聖書通読2026.5.20 民数記3章・箴言11-12章・ローマ1章 神の尊さを悟れるか

ヘブライ語
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——引き寄せられる者、引き渡される者——

通読箇所:民数記3章14-39節 / 箴言11-12章 / ローマ1章24-32節

神は人を「引き寄せる」方なのか、それとも「引き渡す」方なのか。聖書は両方を語る。レビ人を選び、幕屋の周囲に位置を与え、奉仕に召される神。同時に、神を捨てた人類を、彼ら自身の欲望に「引き渡される」神。この正反対に見える二つの行為は、実は一つの問いに繋がっている——私たちは神の尊さ、その重みを、本当に悟ることができるのだろうか。

※本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。
【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。

第一部 トーラー(民数記3:14-39)——名前に刻まれた神の物語——

シナイの荒野で、主はモーセに告げられた——「レビ族をその父祖の家ごとに、その氏族ごとに登録せよ」(3:15)。これは単なる人口調査ではない。聖書の動詞には深い意味が込められている。「登録せよ」と訳されたヘブライ語はパーカド(動詞形)、原意は「訪れる、点検する、心を配る、任命する」。神がレビ人一人ひとりに目を留め、名前を呼び、奉仕の場へ任じる行為を意味している。冷たい行政的な数え上げではなく、神の親密な訪れがそこにあった。

レビ族には三人の子孫がいた——ゲルション、ケハテ、メラリ。実はこの三人の名前そのものに、神の民の物語が刻まれている。

長男ゲルションの名は、ヘブライ語で「追い出された者、寄留者」を意味する。動詞ガーラシュ(追い出す)から派生した名前で、出エジプト記でモーセが異国の地で生まれた長男に同じ名前を付けたことが想起される(出エジプト2:22「私は外国にいる寄留者だ」)。

次男ケハテの名は、「集会、集まり」を意味する。動詞カーハー(集める)から派生し、神のもとに集められた共同体を想起させる。

末男メラリの名は、「苦さ」を意味する。動詞マーラル(苦い)から派生し、出エジプトの過越で食べた苦菜(マロル)と同じ語根である。エジプトでの奴隷の苦しみの記憶を背負った名前である。

「寄留」「集会」「苦しみ」——これがイスラエル民族の歴史そのものを凝縮した三つの言葉である。そして注目すべきは、神がこの三氏族に、ご自身の聖なる住まいの管理を委ねられたという事実だ。神は完璧な人々や、傷のない物語を持つ人々を選ばれたのではない。寄留と苦しみの記憶を持つ者たちを、ご自身の家の奉仕に召された。

配置にも意味がある。幕屋の周囲、四方に位置が定められた。

東側(正面)——モーセ、アロン、その子らの祭司家系

南側——ケハテ族(契約の箱、机、燭台、祭壇など聖具を担当)

西側——ゲルション族(幕屋の覆い、垂れ幕、ひもを担当)

北側——メラリ族(板、横木、柱、台座など構造材を担当)

担当物品にも秩序がある。最も聖なる物(箱、燭台、祭壇)を担うのはケハテ族——人数も最多の八千六百人。覆いと幕を担うのはゲルション族(七千五百人)。最も重い構造材を担うのはメラリ族(六千二百人)。それぞれの氏族の人数と任務には、神の知恵による釣り合いがあった。

ここに見えてくるのは、神という方が「秩序の神」であるということだ。神は混沌の中に人を放り込まれるのではない。一人ひとりに居場所を与え、役割を与え、そして「ほかの人でこれに近づく者は殺される」(3:38)とまで定められるほどに、聖と俗の境界を厳格に守られる。

そしてここに驚くべきことが隠されている——神はご自身の臨在の近くに、彼らを引き寄せられた。レビ人は他の部族とは別格で、幕屋の周りに陣を張った。これは特権でもあり、責任でもあった。神の重み、神の尊さに最も近い場所に立つ召命。

