルの民はエジプトから救い出され、シナイ山で神と契約を結んだ。彼らは「主の民」として神の御名を担う存在となった。その御名を「空虚に」担うとは、救いの恵みを受けておきながら、その恵みにふさわしい歩みをしないことを意味する。

この戒めの結びは厳粛である。「主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない」——原語では לֹא יְנַקֶּה(ロー・イェナッケー)、「清めずにはおかない・無罪としない」である。これは脅しではなく、神の御名の重さへの畏敬を呼び覚ます言葉である。主の名を担うことは特権であると同時に、深い責任を伴う。

安息日——創造のリズムに立ち帰る

続く第四戒は安息日の戒めである。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」(20:8)。

「覚えて」と訳されているヘブライ語 זָכוֹר(ザーホール)は、単に記憶にとどめるという受動的な行為ではない。能動的に心に刻み、それに基づいて行動することを意味する。申命記5章の並行箇所では שָׁמוֹר(シャーモール)——「守る」という語が使われており、この二つの動詞はユダヤの伝統では安息日の二つの側面として理解されてきた。ザーホールは安息日の意味を心に覚え続けること、シャーモールはそれを具体的に実行することである。

では安息日の本質とは何か。20:9-10は「六日間、働いて…しかし七日目は、あなたの神、主の安息である」と命じる。ここで重要なのは、安息日が単なる休息日ではないということだ。原文では שַׁבָּת לַיהוה אֱלֹהֶיךָ(シャバット・ラアドナイ・エロヘーハ)——「あなたの神、主への安息」と記されている。この「への」(ל、ラメド)が決定的である。安息日は自分のための休日ではなく、主に向けられた日、主との交わりに聖別された時間なのである。

さらに注目すべきは、この安息の対象が驚くほど広いことだ。「あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も」(20:10)。安息は個人的な霊的修行ではなく、共同体全体に及ぶ恵みである。主人も奴隷も、イスラエル人も在留異国人も、等しく安息に招かれている。ここに、後のネヘミヤの時代に「国々の民と縁を絶って神の律法についた者」たちが契約に加わることができた根拠がある。

20:11は安息日の根拠を創造の秩序に置いている。「それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである」。安息日はシナイ山で新しく制定されたのではない。天地創造の時からすでに神ご自身のリズムとして存在していた。神が安息されたのは疲れたからではなく、完成した創造を喜び、味わうためである。ヘブライ語で「休まれた」は וַיָּנַח(ヴァイヤーナハ)で、これは「憩う・安らぐ」を意味し、単なる労働停止ではなく満足と喜びの中にとどまることを表している。

「それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された」(20:11b)。祝福しוַיְבָרֶךְ、ヴァイェヴァーレフ)、聖なるものとしたוַיְקַדְּשֵׁהוּ、ヴァイェカデシェーフー)——この二つの動詞は創世記2:3とまったく同じである。安息日は、創造の完成に刻み込まれた神の祝福であり、聖別である。

第三戒と第四戒を合わせて読むと、一つの絵が浮かび上がる。御名を担う者は、神のリズムの中に生きる者である。六日の労働と七日目の安息——このリズムは、自分の力で走り続ける生き方への根本的な挑戦である。「私が休んだら仕事が回らない」「もっと頑張らなければ」という声に対して、安息日は「あなたの神、主への安息」を命じる。主の名を真実に担うとは、主のリズムの中に自分を委ねることでもある。


第二部 旧約 — ネヘミヤ記10章・11章

契約に署名した人々——名前が刻まれる重み

ネヘミヤ記10章は、名前のリストから始まる。総督ネヘミヤを筆頭に、祭司たち、レビ人たち、民のかしらたちが次々と名を連ねる(10:1-27)。現代の読者にとって、こうした人名リストは読み飛ばしたくなる箇所かもしれない。しかしここには深い意味がある。

これは、ネヘミヤ記9章の悔い改めの祈りに続く場面である。民は自分たちの歴史——エジプトからの救い、荒野での背信、バビロン捕囚——を振り返り、神の真実さと自分たちの不忠実を告白した。そしてその悔い改めは、ここで具体的な契約への署名という形をとる。

