聖書箇所:創世記27章18-46節、第二サムエル記2-3章、マタイ25章14-46節
はじめに
今日の通読箇所は、一見すると全く異なる三つの物語です。ヤコブの欺き、ダビデ王国の分裂、そしてタラントのたとえと最後の審判。しかし、これらを貫く一つの糸があります。それは神の主権的な計画が、人間の不完全さや罪深さを通してさえ成就するという真理です。
同時に、私たちには忠実さが求められます。神が主権者であることと、私たちが責任を持って応答することは、矛盾しません。むしろ、この両者の緊張関係の中にこそ、信仰の歩みがあるのです。
1. 創世記27章:欺きを通して成就する神の約束
イサクが騙された経緯
創世記27章は、読者を不快にさせる箇所です。リベカとヤコブは、老いて目の見えないイサクを欺いて、本来エサウに与えられるはずの祝福を横取りします。
イサクは違和感を感じていました。
「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ」(創世記27:22)
声で気づき、手で確かめ、さらに口づけの時には匂いでも確認しています(27:27)。それでも、義人イサクは騙されてしまいました。
なぜ神はこの欺きを止めなかったのか
ここで私たちが問うべきは、「なぜ神はこの欺きを止めなかったのか」です。
神はリベカの胎内にいた時から、「兄が弟に仕える」(創世記25:23)と告げていました。つまり、神の計画は明確でした。リベカもヤコブもこの約束を知っていたのです。
しかし、彼らは待つことができなかった。そして、自分たちの手で神の約束を実現しようとしました。これはアブラハムとハガルのパターン(創世記16章)の繰り返しです。
興味深いのは、神がこの欺きを止めなかったことです。イサクの目を開くこともできたはずです。リベカの計画を暴露することもできました。しかし、神はそうされませんでした。
これは、神の約束は人間の失敗に依存していないことを示しています。ヤコブは後に20年間ラバンに騙され続け、自分の欺きの報いを刈り取ります(創世記29-31章)。罪には必ず結果があります。しかし、神の計画は進みます。
「奮い立つならくびきを解き捨てる」の意味
エサウへの祝福の中に、興味深い一節があります。
「おまえが奮い立つならば、おまえは彼のくびきを自分の首から解き捨てるであろう」(創世記27:40)
ヘブライ語で「奮い立つ」は**תָּרִיד (tarid)**で、「暴れる、反抗する、支配から解放される」という意味があります。これは単なる努力ではなく、既存の支配関係に対する根本的な挑戦を意味します。
歴史的に、エドム(エサウの子孫)は何度かイスラエルの支配から独立を勝ち取りました(列王記第二8:20-22)。
しかし、霊的な適用としては、真の自由は神への従順から来るという解釈も可能です。どんな状況にあっても、主の前に立ち返り、悔い改めて従うなら、くびきは解かれるのです。
イサクの死のタイミングについて
27章41節でエサウが「父の喪の日も近づいている」と言っていますが、実際にイサクが死ぬのは創世記35章28-29節で、ヤコブがラバンのもとから戻った後、数十年後のことです。
これは時系列の混乱ではなく、エサウの見込みです。イサクは老いて目が見えなくなっていたので、エサウは「もうすぐ死ぬだろう」と考えたのです。
27章46節でリベカがイサクに話しかけているのは、エサウの殺意を知ったリベカが、別の理由(ヘテ人との結婚問題)を持ち出してヤコブを送り出す許可を得ようとしているのです。聖書の記述は、時系列よりも主題的なまとまりを優先することがあります。
2. 第二サムエル記2-3章:分裂王国と血の報い
サウルの死後、分裂するイスラエル
サウルとヨナタンがペリシテ人との戦いで死んだ後、イスラエルは二つに分裂します。
ユダ王国(南)
- 王:ダビデ
- 首都:ヘブロン
- 将軍:ヨアブ(ツェルヤの子)
- 期間:7年6ヶ月
イスラエル王国(北)
- 王:イシュ・ボシェテ(サウルの子)
- 首都:マハナイム(ヨルダン川東岸)
- 将軍:アブネル(実質的な権力者)
- 期間:2年間のみ
「ダビデはますます強くなり、サウルの家はますます弱くなった」(第二サムエル記3:1)
ダビデの慎重な態度
ダビデは常に主に伺いを立てて行動しました。
「ダビデは主に伺って言った。『ユダの一つの町へ上って行くべきでしょうか』」(第二サムエル記2:1)
しかし、2章で起こった戦いは、ダビデの認可なしで始まりました。アブネルが軽率にも提案したのです。
「さあ、若い者たちを出して、われわれの前で闘技をさせよう」(第二サムエル記2:14)
