聖書の名言 愛 朝ドラ「カムカムエヴリバディ」

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和菓子

聖書の名言 愛 朝ドラ「カムカムエヴリバディ」・・・って

聖書の名言集 と 朝ドラって、どうつながの?

と感じられたと思うのですが‥・・・(#^^#)

 

全くそうですよね。

今朝、この何気なく観た朝ドラで、愛することを学びました。

このシーンはさわやか系恋愛で、

キュンキュンしながら、遅出出勤の息子と一緒に観てました。

大切な相手を自然に思いやる気持ちが現れていました。

この時の心の動きを恋愛の対象者だけでなく、隣人に示すことを想像すると、

愛し方が分からなくなった時、相手を思いやり愛するとは、

こういうことだったのだと、参考にできると思います。

 

共感しあえる人、大好きな人には自然に思いやりを示すことが出来るものなので、

そうではない時に、楽しくこのことを思い起こせたなら、

余裕のない時一息つく手立てになり、主イエスの愛の戒めを行う道筋を定められます。

今日の朝ドラを観ていない方の為に大まかなあらすじをお話しします。

 

① 11月10日の朝ドラ「カムカムエヴリバディ」あらすじ

 

和菓子

 

和菓子屋を営んでいる家業の手伝いをしている看板娘、安子には、

文通を交わしている意中の人、稔という存在がいるのに、

「砂糖の値段が上がっているご時世で、砂糖を扱う商いをしている家の良識ある息子さんだし、

和菓子に砂糖はつきもの、この方と結婚してくれれば我が家も助かる」と

事情を知らない親に、家の為の政略結婚的なお見合いの話を聞かされ、

家のことを思って、断れ切れず、

自分の気持ちを諦めるために稔に会いにいった安子でしたが、

稔に会うと、稔のことが好きな自分をもっと自覚して、帰りの電車で泣いているところ、

分かれたはずの稔が自分の前に立っていて

「なぜ泣いているの?」と声をかけます。

「お菓子の配達だと言っていたけれど、カバン一つでお菓子の配達はない、

何かあったの?」とそこまで稔は安子に聞きます。

今日は、ここで終わりました。明日が楽しみです。

(NHKの宣伝をしているつもりではないのですが・・・) (#^^#)

 

②聖書の名言 愛 マタイ7:12 自分の望むことを人々にもその通りにする

 

 

 

何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。

マタイ7:12

私はこの聖書個所が好きです。迷惑にならないように、距離を取ることは大切です。

ですから、自分がされて不快に思うことはしないでおきたいものです

ですが、

勇気をもって、一歩踏み出して、

自分の望むところを人々にもにその通りにする、

という積極的な愛を語る主イエスは、私にとって最高の愛の教師です。

 

一日稔と楽しく過ごし、帰りの電車まで送ってくれた。

そこで分かれたと安子は思っていたのですが、

電車が家に近づくと、安子は涙がこみあげていました。

私は息子に

「稔のことが忘れられないんだよね、可哀そうに。」と言っていたところに

稔が登場 キュンキュン (#^^#)

朝ごはんを終えて自分の部屋に戻ろうとしていたけれど、つい朝ドラに惹かれて観ていた息子が

「この人、わかってるな、

電車に乗ってそっと後を追ってたんだ、泣いていたところで現れるって」

「うん、はじめに稔の寮に訪ねて来た時から、何かあったと思ってくれていたのだろね。」

 

すみません、親子のどうでもいい会話です・・・けれど、

 

この稔の行動が、主イエスの言われる、自分の望むことを相手にもその通りにするという行動だと思えるのです。

安子は稔に心配かけたくないし、楽しい思い出にしておきたいので、

家の内情は知らせないでおこうと思った、でも

安子も気が付かない深いところの本心は

「どうしたの?なにかあったの?」と聞いてほしかったと思うので。

安子は、そんなことは想像もしてなかったし、期待もしてなかったと思います。

でも、そんなこと夢のまた夢・・・あるはずないこと。

でもそれが起きた、まさに夢が現実になったのです。

 

