通読箇所:出エジプト記21章12節〜36節/エステル記6章〜7章/ルカの福音書20章1節〜8節
今日の通読箇所を読みながら、ある問いが心から離れなかった。
「あなたは、神をいくらだと思っているのか。」
出エジプト記の律法は、奴隷の命に銀貨三十シェケルという値段をつけた。エステル記では、ハマンが自分を最高値に見積もり、モルデカイを無価値と断じた。ルカの福音書では、祭司長たちがイエスの権威を知りながら「知らない」と言った。
三つの箇所を読み進めるうちに、銀貨三十シェケルという数字が聖書の中を走り続けていることに気づかされた。奴隷の賠償額として定められたその値段が、ゼカリヤ書で神ご自身への値踏みとなり、やがてイエスが売られる代価となった。人間が神を最も安く見積もった瞬間——それが十字架だった。
私自身はどうだろう。日々の忙しさの中で、神を安く見積もっていないだろうか。祈りの時間を削り、御言葉を後回しにし、「知っているのに応答しない」祭司長たちと同じことをしていないだろうか。
今日の通読で心を打たれたのは、神がその安い値踏みを受け入れてくださったという事実である。奴隷の値段で売られることを受け入れ、その先に全人類の救いを備えてくださった。人間の値踏みの低さを、神の愛の高さが超えた。
その恵みへの畏敬をもって、今日の通読箇所を分かち合いたい。
—値踏みされる神—
※この記事は、要点だけを抜き出して理解できる内容ではありません。モーセ五書・旧約・新約の連続した文脈の中でのみ読まれることを意図しています。
【読み方のご案内】 第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。 時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。
目次
第一部 命の値段を問う律法——出エジプト記21:12-36
シナイ山で十戒を受け取ったイスラエルの民に、神は続けて具体的な判例法を与えられた。出エジプト記21章は、その中でも人間の命と身体に関わる規定が集中している箇所である。現代の読者にとっては、正直なところ読みにくい章でもある。奴隷の扱い、流産の賠償、家畜による死亡事故——時代を超えた違和感を覚える規定が並ぶ。
しかし、この違和感こそが大切な手がかりとなる。
「人をさらった者」への死刑——古代世界の革命
21章16節の「人をさらった者は……必ず殺されなければならない」という規定は、古代近東の法体系の中ではほぼ例を見ない。ヘブライ語で「人をさらう」は「ゴネヴ・イーシュ」(גֹּנֵב אִישׁ)と記される。「ゴネヴ」は「盗む」を意味する動詞であり、十戒の第八戒「盗んではならない」と同じ語根である。つまり、人間を「盗む」——人を物のように扱うこと自体が、神の前に死に値する罪とされたのである。
人身売買が当然の経済活動として行われていた古代世界の中で、この宣言がどれほど衝撃的だったか想像してほしい。バビロニアのハンムラビ法典には奴隷の売買に関する詳細な規定があるが、人さらい自体を死刑とする条文は存在しない。神はシナイ山で「人間は商品ではない」と宣言されたのである。
この原則は三千年以上を経た今日もなお、私たちに語りかけている。拉致という行為は、北朝鮮であれ、テロ組織であれ、いかなる政治的・軍事的理由をもってしても、神の律法の前では死に値する罪である。横田めぐみさんのお父様が娘を取り戻すことなく亡くなられた無念を思うとき、この律法が単なる古代の条文ではなく、今もなお正義を叫ぶ神の声であることを感じずにはいられない。
奴隷の規定に見る神の「段階的啓示」
21章20-21節の奴隷に関する規定は、現代の感覚からは受け入れがたい。主人が奴隷を杖で打ち、その場で死なせた場合は「必ず復讐されなければならない」(ナコム・イナケム נָקֹם יִנָּקֵם)が、一日か二日生きのびた場合は復讐されない——「奴隷は彼の財産だからである」(キー・カスポー・フー כִּי כַסְפּוֹ הוּא)と。
この規定を読んで違和感を覚えるなら、その感覚は正しい。「下級市民」「上級市民」という区別は、神の創造の本来の秩序にはない。しかし、ここで立ち止まって考えたい。古代近東の周辺文化では、奴隷を殺しても罰金で済むのが常識だった。ハンムラビ法典では、奴隷の命は自由人の命とは別の基準で扱われている。そのような世界にあって、出エジプト記が「主人が奴隷をその場で打ち殺したなら必ず復讐される」と定めたことは、控えめに言っても革命的だった。
