2026年2月24日の聖書通読 苦しむあなたへ愛の神への道はすでに開いている ——幕屋の燭台からゴルゴタまで流れる一つの光——

聖書の名言集
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2026年2月24日 出エジプト記25章31-40節・ヨブ記14-15章・ルカ23章27-56節

※この記事は、要点だけを抜き出して理解できる内容ではありません。モーセ五書・旧約・新約の連続した文脈の中でのみ読まれることを意図しています。

【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。

はじめに

あなたは今、苦しみの中にいますか。

病の床で「これはあなたの罪のせいだ」と言われたことはありますか。問題が続いて「信仰が足りないからだ」と言われたことはありますか。あるいは自分自身に向かって、そう思い込んでいませんか。

今日の三つの通読箇所は、その問いに対して聖書が三千年以上をかけて語り続けてきた答えを、私たちの前に置いてくれます。

幕屋の中で槌で打ち叩かれながら形作られた燭台。苦しみの底で「あなたは私を慕っておられるでしょう」と叫んだヨブ。そして十字架の上で、何の実績もない男に「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と即座に答えたイエス。

この三つの場面を貫く一本の光の糸があります。「打ち叩かれることを通して、神への道が開かれる」——そしてその道は、あなたのためにすでに開かれています。

【第一部:トーラー】出エジプト記25章31-40節

——幕屋の燭台(メノラー):打ち叩かれた金から生まれる光——

※この第一部だけで、「神は苦しむ者のそばで目覚めて見張っておられ、その痛みを通して光を灯される」という今日の中心メッセージが示されます。

幕屋の至聖所の前、すなわち聖所の中に置かれた燭台(メノラー)の設計図が、出エジプト記25章31節から40節に記されている。その精巧さと神学的深さは、単なる器具の仕様書とはまったく異なる性質を持っている。

まず注目したいのは、「槌で打って作る」という命令だ。ヘブライ語では「ミクシャー(מִקְשָׁה)」——「槌打ちによって作られたもの」という意味で、継ぎ目のない一体の作品を指す。職人が別々の部品を作って組み合わせるのではなく、一タラント(約34kg)という大量の純金を、繰り返し槌で叩き、打ち伸ばし、複雑な形を作り出す。技術的には至難の業だ。しかしなぜ神はこれほど困難な製法を要求されたのか。

その答えは「継ぎ目がない」という一点に尽きる。台座も支柱も枝も、がくも花弁も、すべてが一つの命から形作られている。どこかが欠ければ全体が影響を受ける。これはパウロがコリント書12章で語る「体は一つで多くの部分がある」という教会論と深く響き合う。神の民は寄せ集めの部品の集合ではなく、一つの命から打ち出された有機体なのだ。

そしてアーモンドの花の形をした「がくと節と花弁」——この意匠に込められた神学的メッセージは深い。

「アーモンドの花。桜に似ていますが、これはアーモンドの枝と花です。

(Photo: Pixabay)」

ヘブライ語でアーモンドの木は「シャケード(שָׁקֵד)」と呼ばれる。この単語は「目覚めている、見張っている」を意味する動詞「シャカド(שָׁקַד)」と同じ語根を持つ。エレミヤ書1章11-12節で神はエレミヤにアーモンドの枝を見せ、こう言われた。「わたしは自分のことばの成就を見張っている(シャカド)」。幕屋の燭台全体に刻まれたアーモンドの花は、神が目覚めて見張っておられるというメッセージを視覚的に語り続けていた。

また民数記17章を思い起こしてほしい。アロンの杖——完全に死んだはずの木の枝が、一夜のうちにアーモンドの芽を出し、花を咲かせ、実を結んだ。死から命へ。これはキリストの復活の予型として聖書全体の中で輝いている。メノラーのアーモンド模様は、礼拝者が幕屋に入るたびに、「死は終わりではない、神は死から命を生み出される」というメッセージを目に焼き付けた。