これは**חָזַק (chazaq)「力を示す」**という虚栄心から出た行為でした。24人が互いに殺し合い、その後、本格的な戦いに発展しました。
軽率な提案が大きな流血を招く――これはリーダーシップにおける重要な教訓です。
アブネルの傲慢と転落
アブネルの転落は、彼自身の傲慢から始まりました。
まず、ギブオンでの闘技の提案。次に、アサエルを殺さざるを得なくなったこと(第二サムエル記2:22-23)。そして最後に、イシュ・ボシェテのそばめリツパに手を出すという致命的な過ちです(第二サムエル記3:7)。
古代近東では、王のそばめを取ることは王位を主張する行為でした。アブネルは実質的に「自分こそが王だ」と宣言したも同然だったのです。
「サウルの家とダビデの家とが戦っている間に、アブネルはサウルの家で勢力を増し加えていた」(第二サムエル記3:6)
**「勢力を増し加えていた」**時が、最も危険な時です。成功が人を傲慢にし、転落を招くのです。
ヨアブの復讐とダビデの無力感
アブネルがダビデと和平交渉を終えて帰った後、ヨアブはダビデに知らせることなく独断でアブネルを呼び戻し、暗殺しました(第二サムエル記3:26-27)。
これはヨアブの弟アサエルの復讐でした。しかし、アブネルは和平の使者として来ていたのですから、これは重大な国際的犯罪でした。
ダビデの反応は注目に値します。
「この私は油そそがれた王であるが、今はまだ力が足りない。ツェルヤの子らであるこれらの人々は、私にとっては手ごわすぎる」(第二サムエル記3:39)
ツェルヤはダビデの姉妹です(歴代誌第一2:16)。つまり、ヨアブはダビデの甥です。勇敢な戦士でしたが、しばしば独断専行し、ダビデを困らせました。
どんなに敬虔な指導者でも、すべてをコントロールすることはできません。
ダビデができたのは:
- 公に立場を明確にすること(アブネルの死は私の意志ではない)
- 断食と悲しみによって誠実さを示すこと
- 神に最終的な裁きを委ねること(「主が悪を行う者に報いてくださるように」3:39)
これは無力さを受け入れる知恵です。教会や組織の中で、すべてを正すことができないと感じる時、ダビデのこの姿勢が助けになります。
ダビデの公的な悲しみの意味
ダビデはアブネルのために断食し、公に悲しみました。
「もし私が、日の沈む前にパンでも、ほかの何物でも味わったなら、神がこの私を幾重にも罰せられますように」(第二サムエル記3:35)
これは単なる個人的な悲しみではなく、政治的な宣言でした。民に「アブネルの死は王の命令ではない」ことを示す必要があったのです。
「それで民はみな、すなわち、全イスラエルは、その日、ネルの子アブネルを殺したのは、王から出たことではないことを知った」(第二サムエル記3:37)
誠実さを公に示すこと――これがダビデの知恵でした。そして、この誠実さが、最終的に全イスラエルの信頼を勝ち取り、統一王国への道を開いたのです。
3. マタイ25章:タラントのたとえと最後の審判
タラントを隠す「恐れ」
タラントのたとえ(マタイ25:14-30)で、1タラントの僕が語った言葉に注目してください。
「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました」(マタイ25:24-25)
ギリシャ語で「こわくなり」は**φοβέομαι (phobeomai)**で、「麻痺するような恐れ」を意味します。
この僕は主人に対する歪んだイメージを持っていました。そして、その歪んだイメージが彼を麻痺させたのです。
「失敗したら怒られる」 「完璧にできないなら、やらない方がいい」 「どうせ私の働きは評価されない」
こういう思いが、タラントを地に埋めさせます。
しかし、主人の本当の姿は、5タラントと2タラントの僕への言葉に現れています。
「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」(マタイ25:21, 23)
主人が喜ぶのは**「成功」ではなく「忠実さ」**です。
「銀行に預ける」という選択肢
主人は1タラントの僕に言います。
「だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ」(マタイ25:27)
これは興味深い指摘です。もし自分で直接働くことができないなら、他の人に託すという選択肢もあったのです。
私たちの人生にも、体調不良や環境の変化で、直接働けない時があります。そんな時、「何もできない」と諦めるのではなく、「誰かに種を蒔いてもらう」ことを考えることができます。
