2026年2月16日の聖書通読 シャーラムからシャロームへ——償いと逆転が織りなす神の物語——

聖書の名言集
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——償いと逆転が織りなす神の物語——

目次

通読箇所:出エジプト記22章/エステル記8章・9章/ルカの福音書20章9〜26節

今朝、出エジプト記22章を読んでいて、いくつもの「あれ?」が止まらなかった。

「まだ婚約していない処女をいざない、彼女と寝た場合は、必ず花嫁料を払って、彼女を自分の妻としなければならない」——待ってほしい。この女性にも結婚相手を選ぶ権利があるはずだ。無理やりなら拒否権が欲しい。3500年前の律法は、本当にそこまで考えていなかったのか?

「在留異国人を苦しめてはならない」——この言葉を読みながら、頭をよぎったのは川口市の問題だった。在留異国人を苦しめてはならない。それは聖書の命令だ。でも、その在留異国人が地域の秩序を壊し、もともと住んでいた人々が怖がって引っ越していくとしたら?保護と秩序は両立できるのか?

「民の上に立つ者をのろってはならない」——正直に言えば、尊敬できない指導者もいる。でも呪わずにとりなすことを選びたいと思った。それは簡単なことではないけれど。

「野で獣に裂き殺されたものの肉を食べてはならない」——これには霊的にどんな意味があるのだろう?

こうした問いを抱えながら読み進めていくうちに、ひとつのヘブライ語が目に留まった。שָׁלַם(シャーラム)——「償う」。この語が22章に何度も何度も繰り返されている。そしてこのシャーラムが、שָׁלוֹם(シャローム)——「平和」——と同じ語根を持つことに気づいた時、この章の景色が一変した。

さらにエステル記8〜9章では、滅ぼされるはずの民が勝利者に「変えられた」。ヘブライ語のהָפַךְ(ハーファフ)——「ひっくり返す」。しかもそれが受動態で書かれている。誰が変えたのか。名前の出てこない神が、文法の背後に隠れておられた。

そしてルカの福音書20章で、イエスは言われた。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。神のものは神に返しなさい」。

人間の物語が終わったところから、神の物語が始まる。償いの先に平和がある。絶望の先に逆転がある。殺された側が殺した側のために自らを差し出すという、考えられない仰天の逆転——それはびっくり仰天するほどの愛だった。アメージング・グレイスだった。

今日の通読は、出エジプト記22章、エステル記8〜9章、ルカの福音書20章9〜26節。三つの書を開いて、この仰天の物語を一緒にたどってみてほしい。

※この記事は、要点だけを抜き出して理解できる内容ではありません。モーセ五書・旧約・新約の連続した文脈の中でのみ読まれることを意図しています。

【読み方のご案内】 第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。 時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。


第一部:シャーラム——壊れた世界を修復する神の設計図(出エジプト記22章)

出エジプト記22章を開くと、そこには盗み、火災、預かり物、家畜の管理といった、実に具体的な生活の場面が並んでいる。一見すると古代社会の法律集に過ぎないように見えるかもしれない。しかし、この章を貫くひとつのヘブライ語に注目すると、そこには驚くべき神学が隠されている。

それが שָׁלַם(シャーラム)という動詞である。「償う、完全にする、満たす」を意味するこの語が、22章の中で繰り返し現れる。牛を盗んだなら五頭で「償わなければならない」(1節)。生きたまま見つかれば二倍にして「償わなければならない」(4節)。畑を食い荒らしたなら最良のもので「償いをしなければならない」(5節)。火災を起こしたなら「必ず償いをしなければならない」(6節)。

注目すべきは、このシャーラムが שָׁלוֹם(シャローム)——「平和」を意味する、聖書で最も有名なことばのひとつ——と同じ語根を持つことである。

これは偶然ではない。聖書的な平和とは、単に争いがない静かな状態を指すのではない。壊れたものが正しく修復され、失われたものが完全に回復され、損なわれた関係がふたたび結び直された状態——それがシャロームなのである。つまり、シャーラム(償い)が完了したところにシャローム(平和)が生まれる。出エジプト記22章の律法は、シャロームの設計図と言ってよい。

