聖書の名言集 ヨハネの福音書:その名を信じ受け入れた人は神の子

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富士山ヨハネの福音書
聖書の名言 ヨハネの福音書:イエス様を知るとは
聖書の名言 ヨハネの福音書:イエス様を知るとは 前回からの続きです。 なぜ私は神様がおられることが分かったんだろう? あの選民であるユダヤ、イスラエルの民ですら、 イエスがキリスト(救...

前回に続きます

前回もお話ししたように、ユダヤ、イスラエルから遠い日本の地で、

浄土真宗の家系で、聖書を手に取り、ラジオを通して

私は主イエスを知り、受け入れ、信じづつけています。

遠い異教の地で主イエスを信じ続けることは決して珍しいことではありません

中国を経由して日本に仏教が入ってきたので、

中国には、仏教というイメージがあります。

そして、現代の中国ではキリスト教への抑圧があります。

それでも中国のクリスチャン人口は伸び続け、クリスチャン人口が世界最多になりつつあります。

 

2030年には中国が世界最大のクリスチャン国に
13億の人口を擁する中国の精神的支柱が変わりつつある。専門家の分析によると、中国国内のキリスト教徒の数は今後15年以内に米国やブラジルを抜いて世界最多となり、プロテスタント人口は2025年までに1億6000万人に達すると予測されている。

 

楊教授は、中国のプロテスタントは2025年までに1億6000万人に達し、米国の1億5000万人を抜いて世界最多のクリスチャンを抱える国になると予測。また、カトリックを含めたすべてのキリスト教徒は2030年には2億4700万人に上るとしている。

中国では政府が認可した教会施設でなければ、礼拝などを行うことが許されない。宗教活動に対する当局の取り締まりは厳しくなっているが、中国最大のキリスト教コミュニティーが育っている浙江省温州では、人口700万人のうちおよそ15%が教会に通っているという。

温州楽清市にある柳市教会は、昨年1月に建堂されたメガチャーチで5000人を収容する。今週のイースター(復活祭)礼拝には数千人が訪れたという。40歳代の女性信者は「もしすべての中国人がイエスを信じたら警察署はいらなくなる。悪い人はいなくなって犯罪は消える」と話す。

仏教の発祥の地インドでも、イスラム圏でも、

イエス・キリストを知り受け入れ信じ続ける人々が起こされ続けています。

 

時代や距離、迫害は神様の御業には関係ないようです。

約2000年前のユダヤでは、イエス・キリストご自身が来られたのですが、

イエスがキリスト(救い主)であることを知ることが出来なかった方の方が多かったのです。

 

自分のところにきたのに、自分の民はを受けいれなかった。

(ヨハネ1:11)
ここは、ご自分の民である選民と言われる民、ユダヤ、イスラエル民族が、
イエス様を受け入れなかったことを限定して指しています。
ご自分のところ、ご自分の民というのは、コロサイ人への手紙に説明されています。
御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。
 コロサイ1:15
万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである
コロサイ1:16
は万物よりも先にあり、万物はにあって成り立っている。
コロサイ1:17
そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである。それは、ご自身がすべてのことにおいて第一の者となるためである。
コロサイ1:18
( ご自身、自ら、御子、彼 )とは、イエス様のことを言っています。
イエス様のことを示しているところは赤文字にしました。
イエス様と言い換えて読んでみるイエス様という存在が分かり再認識できます。