さらに重要な一節がある。25章40節「よく注意して、あなたが山で示される型どおりに作れ」。ヘブライ語で「型」は「タブニート(תַּבְנִית)」——設計図というより、天に実在する本物の模型、像という意味だ。ヘブライ書8章5節でこの言葉が引用され、「地上の祭司たちは天にあるものの影と模型に仕える」と語られる。

つまり幕屋のメノラーは、天の現実の地上版コピーだった。礼拝者が燭台の前に立つとき、彼らは単に「宗教的な儀式」を行っているのではなく、すでに天で起きている礼拝に参加していたのだ。ヨハネの黙示録4章で24人の長老が絶えず礼拝している場面——地上の礼拝は、その天の礼拝の「型」に合わせる行為なのかもしれない。

メノラーの七つの枝に灯された光は、聖所の内部を照らした。後にイエスは「わたしは世の光です」(ヨハネ8:12)と言われ、ヨハネの黙示録1章では七つの燭台が七つの教会を象徴するとされる。光の源はひとつ、そこから七方向に光が広がる——これは福音が世界のあらゆる方向へ放たれていくイメージと重なる。

そして最も深く胸に響くのは、この燭台が「打ち叩かれることで」形作られたという事実だ。槌で打たれ、苦しみながら形を与えられた金が、最終的に光を灯す器になる。苦難を通して造られるもの——これはイザヤ53章の「打たれ、苦しめられた」しもべの姿、そしてカルバリの十字架へとまっすぐにつながっていく。

「出エジプト記25章31〜40節に記された純金一タラント(約34kg)を槌で打って作られたメノラーのイメージ。枝にはアーモンドの花の形をした節と花弁が施されています。(AI生成画像)」

神は苦しむ者のそばを離れない。アーモンドの花が語るように、神は目覚めて見張っておられる。そして打ち叩かれた金が光の器となるように、痛みの中にいるあなたを、光を灯す器として造り上げておられる。

【第二部:旧約】ヨブ記14章・15章

——苦しみの底で輝く信仰、そして「正しい言葉」が凶器になる時——

ヨブ記14章と15章は、苦しみの渦中にある人間の魂の叫びと、それに対する「正しいが的外れな」神学的応答の対比を鮮やかに描いている。この二つの章を並べて読むとき、聖書は私たちに問いかけてくる——あなたはヨブの友人のように語っているか、それともヨブのように神に向かって叫んでいるか、と。

ヨブ14章:死の向こうに望みを見る信仰

14章冒頭のヨブの言葉は、人間の儚さの詩だ。「花のように咲き出ては切り取られ、影のように飛び去ってとどまらない」(14:2)。これは嘆きでありながら、同時に神への率直な対話だ。ヨブは神を責めているのではない——神の前に、人間の現実をありのままに差し出している。

注目したいのは14章7節から9節だ。「木には望みがある。たとい切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない。たとい、その根が地中で老い、その根株が土の中で枯れても、水分に出会うと芽をふき、苗木のように枝を出す。」

これを読んだ直後に10節が来る。「しかし、人間は死ぬと、倒れたきりだ」——ヨブは木と人間を対比させる。木は切られても再生する望みがある。しかし人間には?ここにヨブの痛みの核心がある。

しかしヨブは絶望の淵で止まらない。14章13節から15節が、今日の通読全体のハイライトのひとつだ。

「ああ、あなたが私をよみに隠し、あなたの怒りが過ぎ去るまで私を潜ませ、私のために時を定め、私を覚えてくださればよいのに。人が死ぬと、生き返るでしょうか。私の苦役の日の限り、私の代わりの者が来るまで待ちましょう。あなたが呼んでくだされば、私は答えます。あなたはご自分の手で造られたものを慕っておられるでしょう。」(ヨブ14:13-15)

この三節に込められた神学は驚くほど深い。ヨブは「よみに隠してほしい」と願う——これは神の怒りから逃げたいのではなく、嵐が過ぎ去るまでの避難所を求めているのだ。そして「私の代わりの者が来るまで待つ」——ヘブライ語で「代わりの者」は「ハリファー(חֲלִיפָה)」、交代・入れ替わりを意味する。ヨブはここで、自分の代わりに立つ者、つまり代替者・仲保者の到来を直感的に求めている。これは新約でキリストが担われる「とりなし主」の役割への、旧約からの叫びだ。