では、なぜ神は奴隷制度そのものを一気に廃止されなかったのか。イエス様ご自身がその答えのヒントを与えてくださっている。マタイ19章8節で離婚について問われたとき、イエス様はこう答えられた——「モーセは、あなたがたの心がかたくなであるため、妻を離縁することを許したのだ。」律法には「神の妥協」とでも言うべき側面がある。理想を一気に押しつけるのではなく、人間が受け入れられる地点から出発し、正しい方向へ導いていく——これが神の教育法なのである。
そしてこの方向性が到達する終着点は、パウロの宣言に明確に示されている。「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです」(ガラテヤ3:28)。律法が種として蒔いた平等の原理が、キリストにあって完全に花開いたのである。
流産の規定——ヘブライ語が示すもう一つの読み方
21章22-23節の流産に関する規定も、深く考えさせられる箇所である。22節で「流産させる」と訳されているヘブライ語は「ヴェヤツェウー・イェラデーハー」(וְיָצְאוּ יְלָדֶיהָ)であり、直訳すると「その子どもたちが出る」となる。この表現は「流産」とも「早産」とも読み得る。
この箇所の解釈は歴史的に大きく分かれてきた。紀元前3世紀に作成されたギリシャ語訳聖書(七十人訳・セプトゥアギンタ)は、胎児の形が整っているかどうかで区別を設け、形が整った胎児の場合には「いのちにはいのちを」が適用されると訳した。一方、中世の代表的なユダヤ教注解者ラシは、23節の「殺傷事故」を母親に対するものと理解し、母親が死んだ場合に「いのちにはいのちを」が適用されると解釈した。
現代の福音派の多くの学者は、22節を「早産だが子どもは生きている」場合と読み、23節を「母親または子どものどちらかに殺傷事故がある場合」と理解する。いずれにせよ、お腹の中の命も神の御手の中にあるという真理は、詩篇139篇13-16節の「あなたは私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられました」に明確に示されている。
「目には目を」——報復の許可ではなく制限
21章24節の「目には目。歯には歯」(アイン・タハット・アイン עַיִן תַּחַת עַיִן)は、しばしば「残酷な報復の律法」として誤解される。しかしこの規定の本質は、報復の上限を定めるものである。「目を傷つけられたら命を奪ってよい」のではなく、「目には目まで。それ以上はならない」という歯止めである。
さらに注目すべきは、26-27節で奴隷に適用された場合の規定である。主人が奴隷の目や歯を傷つけたなら、その代償として奴隷を自由にしなければならない。報復ではなく解放が命じられている。この規定は、律法が単なる復讐の体系ではなく、弱者の保護を志向していたことを雄弁に物語っている。
銀貨三十シェケル——聖書を貫く値札
21章32節で、牛に突かれて死んだ奴隷の賠償額は「銀貨三十シェケル」と定められている。
「一シェケルは約11.4グラムの銀であるから、三十シェケルは約342グラムに相当する。これは古代近東の奴隷市場における標準的な奴隷一人分の価格であった。レビ記27章では成人男性の評価額が五十シェケルと定められており、三十シェケルはその六割——つまり「フルプライス」ですらない。奴隷の中でも特別に高い値段ではなく、ごく標準的な相場だったのである。」
この数字を、どうか記憶に留めていただきたい。「銀貨三十シェケル」——奴隷の命の値段——この数字が聖書の中を走り続け、やがて驚くべき場所にたどり着くからである。それは第四部で詳しく見ていく。
牛の賠償と共同体の責任
21章35-36節の牛同士の事故に関する規定もまた、古代社会のリアルな生活を映し出している。牛一頭の価格は銀五十シェケル前後と推定されており、現代の感覚では百万円前後に相当する。一頭しか持たない農家にとって、その損失は生活基盤の崩壊を意味した。
律法が「生きている牛を売って金を分け、死んだ牛も分けなければならない」と定めたのは、損失を双方で分かち合うという公平の原則である。しかし、その牛に「以前から突くくせがあることがわかっていた」のに監視を怠った場合は、全額賠償が求められた。知っていながら放置した責任は重い——これは牛の話にとどまらない真理である。
出エジプト記21章の律法は、完全な正義の体系ではない。しかし、不完全な世界の中で、命を守り、弱者を保護し、責任を問う神の意志が、一条一条に刻まれている。そしてこの律法が指し示す方向の先に、完全な正義と完全な恵みを一身に体現された方がおられる。