②聖書の名言集 ヨハネの福音書:その名を信じ受け入れた人は神の子




しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
ヨハネの福音書1:12
ここで、受け入れたとは(不定過去形)で書かれ
一度限り決定的にイエス様を受け入れたという意味です。
そして受け入れたということはその名を信じ続けるということです。
その名を信じたとはギリシャ語の現在形で書かれ、ギリシャ語の現在形は継続することを意味して
信じ続けるという意味です。
すなわち
イエスをキリストとして
受け入れ、その名を信じ続けるという応答をした人には
神の子となる力 別訳では神の子となる特権 を与えられたということです。
この力は、エクスシアというギリシャ語で、正確には権威と訳された方が正しいと言われる先生もおられます。
それですので、ここでは口語訳の「神の子となる力」というニュアンスが近いと思います。
また エクスシアには権利と能力の二つの意味が含まれると書いてある書物があります。
主イエスは命の源なる方で、
主イエスを知り受け入れ信じ続ける者は、
失った権威を回復され、
神の子どもとしての力が与えられて神の霊によって生まれ変わった者です。
イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」
ヨハネ3:3
すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者である。すべて生んで下さったかたを愛する者は、そのかたから生れた者をも愛するのである。
第一ヨハネ5:1
神を愛してその戒めを行えば、それによってわたしたちは、神の子たちを愛していることを知るのである。
第一ヨハネ5:2
神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない
第一ヨハネ5:3
なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。 
第一ヨハネ5:4
世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。 
第一ヨハネ5:5
第一ヨハネの手紙を読むと、自分の愛のなさに恥じ入ります。
全てイエスがキリストであることを信じる人は神から生まれた人です。ということを聖書から
根拠を調べていたら、
次に出てきた、
すべて生んで下さったかたを愛する者は、そのかたから生れた者をも愛するのである。
という文字が私の心を突き刺しました。
私達は神から生まれた者同士、愛し合っていくべきなのだと思います。
圧倒的な勝利者、光の子どもとされたのですから。
自分の事を少しは愛ある者だと思っていたのに、
否定されたり、軽んじられたりした時、ムッと来て
愛が吹っ飛んでしまうことがあります。
み言葉(聖書のことば)は、心の闇を悟らせます。
(み言葉とはクリスチャン用語で、聖書の言葉のことです)
一節一節丁寧に見ていくと、み言葉は今大切なことを直接語ってくれるものですね。
近頃特に、日々の生活の中で、
愛のない自分を発見することがよくあります。
「私にはとうてい、主イエスの愛で、愛せません。それでは、だれが救われることができるのですか」と尋ねたい気持ちになる時、主イエスが言われた言葉をいつも思い起こします。
そして私を支えてくれます。
18:27イエスは言われた、
イエス様
イエス様
「人にはできない事も、神にはできる」。
友喜
友喜