そして15節の「あなたはご自分の手で造られたものを慕っておられるでしょう」——これがすべてだ。ヨブは苦しみの底で、それでも「神は私を愛している」という確信を手放さなかった。これは盲目的な楽観主義ではない。神の御手から生み出された者として、その御手が自分を捨てるはずがないという、深い神学的確信だ。

ヘブライ語で「慕う」は「カーサフ(כָּסַף)」——激しく切望する、渇望するという意味だ。神が人間を「渇望している」という表現は、聖書の中でも非常に珍しい。神が私たちとの関係を深く望んでおられるという愛の表現だ。ヨブはこの神の心を、苦しみの中で知っていた。

ヨブ15章:知者の言葉が凶器になる時

テマン人エリファズは、ヨブの三人の友人の中でも特に「知者」として描かれている。彼は経験豊かで、神学的な知識も持っている。しかし15章を読むと、その知識が恐ろしい凶器になっていることがわかる。

「ところが、あなたは信仰を捨て、神に祈ることをやめている」(15:4)——これは偽証だ。ヨブは信仰を捨てていない。14章全体がその証拠だ。ヨブは疑問を持ち、神に向かって叫んでいるが、それは神との関係を断ったのではなく、むしろ神との対話を続けているということだ。

エリファズが見えていないのは、苦しみの中で神に向かって叫ぶことが、信仰の喪失ではなく信仰の深さを示すことがあるという真実だ。詩篇の嘆きの詩(22篇、88篇など)を書いた詩篇記者たちも、神に向かって激しく叫んでいる。それは信仰の崩壊ではなく、神が聞いてくださるという信頼があるからこそできる叫びだ。

「あなたの口があなたを罪に定める。私ではない」(15:6)——断定的な断罪だ。しかし神はヨブ記42章7節で、エリファズたちに向かって「あなたたちは、わたしのしもべヨブのように、わたしについて正しいことを語らなかった」と言われる。エリファズは「正しいことを言おうとして、間違っていた」のだ。

ここに深い警告がある。正しい神学を、間違った場所に、間違ったタイミングで、間違った動機から語ると、それは真理ではなく凶器になる。苦しんでいる人の前で、「あなたに罪があるから」「信仰が足りないから」という正論を持ち込むことが、どれほど人の心を傷つけるか——エリファズはその典型だ。

エリファズには天上での会議の内容が見えていなかった。私たちも同じだ——他者の苦しみの背後にある神の文脈を、私たちは知らない。だからこそ、安易に「なぜ苦しんでいるか」の答えを提供するより、黙って隣に座ることの方が、時に最も深い牧会になる。

ヨブとエリファズの対比は、今日の通読全体のテーマ「苦しむあなたへ、愛の神への道はすでに開いている」と深くつながる。エリファズは道を閉じようとした。しかしヨブは、苦しみの底からその道を探し続けた。そしてその道は、次の箇所、カルバリの丘で完全に開かれることになる。


【第三部:新約】ルカ23章27-56節

——幕が裂けた瞬間、すべての人のために道は開かれた——

ルカ23章27節から56節は、人類の歴史の中で最も重要な数時間を記録している。イエスがゴルゴタの丘へと歩み、十字架にかけられ、息を引き取り、葬られるまでの出来事だ。ルカはこの場面を、他の福音書記者とは異なる視点で描いている——群衆、犯罪人、百人隊長、女たち、そして議員ヨセフ。それぞれの人物の反応を通して、十字架の意味が多角的に浮かび上がってくる。

「エルサレムの娘たち」への預言

ゴルゴタへの道すがら、イエスは自分を慕って泣く女たちに向かって言われた。「わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい」(23:28)。

これは冷たい言葉ではない。むしろ預言者としての最後の警告だ。「人々が、不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ、と言う日が来る」(23:29)——これはAD70年のエルサレム陥落、そして終末の時を指し示している。