<償いの原則に見る神の知恵>

この章の償いの規定を注意深く見ると、そこに精密な比例原則が働いていることに気づく。

牛を盗んで殺したり売ったりした場合は五頭で償う。羊なら四頭である(1節)。なぜ牛の方が高い償いが求められるのか。牛は農耕の動力源であり、一家の生産基盤そのものである。牛を失うことは、単に財産の損失ではなく、生活の基盤を奪われることを意味した。つまり償いの重さは、被害者が受けた実質的な損害の深さに比例している。

一方、盗んだ家畜がまだ生きたまま手元にあった場合は二倍の償いで済む(4節)。被害が回復可能な段階であれば、償いの負担も軽い。ここには、損害の不可逆性が増すほど償いも重くなるという原則が見える。

さらに興味深いのは、夜間に侵入してきた盗人を打ち殺しても罪にならないが、日中であれば罪になるという区別である(2〜3節)。暗闇の中では相手が武器を持っているか、何人いるか判断できない。生命の危険は現実的であり、自衛は正当化される。しかし日中であれば状況を判断する余裕があり、人命を奪わない他の手段が可能である。ここに、人命の尊厳を最大限に守りながら正当防衛の権利も認めるという、きわめて繊細な法的バランスが表れている。

<弱者への特別な配慮——「わたしは情け深いから」>

出エジプト記22章の後半部分で、律法の調子が明らかに変わる。財産の償いに関する規定から、社会の中で最も弱い立場にある人々への保護規定へと移行するのである。

「在留異国人を苦しめてはならない。しいたげてはならない。あなたがたも、かつてはエジプトの国で、在留異国人であったからである」(21節)。

ここで「在留異国人」と訳されるヘブライ語 גֵּר(ゲール)は、自分の故郷を離れて他国に身を寄せている人を指す。神がイスラエルにゲールへの配慮を命じる根拠は、彼ら自身がかつてエジプトでゲールであったという経験である。痛みを知る者は、同じ痛みの中にいる者を苦しめてはならない。これは共感に基づく倫理であり、出エジプトの記憶が律法の土台となっている。

ただし重要な点がある。出エジプト記12章49節には「在留異国人にも、この国に生まれた者にも、おしえは一つである」と記されている。ゲールを保護するということは、同時にゲールも共同体の律法に従うことを前提としている。保護と秩序は矛盾しない。むしろ、同じ法の下に置かれることが真の共生の基盤なのである。

続いて「すべてのやもめ、またはみなしごを悩ませてはならない」(22節)という命令が来る。そしてここに、出エジプト記22章で最も心を打つ言葉が記されている。

「もしあなたが彼らをひどく悩ませ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶなら、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる」(23節)。

さらに、貧しい者から質に取った着物を日没までに返すよう命じた後で、神はこう宣言される。

「彼がわたしに向かって叫ぶとき、わたしはそれを聞き入れる。わたしは情け深いから」(27節)。

「情け深い」と訳されている חַנּוּן(ハンヌーン)は、出エジプト記34章6節で神がモーセの前を通られた時の自己宣言にも登場する神の本質的属性である。律法が弱者を保護する究極の根拠は、法的な権利論ではなく、神ご自身の御性質にある。やもめの叫びが聞かれるのは、叫ぶ権利があるからではなく、聞く方が情け深い方だからである。

<「聖なる民でなければならない」——この章の到達点>

22章の結びに置かれた「あなたがたは、わたしの聖なる民でなければならない」(31節)という宣言は、それまでの律法全体の目的を示している。償いの規定も、弱者保護も、すべてはイスラエルが「聖なる民」として生きるための具体的な道筋なのである。

この宣言の直後に「野で獣に裂き殺されたものの肉を食べてはならない。それは犬に投げ与えなければならない」(31節)という食物規定が続く。「裂き殺されたもの」を表すヘブライ語 טְרֵפָה(テレーファー)は、正規の方法で屠られていない肉を指す。レビ記17章11節が「いのちは血の中にある」と教えるように、血の扱いは神の主権に直結する。神の定めた方法で処理されていない肉は、秩序の外にあるものの象徴であり、聖なる民にはふさわしくない。