ヘブライ語で「印を押した」は חוֹתְמִים(ホテミーム)で、これは公的な文書に正式な封印を押す行為を指す。つまりこれは感情的な決心ではなく、法的拘束力を持つ誓約である。一人ひとりが自分の名前をもって神の前に立ち、「私はこの契約に与る」と宣言したのだ。

興味深い点として、署名者の順序に注目したい。まず総督ネヘミヤ、次に祭司たち(10:2-8)、レビ人たち(10:9-13)、そして民のかしらたち(10:14-27)。指導者から民へという順序は、契約が上からの押しつけではなく、指導者が率先して範を示し、民がそれに応答するという構造になっている。

「国々の民と縁を絶って神の律法についた者」

10:28は特に重要な一節である。「このほかの民、祭司、レビ人、門衛、歌うたい、宮に仕えるしもべたち、また、国々の民と縁を絶って神の律法についた者全員、その妻、息子、娘たち、すべて理解できるまでになった者は」——この人々もまた契約に加わったのである。

「国々の民と縁を絶って」は הַנִּבְדָּלִים מֵעַמֵּי הָאֲרָצוֹת(ハニブダーリーム・メアンメー・ハアラツォート)で、「もろもろの地の民から自らを分離した者たち」を意味する。これは異邦人の背景を持ちながら、自分たちの以前の宗教や慣習から離れ、イスラエルの神を選んだ人々を含んでいる。

ここに出エジプト20:10との美しい繋がりがある。安息日の戒めは「あなたの町囲みの中にいる在留異国人も」安息に与ると命じていた。シナイで宣言された神の恵みの広さが、数百年の時を経てネヘミヤの時代に実現している。異邦人であっても、偶像を離れ、神の律法を自分のものとして受け入れる者は、契約の民に迎え入れられたのである。

そして「すべて理解できるまでになった者」(כָּל־יוֹדֵעַ מֵבִין、コル・ヨーデーア・メーヴィーン)という条件にも注目したい。「知る者・理解する者」——契約への参加は、内容を理解した上での自発的な応答であることが求められた。形だけの帰属ではなく、神の律法の意味を知り、それに基づいて自ら選び取る信仰が求められたのである。

契約の具体的内容——安息日と「なおざりにしない」

10:29以降、契約の内容が具体的に列挙される。注目すべきは、これらが神から新たに命じられた律法ではなく、すでにモーセを通して与えられていた律法への再献身であるということだ。「神のしもべモーセを通して与えられた神の律法に従って歩み」(10:29)と明記されている。

契約の柱は以下のとおりである。異民族との通婚の禁止(10:30)、安息日の商取引の禁止(10:31a)、七年目の土地の安息と負債免除(10:31b)、神殿税の自発的負担(10:32)、初穂と十分の一の奉納(10:35-37)。

とりわけ安息日の誓約は具体的で実践的である。「たとい、この地の民たちが安息日に、品物、すなわち、いろいろな穀物を売りに持って来ても、私たちは安息日や聖日には彼らから買わない」(10:31)。これは抽象的な原則ではなく、日常の誘惑に対する具体的な防波堤である。安息日に商人がやってきて、良い品物を安く売っている——そのとき「今日は安息日だから買わない」と言えるかどうか。出エジプト20:8の「安息日を覚えて」(ザーホール)が、ここでは生活の中の具体的な選択として問われている。

そしてこの契約全体の結論が10:39の最後の一文である。וְלֹא נַעֲזֹב אֶת־בֵּית אֱלֹהֵינוּ(ヴェロー・ナアゾーヴ・エト・ベート・エロヘーヌー)——「こうして私たちは、私たちの神の宮をなおざりにしないのである」。動詞 עָזַב(アーザヴ)は「捨てる・見捨てる・放置する」を意味する。彼らの誓いの核心は、神殿を——すなわち神との交わりの場を——決して見捨てないということだった。

これは出エジプト20:7の第三戒と深く響き合う。御名を「空虚に担う」こととは、まさに神の宮を——神との真実な関係を——なおざりにすることではないか。ネヘミヤの民は、その空虚さを拒み、具体的な行動をもって御名を真実に担おうとしたのである。

