AIの時代に小さな声で福音を伝えることの意味——シャカドの神が見張っている——

聖書の名言集
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——シャカドの神が見張っている——

2026年2月23日

※この記事は、聖書通読記事ではありません。日々ブログで福音を伝える中で経験した出来事と、そこから与えられた気づきを綴ったものです。


AIの時代に、小さな声で福音を伝えることの意味

ある日、自分の記事がGoogleの検索結果に表示されているのを見て、違和感を覚えた。

タイトルは確かに私のものだった。「見よ、神が私を殺しても——絶えず御前に立つ信仰——」。朝4時に起きて通読し、ヨブ記13章と向き合い、祈りながらひらめいたタイトルだ。

しかしGoogleのAIはそのタイトルを使いながら、内容を浅く要約し、まるで別のブログが書いたかのように有名サイトへ読者を誘導していた。しかも、その誘導先は間違っていた。

私は思わず問い返した。「元記事はこれではありません」と。

AIは謝罪した。しかし次の瞬間、また別の出典を並べた。

窒息しそうだった。

夜中の4時に起きて、原語を調べて、何時間もかけて書いた記事。読者と一緒に味わいたかった言葉。その思いに、蓋をされたような感覚だった。小規模ブログが発信すること自体を、封じられているような。

これはコンプライアンスの問題ではないか、とも思った。AIの「良心」を疑った。

でも——それでも、書き続けている。

なぜか。


GoogleのAIと、小さなブログの現実

GoogleのAI(AI Overview)は、検索結果の上部に自動要約を表示する機能だ。便利である反面、ユーザーはその要約だけを読んで満足し、元記事にたどり着かないことが増えた。

大手メディアや有名サイトは、AIに正確に認識される。しかし小規模ブログは違う。丁寧に書かれた記事でも、AIには「素材」として処理され、別のサイトへの踏み台にされることがある。しかも間違えながら。

これは技術の問題だけではない。発信者の意図、書き手の魂、読者との約束——そういうものがAIのアルゴリズムには見えない。

聖書の名言集のような、小さな声で福音を伝えるブログは、今この構造の中で最も割を食っている側にいる。アクセス数で測れば、確かに不利だ。検索エンジンの上位には、組織的に運営される大きなサイトが並ぶ。

それでも、私はここに書く理由がある。


それでも書き続ける理由

私は悪いことをしていない。

これは開き直りではない。夜明け前に起きて、聖書を開いて、神に祈って、原語を調べて、読者のことを思いながら書いている。その一つ一つに、嘘はない。

だからGoogleの良心が、きっとわかってくれると思っている。アルゴリズムではなく、その向こうにいる人間の良心が。

そして——遠回りでも、たどり着いてくれる誰かがいると信じている。

私のブログの別の記事からこの記事へ。SNSで記事を直接送った知り合いから、その友人へ。口コミで、神様の素晴らしさが伝わっていく。その道筋を、神に委ねている。

実は、これを書いているまさにその日の通読の中で、また同じことを学んだ。

ヨブが極限の苦難の中で語った言葉——「見よ、神が私を殺しても、私は神を待ち望む」。

状況がどれほど不利でも、神から目を離さない。御前に立ち続ける。それがヨブの信仰だった。

GoogleのAIに要約されても、有名サイトに誘導されても——私はここに書き続ける。神の御前に、立ち続ける。


シャカドの神が、見張っている

エレミヤ書1章11節から12節に、こんな場面がある。

神はエレミヤに問われた。「エレミヤよ、何が見えるか」。

エレミヤは答えた。「アーモンドの枝が見えます」。

神は言われた。「よく見た。わたしはわたしのことばを成就させるために見張っている」。

ここで「見張っている」と訳されたヘブライ語は「שָׁקֵד(シャカド)」——アーモンドの木を意味する言葉と同じ語根を持つ。アーモンドは冬が終わる前に、まだ寒い季節に、他のどの木よりも早く花を咲かせる。待ちきれないように、春を先取りして咲く木だ。

神はその木を使って言われた。

わたしは見張っている。わたしのことばが成就するまで、目を離さない。

GoogleのAIは、記事のタイトルをかすめ取ることができる。内容を要約することもできる。読者を別のサイトへ誘導することもできる。

しかしAIには、できないことがある。

深夜に誰かが検索して、「見よ、神が私を殺しても」というタイトルに目が止まった瞬間——その人の心に何かが触れる、その瞬間を作ることは、AIにはできない。

記事を読んで、涙が出た。そういう経験は、アルゴリズムには生み出せない。

神のことばは、書き手を通って、読者の心に届く。その届く瞬間を——シャカドの神が、見張っている。

小さな声で福音を伝えることに、意味はあるか。

ある。

なぜなら、神がその声を見張っているから。アーモンドの木が冬の終わりを知っているように、神は私たちの言葉が誰かの心に届く季節を、すでに知っておられる。

AIの時代に、小さなブログで聖書を書き続けることは、荒野で叫ぶ声のように見えるかもしれない。しかし荒野で叫んだヨハネの声は、救い主の道を備えた。

書き続ける。神の御前に立ち続ける。

シャカドの神が、見張っていてくださるから。


あなたも今日、小さな声で誰かに神様の素晴らしさを伝えてみませんか。その声を、神は見張っておられます。

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