ここには霊的な原則も読み取れる。何を自分の内に取り入れるか——教えであれ、文化であれ、価値観であれ——は、聖さに直結する。神の秩序の外で生まれたものを無批判に取り込むことへの静かな警告が、この食物規定の中に込められている。

出エジプト記22章は、壊れた世界をどう修復するかの設計図である。そしてその設計図の中心には、法律ではなく、「わたしは情け深いから」と語る神の心がある。この心を知る時、シャーラム(償い)の先にあるシャローム(平和)の姿が見えてくる。



第二部:ハーファフ——逆転の神が歴史を書き換える(エステル記8章・9章)

エステル記は、聖書の中で唯一、神の名が一度も登場しない書である。しかし、この書ほど神の隠れた摂理が鮮やかに描かれている書もない。8章と9章は、その摂理が歴史の表舞台に一気に現れる瞬間を記録している。

物語の背景を確認しておきたい。アガグ人ハマンは、ユダヤ人モルデカイが自分にひざまずかないことに激怒し、モルデカイ個人ではなくユダヤ人全体の抹殺を企てた。プル(くじ)を投げて日取りを決め、王の名で勅令を発布した。ペルシア帝国127州に散らされたすべてのユダヤ人が、アダルの月の十三日に殺される——それは取り消しのできない王の法であった。

しかし8章でエステルが王の前にひれ伏し、涙ながらに嘆願する場面から、すべてが動き始める。

<取り消せない勅令と、もうひとつの勅令>

ペルシアの法では、王の名で発布され王の指輪で印が押された勅令は、王自身であっても取り消すことができなかった(8節)。ハマンの勅令は依然として有効である。ユダヤ人を殺してよいという法律はそのまま残っている。

ここに神の摂理の驚くべき方法が現れる。古い勅令を消すのではなく、新しい勅令を上書きするのである。モルデカイはアハシュエロス王の名で第二の勅令を書き、王の指輪で印を押した。その内容は、ユダヤ人が自分たちのいのちを守るために集まり、襲ってくる敵に対して戦うことを許可するものであった(11節)。

この構造は、神の救いの歴史における重要な型を示している。罪の法則は取り消されない。罪の報酬は死であるという原則は変わらない。しかし、その上に恵みの法則が重ねられる。パウロがローマ書8章2節で「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放した」と書いた時、それはまさにこのエステル記の構造と同じである。古い法を廃棄するのではなく、新しい法がそれを超越する。

<ハーファフ——聖書的逆転の神学>

9章1節に、エステル記の神学的核心とも言える表現が登場する。

「ユダヤ人の敵がユダヤ人を征服しようと望んでいたのに、それが一変して、ユダヤ人が自分たちを憎む者たちを征服することとなった」。

ここで「一変して」と訳されているヘブライ語 נַהֲפוֹךְ(ナハフォフ)は、動詞 הָפַךְ(ハーファフ)「ひっくり返す、逆転させる」のニフアル形(受動態)である。同じ語根が9章22節にも現れる。「悲しみが喜びに、喪の日が祝日に変わった(נֶהְפַּךְ / ネヘパフ)月」。

この動詞ハーファフは、聖書の中できわめて重要な場面に繰り返し登場する。創世記19章でソドムとゴモラが「覆された」のもこの語であり、出エジプトの過越の夜にエジプトの状況が一変したのもこの概念である。神は歴史を文字通り「ひっくり返す」方なのである。

ここで注目すべきは、エステル記でこの動詞が受動態(ニフアル形)で使われているという事実である。9:1のナハフォフも、9:22のネヘパフも、どちらも「自然に変わった」のではなく「変えられた」——誰かの手によって逆転させられた——という形なのである。

では誰が変えたのか。エステル記には神の名は一度も出てこない。にもかかわらず、ヘブライ語の文法が「これは誰かの意志による逆転である」と証言している。名前のない神が、受動態の動詞の背後に隠れておられる。文法そのものが、見えない神の指紋を刻んでいるのである。

9章22節の逆転はさらに深い。「悲しみが喜びに、喪の日が祝日に変えられた」——ここでの逆転は、単なる状況の好転ではない。悲しみそのものが喜びの素材に変えられ、喪そのものが祝いの根拠となるという、質的な変換である。悲しみが消えて喜びが来たのではなく、悲しみの中から喜びが生まれた。