私たちもまた、新約の時代において、レビ人が幕屋に引き寄せられたように、キリストの十字架と復活によって神の臨在の中へと引き寄せられた者たちである。「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」(Ⅰペテロ2:9)——これは新約のレビ人としての召命の言葉である。今日の通読で問われているのは、私たち一人ひとりが、神に「パーカド(訪れ、任命)」される民として、与えられた場所と務めに誠実に立っているか、という問いではないだろうか。

幕屋を囲むレビ三氏族の配置 】
図解2 幕屋を囲むレビ三氏族の配置
民数記3章14-39節 — それぞれに与えられた位置と務め
[ 東 ・ 正面 ]
モーセ・アロン・祭司家系
幕屋の入口を守り
聖所の任務を統括
[ 北 ]
メラリ族
מְרָרִי
「苦さ」
6,200人
板・横木・柱
台座(構造材)
会見の天幕
(幕屋)
レビ人の総数
22,000人
[ 南 ]
ケハテ族
קְהָת
「集会」
8,600人
契約の箱・机
燭台・祭壇
[ 西・うしろ ]
ゲルション族
גֵּרְשׁוֹן
「寄留者」
7,500人
幕屋の覆い
垂れ幕・ひも
注: 図は地理的方角(東=正面)を上にして示している。実際の幕屋では正面が東に向いていた。三氏族の名前はそれぞれ「寄留(ガーラシュ)」「集会(カーハー)」「苦さ(マーラル)」というヘブライ語の動詞から派生しており、イスラエル民族の経験そのものが氏族の名に刻まれている。神は完璧な家系ではなく、苦難の記憶を持つ者たちをご自身の家の奉仕に召された。

第二部 旧約(箴言11-12章)——知恵と愚かさの分かれ道——

箴言11章と12章は、まるで写し鏡のように「義人と悪者」「知恵と愚かさ」「真実と偽り」の対比が延々と続く章である。一読すると道徳的な教訓集のように見えるかもしれない。しかし箴言全体の鍵となる一節を思い出したい——「主を恐れることは知識のはじめである」(箴言1:7)。つまり箴言の「知恵」とは、抽象的な賢さや処世術ではなく、神の尊さ(カヴォード、重み)を悟った人の生き方の技術である。

そして箴言が描く「悪者」「愚か者」とは、その逆——神の重みを認めず、神を「軽く」扱う人の生き方の姿である。

この二章には、特に注目したい節がいくつかある。

まず箴言11章2節——「高ぶりが来れば、恥もまた来る。知恵はへりくだる者とともにある」。「高ぶり」のヘブライ語はザドーン、原意は「煮え立つ、沸き立つ」。自分を高く煮え立たせ、神よりも自分を重く見せようとする心の状態を指す。一方「へりくだる者」のヘブライ語はツェヌア(複数形ツェヌイーム)、「控えめな、慎ましやかな、隠れた」の意味で、ミカ書6章8節の「へりくだって、あなたの神とともに歩む」と同じ語根である。神の重みの前で、自分を小さく見積もる者——それが「知恵ある者」と呼ばれる。

ここで興味深い対比が見えてくる。レビ人は神の臨在に最も近く召されたが、その任務には「ほかの人でこれに近づく者は殺される」という厳粛な境界があった。神の近くに引き寄せられるほど、人は自分の小ささを知る。逆に、神から遠く離れた者ほど、自分を大きく見せようとする。この逆説が、聖書全体を貫いている。

次に箴言11章12節——「隣人をさげすむ者は思慮に欠けている。しかし英知のある者は沈黙を守る」。「さげすむ」のヘブライ語はブーズ、原意は「軽蔑する、価値がないと見なす」。隣人を「ブーズ」する人は、結局のところ、人を神のかたちに造られた存在として認めていない。つまり、神ご自身を軽んじていることになる。創世記1章27節で人間が神のかたちに造られたという事実は、隣人を見る目を根本的に変えるはずだ。隣人を軽蔑することは、神のかたちを軽蔑すること。神の尊さを悟れない人は、必ず人の尊厳も見失う。