祈りを依頼すること、他の奉仕者を励ますこと、伝道資料を配ること――これらも「銀行に預ける」ことの一形態です。
イサクに学ぶ忠実な応答
ところで、「忠実さ」について、創世記26章のイサクの姿勢から学ぶことができます。
イサクがゲラルに滞在していた時、主は彼に現れてこう言われました。
「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに」(創世記26:24)
イサクはこの主の言葉に、どう応答したでしょうか。
「イサクはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべらは、そこに井戸を掘った」(創世記26:25)
イサクの応答には四つの行動がありました:
- 祭壇を築いた(礼拝の場を整える)
- 主の御名によって祈った(神との交わり)
- 天幕を張った(そこに住むことを決めた)
- 井戸を掘った(具体的な労働、生活の基盤を築く)
これが忠実な奉仕の姿勢です。
主が「わたしがあなたとともにいる」と言われた時、イサクは単に「ありがとうございます」と言っただけではありませんでした。彼は具体的な行動で応答しました。
礼拝し、祈り、そこに住み、働く――これらは別々のことではなく、一つの忠実な応答なのです。
タラントのたとえで、5タラントと2タラントの僕が褒められたのは、彼らが預かったものに対して具体的に行動したからです。祭壇を築き、祈り、天幕を張り、井戸を掘る――この一連の行動こそが、「主がともにいてくださる」という約束への、誠実な応答なのです。
恐れに支配されて何もしないのではなく、主の約束を信じて、今いる場所で具体的に動く――これが忠実さです。
羊と山羊の分離――気づかない善行の美しさ
最後の審判の場面(マタイ25:31-46)で、最も美しいのは、羊たちが自分の善行を覚えていないことです。
「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか」(マタイ25:37)
彼らは意識せずに善を行っていました。「これで天国に行けるポイントが貯まる」と計算していなかった。ただ、目の前の必要に応えただけ。
これが本物の信仰です。
形式的に「良い行い」をチェックリストのように消化していく人もいます。でも、それは神の国の原理ではありません。神の愛が内に満ちている人は、自然に周りの必要に応答するのです。
「わたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たち」とは誰か
「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)
この「わたしの兄弟たち」が具体的に誰を指すかについては、解釈が分かれます:
- ユダヤ人/イスラエル民族
- すべての困窮している人々
- キリストの弟子たち
マタイ福音書全体のテーマ(イスラエルの王としてのメシア)を考えれば、イスラエル民族への態度も含まれると考えるのが自然です。
使徒パウロはローマ11章28節でこう言っています。
「彼らは福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです」
イスラエルは福音を拒んでいますが、神の選びは変わりません。そして、終わりの時代には「すべてのイスラエルが救われる」(ローマ11:26)とパウロは預言しています。
イスラエルへの態度――現代への適用
現代において、イスラエルに対する態度は分かれています。パレスチナ問題の複雑さもあり、「イスラエルは抑圧者だ」と見る人もいます。
しかし、クリスチャンとして私たちが忘れてはならないのは、神のイスラエルへの契約は変わらないということです。
もちろん、「パレスチナの人々が可哀そう」という感情自体は間違っていません。問題は、それがイスラエルへの憎しみに変わることです。
神は「すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられ」ます(1テモテ2:4)。イスラエルの民のためにも、パレスチナの人々のためにも、私たちは祈ることができます。
ゼカリヤ書12章3節には、終わりの時代の預言があります。
「その日、わたしはエルサレムを、すべての国々の民にとって重い石とする。すべてそれをかつぐ者は、ひどく傷を受ける。地のすべての国々は、それに向かって集まって来よう」