このハーファフ(逆転)の原理は、出エジプト記22章のシャーラム(償い)と深く結びついている。シャーラムが損害を修復して元の状態に戻すことだとすれば、ハーファフはさらにその先を行く。元に戻るのではなく、元よりも良い状態へと逆転させられる。ハマンの家がエステルに与えられ、ハマンの指輪がモルデカイの手に移り、迫害される民が勝利する民となる。失われたものが回復されるだけでなく、まったく新しい現実が生まれるのである。

<「獲物には手をかけなかった」——自制が語る霊的成熟>

エステル記9章で三度にわたって繰り返される一文がある。「しかし、獲物には手をかけなかった」(10節、15節、16節)。

この繰り返しは意図的であり、旧約聖書の読者にとって、ある重要な出来事を想起させるものである。サムエル記第一15章で、サウル王はアマレク人との戦いにおいて、神が聖絶を命じたにもかかわらず、家畜の最も良いものを取っておいた。預言者サムエルはサウルに告げた。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか」(サムエル記第一15:22)。サウルの不従順は、王位を失う原因となった。

ハマンはアガグ人——すなわちアマレク人の子孫——であった。サウルがアマレクの王アガグを生かしておいたことが、世代を超えてハマンという敵を生んだとも読める。そして今、エステル記のユダヤ人たちは、サウルが犯した過ちを繰り返さない。敵を倒しながらも獲物には手をかけなかった。これは個人的な利益や復讐心ではなく、純粋に生存のための戦いであったことを証明している。

かつての失敗が、世代を超えて修正される。これもまたシャーラム(償い)のひとつの形であり、ハーファフ(逆転)のひとつの現れである。

<プリムの祭り——記憶を祝いに変える>

9章20〜28節で、モルデカイはこの出来事を記念するプリムの祭りを制定する。「プリム」という名はハマンが投げた「プル(くじ)」に由来する(24節)。興味深いことに、祭りの名が敵の行為に基づいている。ハマンが民族抹殺の日取りを決めるために投げたくじが、永遠の祝いの名となった。敵の武器そのものが祝福の名に変えられる——これもハーファフである。

プリムの祝い方にも注目したい。「祝宴と喜びの日、互いにごちそうを贈り、貧しい者に贈り物をする日」(22節)と定められた。喜びは内向きに閉じるのではなく、他者へと——特に貧しい者へと——流れ出るものとされている。ここに、出エジプト記22章が弱者への配慮を命じた精神が受け継がれている。

主イエスがプリムを祝われたかどうか、福音書に明確な記述はない。しかし、プリムはモーセの律法に基づく三大祭り(過越、七週、仮庵)とは異なり、エルサレムへの巡礼が義務づけられた祭りではないものの、イエスの時代にはすでにユダヤ社会に広く根づいていた。ヨハネ5章1節に記される「ユダヤ人の祭り」をプリムと見る学者もいる。ユダヤ人として生きられたイエスが、民族の救いを記念するこの祭りを知らなかったはずはない。

そしてプリムのテーマ——見えない神の手による逆転、滅びからの救い、悲しみから喜びへの転換——は、まさに十字架と復活において究極的に成就することになる。エステル記の逆転は、来たるべきもっと大きな逆転の影であり予告であった。

エステル記に神の名は記されていない。しかし、すべてのページに神の指紋が刻まれている。そしてその指紋は、ヘブライ語の受動態という文法の中にさえ隠されている。ハーファフ——逆転——は、神が不在だから起きたのではない。神が最も深く働いておられる時に、最も劇的に起きるのである。

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第三部:捨てられた石が礎となる——究極の逆転(ルカの福音書20章9〜26節)

ルカの福音書20章で、イエスはエルサレムの神殿において民衆にたとえを語っておられる。それは一見、単純なぶどう園の物語である。しかし、このたとえの中に、出エジプト記22章のシャーラム(償い)とエステル記のハーファフ(逆転)が合流し、十字架へと向かう神の計画が凝縮されている。