「彼らが生木にこのようなことをするなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう」(23:31)——ここでイエスは自分を「生木」と表現している。罪のない者がこれほどの苦しみを受けるなら、罪の中にある者(枯れ木)が神の裁きを受ける時、それはいかほどのものか。十字架へ向かいながら、なお他者の行く末を案じるイエスの姿に、その愛の深さが滲み出ている。

「父よ、彼らをお赦しください」

「どくろ」と呼ばれる場所で、イエスは十字架につけられた。そしてその瞬間、こう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(23:34)。

ここで注目したいのは「父よ」という呼びかけだ。「神よ」ではなく「父よ」。極限の苦しみの中でも、イエスは神との父子関係の中に留まっておられた。これはイエスが完全に神であり完全に人であられたという真実の証だ。

「彼らは何をしているのか自分でわからない」——ギリシャ語「ウー・ガル・オイダシン(οὐ γὰρ οἴδασιν)」、知識の欠如を指す。彼らは無知のゆえに行動していた。しかしイエスはその無知を罰の理由としてではなく、赦しの根拠として神に差し出された。これは人類の霊的状態そのものへの赦しの宣言だ。

右の強盗:最も短い信仰告白

十字架の場面の中で、ルカだけが詳しく記録しているのが右の強盗の回心だ。

左の強盗はイエスを罵った。しかし右の強盗は彼をたしなめ、こう言った。「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」(23:41)。そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」(23:42)。

この人物を思うと胸が熱くなる。彼はバプテスマを受けていない。教会に属していない。良い行いの実績もない。律法の知識もおそらく乏しい。それでも彼は、死にかけている男の中に王を見た。

「思い出してください」というのはヘブライ的な契約表現だ。「ザーカル(זָכַר)」——単なる記憶ではなく、契約的な「覚え」を意味する。神がノアを「覚えた」(創世記8:1)、神がアブラハムとの契約を「覚えた」(出エジプト2:24)と同じ動詞の概念だ。この強盗は「あなたとの関係の中に私を入れてください」と求めたのだ。

イエスの答えは即座だった。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(23:43)。条件を何も付けなかった。行いを求めなかった。ただ信じる者を、その日のうちに御国に迎え入れると約束された。信仰義認の最も純粋な形がここにある。

幕が裂けた瞬間

「そのとき、すでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真っ二つに裂けた」(23:44-45)。

神殿の幕——厚さ約10cm、高さ約18mとも言われるこの幕は、聖所と至聖所を隔てるものだった。至聖所は年に一度、大祭司だけが入れる場所——神の臨在が宿る場所だ。この幕が「真っ二つに裂けた」。

マタイ27章51節には「上から下まで真っ二つに裂けた」と記されている。下から上ではなく、上から下へ。人間が引き裂いたのではなく、神が裂かれた。神ご自身が「もうこの幕は必要ない」と宣言された瞬間だ。

ヘブライ書10章19-20節はこれを明確に解釈する。「こうして、兄弟たち、私たちはイエスの血によって、大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生きた道を開いてくださいました」。

そしてここに胸が痛む事実がある。その後40年間、祭司たちは裂けた幕の前で儀式を続けた。AD70年にエルサレムが陥落するまで、彼らは古い儀式を繰り返した。扉は開いていた。しかし入る者は少なかった。これは今の日本と重なる。幕はすでに裂けている。神への道はすでに開かれている。しかし多くの人がそれを知らない。

「ほんとうに、この人は正しい方であった」

ローマの百人隊長——異邦人の軍人が、十字架の場面を見て神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった」と言った(23:47)。ユダヤ人の指導者たちが嘲っていたまさにその時に、異邦人が神の義を認めた。内側にいた者が見えなかったものを、外側にいた者が見た。

アリマタヤのヨセフ:沈黙していた人の行動

「この人は議員たちの計画や行動には同意しなかった」(23:51)——ヨセフはサンヘドリンの議員でありながら、イエスの処刑に同意しなかった。しかしそれまで彼は沈黙していた。