エルサレムに住む者たち——献身の地理学

11章に入ると、場面はエルサレムへの住民配置に移る。「民のつかさたちはエルサレムに住んでいたが、ほかの民は、くじを引いて、十人のうちからひとりずつ、聖なる都エルサレムに来て住むようにし、あとの九人をほかの町々に住まわせた」(11:1)。

これが持つ意味を理解するには、当時のエルサレムの状況を知る必要がある。城壁は再建されたが、町の内部はまだ荒廃が残っていた(ネヘミヤ7:4)。エルサレムに住むことは、快適な都市生活を意味しなかった。安全保障上の危険、経済的な不便、そして自分の耕作地から離れるという犠牲を伴った。

だからこそ11:2の記述が光る。「すると民は、自分から進んでエルサレムに住もうとする人々をみな、祝福した」。くじによる義務的な移住とは別に、自発的に聖なる都に住むことを選んだ人々がいた。彼らは祝福された。なぜなら、それは「神の宮をなおざりにしない」という契約を、自分の生活の場所をもって体現する行為だったからである。

ダビデの幕屋の賛美者たちの系譜

11章の人名リストの中に、注目すべき霊的系譜が隠されている。11:17に「ミカの子マタヌヤ。ミカはアサフの子のザブディの子である。マタヌヤは、祈りのために感謝の歌を始める指揮者」とあり、さらに「シャムアの子アブダ。シャムアはエドトンの子のガラルの子」とある。

アサフとエドトン(エドゥトゥーン、יְדוּתוּן)——この二つの名前は、歴代誌上25章に記されたダビデの幕屋における三大音楽指導者のうちの二人である。もう一人はヘマンであった。ダビデの時代に確立された賛美の伝統が、バビロン捕囚という断絶を経てもなお、ネヘミヤの時代に受け継がれていたのである。

さらに11:22では「エルサレムにいるレビ人の監督者はバニの子ウジであった……ウジはアサフの子孫の歌うたいのひとりで、神の宮の礼拝を指導していた」と記される。そして11:23には「彼らについては王の命令があり、歌うたいたちには日課が定められていた」とある。この「王の命令」はペルシア王の命令であるが、その背後にはダビデが定めた礼拝の秩序がある。

賛美は途絶えなかった。神殿が破壊され、民が異国に連れ去られてもなお、賛美者の系譜は保たれていた。これは、10:39の「私たちの神の宮をなおざりにしない」という誓いが、すでに何世代にもわたって賛美者たちの忠実によって守られてきたことを物語っている。ヘマンの名は直接には登場しないが、三本の川のうち二本が確認できるということは、賛美の伝統全体が受け継がれていたことの証しであろう。

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第三部 新約 — ルカの福音書18章1〜17節

諦めない祈り——不正な裁判官のたとえ

ルカ18章はイエスの明確な意図から始まる。「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された」(18:1)。ルカはたとえの目的を先に提示するという手法をしばしば用いるが、ここでは特に「失望してはならない」という点に力が置かれている。原語では μὴ ἐγκακεῖν(メー・エンカケイン)で、「意気消沈する・疲れ果ててやめてしまう」という意味である。祈りの最大の敵は、反対ではなく疲弊なのだ。

たとえに登場するのは、「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」(18:2)である。古代イスラエルの裁判官は神の律法に基づいて正義を行う責任を担っていた。神を恐れず人を顧みないという描写は、裁判官として最も不適格な人物像である。

そこにひとりのやもめが繰り返しやって来る。「私の相手をさばいて、私を守ってください」(18:3)。古代社会においてやもめは最も弱い立場にあった。夫という法的保護者を失い、自分で訴訟を起こすしかない。彼女には権力も財力もコネクションもない。あるのはただ来続けるという執念だけである。

裁判官はついに根負けする。「どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう」(18:5)。ここで「うるさくてしかたがない」と訳されている原語は ὑπωπιάζῃ(ヒュポーピアゼー)で、これは本来「目の下を打つ・顔を殴る」を意味するボクシング用語である。比喩的に「へとへとにさせる・参らせる」という意味で使われているが、このやもめの粘り強さがいかに激しいものであったかが伝わってくる。