<ぶどう園のたとえ——イスラエルの歴史の縮図>

「ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い旅に出た」(9節)。

ぶどう園の主人が神であり、ぶどう園がイスラエルであり、農夫たちがイスラエルの指導者層であることは、旧約聖書を知る者にはすぐに分かる。イザヤ書5章1〜7節の「ぶどう畑の歌」で、預言者イザヤはすでに同じ比喩を用いてイスラエルを描いていたからである。

主人は収穫の分けまえを受け取るためにしもべを遣わした。一人目は袋だたきにされ、二人目ははずかしめられ、三人目は傷を負わされて追い出された(10〜12節)。これはイスラエルに遣わされた預言者たちの歴史そのものである。エレミヤは投獄され、イザヤは伝承によれば鋸で引かれ、ゼカリヤは神殿と祭壇の間で殺された。神はしもべを遣わし続け、イスラエルは拒み続けた。

ここに出エジプト記22章のシャーラムの原則が逆の形で見える。22章では、人の財産を損なった者は償わなければならなかった。しかしぶどう園の農夫たちは、主人の財産(ぶどう園の収穫)を奪い、主人のしもべを傷つけながら、一切の償いをしない。それどころか暴力はエスカレートしていく。この「償いなき搾取」の積み重ねが、物語の緊張を極限まで高める。

<「愛する息子を送ろう」——神の最後の賭け>

「ぶどう園の主人は言った。『どうしたものか。よし、愛する息子を送ろう。彼らも、この子はたぶん敬ってくれるだろう』」(13節)。

この一節は、読むたびに胸を打つ。「どうしたものか」というギリシャ語 τί ποιήσω(ティ・ポイエーソー)には、主人の真剣な熟考と、それでもなお諦めない愛が込められている。しもべを三人送ってすべて拒絶されたのに、なお関係の回復を求めて最も大切な存在を送る。これは人間的な合理性を超えている。

「愛する息子」(ギリシャ語:υἱὸν ἀγαπητόν / ヒュイオン・アガペートン)という表現は、イエスの受洗時に天から響いた声「これは、わたしの愛する子」(ルカ3:22)と同じ語彙である。イエスはこのたとえを語りながら、ご自身の運命を語っておられた。聞いている者たちの前に立っているこの方こそが、ぶどう園に送られた「愛する息子」なのである。

農夫たちの反応は冷酷である。「あれはあと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ」(14節)。彼らは息子を「ぶどう園の外に追い出して、殺してしまった」(15節)。イエスが十字架につけられたのもエルサレムの城壁の外であった。たとえの細部までが、来たるべき受難を正確に予告している。

<見捨てた石が礎の石となる>

民衆が「そんなことがあってはなりません」(16節)と叫んだ時、イエスは彼らを見つめて詩篇118篇22節を引用された。

「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった」(17節)。

ヘブライ語原文では אֶבֶן מָאֲסוּ הַבּוֹנִים הָיְתָה לְרֹאשׁ פִּנָּה(エヴェン・マアスー・ハボニーム、ハイェター・レローシュ・ピナー)である。「見捨てた」と訳される מָאַס(マーアス)は単に「置いていった」ではなく、「価値がないと判断して意図的に退けた」という強い拒絶を意味する。建築のプロフェッショナルたちが専門的な判断として「この石は使えない」と結論づけたのである。

ところがその石こそが רֹאשׁ פִּנָּה(ローシュ・ピナー)「隅の頭石」——建物全体の角度と方向を決定する、最も重要な石——となった。専門家たちの判断が完全に覆される。ここにエステル記のハーファフ(逆転)と同じ原理が、さらに究極的な形で働いている。

エステル記では、滅ぼされるはずだった民が勝利者に変えられた。ルカ20章では、捨てられた石が建物全体の基準となる礎に変えられた。どちらも人間の計画と判断が、神の主権によって根底から覆される出来事である。そしてエステル記のハーファフが受動態で「変えられた」と記されていたように、詩篇118篇でも הָיְתָה(ハイェター)「なった」という表現が用いられ、人間の意志ではなく神の御手による逆転であることが示されている。