そして箴言12章1節——「訓戒を愛する人は知識を愛する。叱責を憎む者はまぬけ者だ」。ここの「まぬけ者」のヘブライ語が衝撃的で、バーアル、原意は「家畜のように、動物のように」である。神の訓戒や叱責を拒む者は、人間性そのものを失い、本能だけで動く動物のような存在へと堕ちていく——箴言はそう警告している。これはローマ1章で描かれる「神は彼らを良くない思いに引き渡された」結果として人間性が崩壊していく姿と、驚くほど共鳴している。

さらに箴言12章22節——「偽りのくちびるは主に忌みきらわれる。真実を行う者は主に喜ばれる」。「真実」のヘブライ語はエメト、原意は「動かないもの、固く立つもの」。神の本質を表す重要な属性であり、神は「アーメンの神」(イザヤ65章16節のヘブライ語直訳は「エメトの神」)と呼ばれる。真実を行う者が主に喜ばれるのは、その人が神ご自身の性質を映し出しているからだ。

そして11章2節と12章15節は、コインの裏表の関係にある。「愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる」(12:15)。自分を絶対化する者が「愚か者」、他者の声(究極的には神の声)に開かれている者が「知恵ある者」。神の重みを認める姿勢は、結局のところ、自分を絶対化しない姿勢として現れる。

——箴言を貫くこの「義人と悪者」の対比は、単なる道徳的勧告ではない。神の尊さを悟った民と、悟れない民の、二つの異なる生き方の人類学を提示している。そして箴言は、私たち一人ひとりに毎日問いかける——あなたは今日、どちらの側に立つのか。神の重みを認めて生きるのか、自分の重さを神より上に置いて生きるのか。

民数記3章で神に引き寄せられたレビ人たちは、まさに箴言が描く「知恵ある者」の系譜である。神の尊さの前にひれ伏し、神の重みを認め、神の家の秩序の中で奉仕した。一方、神を「ブーズ」する人々の行く末は、次の第三部、ローマ1章で容赦なく描かれることになる。

箴言が私たちに与えるのは、この二つの道の間に立つ毎日の選択への招きである。「正義の道にはいのちがある。その道筋には死がない」(12:28)——この言葉は、ヨハネの福音書14章6節「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」というイエスの言葉へと、後の啓示の中で結晶化していくことになる。

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第三部 新約(ローマ1:24-32)——三度繰り返される、神の悲しみの裁き——

ローマ書1章後半は、聖書全体の中でも最も重く、最も恐ろしい一節の一つである。しかしその重さの本質を理解するためには、ギリシャ語原文に注目する必要がある。

この箇所には、パレドーケンという動詞が三度繰り返されている(1章24節、26節、28節)。日本語訳では「引き渡された」と訳される。動詞の原形パラディドミ、原意は「横に置く、手放す、明け渡す」。これは、福音書でユダがイエスを「引き渡した」時に使われたのと同じ動詞である(マタイ26章15節)。それを今度は神ご自身が、神を捨てた人類に対して行われた——彼らを「引き渡された」。

ここで重要なのは、これが積極的な刑罰の言語ではないということだ。神が雷を落とすように罰したのではない。神はただ、彼らが望むものを、彼らに与えられたのである。神を必要としない生き方を望むなら、神なしの生き方を。欲望に従う自由を望むなら、欲望の奴隷となる自由を。これが、おそらく聖書全体の中で最も恐ろしい裁きの形式である——神の沈黙の同意。神は人間の自由を尊重しすぎるほどに尊重される。

そしてこの「引き渡し」には段階がある。

第一段階(1章24節)——「心の欲望のままに汚れに引き渡され」。

第二段階(1章26節)——「恥ずべき情欲に引き渡され」。

第三段階(1章28節)——「良くない思いに引き渡され」。

人間の堕落は、心の欲望から始まり、肉体の情欲へと深まり、最終的には思考そのものの腐敗にまで至る。内側から外側へ、そして再び内側へと、神を退けた人類は螺旋を描いて沈んでいく。

そしてここに、ギリシャ語の鋭い言葉遊びが隠されている。1章28節「神を知ろうとしたがらない」のギリシャ語はウーク エドキマサン、動詞ドキマゾー、原意は「試して、価値あるものとして認める」。人類は神を「試して、不適格と判定した」のである。その結果、神は彼らを「アドキモン ヌーン」、すなわち「失格と判定された心、不適格な思考」に引き渡された——同じ語根ドキマが、対称的に使われている。