カル・ヴァホメル——「まして神は」

イエスはここでラビ的論法のカル・ヴァホメル(קַל וָחוֹמֶר、「軽きものから重きものへ」)を用いる。これは「小さな事例で成り立つなら、大きな事例ではなおさら成り立つ」という論証法である。

「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか」(18:6-7)。

論理はこうだ。不正な裁判官ですら、しつこい訴えに応じた。まして、義なる神が——愛する子どもたちの叫びを——無視されるはずがない。不正な裁判官は自分の都合で動いたが、神はその本質として正しく、愛に満ちておられる。裁判官とやもめの間には何の関係もなかったが、神と選民の間には契約の絆がある。あらゆる点において、神が応答される確かさは裁判官の比ではない。

「あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます」(18:8a)。「すみやかに」は ἐν τάχει(エン・タケイ)で、これは「速やかに・遅滞なく」を意味する。神の時間軸は人間の期待通りではないかもしれない。しかし神の側に遅延や怠慢はない。応答は確実であり、神の定めた時に必ず成就する。

「はたして地上に信仰が見られるでしょうか」

しかしイエスはここで、たとえの論点を鮮やかに反転させる。「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」(18:8b)。

この問いかけは衝撃的である。問題は神が聞いてくださるかどうかではなかった。問題は、人が祈り続けるかどうかなのだ。神の誠実さは疑いない。揺らいでいるのは人間の側である。やもめの粘り強さが称賛されているのは、まさにこの点においてである。彼女は応答がない期間も諦めなかった。

ここに信仰の本質がある。信仰とは、神の応答が見えない時にも神の品性を信頼し続けることである。ネヘミヤの民が「神の宮をなおざりにしない」と誓ったのも、目に見える祝福があったからではなく、まだ荒廃の残るエルサレムで、将来の回復を信じて具体的な献身を選び取ったのだ。

パリサイ人と取税人——二つの祈り

18:9からイエスは別のたとえに移る。対象は「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たち」(18:9)である。

パリサイ人の祈りは一見すると感謝の祈りである。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております」(18:11-12)。

内容だけを見れば、彼の言っていることは事実かもしれない。律法を守り、断食し、十分の一を献げている。問題は祈りの方向である。原文では「立って、自分に向かってπρὸς ἑαυτόν、プロス・ヘアウトン)こんな祈りをした」とある。この πρὸς ἑαυτόν の解釈には議論があるが、「心の中で」とも「自分自身に対して」とも読める。いずれにせよ、この祈りは神に向かっているようで、実は自分自身に向かっていた。神の前に立ちながら、見ているのは自分の実績と他者との比較である。

ここに出エジプト20:7の第三戒との繋がりが見える。パリサイ人は神の名を呼んでいる。宮で祈っている。しかしその祈りの実質は空虚שָׁוְא、シャーヴ)である。神の御名を口にしながら、実際には自分を誇っている。これこそ御名を空虚に担う姿の一つの現れではないだろうか。

対照的に、取税人は「遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください』」(18:13)。

「あわれんでください」と訳されている ἱλάσθητί μοι(ヒラスティーティ・モイ)は、通常の「あわれみ」(ἐλέησον、エレエーソン)とは異なる語である。ἱλάσκομαι(ヒラスコマイ)は「なだめの供え物をもって和解させる・贖う」を意味し、レビ記の贖罪の犠牲と直結する語彙である。取税人は単に「かわいそうだと思ってください」と言っているのではない。「神の犠牲的な恵みによってのみ、私は立つことができます」と告白しているのだ。

パリサイ人は自分の行いのリストを持って神の前に立った。取税人は空の手で神の前に立った。しかし空の手こそが、神の恵みを受け取ることのできる手である。

イエスの判定は明確である。「この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません」(18:14)。そして原則が語られる。「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」。