しかし十字架の後、彼は動いた。ピラトのところに行き、イエスの遺体の引き渡しを願った。十字架はヨセフを変えた。沈黙していた者を、行動する者に変えた。


【第四部:全体の一貫性】

——打ち叩かれ、叫び、裂かれて——苦しみを貫く一つの光——

今日の三つの通読箇所は、一見すると全く異なる世界の話のように見える。幕屋の設計図、苦しむヨブと彼を責める友人、そしてゴルゴタの十字架。しかしこの三つを並べて読む時、一本の光の糸が見えてくる。それは「苦しみを通して、神への道が開かれる」という神の一貫した働き方だ。

打ち叩かれることで形が作られる

出エジプト25章のメノラーは、槌で打ち叩かれることで形作られた。継ぎ目のない一体の金が、繰り返し打たれることで、光を灯す器としての形を与えられた。この「打ち叩かれることで完成する」という原理は、聖書全体を貫くモチーフだ。

ヨブも打ち叩かれた。財産を失い、子どもたちを失い、健康を失い、友人からは罪人として断罪された。しかしヨブは打ち叩かれながらも、一つの確信を手放さなかった。「あなたはご自分の手で造られたものを慕っておられるでしょう」(14:15)。神の手で造られた者は、神の手に慕われている——これがヨブの信仰の核心だった。

そしてイエスも打ち叩かれた。鞭打たれ、茨の冠をかぶせられ、十字架に釘づけにされた。しかしその打ち叩かれた肉体が裂かれた瞬間、神殿の幕が裂け、神への道が開かれた。打ち叩かれたメノラーが光の器となったように、打ち叩かれたキリストが世の光となられた。

「型どおりに」という原理の完成

出エジプト25:40「よく注意して、あなたが山で示される型どおりに作れ」——この命令は、単に幕屋の建設についてだけではなかった。救済の歴史全体が、天の「型」に従って進んでいく。

メノラーのアーモンドの花は「神が見張っておられる(シャカド)」を意味していた。ヨブが苦しみの底で「神は私を覚えてくださる」と叫んだ時、その神はまさにシャカド——目覚めて見張りながら、ヨブを見ておられた。そしてカルバリで「全地が暗くなった」時も、父なる神はシャカド——御子の苦しみを一瞬も目を離さずに見ておられた。

幕屋が天の型の地上版コピーであったように、十字架は天の愛の地上への完全な現れだった。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)——これが天の現実だ。十字架はその現実を地上に映し出した「型」の完成だ。

エリファズとは反対の神

ヨブ15章でエリファズは、苦しむヨブに向かって「あなたは信仰を捨てた」「あなたの口があなたを罪に定める」と言った。正しい神学を持ちながら、愛を持たずに語った言葉は、人の心を閉じる。神への道を塞ぐ。

しかしルカ23章のイエスは正反対だった。十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください」と言われた。そして何の実績もない強盗に「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と言われた。条件を付けず、過去を問わず、ただ「思い出してください」と求めた者を、その日のうちに御国に迎え入れた。

エリファズは神について語ったが、神の心を知らなかった。イエスは神の心そのものとして来られ、苦しむ者に向かって「わたしはあなたを慕っている(カーサフ)」という神の愛を体現された。

幕はすでに裂けている

三つの通読箇所を貫く最も重要なメッセージは、この一点に集約される。

メノラーは幕屋の聖所を照らしていた。しかしその光は幕の向こう、至聖所には届かなかった。至聖所への入口は幕によって閉ざされていた。ヨブは「ああ、あなたが私をよみに隠し、私のために時を定め、私を覚えてくださればよいのに」と叫んだ。彼は道を求めていた。神への道、至聖所への道を。

その道が、ゴルゴタで開かれた。

「神殿の幕は真っ二つに裂けた」——上から下へ。神が裂かれた。これは神からの宣言だ。「もうこの幕は必要ない。わたしのもとへの道は、すべての人に開かれた」と。

ヨブが求めた「代わりの者(ハリファー)」が来られた。右の強盗が「思い出してください(ザーカル)」と求めた契約の神が、その求めに即座に応えられた。メノラーが「神が見張っておられる(シャカド)」と語り続けた約束が、十字架で成就した。