ずっと以前の事なのですが、あることを決める時、信頼している友人が私に

「あなたはどうしたいの?」

「あなたは何を望んでいるの?」

と聞かれたことがあります。

相手のことを思うと、当然の質問なのですが、

こういう質問をあまりされたことのなかった私には、その友人の優しさを感じました。

どちらかというとそれまでは、

「これで良いよね」

「こうした方がいいよ」

このような声掛けが多かったような気がします。

素直に、私のことを思う気持ちが伝わりました。

「でも人間だから私の思い込みってこともあるし、

正直、あなたがどうしてほしいと思っているのかは分からないよ

どうしたらいいの?」

と聞いてくれた言葉が、私の心を安心させ、

私のことを大切に思ってくれている人なんだと思え、

信頼できました。

 

分からない時は、

「どうしたの?」「どうしたいと思っているの?」

相手のことを大切に思うなら、素直に相手を信頼して何があったのか、

どうしてほしいのか、

聞くことをすればいいのだと思います。

 

③聖書の名言 神様はすべてご存じです

 



 

なぜなら、たといわたしたちの心に責められるようなことがあっても、神はわたしたちの心よりも大いなるかたであって、すべてをご存じだからである

第一ヨハネ3:20

 

10:29二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。 10:30またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。

マタイ10:29-30

主は、私達の髪の毛の一本まですべてご存じの方です。

私達の願いことは、すでに分かっておられる方です。

 

139:2あなたはわがすわるをも、立つをも知り、
遠くからわが思いをわきまえられます。
139:3あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、
わがもろもろの道をことごとく知っておられます。
139:4わたしの舌に一言もないのに、
主よ、あなたはことごとくそれを知られます。
139:5あなたは後から、前からわたしを囲み、
わたしの上にみ手をおかれます。

詩篇13-2-5

 

あなたは、あなたのすみかである天で聞いてゆるし、かつ行い、おのおのの人に、その心を知っておられるゆえ、そのすべての道にしたがって報いてください。ただ、あなただけ、すべての人の心を知っておられるからです。

第一列王記8-39

 

全てをご存じの神様に対して、願い事を祈る必要があるのか?と感じられるかも知れません。

祈りは、神様との対話です。私たちの方から願い求めると、神様の方から応答があります。

祈りの中で、生活のふとしたことで、環境を通して、

聖書のみ言葉の中で、昨日も今日も明日も永遠に変わらない、

生きて働かれている復活の主は応答されます。

たまに、祈ってない願い事が、叶えられることがあります。

「そうだよね、神様はすべてご存じだった」と、心から感謝しますが、

祈って聞かれたことが積み重なると、祈る為の勇気が増します。

祈っても聞かれないことも沢山あります。

その時は忍耐が与えられ、大人の信仰を持つことが出来ます。

神様と対話しながら生きていくことは、

この世界で一番素晴らしい方と一緒に歩める人生です。

 

 

④人は完全ではないので、相手の為を思ってしたはずの事でも、

 

 

人は完全ではないので、相手を思ってした、愛の行動だとしても

逆にとても迷惑をかけることがあります。

迷惑はかけたくないですが、迷惑をかける事、失敗する事自体は仕方のないことです。

相手の為を思って愛の動機でしたのなら赦されます。が・・その後が大切です。

迷惑だとはっきり伝えてくれた時は素直に表明してくれたことに感謝すると

さらに有意義で楽しい交わりへと変化します。

信頼できなくて、会話が通じない人には素直に迷惑だと言えませんから。

迷惑だと言われたなら、会話できる程度には信頼されているということです。

本当に相手のことを思ってした行動なら、相手が迷惑だと表明した時点で、

「気が付かなくてごめんなさい」と言えます。

直ぐに嫌な思いをさせて悪かったと思え、自分の取った行動を改めるはずです。

なぜなら、自分が不快だと表明したことを相手が気が付き行動を改めることは、

自分もしてほしいことだからです。

自分にしてほしいと思うことを人々にもするように主イエスが言われていますから。

 

何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。

マタイ7:12

 

