聖書の名言集 ヨハネの福音書から、神に遣わされ証人の使命を見ていきたいと思います。
すみませんその前に、
私は、ヘブライ語にとても魅力を感じるのですが、
読み書きしたり、イスラエルの方と話せるだけのヘブライ語力があるわけではありません。
ネットでヘブライ語を調べていると、どこか触れてしまったのか?
パソコンがヘブライ語バージョンになってしまったことがありました。
ヘブライ語は右から読むので、パソコンの画面が全部反対で、とっつきにくくて大変でした。
やっぱり慣れ親しんだ日本語が使いやすいです。(>_<) 即、日本語バージョンに訂正しました。
このように私はブライ語に堪能ではないですが、ヘブライ語に魅力を感じるので、礼拝のメッセージなどで、「原語では・・・」という話が出ると、ウキウキしていつもより耳をダンボにしてメモをする癖があります。
( ..)φメモメモ
イエス様はヘブライ語かアラム語を普段は話されて、ポンテオピラトとの会話はギリシャ語で話しておられた可能性があるのだそうです。流石イエス様、バイリンガルですね。
ヘブライ語は聴くだけで、嬉しくなります。深く優しいイエス様のイメージが膨らみます。
ヘブライ語関係で啓示を受けて、恵まれたことなどがありましたら、
是非教えてください。もし了解してくださって、よろしかったら、
コメントをそのままこのサイトのヘブライ語カテゴリーに記録として残しておきたいです。
さて、今読んでいるヨハネの福音書は、新約聖書で、原語はギリシャ語です。
前回までに主イエスがどんな方なのか
創造主でおられる父なる神と主イエスが創造の初めからおられ、
イエス様によってこの世のすべては創造されたこと、
イエス様はことばなるお方で、イエス様は神であり、命の源泉であり、光なる方であること。
そこまでお伝えしました
ヨハネの福音書にもう一人のヨハネが登場します。
目次
①聖書の名言 ヨハネの福音書:証人の使命
ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。
(ヨハネ1:6)
同じ名前のヨハネという人が登場します。
この人はヨハネの福音書を書いたヨハネではなくバプテスマのヨハネと呼ばれている人です。
バプテスマのヨハネは神から遣わされた人でした。
この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。
(ヨハネ1:7)
バプテスマのヨハネは光であられるイエス様のことを証しするために神から使わされました。すべての人がイエス様のことを信じるためです。
彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。
(ヨハネ1:8)
ヨハネ自身が光ではありません。
ヨハネの使命は、ただイエス様のことを証することでした。
イザヤ書には、「荒野で叫ぶ者の声」としてバプテスマのヨハネのことが預言されています。
呼ばわる者の声がする、
「荒野に主の道を備え、
さばくに、われわれの神のために、
大路をまっすぐにせよ。
(イザヤ書40:3)
また、ヨハネの使命についてはルカの福音書に、ヨハネが生まれる前に、天使によって預言されていたことが書かれています。イエス様のことを証し、民を神に立ち返らせ主の道を整える使命です。
1:13そこで御使が彼に言った、「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。 1:14彼はあなたに喜びと楽しみとをもたらし、多くの人々もその誕生を喜ぶであろう。 1:15彼は主のみまえに大いなる者となり、ぶどう酒や強い酒をいっさい飲まず、母の胎内にいる時からすでに聖霊に満たされており、 1:16そして、イスラエルの多くの子らを、主なる彼らの神に立ち帰らせるであろう。 1:17彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」。
(ルカ1:13-17)
困難の中で、希望の光(主イエス)を伝える為に叫ぶ者の声になるということは、主の証人となるということで、
証人とはギリシャ語で殉教者を意味します。
バプテスマのヨハネもヘロデとヘロデヤの不倫を咎めたことで、ヘロデヤの申し出によって、首を切られ殉教しました。
聖書の言葉は、剣です。それは人ではなく、自分を刺し通す剣です。
心の深いところの思いを判別することができます。
というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。
(ヘブル4:12)
私達も首は切られなくても、自分の頭(自分の自己中心)を聖書の言葉の剣で切取り、キリストを自分の頭とする時、真実に証人(殉教者)となることが出来ます。
自分の首に、自分の頭(自己中心)がある間は真実な証人(殉教者)とはなれません。
自己中心がある間は主の証人(殉教者)ではないのです。
どんなに一生懸命頑張っても、残念ですが、かえって主の御名を汚す存在になってしまいます。
②聖書の名言 ヨハネの福音書:マタイ・眠ったおとめ
25:1そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。
25:2その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。 25:3思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。
25:4しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。
25:5花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。 25:6夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。 25:7そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。
25:8ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。 25:9すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。
25:10彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。
25:11そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。 25:12しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。