これは恐るべき逆説である。神を「無価値」と判定した者が、自分自身が「無価値」と判定される結果になる。神の重み、神の尊さを認めなかった者は、自分の人格の重みも尊厳も失っていく。

ここで友喜の心に留めたいのは、1章26-27節の性的倒錯への言及である。これは1世紀のローマ帝国に蔓延していた現実であり、また現代社会にも色濃く反映されている現象である。ただし、この箇所を読む時に絶対に見失ってはならないことがある——性的倒錯はパウロにとって最大の罪ではなく、神から離れた人類の堕落の徴候(symptom)である。根本原因は1章21節にすでに語られている。「彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず」。神への礼拝が欠落した時、人間関係(特に最も親密な性関係)が必ず歪み始める——これが聖書の一貫した観察である。

そして29節から31節の悪徳リストにも目を留めたい。「不義、悪、むさぼり、悪意、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪だくみ、陰口、そしる、神を憎む、人を人と思わぬ、高ぶる、大言壮語、悪事をたくらむ、親に逆らう、わきまえのない、約束を破る、情け知らず、慈愛のない」——これらは性的罪と並んで、神から離れた人類の社会的崩壊の姿である。「親に逆らう者」が「殺意」「ねたみ」と同じリストに並んでいることに注目したい。家族関係の破壊、共同体の信頼の崩壊、人間性の摩耗——すべてが神を退けた結果として現れる。

そして1章32節の最後の一節が、最も重い。「彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです」。ここの「知っていながら」のギリシャ語はエピギノースコ、強意の接頭辞エピ付きの「完全に、しっかりと知る」。彼らは知らないから罪を犯しているのではない——知っていながら、なお罪を犯し、しかも他者の罪に「心から同意」しているのである。神を知っていながら退ける、これが最も深い罪の姿である。

ここまで読んできて、私たちは絶望に押し潰されそうになる。しかしローマ書はここで終わらない。3章21節以降、パウロは「しかし今や」と語り始め、福音の扉を開く。引き渡された者たちのために、御子イエスご自身が「引き渡された」(ローマ4章25節、同じパラディドミの動詞が使われている)。罪人たちを引き渡された神は、その罪人たちを救うために、ご自身の御子を引き渡された。神の「引き渡し」は、裁きと救いの両方の言葉である。

民数記3章で神の臨在に引き寄せられたレビ人たちと、ローマ1章で自分の欲望に引き渡された人類——この二つの間に立つ私たちに、神は今、もう一つの「引き寄せ」を提供しておられる。十字架への引き寄せ、福音への引き寄せ、新約のレビ人として神の家に立つ召命への引き寄せである。

Revealing Revelation-未来を読み解く黙示録-
未来に何が起こるのでしょうか。あなたは、そんなことを考えたことはありませんか。驚くべきことに、神はあなたが未来を知ることを望んでおられます。黙示録が書かれたのは、そのためです。全米ベストセラー作家(ニューヨーク・タイムズ紙)であり、イスラエ…

第四部 全体の一貫性——一つの神、二つの動詞、一つの福音——

三つの箇所を読み終えた今、私たちは一つの中心テーマの周りに、聖書の異なる場面が円環のように配置されていたことに気づく。

ヘブライ語にもう一つの重要な動詞がある。カラヴ、原意は「近づく、近づける」。これは民数記の文脈で、神がレビ人について使われる鍵となる動詞である。同じ動詞のヒフィル形(使役形)は「ヒクリーヴ」、「近づけさせる、引き寄せる」を意味する。民数記16章9-10節で、神はモーセを通してこう語られた——「イスラエルの神があなたがたを、イスラエルの会衆から分離して、ご自分に近づけ(ヒクリーヴ)、主の幕屋の任務をさせ……たのを小さなことと思うのか」。

カラヴ——これが第一部のキーワードだ。神は積極的に、レビ人をご自身に近づけ、引き寄せ、聖所の奉仕に召された。神の側からの愛のイニシアチブ、神の重み(カヴォード)の近くへの招き。