<「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」——神の肖像を持つ者>

20〜26節で場面は転換し、律法学者たちが送り込んだ間者がイエスに罠を仕掛ける。「カイザルに税金を納めることは律法にかなっているか」(22節)。この質問は巧妙な二者択一である。「かなっている」と答えればローマへの従属を認めた裏切り者とされ、「かなっていない」と答えればローマへの反逆者として告発される。

イエスの応答は、この罠をはるかに超える次元で語られた。「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか」(24節)。デナリ銀貨にはティベリウス・カイザルの肖像(ギリシャ語:εἰκών / エイコーン)が刻まれていた。「カイザルのです」と答えると、イエスは言われた。

「では、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」(25節)。

この応答の深さは、「肖像」という語に鍵がある。デナリにカイザルのエイコーン(肖像)が刻まれているなら、それはカイザルに属する。では、神のエイコーンが刻まれているものは何か。創世記1章27節は答えている。「神はご自身のかたちに人を創造された」。「かたち」のヘブライ語 צֶלֶם(ツェレム)は、七十人訳(セプトゥアギンタ)ではまさに εἰκών(エイコーン)と訳されている。

つまりイエスの言葉の真意はこうである。硬貨にカイザルの肖像があるなら硬貨をカイザルに返しなさい。しかしあなた自身に神の肖像が刻まれているなら、あなた自身を神に返しなさい。

これは出エジプト記22章の償いの原則の究極的な適用である。22章では、すべてのものには正当な所有者がいて、損なわれたものは所有者に返されなければならないと教えていた。カイザルの肖像を持つ硬貨はカイザルのもの。では、神の肖像を持つ人間は誰のものか。答えは明白である。

間者たちは「お答えに驚嘆して黙ってしまった」(26節)。彼らは政治的な罠を仕掛けたつもりだったが、イエスの応答は政治を超え、存在の根本に触れるものであった。人間とは何者か、誰に属する者か——その問いに対する答えが、デナリ銀貨一枚から引き出されたのである。

<たとえの中の十字架——償いと逆転の交差点>

ルカ20章のたとえを全体として眺めると、出エジプト記22章とエステル記の両方のテーマが十字架において交差していることが見える。

出エジプト記22章は、加害者が被害者に償う原則を定めた。しかし十字架では、この方向が根本的に逆転する。ぶどう園の外で殺された息子——その被害者であるイエスが、殺した側の人間のために償いを成し遂げる。加害者が被害者に償うのではなく、被害者が加害者のために自らを差し出す。これは出エジプト記22章のシャーラムの原則を破壊するのではなく、それを想像を絶する次元で完成させるものである。

そしてこの十字架の死が、エステル記的な逆転——ハーファフ——を引き起こす。殺されることが勝利となり、捨てられることが礎となり、最大の敗北が最大の勝利に変えられる。イエスが十字架上で語られた τετέλεσται(テテレスタイ)「完了した」(ヨハネ19:30)は、「代価が完全に支払われた」を意味する。これはシャーラム(償いの完了)のギリシャ語による宣言であり、同時にハーファフ(逆転)の始まりの宣言でもあった。

償いが完了し、逆転が起きる。捨てられた石が礎となり、十字架の死が復活のいのちを生む。出エジプト記22章が設計し、エステル記が予告し、ルカ20章が指し示していた神の物語は、すべてこの一点に向かって流れている。


第四部:シャーラムとハーファフが出会う場所——三つの書を貫く神の物語

出エジプト記22章、エステル記8〜9章、ルカの福音書20章9〜26節。この三つの箇所は、時代も文脈もジャンルも異なる。律法と歴史書と福音書。シナイの荒野とペルシアの宮廷とエルサレムの神殿。しかし、ヘブライ語の二つの動詞——シャーラム(償う)とハーファフ(ひっくり返す)——を糸として手繰っていくと、三つの書が一本の物語として結ばれていることが見えてくる。

<第一の糸:シャーラム——壊れたものは修復されなければならない>

出エジプト記22章は、人間社会における損害と修復の原則を細密に定めた。盗まれた牛は五頭で、羊は四頭で償われる。火事の損害は出火者が償う。預かり物が失われれば責任者が償う。すべての規定の根底にあるのは、壊れた関係は放置されてはならないという神の意志である。そしてこのシャーラム(償い)が完了した状態こそがシャローム(平和)——聖書的な平和の本質——であった。