25:13だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。
(マタイ25:1-13)
乙女たちのように眠ってしまわずに、花婿が来られたぞと、叫ぶ者の声になったとしても、
自己中心があるなら、真実な証人(殉教者)になっていません。
叫ぶ者の声になるなら、証人となるなら、まず自己中心の自分の頭を切り取ってからでなければ、主は彼の日に、「私は知らない」と言われるでしょう。
③聖書の名言 :真の証人を実から見分ける
7:18良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。
7:20このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。
7:21わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
7:22その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
7:24それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。
7:25雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。
7:26また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。
7:27雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。
10:17七十二人が喜んで帰ってきて言った、「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します」。 10:18彼らに言われた、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。 10:19わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。 10:20しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。
④聖書の名言 :み言葉の剣で自分を吟味して判別する
13:1たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
13:2たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
13:3たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
13:4愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、
13:5不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
13:6不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 13:7そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
13:8愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
13:9なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。
13:10全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。
⑤聖書の名言 ヨハネの福音書:み名が聖とされるよう
もしあなたがたを迎えもせず、またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば、その家や町を立ち去る時に、足のちりを払い落しなさい。
イエスは答えられた、「もしわたしが何か悪いことを言ったのなら、その悪い理由を言いなさい。しかし、正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」
16:2人の道は自分の目にことごとく潔しと見える、
しかし主は人の魂をはかられる。
16:3あなたのなすべき事を主にゆだねよ、
そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。
16:4主はすべての物をおのおのその用のために造り、
悪しき人をも災の日のために造られた。
16:5すべて心に高ぶる者は主に憎まれる、
確かに、彼は罰を免れない。
16:6いつくしみとまことによって、とがはあがなわれる、
主を恐れることによって、人は悪を免れる。
16:7人の道が主を喜ばせる時、
主はその人の敵をもその人と和らがせられる。
今日の礼拝で、ヨブ記を学んだのですが私は、また黙示録の殉教者を思いました。
近頃、このことがずっと頭から離れません。
神様がこのことはとても重要だから反芻するように語られているように感じます。
証人、殉教者については、昨日の新宿シャローム教会の第三礼拝でも富田愼悟先生が少し触れられていました。
⑥聖書の名言 ヨハネの福音書:証人と殉教者
また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。
(黙示録20:4)
2017年版では「イエスの証と神の言葉のゆえに首をはねられた」とあります。
以前にも記したのですが、ここは殉教とも取れますし、
神の言葉の剣で、自分の首を刺し通し、主イエスを頭とした者、
要するに自己中心を切り捨てて、神のみ言葉、神のみ心を大切にした者とも取れます。
ヨブの罪は、本当に厄介な義人の罪で、
正しい者の罪です。
実はこれが、これこそが、根深く深刻な罪なのです。
人のことを思いやるより先に、どこまでも自分が可愛い。自分が大切。
極限まで追いつめられると、人は、自分の義を訴えます。
私が何をした?何が間違っているの?私は正しい!
現に相手が間違っているじゃないかと・・・
礼拝メッセージを聞いていてふと感じたのですが、
もしかしたら、自分はひどいことをされても裁けないと涙ながらに訴えても・・・
私は裁かないのです。裁いてないのです。と言ったその口で、自分の方が正しいことを訴えて、
相手は正しくないのだと裁いているのではないかと、どうしても思えてしまいました。
それが裁きでないとすれば、人を裁くとはどういうことなのでしょうか?