イスラエルは「よろめかす杯」(ゼカリヤ12:2)となり、世界中の国々が揺り動かされます。この時、私たちがイスラエルを祝福するか、呪うかが問われるのです。
創世記12章3節のアブラハムへの約束を思い起こしてください。
「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう」
これはイスラエルの政策を無批判に支持することではありません。しかし、神がイスラエルを選ばれた事実を否定しないこと、そしてイスラエルの救いのために祈ることは、聖書的な態度です。
まとめ:神の主権と私たちの忠実さ
今日の三つの箇所から、私たちは何を学ぶでしょうか。
1. 神の計画は人間の失敗を通してさえ成就する
ヤコブは欺きました。ヨアブは殺人を犯しました。アブネルは傲慢でした。しかし、神の計画は進みました。
これは罪を正当化するものではありません。ヤコブもヨアブも、その罪の結果を刈り取りました。しかし、神の約束は人間の失敗に依存していないのです。
これが私たちの希望です。私たちが不完全でも、神は真実な方です。
2. 完璧さではなく忠実さが求められる
タラントのたとえが教えるのは、「成功」ではなく「忠実さ」です。
5タラントの人も2タラントの人も、同じ言葉で褒められました。大切なのは、預かったものに忠実であることです。
与えられた働き――それが何であれ、「完璧」である必要はありません。誠実に、今できる最善を尽くすこと。それが神が求めておられることです。
3. 無力さを受け入れ、神に委ねる
ダビデは「ツェルヤの子らは私にとって手ごわすぎる」と言いました。王でさえ、すべてをコントロールすることはできませんでした。
私たちも同じです。教会で、職場で、家庭で――すべてを正すことはできません。
でも、ダビデのように:
- 公に立場を明確にする
- 誠実さを示す
- 神に裁きを委ねる
これらはできます。そして、これで十分なのです。
4. 小さな愛の行為が永遠につながる
羊たちは、自分の善行を覚えていませんでした。しかし、その小さな愛の行為が、永遠のいのちにつながりました。
私たちも、意識せずに行う親切、何気ない励まし、ふとした祈り――これらが神の目には大きな価値があるのです。
終わりに
ヤコブの欺き、ダビデの王国分裂、タラントのたとえ――これらの物語は、完璧な人間など一人もいないことを示しています。
しかし同時に、神は不完全な私たちを用いてくださるのです。
完璧である必要はありません。でも、誠実である必要があります。
今日、あなたに預けられているタラントは何でしょうか。それは大きなものかもしれないし、小さなものかもしれません。でも、それを地に埋めないでください。
恐れる必要はありません。主人は「蒔かない所から刈り取る」厳しい方ではなく、「よくやった。良い忠実なしもべだ」と言ってくださる、恵み深い方なのですから。
そして、「最も小さい者たち」への愛を忘れないでください。それは目の前の困っている人かもしれないし、神が今も愛しておられるイスラエルの民かもしれません。
「地に住み、誠実を養え」(詩篇37:3)
この御言葉のように、今日も、私たちの場所で、誠実に歩んでいきましょう。
【図解】サウルの死後のイスラエル分裂状況
⚔️ サウルの死後のイスラエル分裂 ⚔️
サムエル記第二 2章〜3章
ユダの王ダビデ vs イスラエルの王イシュ・ボシェテ
📅 時系列の概要
- 期間:ダビデはヘブロンで7年6ヶ月ユダの王として統治
- イシュ・ボシェテ:2年間だけイスラエルの王(その後暗殺される)
- 結果:最終的に全イスラエルがダビデの下に統一される
ユダ王国
- ユダ部族の全領土
- ヘブロンとその周辺
- 南部地域
• ユダ族からの支持
• 神の選びの王
• サウルを敬った実績
イスラエル王国
サウルの子、40歳で即位
ヨルダン川東岸・ギルアデ地方
実質的な権力者
- ギルアデ(Gilead)- 東岸
- アシュル人(Ashurites)- 東岸
- イズレエル(Jezreel)- 西岸北部
- エフライム(Ephraim)- 西岸中部
- ベニヤミン(Benjamin)- 西岸中部
- 全イスラエル(ユダを除く)
• イシュ・ボシェテは傀儡王
• 神の油注ぎを受けていない
• 内部対立が激化
🗺️ 地理的配置図
ル
ダ
ン
川
🌍 トランスヨルダンとは?
トランスヨルダン(Trans-Jordan)は「ヨルダン川の向こう側」という意味のラテン語由来の地理用語です。聖書学では通常、ヨルダン川の東側の地域を指します。ヘブライ語では「עֵבֶר הַיַּרְדֵּן」(エヴェル・ハヤルデン)と言います。
なぜマハナイムが首都に?