第二部 王の眠りが逃げた夜——エステル記6章〜7章
エステル記は、聖書六十六巻の中で唯一、神の御名が一度も登場しない書である。「神」も「主」も「祈り」という言葉すら出てこない。しかし、今日の通読箇所ほど、見えない神の御手がはっきりと刻まれた箇所はない。
一晩の不眠が歴史を変えた
6章1節、「その夜、王は眠れなかった」。ヘブライ語では「ナデダー・シェナット・ハメレフ」(נָדְדָה שְׁנַת הַמֶּלֶךְ)と記されている。直訳すると「王の眠りが逃げた」。眠りが「逃げた」という擬人的な表現が印象的である。単に「眠れなかった」のではない。まるで眠りという存在が、意志を持って王のもとから立ち去ったかのような描写である。
眠れない王は、記録の書——年代記を読ませるよう命じた。そしてそこに、モルデカイがかつて暗殺計画を報告して王の命を救った功績が、何の報いも受けていないまま記されていたのが見つかった。
ここで立ち止まって、このタイミングの精密さを考えたい。ハマンはすでにモルデカイを処刑するための高さ五十キュビト(約23メートル)の柱を立て終えていた。翌朝、王に処刑の許可を求めるために、まさに王宮の外庭に入って来たところだった。もし王がぐっすり眠っていたら。もし記録の別の箇所が読まれていたら。もしハマンが数分早く到着していたら——歴史は全く違ったものになっていた。
神の御名は書かれていない。しかし、この一晩の不眠の背後に、ユダヤ民族全体の運命を握る御手があったことを、読者は見落とすことができない。
聖書最高のアイロニー
6章6節は、聖書の中でも最も見事なアイロニー(皮肉)の場面の一つである。王がハマンに「王が栄誉を与えたいと思う者には、どうしたらよかろう」と尋ねたとき、ハマンは心の中でこう思った——「王が栄誉を与えたいと思われる者は、私以外にだれがあろう。」
この一文に、ハマンという人物のすべてが凝縮されている。自分こそが最高の価値ある者だという確信。自分以外の誰かが王に栄誉を受けるなどあり得ないという傲慢。ハマンは王の衣、王の馬、王冠、町中での行進という最大限の栄誉を提案した——自分のために。
ところが王の口から出たのは「ユダヤ人モルデカイにそうしなさい」という言葉だった。自分が殺そうとしていた相手に、自分が夢見ていた栄誉を、自分の手で与えなければならない。箴言16章18節は「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」と教えているが、ハマンの姿はこの箴言のこれ以上ない実例である。
ここには「値踏み」の主題が鮮やかに浮かび上がる。ハマンは自分を最高値に値踏みし、モルデカイを無価値と値踏みした。しかし神の値踏みは正反対だった。人間の自己評価と神の評価のずれ——これは第一部で見た律法の「命の値段」の問題とも深く響き合っている。
異邦人が認めた神の力
6章13節で、ハマンが嘆いて家に帰ったとき、妻ゼレシュと知恵ある者たち(ハハマーヴ חֲכָמָיו)はこう告げた。「あなたはモルデカイに負けかけておいでですが、このモルデカイが、ユダヤ民族のひとりであるなら、あなたはもう彼に勝つことはできません。きっと、あなたは彼に負けるでしょう。」
興味深いのは、この時点でエステルはまだ自分の民族を王に明かしていないということである。ゼレシュたちがモルデカイの民族的背景を知っていたのは、エステル記3章4節でモルデカイ自身がユダヤ人であることを周囲に告げていたからである。しかし、より本質的な問いは、なぜ異邦人であるゼレシュたちが「ユダヤ民族なら勝てない」と知っていたのかである。
ここに、聖書を貫く一つの重要なパターンが見える。異邦人がユダヤ人の神の力を認識する場面は、聖書の中に繰り返し登場するのである。ヨシュア記2章でエリコの遊女ラハブは「あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられる」と告白した。列王記第二の5章でアラムの将軍ナアマンは「イスラエルにいる預言者のほかには、全世界のどこにも神はおられない」と認めた。ヨナ書では、ニネベの異邦人たちが悔い改めた。
ペルシア帝国の中にも、バビロン捕囚からの帰還やエルサレム神殿再建の許可といった歴史的出来事を通じて、ユダヤ人の神についての評判は広がっていたと考えられる。ゼレシュの知恵ある者たちは、異邦の知恵からであっても「この民の神には逆らえない」ということを感じ取っていた。