口から出たのは酷いことをされて、傷つき、心に裁きの思いがあったからではないですか。
気が付かないのですか?気が付けないのです。
人の事はよくわかってしまうのです。
そして人は、自分の高ぶりには気が付けないのです。
人は、どこまでも自己中心なのです。
その姿が、他の誰でもなく私の姿そのものです。
礼拝メッセージを聞きながらそう思いました。
これは死ななければ治らないのです。自分の自己中心に死んで主イエスの十字架を仰ぐしか・・・
神の義により頼むしか道はありません。
知恵と啓示の聖霊様によってでしか、人は自分の罪すら気が付けない、自分を正しくして人を正しくないと裁いていることすら気づけない存在なのだという真実を突き付けられます。
聖霊様が来られた時、罪について義について裁きについて世の間違いを明らかになさいます。
それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。
(ヨハネ16:8)
気が付かないのは、聖霊様の声を聴けないほど、心に傷があったり、
苦い根があったりして、あまりにも汚れてしまっているからなのでしょうか。
私の誤りを明らかにして、罪について義について裁きについて悟らせてください。
主よ、理不尽で、なぜ?ということが多いです。
大きな山です、人の力では動かせません。
権勢や能力で威圧的に動かされても、解決しません。
真に心解かす言葉は、
正直な思いを主に聞いていただく時に主からいただけます。
主よ、他の誰でもない、あなたに聞いて頂きたい。
イエス様が、ご自分が死に瀕する時でも、
「父よ彼らを赦してください、彼らは何をしているのかわからないのですから」
と言って愛を示されたように
自分のことよりも、相手のことを思いやる優しい強さを、
愛する力を与えてください・・と祈るのみです。
人の道は自分の目にことごとく潔しと見える、
しかし主は人の魂をはかられる。
(箴言16:2)
昨日の礼拝で、メッセージを聞きながら、
牧師先生がいつも語られる箴言16章の2節にある聖書の名言が心に何度も響いていました。
神様が遣わされるところで主のみ心、御業を流しだす通り良き管として僕たちを用いていただきたいです。
僕も自分を現わして自分の事を証しするのではなく、
バプテスマのヨハネのように主イエスのことを証し、
主イエスが前面に現れていただけるように願い祈ります。
⑦聖書の名言 ヨハネの福音書:文中で紹介したユーチューブ、礼拝です。
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日々のデボーションはこちらの聖書通読クラブ(無料)にお世話になっています。
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今、教会では、教会難民が増えているそうです。人間関係のつまずきや
牧師先生の高齢化、牧師不在、そして、極めつけは、コロナの状況から、普通に教会で礼拝を受けられない人々が増えています。
何時まで、ネットで礼拝することが赦されるのかは分かりません。日本に中国のような迫害が起こらないことを願います。また、ネットだけの礼拝では無理な部分もあると思われるので、全面的にはお勧めしたくはないですが、
いろんな事情がおありだと察するので、
全然メッセージを聞けないよりはずっといいですし、本物の信仰を持った牧師先生からのメッセージなら、ネットの向こうからでも熱い主イエスの息が吹き込まれた霊性が迸ってきて、目が覚める思いがすることがしばしばです。
現代はネットの時代で、違う教会のメッセージも聞くことが出来ることを感謝します。違う視点からも学べます。
教会の牧師先生の体調があまりよくないので、私の通っている教会自体もネットの礼拝を取り入れています。
私は、個人的にも以前から自分の教会でも礼拝し、帰宅してさらにネットで新宿シャローム教会第三礼拝でも、そして松本牧師のユーチューブも聞き、たまに中川健一牧師のユーチューブも聞き、他の教派のメッセージも聞きとても目が開かれることがあります。
海外のメッセージも有難いことに日本語訳してくださっているものもあります。
その気になれば、休日でしかも自由な時間が少しでも取れる日はメッセージ三昧、聖書をたくさん読んで祈り、聖会のような過ごし方が出来ます。
所属教会はそうコロコロ変えるわけにはいかないし、教会の家族意識は大切だと思います。
地域教会に所属していることは、霊的健全の為にも大切ですが、
所属教会の礼拝にプラスして、
ユーチューブは自由に選んで学ぶことは悪いことではないと思います。できるなら、所属教会の牧師先生に相談しながら、利用すればいいと思います。
牧師夫人から、いろんな知識を知ることが出来るし、面白くて、ためになるから見てみたらいいですよと礼拝中に勧められたユーチューブのメッセージがこちらです。
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教会の兄弟姉妹から勧められたのがこちらです
これらはすべて自己責任で、ベレヤの人々のように、自分で聖書を開いて確かめながら聞いてください。
一部だけを取って、いろいろネットで叩かれている先生方もおられますが、私はそうは思いません。
結ぶ実によって見分ける力を神様に求めつつ、自由に利用すればいいと思います。
このブログでも、これらのサイトから学んで、感動しもっと広めたいこと
あなたとイエス様のすばらしさと感動を共感したいと思うことなどがありましたら
今はヨハネの福音書を学んでいるのですが、
その時の順序でなくても紹介させていただきます。
私のブログでの投稿記事は、本音を言いますと、自分で発見したことはほとんどありません。
信仰書で学び、礼拝で神の言葉を聞いて、
ネットからの熱いメッセージに目が開かれ、目を覚まし、
神学校で教えていただいたことや
また日々の通読や生活の中で、神様から教えていただいたことを書いています。
神様はいろんな方法で、ちょうどよい時に教えてくださいます。
心から感謝します。
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