一方、ローマ書1章のキーワードはパレドーケン——「引き渡された」。神を退けた人類を、神は彼らの選びに任せ、欲望に手渡された。

カラヴとパレドーケン。引き寄せると、引き渡される。聖書を貫く二つの動詞。そして驚くべきことに、両方とも神ご自身の行為である。神は人を強制されない方であり、同時に、神は人を放っておけない方である。神は人類の自由を尊重し、その選択の結果を担わせる。同時に、神は人類を諦めず、ご自身の家に引き寄せる道を備えられる。

この二つの動詞の間に、箴言11-12章が橋渡しのように置かれている。「正しい者」と「悪者」の対比、「知恵」と「愚かさ」の対比、「真実」と「偽り」の対比——箴言の対句構造は、カラヴされたい民と、パレドーケンに向かう民、その毎日の選択の現場を描き出している。神の尊さ(カヴォード)を「重い」と認めて生きるのか、それとも自分の重さを神より上に置いて生きるのか。今日も、明日も、その小さな選択が積み重なって、二つの道が刻まれていく。

そしてここに、福音の最も深い秘密が啓示される。

ローマ書4章25節でパウロはこう語る——「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました」。「死に渡され」のギリシャ語は——驚くべきことに——同じパラディドミである。御子イエス・キリストご自身が、罪人たちのために「引き渡された」のである。

ここに、神の最大の逆説がある。罪人たちを「引き渡された」神は、その罪人たちを救うために、ご自身の最愛の御子を「引き渡された」。父なる神は、御子をご自分の懐から手放し、十字架に「引き渡した」。罪のない方が、罪人のために、罪人として裁かれた。

そしてその十字架の出来事を通して、もう一度、カラヴの動詞が新約の意味で成就する。エペソ書2章13節——「あなたがたも、以前は遠く離れていましたが、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者(カラヴに対応するギリシャ語エングス)とされたのです」。神に近づけられた——これが新約信徒の身分である。

つまりこういうことだ。御子が「パレドーケン(引き渡された)」ことによって、私たちは「カラヴ(近づけられた)」者となった。引き渡しと引き寄せは、十字架において出会い、私たち罪人を変容させた。神を「ブーズ(さげすむ)」していた者たちが、神に近づけられ、神の家のレビ人として、新しい奉仕に召された——「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です」(Ⅰペテロ2:9)。

ここで、今日の通読の三つの箇所が一本の糸で結ばれる。

民数記3章のレビ人は、新約の私たち信徒の予型(タイプ)である。彼らに与えられた特権と責任は、キリストにあって私たちに与えられている。

箴言11-12章の知恵への招きは、神の尊さを悟った民として毎日選び続ける生き方の指針である。

ローマ書1章の警告は、もし私たちが神を「軽く」見るならば、人類が辿った道がいかに恐ろしいかを思い起こさせる。

そして全体を貫くのは、ご自身の御子を引き渡してまで、私たちを引き寄せようとされた父なる神の愛である。神の重みは、力の重みではなく、愛の重みである。神の尊厳は、距離を作る尊大さではなく、御子を犠牲にしてまで近づこうとされた愛の深さである。

今日の通読で問われているのは、この愛の重みを、私たちは本当に悟っているか、ということだ。神を「軽く」扱う日常を歩んでいないか。神の尊さの前にひれ伏す習慣を失っていないか。引き寄せられた特権を、忘れていないか。