- ギルボア山の戦いでペリシテ人が西側を制圧していた
- ヨルダン川東側は山岳地帯で防御に有利
- ペリシテ人の勢力圏から離れた安全な場所だった
「渡らせた」(עָבַר / アーヴァル)という動詞が2章8節で使われているのは、ヨルダン川を渡って東側に逃れたことを示しています。
⚔️ 主な衝突と出来事
1. ギブオンの池での闘技(サムエル記第二 2章12-17節)
場所:ギブオンの池
発端:アブネルが提案「さあ、若い者たちを出して、われわれの前で闘技をさせよう」
結果:両軍から12人ずつ、計24人が互いに殺し合う。その後、本格的な戦いに発展し、アブネルとイスラエル軍が敗北。
教訓:軽率な提案が大きな流血を招いた。アブネルの傲慢さが悲劇の始まり。
2. アサエルの死(サムエル記第二 2章18-23節)
人物:アサエル(ヨアブの弟、ツェルヤの子)- 「野のかもしかのように足が早かった」
経緯:敗走するアブネルを執拗に追跡。アブネルは何度も警告したが、アサエルは聞かず。
結末:アブネルは槍の石突きでアサエルの下腹を突き刺し、殺害。
影響:この出来事が後にヨアブの復讐心を生み、アブネル暗殺の原因となる。
3. アブネルとイシュ・ボシェテの対立(サムエル記第二 3章6-11節)
原因:アブネルがサウルのそばめリツパと通じたことをイシュ・ボシェテが咎めた。
アブネルの反応:激怒し、ダビデに寝返ることを決意。
意味:王のそばめを取ることは、王位を主張する行為。アブネルの傲慢さが露呈。
4. アブネルの暗殺(サムエル記第二 3章22-30節)
状況:アブネルがダビデと和平交渉を終え、安心して帰途についた後。
実行者:ヨアブ(ダビデに知らせず独断で行動)
方法:アブネルをシラの井戸から呼び戻し、門のとびらの内側で下腹を突いて殺害。
動機:弟アサエルの復讐
ダビデの反応:断食し、公に悲しみ、ヨアブの家を呪った(3章28-29節)
✅ 分裂の結末と教訓
🎯 最終結果
- イシュ・ボシェテは2年間の統治の後、家臣によって暗殺される(サムエル記第二 4章)
- 全イスラエルの長老たちがヘブロンのダビデのもとに来て、彼を全イスラエルの王として油注ぐ
- ダビデは30歳で王となり、40年間統治する(ヘブロンで7年6ヶ月、エルサレムで33年)
📖 霊的教訓
- 神の選びは必ず成就する:ダビデは神に油注がれた王。人間の策略や抵抗も、神の計画を止めることはできない。
- 傲慢は滅びを招く:アブネルの軽率な闘技の提案、そばめを取る行為が、最終的に自分の死を招いた。
- 復讐は新たな悲劇を生む:ヨアブの復讐心が無実のアブネルを殺し、ダビデを困らせた。
- リーダーシップの限界:ダビデでさえ、すべてをコントロールすることはできなかった。「ツェルヤの子らは私にとって手ごわすぎる」
- 誠実さの力:ダビデは公に立場を明確にし、断食と悲しみによって誠実さを示した。これが民の信頼を得た。
🙏 現代への適用
- 神の時を待つことの大切さ(ダビデは主に伺いを立て続けた)
- 成功した時こそ謙遜であること(アブネルは勢力が増した時に傲慢になった)
- 完全なコントロールを求めず、神に委ねること(ダビデの姿勢)
- 公の場で誠実さを示すこと(ダビデの断食と悲しみ)
「主があなたがたに恵みとまことを施してくださるように。この私も、あなたがたがこのようなことをしたので、善をもって報いよう。」
(サムエル記第二 2章6節 – ダビデのことば)
この図解では、ユダ王国(ダビデ)とイスラエル王国(イシュ・ボシェテ)の対立構造、主要人物、そして衝突の経緯を視覚的に理解できます。
参考聖句
- 創世記25:23(ヤコブへの預言)
- 列王記第二8:20-22(エドムの独立)
- 歴代誌第一2:16(ツェルヤとダビデの関係)
- ローマ11:25-29(イスラエルの救い)
- ゼカリヤ12:2-3(エルサレムをめぐる戦い)
- 詩篇37:3(地に住み、誠実を養え)
【祈り】
天の父よ、あなたは不完全な私たちを愛し、用いてくださる方です。私たちの失敗をも、あなたのご計画の中に織り込んでくださいます。今日、私に預けられているタラントを、恐れずに用いることができますように。完璧さではなく、誠実さを求めて歩むことができますように。そして、あなたが愛しておられるすべての人々、特にイスラエルの民が、あなたの救いを知ることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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