もしできるのでした、お願いします。助けてください。愛する力をください。

マルコ9:20

イエス様
イエス様

もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる

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ここで主イエスが「信じる者にはどんなことでも出来る」と言われた「信じる者」とは
私達が頑張って信じる者になるのではなく、
「信じる者」とは、
主イエスご自身のことを指しています。主イエスの信仰はどんなことでも出来る。
ということです。
主イエスの十字架を見上げます。
御霊に助けられ、導かれて歩みたいと思います。
信じる者とは、イエス様のこと。
イエス様を信頼して飛び込んでいきます。
イエス様の信仰、イエス様の情熱により頼みます。
もしもあなたが、信仰を持ちたいけれど、
イエス・キリストを信じ従って行けるのか不安で、信仰を持つことが出来ないのでしたら、
このイエス様の「信じる者にはどんなことでも出来る」という言葉に
しがみつき飛び込んでいけるなら、大丈夫です。
完全な信仰を持ったクリスチャンは一人もいません。
神様のことをすべて理解しているクリスチャンもいません。
どんなに素晴らしい教職者の先生方でも、
神様のことを完全に理解し完全な信仰を持つことは不可能です。
あの大使徒パウロやペテロですら、失敗しながら成長していった足跡が聖書に残されています。
クリスチャン生活とは、毎日が新しく目が開かれ罪を示され、
悔い改め、自分が小さく消えていき、
主の十字架を仰ぐとき、イエス・キリストが大きく生きてくださる日々です。
自分の力では出来ないのだということを日々悟らされる日々です。
自分の力では悟れないので、神様に悟らさせていただきます。
義に飾られた自己中心は自分では分からないものです。
私の目が開かれた事の分かち合いになるのですが、
今紹介した「信じる者にはどんなことでも出来る」という
イエス様の言葉が書かれている箇所です。
信仰とは、
「もしできればと言うのか、信じる者(イエス様)にはどんなことでも出来る」
と言われる主イエスの信仰に飛び込んでいくことだと
神学校の授業で教わり、ああそれでいいんだと、ホッとしたことがあります。
その箇所は、悪霊につかれた子を父親がイエス様の元に連れて来て
イエス様が子どもに悪さをする悪霊を追い出し、解放してくださった時の話です。
9:17群衆のひとりが答えた、「先生、おしの霊につかれているわたしのむすこを、こちらに連れて参りました。 9:18霊がこのむすこにとりつきますと、どこででも彼を引き倒し、それから彼はあわを吹き、歯をくいしばり、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、この霊を追い出してくださるように願いましたが、できませんでした」。 9:19イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまで、あなたがたに我慢ができようか。その子をわたしの所に連れてきなさい」。 9:20そこで人々は、その子をみもとに連れてきた。霊がイエスを見るや否や、その子をひきつけさせたので、子は地に倒れ、あわを吹きながらころげまわった。 9:21そこで、イエスが父親に「いつごろから、こんなになったのか」と尋ねられると、父親は答えた、「幼い時からです。 9:22霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」。 9:23イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。 9:24その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。 9:25イエスは群衆が駆け寄って来るのをごらんになって、けがれた霊をしかって言われた、「おしとつんぼの霊よ、わたしがおまえに命じる。この子から出て行け。二度と、はいって来るな」。 9:26すると霊は叫び声をあげ、激しく引きつけさせて出て行った。その子は死人のようになったので、多くの人は、死んだのだと言った。 9:27しかし、イエスが手を取って起されると、その子は立ち上がった。
マルコ9:17-27
父親はここで「不信仰な私をお助け下さい」とイエス様に素直に告白しています。
父親は、不信仰でした。
けれど、信じる者であるイエス様によって、息子の悪霊は出ていきました。
この父親のように、信じる者であるイエス様の信仰、情熱に飛び込んでいけるなら
大丈夫です安心して、信仰を持ってください。
牧師先生にお話しして洗礼を受けられたらいいと思います。
すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。
ローマ8:14
あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。
ローマ8:15
御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。
ローマ8:16
もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。
ローマ8:17
なんという恵みでしょうか。
人は罪を犯して、祝福を失ったのに、主イエス・キリストを知り、受け入れ信じ続ける者には、
権威を回復され、神の子としての力を与えられるとは、
正しく生きる力、人を愛する力、サタン(悪魔)よ退けと宣言する権威を回復してくださいました。!
感謝します。アーメン ハレルヤ!  \(^o^)/
アーメンとは・・・真実に同意します。その通りになりますようにという意味です
ハレルヤとは・・・神様をほめたたえます。 感謝や喜びを表します。 という意味です

恐れの奴隷ではなく、神の子どもです。ハレルヤ




神の子となる権威、力 特権とはどんなものなのでしょうか?
神は、この世界の創造者、王の王です。
この方の子どもとなるとは、どういうことか想像してみてください。
親は子どもと親しく食卓を囲みます。
親は子どもの望むことをかなえたいと思い何らかの行動をします。
親は子どもの能力を伸ばしたと思い、何らかの行動をします。
子は親の相続人です。
今私が表現した以上に、まだまだ想像できないほどの祝福があると思います。
私達の目が開かれもっと深く祝福の神を知ることが出来ますように。
神様の祝福を想像すると、
身の回りの小さいことに囚われて、
祝福を受けることが出来ないとすれば
もったいないことだと思わされます。
自分の小さい計画より、神様の偉大なご計画、
み心がなりますようにと願います。
どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、
エペソ1:17
あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、
エペソ1:18
また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。
エペソ1:19
この世界の創造規模で神は信じる者に子としての祝福を与えたいと願っておられます。
それには何度も言いますが、条件があって、
それは、
イエス様を知り、
イエス様を受け入れ、
その名(イエス様のお名前)を信じ続ける人に
神の子どもとなる力(特権)(権威)を与えられました。
「イエス」という名は「罪から救う者」という意味です。
   ↓
彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである
マタイ1:21