エステル記では、このシャーラムの原則が国家的スケールで展開される。ハマンがユダヤ人全体に対して企てた悪は、ハマン自身の頭上に返された(エステル9:25)。ハマンの家はエステルに与えられ、ハマンの権威の象徴であった指輪はモルデカイの手に移った。損なわれたものが正当な所有者に回復される——出エジプト記22章の償いの原則がそのまま歴史の中に実現している。

そしてルカ20章で、イエスは「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」と語られた。すべてのものには正当な帰属先がある。カイザルの肖像を持つ硬貨はカイザルに。神の肖像(エイコーン)を持つ人間は神に。出エジプト記22章から始まった「正当な所有者への回復」という原則は、ここで存在論的な深みに達する。問われているのはもはや牛や羊の所有権ではなく、人間そのものが誰に属するかという根本問題である。

<第二の糸:ハーファフ——神は歴史をひっくり返す>

エステル記9章で、ヘブライ語の受動態が静かに証言していた。ナハフォフ(一変させられた)、ネヘパフ(変えられた)——いずれも受動態であり、「誰が変えたのか」という問いを聞く者に投げかける。名前の出てこない神が、文法の背後に隠れておられた。滅ぼされるはずの民が勝利者となり、悲しみが喜びの素材に変えられ、敵が投げたくじの名が永遠の祭りの名となる。

ルカ20章では、この逆転がさらに究極的な形で語られる。「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった」。建築の専門家が「使えない」と判断して意図的に退けた石が、建物全体の基準点となる隅の頭石に変えられる。人間の最も確信に満ちた判断が、神の主権によって根底から覆される。

ぶどう園のたとえの農夫たちは、しもべを打ち、息子を殺し、ぶどう園を自分のものにしようとした。人間の計画としてはこれで完結するはずであった。しかし主人は戻って来る(16節)。人間の物語が終わったところから、神の物語が始まる。これがハーファフの本質である。

<二つの糸が交差する場所——十字架>

出エジプト記22章のシャーラムとエステル記のハーファフは、十字架において交差する。

シャーラムの原則に従えば、加害者が被害者に償わなければならない。ぶどう園の農夫たちは主人のしもべを傷つけ、息子を殺した。本来、彼らこそが償いの責任を負うべきである。しかし十字架では、この方向性が完全に逆転する。殺された息子であるイエスが、殺した側の人類のために自らの血をもって償いを完成させる。被害者が加害者のために代価を支払う——これは人間の法体系にはあり得ない、神の愛だけが可能にする逆説的なシャーラムである。

そしてこの償いの完了が、エステル記的なハーファフを引き起こす。十字架の死が復活のいのちを生み、最大の敗北が最大の勝利に変えられる。捨てられた石が礎の石となり、ぶどう園の外で殺された者が全世界の救い主となる。

イエスが十字架上で発せられた「完了した」(τετέλεσται / テテレスタイ)は、負債が完全に清算されたことを意味するギリシャ語である。これはシャーラムの成就宣言であると同時に、ハーファフの開始宣言でもあった。償いが完了した瞬間に、逆転が始まる。死が命に変えられ、呪いが祝福に変えられ、悲しみが喜びに変えられる。エステル記9章22節のネヘパフ——「悲しみが喜びに変えられた」——は、復活の朝において宇宙的なスケールで成就した。

<情け深い神の一貫性>

三つの箇所を貫くもうひとつの糸がある。それは神の御性質の一貫性である。

出エジプト記22章27節で、神はやもめの叫びを聞き入れる理由をこう語られた。「わたしは情け深いから」(כִּי חַנּוּן אָנִי / キー・ハンヌーン・アーニー)。律法の根底にあるのは法的義務ではなく、神ご自身の本質的な情け深さ(ハンヌーン)である。

エステル記で神の名は一度も語られない。しかし、滅亡の危機にあった民を見えない手で救った方は、シナイで「わたしは情け深い」と宣言されたのと同じ方である。名前が記されていなくても、御性質は変わらない。