ここに深い逆説がある。神を知らないはずの異邦人が神の力を認め、神を知るはずの者たちがそれを拒む——この構図は、第三部で見るルカの福音書の祭司長たちの姿と驚くほど重なっていく。
エステルの告白——いのちを賭けた言葉
7章に入り、二日目の宴会で、ついにエステルは口を開く。7章3-4節のエステルの言葉は、練りに練られた表現である。「私にいのちを与え、私の民族にもいのちを与えてください。」エステルはまず自分のいのちを、次に民族のいのちを願った。王にとって愛する妻のいのちが脅かされているという事実が、この問題の深刻さを一瞬で理解させたのである。
さらにエステルは「私たちが男女の奴隷として売られるだけなら、私は黙っていたでしょうに」と付け加えた。これは単なる修辞ではない。奴隷として売られることよりも「根絶やしにされ、殺害され、滅ぼされる」ことの方が、王にとっても大きな損失であるという論理を展開しているのである。エステルの知恵は、単なる感情的な訴えではなく、王の利害にも訴える周到なものだった。
王の反応——偏見なき正義
7章5節の「そんなことをあえてしようとたくらんでいる者は、いったいだれか」という王の驚きは、おそらく本物である。エステル記3章8節でハマンが虐殺の許可を求めたとき、「ある民族」とだけ言い、民族名を伏せていた可能性が高い。王は自分が何にサインしたかを完全には理解していなかったのである。
注目すべきは、アハシュエロス王がエステルの民族がユダヤ人であると知った後も、エステルへの態度を一切変えていないことである。王はユダヤ民族に対する偏見を持っていなかった。偏見を持っていたのはハマン一人であり、王はその偏見を利用されていたに過ぎない。真実を知った王の怒りはハマンに向けられ、7章10節でハマンは自らモルデカイのために準備した柱にかけられた。
見えない神の署名
エステル記6-7章の出来事を振り返ると、その全体に「見えない神の署名」が記されていることに気づく。王の不眠。記録の発見。ハマンの到着のタイミング。栄誉の逆転。ゼレシュの預言的な言葉。エステルの勇気ある告白。ハマンの自滅。
一つ一つは「偶然」と言えるかもしれない。しかし、これだけの「偶然」が完璧な順序で連鎖するとき、そこに偶然ではない御手を見ないことの方が困難である。エステル記は、神の御名を書かないことによって、かえって神の臨在をより強烈に読者に感じさせる。見えないからこそ、見える。語られないからこそ、聞こえる。それがエステル記の証しする神の姿である。
第三部 答えを知りながら「知らない」と言った人々——ルカの福音書20章1-8節
エステル記では、異邦人であるゼレシュと知恵ある者たちが、ユダヤ人の神の力を認めた。ところがルカの福音書に目を転じると、神を最もよく知るはずの人々が、真実を知りながらそれを認めることを拒む姿が描かれている。
宮での対決——権威をめぐる問い
ルカ20章1節、イエスは宮(ヒエロン ἱερόν)で民衆を教え、福音を宣べ伝えておられた。「宮」とはエルサレム神殿の境内、とりわけ異邦人の庭と呼ばれる広大な区域である。そこに祭司長、律法学者、長老たちが「いっしょに」(σύν スュン)立ち向かってきた。この「いっしょに」は偶然の合流ではない。ユダヤの最高権力を構成する三つのグループ——祭司階級、律法の専門家、民の指導者——が連合してイエスに挑んだのである。
彼らの問いはこうだった。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。」
「これらのこと」(ταῦτα タウタ)が具体的に何を指すかについては、文脈から見て、宮での教えと福音宣教、そしておそらくその直前に記されている宮きよめ(ルカ19:45-46)を含んでいると考えられる。神殿で教えるには公的な権威の承認が必要だった。祭司長たちの問いは、「おまえはどこの学校を出たのか。誰がおまえに教える許可を与えたのか」という意味である。
この問いは表面的には正当に見える。しかし、その意図は真実を求めることではなかった。イエスを罠にかけることだった。もしイエスが「神の権威によって」と答えれば冒涜罪に問える。「自分の権威で」と答えれば民衆の信頼を失わせることができる。どちらに答えても追い詰められる——少なくとも、彼らはそう計算していた。
イエスの反問——問いが答えになる
イエスの応答は、修辞学の歴史においても際立つ見事さである。「わたしも一言尋ねますから、それに答えなさい。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。」