——神は今日も、変わらず私たちを引き寄せておられる。十字架を通して。聖書のことばを通して。日々の通読のこの時間を通して。神の重みを悟れる者は、幸いである。

【神の二つの動詞——引き寄せと引き渡し 】
図解1 神の二つの動詞——引き寄せと引き渡し
民数記3章・ローマ1章を貫く対比構造
ヘブライ語
קָרַב
カラヴ
近づける・引き寄せる
ギリシャ語
παραδίδωμι
パラディドミ
手放す・引き渡す
民数記3章
神はレビ人を選び、ご自身の幕屋の周りに引き寄せられた。一人ひとりに位置と務めを与える。
ローマ1章
神を退けた人類を、神は彼らの欲望に引き渡された(三度繰り返される:24, 26, 28節)。
秩序 ・ 奉仕 ・ 召命
神の重み(カヴォード)の近くへ
混沌 ・ 堕落 ・ 崩壊
神を「軽く」見なした結果
十字架における逆説
御子イエスご自身がパラディドミ(引き渡された)
— ローマ4章25節「私たちの罪のために死に渡され」 —
引き渡されていた私たちが、カラヴ(近づけられる)者となる
— エペソ2章13節「キリストの血によって近い者とされた」 —
新約のレビ人=王である祭司として遣わされる(Ⅰペテロ2章9節)

祈り

主よ、今日も御言葉を通してあなたの重み、あなたの尊さを示してくださり感謝します。あなたは罪深く、あなたから遠く離れていた私たちを、御子イエス・キリストの十字架の血潮によって、ご自身に近づけてくださいました。私たちを欲望に引き渡すこともできた方が、代わりに御子を十字架に引き渡してくださったのです。この愛の重みを、私たちは小さな日常の中で軽く扱ってしまいがちです。お赦しください。今日もう一度、あなたの尊さの前にひれ伏し、新約のレビ人として、この時代に遣わされた王であり祭司の召しをもった大使として、与えられた場所と務めに誠実に立つ者となれますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

本日の原語語彙表

ヘブライ語(旧約)

原語カタカナ発音意味・含意
פָּקַדパーカド訪れる、点検する、心を配る、任命する。単なる登録ではなく神の親密な訪れを意味する動詞
קָרַבカラヴ近づく。ヒフィル形ヒクリーヴ הִקְרִיב は「近づけさせる、引き寄せる」
כָּבוֹדカヴォード重さ。転じて「栄光、尊厳」。神を「重い存在」と認めることが礼拝の本質
גֵּרְשׁוֹןゲルション寄留者、追い出された者。動詞ガーラシュ גָּרַשׁ「追い出す」より
קְהָתケハート集会、集まり。動詞カーハー קָהָה「集める」より
מְרָרִיメラリー苦さ。動詞マーラル מָרַר「苦い」より。過越の苦菜(マロル)と同根
חָכְמָהホクマー知恵。神を畏れる生き方の技術。単なる賢さではない
זָדוֹןザドーン高ぶり。原意は「煮え立つ、沸き立つ」。自分を神より重く見せようとする心
צָנוּעַツェヌア控えめな、慎ましやかな、隠れた。ミカ6:8「へりくだって歩む」と同根
בּוּזブーズ軽蔑する、価値なしと見なす。神のかたちである隣人を軽蔑することは、神ご自身を軽んじることに繋がる
דָּשֵׁןダーシェン油注がれる、豊かにされる、潤される。肉体的な「肥える」ではない
בָּעַרバーアル家畜のように、動物のように愚か。神の訓戒を拒む者の堕ちゆく姿
אֱמֶתエメト真実。原意は「動かないもの、固く立つもの」。神ご自身の属性

ギリシャ語(新約)

原語カタカナ発音意味・含意
παραδίδωμιパラディドミ引き渡す、手放す、明け渡す。アオリスト形パレドーケン παρέδωκεν はローマ1章で3回繰り返される
δοξάζωドクサゾー栄光を帰する、あがめる。ヘブライ語カヴォードに対応
δοκιμάζωドキマゾー試して認める、価値あるものとして検証する
ἀδόκιμοςアドキモス失格者、無価値と判定された者。ドキマゾーと対をなす
ἐπιγινώσκωエピギノースコ完全に、しっかりと知る。強意の接頭辞エピ付き
ἐγγύςエングス近い。エペソ2:13「キリストの血によって近い者とされた」
🌱 聖書を初めて読む方へ
同じ通読箇所を、聖書の専門用語を知らない方のために再構成したnote記事もあります。原語の表は省きましたが、聖書解説の深さは変わりません
聖書を初めて読みたい方、ご家族やご友人に紹介したい方は、ぜひこちらからどうぞ。
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