③聖書の名言集 ヨハネの福音書:その名を信じ受け入れた人は神の子

神の子ども
それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
ヨハネ1:13
血すじによらずとは、由緒正しい家柄や家系、
選民ユダヤ人だけ!ということではないということです。
肉の欲によらずとは、行いによってではなく、
人の欲にもよらずとは、知識の量でもなく、
ただ神の力によって、霊によって新しく生まれた人々のことです。
家系、行い、知識の量で救われるのではなく、
救われるのはただ神の力によるのだということをヨハネは主張しています。
ただ、最低限イエス様がどんな方で、何をしてくださった方なのかを知らなければ、
救われようがありません。
この知るとは、親しく知るということで、イエス様を完璧に知る事は無理にしても、
イエス様が、私達を愛し、十字架で私たちの身代わりに死んでっ下さり
私たちの罪の借金を完済してくださり、
死とよみに勝たれよみがえられた復活の主であると、
知識や言葉だけで知っているということでも
知っているという意味ではありません。
野球で有名なイチローさんを知らない方は少ないと思います。
でも その知っているという意味では聖書の言っているイエス・キリストを知るという意味にはなりません。イチローさんは私のことを知りませんから。
たとえば・・・
イチローさんと、時々電話で会話して、イチローさんのご家族と時々家族ぐるみで食事に出かけるのだという具合でしたら、知っているということになります。
イエス・キリストのことを日本人の多くは、ある意味クリスマスに教会でお祝いして、
名前を知ってはいても、どんな方か、何をしてくださったのかを知らない方が多いです。
それですので、
ヘブル的な意味の知る(ギノスコ)という境地には至っていないので、
知らないということです。
この知る(ギノスコ)とは、夫婦関係のように親密に知るという意味です。
処女マリアが、天使から「あなたは男の子を生みます。」と言われた時
「どうしてそんなことがありえましょうか、私はまだ男の人を知りませんのに」といった
時に使った言葉の知るという意味です。
信じ続けるというのは、親密な関係を保ち続けることです。
教会に一度行ったことはあるけれど、普段から聖書は読まないし、祈らないから
神様との会話はほとんどないわ というなら知らないということです。
日々
み言葉(聖書のことば)を読み、
祈り(祈り、礼拝、賛美)を通して
親密な関係を保ち続ける必要があります。
少しの時も惜しんで、出来るだけ多く主と交わりの時を持ちたいと思います。
それには、まとまって決まった時間を捧げることが必要ですが、
いつも主を感じて、いつも主と会話しながら
生活することで、どんな時でも主とともにいることが出来ます。
主は、いつもそばにいてくださっていますから。
他の人がいる時は独り言を言っているように見えて、変に思われるので、
一人の時に主に語り掛けてみてください。
主は、微笑んでじっと聴いてくださっています。
今も完璧に理解はしていないのですが、最初の頃、私は聖書が難しくて、
友喜
友喜

神様、どうしてこんなに難しく書いたの?分かるように書いてほしかった

な・・・もう!

と苛立ちながら話しかけたことがありました。
私が苛立っていても、主はいつもそばにいて落ち着いた優しい声で、
語ってくださいます。
イエス様
イエス様

 

どこが分からないのだ?

イエス様の声を聴くといつも心が落ち着きます。
み言葉を何度も口ずさんでいるうちに
神様が私の心に語られ悟らせたり、
ちょうど知りたい個所をネットや本で紹介されたりします。
いつも、想像以上に深く教えてくださいます。
信仰の幼い私に主は直ぐに応えてくださいます。
今これを書きながら、ああそうだった、
主はいつもそばにいてくださるインマヌエルの主だったと
いろんな時を思い出しました。感謝します。
インマヌエル(神我らと共にいますという意味です)
あなたも早速、聖書を読んで、主に語り掛けてみられることをお勧めします。
4:6何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。 4:7そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。
ピリピ4:6-7
いつのまにかここに ノア

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