相手が不快だ、迷惑だと表明しているにもかかわらず、

「気遣ってしただけだ、何が悪いの」と、自分を正当化する行為は

自分の行動が間違っていないと保身していることにもなりますし、

さらに自分の気持ちを押し付けることになります。

それは、自分が優位に立ちたい行動で、

よく言われている、マウントを取る行動になってしまいます。

これでは最悪です。

人は間違うこともありますし、失敗するものなので、

相手の嫌がることをしていたこと、自分の間違っていた行動を謙虚に認めて、

祈りつつ行動したことではなかったことを悟る必要があります。

 

まして 祈って行動したのに不快な思いをさせたのでしたら、

その祈りの中に自己満足や、自己中心、自己義が入っていて、

祈り自体が汚れていたということです。

 

 

「してあげよう」 「してあげた」

という思いが自分の思いのどこかにないかを見極めて、

誠実に神と人との前に悔い改めるべきだと思います。

悔い改める、この時に聖霊様に守られながら成長することが出来ます。

しかし、

自分はしてほしくても相手は迷惑かも知れないというリスクを冒してでも、

相手の求めていることは何なのですか?と

祈りながらどうしたらいいのかを主に教えていただきながら、相手にも聞き

ただ距離を取るだけでなく、無理な事でないなら、

実際に行動することは大切だと思います。

 

⑤困っている人のことを見て見ぬふりをするのは愛のない行動だとあります。

 

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子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。 

第一ヨハネ3:18

 

 2:15ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、 2:16あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。 2:17信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。

ヤコブ2:15-17

 

愛の行動を起こす時は、

この言葉がはたして、相手にとって勇気付けになっているのかと悩むアドラーの勇気づけ同様に

自分にしてもらいたいことでも、相手も本当にしてほしいと思っているのか、

これは、相手に対して思いやりになっているのか、毎回悩みながら、祈りながら求めていくことになると思います。

しかし、祈って決めた行動だからと言って、相手が不快表明をしても

祈ってしたことだからと強行する行為は霊的ではないと思います。

真に霊的な行為とは、主が望まれるなら歩み、止められたら足を止めることです。

主に従順することですから。

そして、

主は私達が嫌がることを望まない方であると同時に、

相手が嫌がること苦しむことを望まれる方ではありません。

私達も相手をも愛している方ですから。

 

それでも、分かってくれない人はいるものです。

不快を表明しても、改めてくれず、かえって考えを押し付ける人に対しては、

人を変えることはできません。こんな時どう対応すればいいのか

聖書に書いてないのかな?と探すと

 

なんとありました、あの有名なみ言葉です

 

そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。

ルカ23:34

 

相手は、自分が自己中心な思いになっていて、自分が優位になってマウントを取っていることすら気が付いていないのですから、

何をしているかわからずにいる状態なのですよね。

私の尊敬する師匠であられる主イエスにならって、

まず言葉で、「天のお父様、彼女らを赦してください、彼女らは何をしているのかわからないのですから。」

そう告白すると、口から出た言葉に、気持ちがついて行きました。

そして、相手を裁く権利を放棄することで、自分が苦しまなくて済みます。

赦すことは自分自身の為でもあります。

なんて偉そうなことを言いましても、またムクムクと許せない気持ちを思い出すことがあります。

そんな時、再び口から許しを宣言します。

主イエスのみ言葉を口から宣言します。

彼女らは何をしているのかわからないのです、赦しますと

信じる者にはどんなことでも出来るのですと言われる、

主イエスの信仰によって、

主イエスの十字架によって、血潮によって、み言葉によって許します。と

心が落ち着くまで、宣言し続けると、

聖書のみ言葉は力があるので、主イエスが近くに来てくださっているのが分かり、

主イエスが来られたら、もう許せない心はぐうの音も出ません。

どうしてもつらい時、主イエスに

「もう私地獄に行くしかないのでしょうか、イエス様の愛の戒め守れません」と

泣きながら祈ると、肩をつかまれて、

「待ちなさい、死に急いではなりません」と聞こえた瞬間

心が和んできて、許せるようになりました。

 