今日、苦しみの中にいるすべての人へ。ヨブのように打ち叩かれ、エリファズのような言葉に傷つき、出口が見えないと感じているすべての人へ。

幕はすでに裂けている。神への道はすでに開かれている。その道を開くために、神の御子自身が打ち叩かれ、裂かれた。あなたのために。

「苦しむあなたへ——愛の神への道はすでに開いている。」これは希望的観測ではない。ゴルゴタで起きた歴史的事実だ。幕屋の燭台が語り、ヨブが叫び求め、そしてカルバリで完成した、一つの光の物語だ。

幕屋の燭台からゴルゴタまで流れる一つの光

幕屋の燭台からゴルゴタまで流れる一つの光

出エジプト25章 → ヨブ記14-15章 → ルカ23章|2026年2月24日通読

📜 トーラー|出エジプト25:31-40
打ち叩かれた金が光を灯す器となる
一タラントの純金を槌で打ち叩き、継ぎ目のない一体の燭台を作れ。 アーモンドの花の形=神が目覚めて見張っておられる(シャカド)。 天の型どおりに作ること——幕屋は天の現実の地上への映し出し。
「よく注意して、あなたが山で示される型どおりに作れ」(25:40)
🕎
📖 旧約|ヨブ14章
苦しみの底で神の愛を確信する
打ち叩かれながらも手放さなかった確信—— 「あなたはご自分の手で造られたものを慕っておられる(カーサフ)でしょう」。 代わりの者(ハリファー)が来るまで待つ——仲保者キリストへの予型的な叫び。
「あなたが呼んでくだされば、私は答えます」(14:15)
🙏
⚠️ 旧約|ヨブ15章
正しい言葉が凶器になる時
エリファズは神学的に正しいことを語った。しかし神はヨブ42:7で 「あなたたちはわたしについて正しいことを語らなかった」と言われた。 愛なき正論は道を閉じる。 神への道を開くのは知識ではなく愛だ。
「あなたは信仰を捨て、神に祈ることをやめている」(15:4)——偽証
🚫
✝️ 新約|ルカ23:34
打ち叩かれたキリストが世の光となる
「父よ。彼らをお赦しください」——極限の苦しみの中でも父子関係の中に留まる。 右の強盗「思い出してください(ザーカル)」——契約的な覚えを求める叫び。 即座の答え「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」。 条件なし、過去を問わず。
「神殿の幕は真っ二つに裂けた」——上から下へ(23:45)
✝️
🕊️ 成就|至聖所への道が開かれる
幕はすでに裂けている
厚さ約10cm・高さ約18mの幕が上から下へ真っ二つに。 人間が引き裂いたのではなく、神が裂かれた。 ヨブが求めた「よみに隠してほしい」場所——至聖所への道。 メノラーが「型」として指し示していた天の現実が地上に完全に現れた瞬間。
「新しい生きた道を開いてくださいました」(ヘブライ10:20)
🌟
原語 発音 意味 箇所
שָׁקַד シャカド 目覚めて見張っている メノラーのアーモンド/エレミヤ1:12
תַּבְנִית タブニート 天の型・模型 出エジプト25:40
מִקְשָׁה ミクシャー 槌打ちによる一体の作品 出エジプト25:31
כָּסַף カーサフ 激しく慕う・渇望する ヨブ14:15
חֲלִיפָה ハリファー 代わりの者・仲保者 ヨブ14:14
זָכַר ザーカル 契約的に覚える ルカ23:42(右の強盗の祈り)
οὐ γὰρ οἴδασιν ウー・ガル・オイダシン 彼らは知らないのです ルカ23:34

🕯️ 三箇所を貫く一つの光

打ち叩かれたメノラーが光の器となったように、
打ち叩かれながら神を慕い続けたヨブのように、
打ち叩かれ裂かれたキリストが、至聖所への道を開かれた。

「シャカド」——神は目覚めて見張っておられる。
苦しみの中にいるあなたのそばを、一瞬も離れない。

「苦しむあなたへ——愛の神への道はすでに開いている」
神殿の幕は真っ二つに裂けた。上から下へ。あなたのために。(ルカ23:45)
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