ここで正直に言えば、このたとえの難しさは、自分がどちらの側にいるかが常に入れ替わることにある。取税人の祈りに感動し、「ああ、私もこのように祈ろう」と思った瞬間に、「パリサイ人のようではないことを感謝します」というパリサイ人の祈りに限りなく近づいてしまう。他者の礼拝の姿勢を見て内心で評価してしまう自分に気づくとき、そしてまた別の場面で優れた礼拝を見て自分を卑下するとき——比較の軸の上にいる限り、パリサイ人的な構造から抜け出すことは難しい。

しかしこのたとえが語られた目的は、私たちを絶望させることではない。取税人のように胸を打って立ち帰ることが何度でも赦されているということ、それこそがこのたとえの福音である。

子どもたちを来させなさい——受け取る姿勢

18:15-17は、前の二つのたとえの結論として読むことができる。「人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちがそれを見てしかった」(18:15)。弟子たちが子どもを退けた理由は記されていないが、おそらく子どもにはイエスの教えを理解する能力がないと考えたのだろう。

しかしイエスの応答は逆転である。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです」(18:16)。

ここで「このような者たち」(τοιούτων、トイウートーン)とは、子どもの特定の美徳——純粋さや無垢さ——を指しているのではない。18:17の「子どものように神の国を受け入れるδέξηται、デクセータイ)者」が鍵である。子どもは自分の実績で何かを獲得する力を持たない。子どもにできるのは、差し出されたものをただ受け取ることだけである。

パリサイ人は自分の断食と献金のリストを持って神の前に来た。取税人は空の手で来た。そして子どもは、手を差し出すことしかできない存在として来る。神の国は、そのように受け取る者のものである。

ここにやもめの祈りとの繋がりもある。やもめもまた、自分には権力も財力もなく、ただ繰り返し裁判官の前に来ることしかできなかった。子どものように無力で、しかし諦めずに来続ける——それが「地上に見られる信仰」の姿なのかもしれない。

祈りにおいても、礼拝においても、奉仕においても、問われているのは能力や実績ではなく、受け取る姿勢である。自分の賛美が上手いか下手か、自分の祈りが他の人より深いか浅いか——そうした比較の軸から降りて、子どものようにただ主の前に来ること。完璧な礼拝者であることよりも、真心をもって手を差し出すこと。その差し出された手に、神は必ず応えてくださる。

第四部 全体の一貫性 — 御名を担い、子どものように受け取る

空虚さと真実さの対比

今日の三つの通読箇所を貫くのは、神との関係における「空虚さ」と「真実さ」の対比というテーマである。

出エジプト20:7で神は「御名を空虚に(לַשָּׁוְא、ラッシャーヴ)担ってはならない」と命じた。ルカ18:11でパリサイ人は神の宮で祈りながら、実際には自分自身に向かって語っていた。両者に共通するのは、神の名や神の場所と関わりながら、その中身が空洞化しているという問題である。

形は整っている。パリサイ人は宮に上り、祈りの姿勢をとり、神の名を呼んでいる。しかしその祈りの内実は、自分の実績の陳列と他者との比較であった。御名を口にしながら御名を空虚にする——これが第三戒の警告する最も深い次元での違反である。

一方、取税人の祈りは短く、内容も「罪人の私をあわれんでください」の一言だけである。しかしその一言に、神の犠牲的贖いへの全面的な信頼が込められていた。形は貧しく見えるが、中身は神の恵みで満ちていた。御名を真実に担うとは、このように神の前で自分の空虚さを認め、神の豊かさによって満たされることを求める姿勢なのである。

契約を「形」にした人々

ネヘミヤ10章の民は、この「真実さ」を具体的な行動として形にした人々である。

興味深いことに、ネヘミヤの民の誓約内容とパリサイ人の自己申告には重なりがある。パリサイ人も断食し、十分の一を献げていた(ルカ18:12)。ネヘミヤの民も十分の一を誓約した(ネヘミヤ10:37)。行為そのものは同じでありながら、一方は神の前に義と認められず、他方は「神の宮をなおざりにしない」という真実な献身として記録されている。

違いはどこにあるのか。ネヘミヤの民は、9章で自分たちの歴史的な不忠実を徹底的に告白した上で、10章の契約に署名している。つまり彼らの誓約は、自分の義の証明ではなく、繰り返し失敗してきた者たちの悔い改めの応答であった。パリサイ人に欠けていたのは、まさにこの自覚である。