息子が見た夢の証があるのですが、

夢の中で、悪魔に

「俺はお前より強いんだ、恐ろしい名前を持っているんだ、恨み、憎しみ、怒りだ、どうだ」

と言って暴れまわっていたそうです。

そこに主イエスが来られて

「そんな名前捨てなさい。代わりに、愛、喜び、平安という名前を与えます。」

と主イエスの声が聞こえた瞬間、心が平和で満たされたという夢を見たそうです。

 

ハレルヤ 神様は、どんなに傷ついた心も癒してくださる方です。

 

ヨハネ1章1節の言葉は本当ですね。すべて言葉からはじまります。

初めに言があった。

ヨハネ1:1

 

 

文脈からすると、ここで出てくる「言」とはイエス様ご自身のことです。

 

私達の口から出る「言」も大切なものです。

人は心に思うことを口にするし、心で思うような人になるとあるので、

 

彼は心のうちで勘定する人のように、
「食え、飲め」とあなたに言うけれども、
その心はあなたに真実ではない。

箴言23:7

別訳では、人は心の中で考える通りの人間である。

とあります。

 

許そうと決断した時はまだ気持ちがついてきてなくても、

口から許しの言葉が出てくると、言葉の通りに許すことが出来ます。

まず、自分の口で祈り始めると、福音を語りはじめると、油注がれるのだと

礼拝で何度か聞いたことはないですか?

私は、何度もこのことを聞き、神学校でも学び、

このことを実感しています。

 

聖書を朗読するということは、自分の口で聖書の言葉を告白して宣言することです。

預言とは、占いのように、何年何月頃あなたにこのことが起こるということばかりではなく、

私達が神様から預かっている聖書のみ言葉を自分の口で語ることです。

預言と予言は違います

予言は占い師やノストラダムスに任せておけばいいのです。

私達に重要なのは預言です。

これこそ、生きて働かれる主のみ言葉で、私たちの徳を高めます。

神の御業(みわざ)は預言から始まります。

私達が預かった神のことば、聖書のことばから始まります。

 

まだイエス様を生きて働かれる神だと知らなかった頃、

聖書を朗読して、祈り始めてから、

神様が現実におられることを、実感として分かるようになりました。

感謝します。

 

 

1:1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 1:2この言は初めに神と共にあった。 1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 1:4この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 1:5光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

ヨハネ1:1-5

 

 

このことを思うと、

ことばとは本当に大切にしなけらばならないと思いました。

悪いことを一切口から出してはならないと思いました。

 

4:29悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。 4:30神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。 4:31すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。 4:32互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい

エペソ4:29-32

 

 

3:8最後に言う。あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。 3:9悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。

3:10「いのちを愛し、
さいわいな日々を過ごそうと願う人は、
舌を制して悪を言わず、
くちびるを閉じて偽りを語らず、
3:11悪を避けて善を行い、
平和を求めて、これを追え。
3:12主の目は義人たちに注がれ、
主の耳は彼らの祈にかたむく。
しかし主の御顔は、悪を行う者に対して向かう」。
第一ペテロ3:8-12
3:9わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。 3:10同じ口から、さんびとのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は、あるべきでない。 3:11泉が、甘い水と苦い水とを、同じ穴からふき出すことがあろうか。 3:12わたしの兄弟たちよ。いちじくの木がオリブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができようか。塩水も、甘い水を出すことはできない。
3:13あなたがたのうちで、知恵があり物わかりのよい人は、だれであるか。その人は、知恵にかなう柔和な行いをしていることを、よい生活によって示すがよい。 3:14しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら、誇り高ぶってはならない。また、真理にそむいて偽ってはならない。 3:15そのような知恵は、上から下ってきたものではなくて、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものである。 3:16ねたみと党派心とのあるところには、混乱とあらゆる忌むべき行為とがある。 3:17しかし上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない。 3:18義の実は、平和を造り出す人たちによって、平和のうちにまかれるものである。
ヤコブ3:9-18

 

 

今日もみ言葉を調べながら、み言葉を朗読しているうちに、聖霊様が働いてくださり、

悔い改めに導かれていきました。感謝します。

私こそ、間違い、失敗の多い者です。

口を制することが出来たら完全な人ですね。

主イエスの十字架の約束を心から感謝します。

 

人知をはるか超えた ノア

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