一見すると、質問に質問で返しただけに見える。しかし、イエスがなさったことはそれをはるかに超えている。バプテスマのヨハネは、イエスに先立つ最後の預言者として、公に「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と宣言した人物である。ヨハネの権威を認めることは、ヨハネが指し示したイエスの権威を認めることに直結する。
つまり、イエスは答えを避けたのではない。問いそのものの中に答えを埋め込んだのである。「ヨハネの権威が天からであるなら——そしてあなたがたもそれを知っているなら——ヨハネが証言したわたしの権威も天からである。」直接語らずして、真実を語った。
「知らない」という嘘
祭司長たちの内部の議論が、ルカの筆によって赤裸々に記録されている。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。しかし、もし、人から、と言えば、民衆がみなで私たちを石で打ち殺すだろう。」
この議論の構造に注目してほしい。彼らは「真実はどちらか」を議論しているのではない。「どちらの答えが政治的に安全か」を議論しているのである。真理への問いが、保身の計算にすり替わっている。
そして彼らの結論は「どこからか知りません」(οὐκ οἴδαμεν ウーク・オイダメン)だった。ギリシャ語の「オイダ」(οἶδα)は単なる知識ではなく、直観的・本質的な認識を意味する動詞である。彼らは「知らない」と言ったが、本当は知っていた。知っていて「知らない」と言った。これは無知の告白ではない。意志的な拒否の表明である。
ここに、信仰の問題の核心がある。多くの人が「神を信じられない」と言う。しかし、少なからぬ場合、問題は知識ではなく意志にある。十分な証拠があっても、それを認めることが自分の立場や生き方を根本から変えることを要求するとき、人は「知らない」と言うことを選ぶ。祭司長たちがまさにそうだった。ヨハネが天から遣わされた預言者であることを認めれば、なぜ彼の言葉に従わなかったのかを問われる。イエスが神から遣わされた方であることを認めれば、自分たちの権威の正当性が根底から揺らぐ。
真実を認めるコストが高すぎると感じたとき、人は真実そのものを拒む。
エステル記との対照——知る者と認める者
第二部で見たゼレシュと知恵ある者たちの姿を、ここでもう一度思い起こしたい。彼らは異邦人であり、イスラエルの神について体系的な知識を持っていたわけではない。それでも、目の前の出来事から「ユダヤ民族の神には勝てない」と率直に認めた。
一方、祭司長と律法学者たちは、聖書を日々読み、神殿で仕えていた。ヨハネの働きも、イエスの教えも、そのしるしも、すべてを間近で見ていた。にもかかわらず、「知らない」と言った。
異邦人の知恵者が認めたことを、聖書の専門家が拒んだ。この逆転は偶然ではない。聖書全体を通じて繰り返し現れるパターンである。ラハブは異邦の遊女でありながら神を認め、エリコの中で唯一救われた。ニネベの異邦人は悔い改めたが、ヨナは不満を抱いた。東方の博士たちは星に導かれてメシアを礼拝したが、エルサレムの宗教指導者たちは、メシアの誕生地をヘロデに教えながら、自分たちはベツレヘムに足を運ばなかった(マタイ2:4-6)。
知識の多さが信仰を保証するのではない。むしろ、知識を持ちながら応答しないことは、知らないことよりも重い責任を伴う。
旧約を真剣に読む者はキリストにたどり着く
イエスがこの場面でバプテスマのヨハネを持ち出されたことには、さらに深い意味がある。ヨハネはマラキ書3章1節で預言された「わたしの前に道を整える使者」であり、旧約時代の最後の預言者である。旧約聖書が指し示し続けてきたメシアへの道を、最終的に「この方だ」と指差したのがヨハネだった。
したがって、ヨハネの権威を認めることは、旧約聖書全体の証言を認めることに等しい。そしてその証言が指し示す先には、イエス・キリストがおられる。イエスが問われた「何の権威で」という問いに対する真の答えは、旧約聖書そのものの中にすでに書かれていたのである。
今日の通読箇所のわずか八節の中に、信仰における最も根本的な問いが凝縮されている。真実を前にして、私たちはどう応答するのか。認めるコストを恐れて「知らない」と言うのか。それとも、不完全な理解のままでも、見えたものに対して正直に応答するのか。