ルカ20章13節で、ぶどう園の主人は三人のしもべが拒絶された後もなお「愛する息子を送ろう」と決断する。合理的に考えれば、もう農夫たちを裁いてぶどう園を取り上げるべき段階である。にもかかわらず、最も大切な存在を送る。この「どうしたものか」と悩みながらもなお手を差し伸べる姿に、出エジプト記22章の「わたしは情け深いから」が響いている。

シナイの律法の背後にも、ペルシアの宮廷の背後にも、エルサレムの神殿の背後にも、同じ情け深い神が立っておられる。そしてこの情け深さの究極の表現が、ぶどう園の外で殺される愛する息子——十字架のイエス・キリスト——なのである。

<私たちへの問いかけ>

出エジプト記22章は「正当な所有者に返せ」と命じ、ルカ20章は「神のものは神に返しなさい」と命じる。エステル記は、人間の計画を超えて働かれる神の主権を証言する。

三つの箇所が共に私たちに問いかけているのは、こういうことではないだろうか。あなたは神の肖像を持つ者として、自分自身を神に返しているか。壊れた関係を修復する責任から逃げていないか。そして、人間の判断では「使えない」と捨てられた石——十字架のキリスト——を、自分の人生の礎の石として受け入れているか。

シャーラムからシャロームへ。償いから平和へ。そしてハーファフ——逆転——によって、悲しみは喜びに、死はいのちに変えられる。出エジプト記22章が設計し、エステル記が予告し、ルカ20章が指し示すこの神の物語は、今日も、私たちの物語の中で続いている。

(図解:「シャーラムからシャロームへ——償いと逆転が織りなす神の物語」)

シャーラムからシャロームへ——償いと逆転が織りなす神の物語

シャーラムからシャロームへ

償いと逆転が織りなす神の物語
出エジプト記22章・エステル記8〜9章・ルカ20:9-26
トーラー 出エジプト記22章
שָׁלַם
シャーラム
「償う・完全にする・満たす」
壊れた関係を修復するための具体的な設計図。
すべての償い規定の根底にある神の宣言——
わたしは情け深いから
(חַנּוּן / ハンヌーン「情け深い」— 神の本質的属性)
出エジプト記 22:27
旧約 エステル記 8〜9章
הָפַךְ
ハーファフ
「ひっくり返す・逆転させる」
滅ぼされるはずの民が勝利者に変えられた
悲しみが喜びに、喪の日が祝日に変えられた
9:1 נַהֲפוֹךְ(ナハフォフ)「一変させられた」受動態・不定詞
9:22 נֶהְפַּךְ(ネヘパフ)「変えられた」受動態・完了形
エステル記 9:1, 22
新約 ルカの福音書 20:9-26
εἰκών
エイコーン
「肖像・かたち・像」
カイザルの肖像を持つ硬貨はカイザルに。
神の肖像を持つ人間は神に返しなさい。
捨てられた石が礎の石に変えられた
(צֶלֶם / ツェレム「かたち・像」= εἰκών — 創世記1:27)
ルカ 20:25 / 詩篇 118:22
📖 ヘブライ語の受動態が証言する「見えない神」
エステル記に神の名は一度も登場しない。
しかし「変えられた」はすべて受動態(ニフアル形)
自然に変わったのではなく、誰かの手によって逆転させられた
文法そのものが、名前のない神の指紋を刻んでいる。
✝ 三つの糸が交差する場所 ── 十字架
τετέλεσται
テテレスタイ
「完了した」── 代価は完全に支払われた
シャーラム 被害者が加害者のために償いを完成させる——人間の法を超えた神の愛
ハーファフ 最大の敗北が最大の勝利に変えられる——死がいのちを生む究極の逆転
エイコーン 神の肖像を持つ人間が、神に返される道が開かれた
ハーファフ —— 十字架がもたらした逆転
悲しみ 喜び
いのち
捨てられた石 礎の石
呪い 祝福
エステル記 9:22「悲しみが喜びに、喪の日が祝日に変えられた(ネヘパフ)」
שָׁלוֹם
シャローム
壊れたものが完全に修復された状態
―― 償いの先にある真の平和
シャーラム(償い)が完了し
ハーファフ(逆転)が成就したところに
シャロームが生まれる
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