ネヘミヤ10:29は「のろいと誓いとに加わった」と記す。契約に「のろい」が含まれているのは、彼らが自分たちの弱さを知っていたからである。守れなかった場合の責任を引き受ける覚悟——それは自分の力への信頼ではなく、自分の弱さを知りつつ、それでも神に向かって歩むという決意の表れであった。

安息日——空虚さから解放されるリズム

三箇所を繋ぐもう一つの糸は、安息日である。

出エジプト20:8-11は安息日を創造の秩序に根拠づけた。ネヘミヤ10:31は安息日を日常の経済活動の中で守ることを誓約した。そしてルカ18章では、安息日という語は直接出てこないが、その本質が別の形で語られている。

安息日の核心は、人間の営みを中断して神に向き直ることである。やもめの祈りは、まさにこの安息日的な姿勢の連続形とも言える。日常の中で繰り返し神の前に出ること——それは週に一度の安息日だけでなく、生活のすべての場面で神に向き直り続けるということだ。

パリサイ人の問題は、安息日的な中断ができなかったことにあるとも言える。彼は自分の宗教的業績を積み上げ続けており、立ち止まって自分の空虚さに向き合うことをしなかった。一方、取税人は宮の中で立ち止まった。遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、胸を打った。それは彼なりの安息——自分の力で何かを達成しようとすることを完全にやめ、神の恵みの前に静まる瞬間——であった。

出エジプト20:11は、神が七日目に休まれた理由として創造の完成を挙げている。神の安息は、すべてが「非常に良い」と宣言された後の、完成の中の憩いであった。私たちの安息はそれとは異なり、自分が完成していないことを認めた上で、完成者なる神に委ねる行為である。しかしだからこそ、安息は恵みなのだ。完成していなくても安息に招かれている。完璧でなくても主の前に出ることが許されている。

子どものように——神の宮をなおざりにしない方法

ルカ18:17の「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません」という言葉は、今日の通読全体の鍵を握っている。

ネヘミヤ11章で自発的にエルサレムに住むことを選んだ人々は、祝福された(11:2)。彼らは荒廃の中にある聖なる都で、不便と犠牲を引き受けた。それは「神の宮をなおざりにしない」という誓いの最も文字通りの実行である。しかしその行為の動機を考えるとき、それは宗教的義務感だけではなかっただろう。聖なる都に住みたい、神の宮の近くにいたい——その願いの中に、子どものような単純な渇望があったのではないだろうか。

御名を真実に担うということは、結局のところ、子どものように神の前に出続けることに帰着する。自分の実績を持って来るのではなく、空の手で来る。自分が理解できないことを素直に「わかりません」と言う。応答が見えなくても諦めずに来続ける。そしてその手に差し出されたものを、喜んで受け取る。

ネヘミヤの民が「すべて理解できるまでになった者」(10:28)として契約に加わったのも、すべてを完璧に理解したという意味ではない。理解しようと求め続けた者、知ろうと努力し続けた者——すなわち、子どものように「なぜ?」「どうして?」と問い続けた者たちが、契約の民に数えられたのだ。

11章のアサフとエドトンの子孫たちは、捕囚を経てもなお賛美を受け継いでいた。彼らの賛美は、すべてが順調だった時代の賛美ではない。神殿破壊、異国への追放、帰還後の苦難——それらすべてを通り抜けた後の賛美である。完璧な環境での完璧な礼拝ではなく、不完全な状況の中での真実な礼拝。それでも「神の宮をなおざりにしない」と決めた者たちの歌声が、エルサレムに再び響いていた。

御名を空虚にしない方法は、自分をより優れた宗教者にすることではない。子どものように主の前に来て、取税人のように胸を打ち、やもめのように諦めずに祈り続け、ネヘミヤの民のように具体的な献身を日々選び取ること——それが、神の宮をなおざりにしない生き方である。そしてその歩みの中で、主ご自身が私たちの空虚さを満たし、御名にふさわしい者へと造り変えてくださる。

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