ゼレシュの知恵ある者たちは、神学の教育を受けていなかった。しかし、目の前の現実に対して正直だった。祭司長たちは聖書のすべてを知っていた。しかし、目の前の真実に対して正直ではなかった。神が求めておられるのは、完璧な知識ではなく、真実への誠実な応答である。
第四部 値踏みされる神——三つの箇所を貫く一本の糸
出エジプト記の律法、エステル記の宮廷劇、ルカの福音書の神殿での対決。一見すると何のつながりもない三つの箇所を貫いて、一つの問いが静かに流れている。それは——「人間は神をどう値踏みするのか」という問いである。
律法が問いかける「命の値段」
出エジプト記21章は、人間の命に具体的な価格を設定した。奴隷が牛に突かれて死んだ場合の賠償額は銀貨三十シェケル。自由人と奴隷では扱いが異なり、故意と過失では刑罰が異なる。律法は、不完全な世界の中で可能な限りの正義を実現しようとした。
しかし、命に値段をつけること自体が、ある深い真理を暗示している。人間の基準で命を値踏みする限り、そこには必ず不平等が生じる。奴隷と自由人、男と女、大人と子ども——律法の中にすら残る差異は、人間の値踏みの限界を映し出している。律法は正義のための最善の努力であると同時に、人間の手では完全な正義に到達できないことの証明でもあった。
この限界を超えるために、別の方が来なければならなかった。
ハマンの値踏み、神の値踏み
エステル記では、「値踏み」の主題がさらに劇的な形で展開される。ハマンは徹底して自己を最高値に値踏みした人物である。王の栄誉は自分のためにあると信じ、モルデカイを——そしてユダヤ民族全体を——根絶やしにしてよい無価値な存在と値踏みした。
しかし、見えない神の値踏みはハマンの計算と正反対だった。王の不眠という「偶然」を通して、モルデカイに栄誉が与えられ、ハマン自身がその栄誉を与える役を務めさせられた。ハマンが自分のために夢見た王服と馬と行進は、そのまま敵の栄光となった。
ここに「値踏み」の逆転がある。人間が最も高く評価したものが引き下げられ、人間が最も低く見積もったものが引き上げられる。マリアの賛歌が響く——「主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ……」(ルカ1:51-52)。
祭司長たちの値踏み——真実の拒否
ルカ20章の祭司長たちもまた、値踏みをしていた。彼らはイエスを「権威なき者」として値踏みし、排除すべき問題として扱った。ヨハネのバプテスマが天からのものであることを知りながら「知らない」と答えたのは、イエスの真の価値を認めることが、自分たちの権威と地位を根底から覆すことを意味したからである。
エステル記のゼレシュと知恵ある者たちが、異邦人でありながらユダヤ人の神の力を率直に認めたのとは対照的に、祭司長たちは聖書の専門家でありながら、目の前の真実を認めることを拒んだ。知識が多いことと、真理に応答することは、全く別の問題なのである。
銀貨三十シェケル——聖書を貫く値札
そして今、第一部で記憶に留めていただいた数字——銀貨三十シェケル——に立ち戻る時が来た。しかし、この数字の背景をたどるには、出エジプト記よりもさらに遡る必要がある。
創世記37章28節、十七歳の少年ヨセフは、自分の兄弟たちの手によってミデヤン人の商人に銀貨二十シェケルで売られた。興味深いことに、後にレビ記27章5節で定められる五歳から二十歳の男子の評価額がまさに銀二十シェケルである。ヨセフの売値は、律法がまだ存在しない時代にもかかわらず、その年齢層の評価額と正確に一致していた。ヨセフは兄弟に売られ、エジプトで奴隷となり、やがてエジプト全土の救い主となった。
時代は進み、出エジプト記21章32節で、牛に突かれて死んだ奴隷の賠償額として銀貨三十シェケルが定められた。古代近東の奴隷市場における標準的な価格である。レビ記27章の成人男性の評価額五十シェケルと比べれば、その六割。特別に高額でもなく、特別に安価でもない。ごく「ありふれた」奴隷一人分の値段である。ヨセフの二十シェケルから三十シェケルへ——売られる者の値段が少し上がった。しかし、どちらも奴隷の値段であることに変わりはない。
この同じ数字が、約千年後、預言者ゼカリヤの口を通して再び現れる。ゼカリヤ書11章12-13節で、神ご自身が羊飼いとしてイスラエルを養ったにもかかわらず、民は神を拒んだ。神が「あなたがたがよいと思うなら、わたしの賃金を払え」と言われたとき、彼らが量ったのは銀三十シェケルだった。
神はこう言われた。「彼らがわたしを値積もりしたその尊い値段を、陶器師に投げ与えよ」(ゼカリヤ11:13)。「尊い値段」と訳されるヘブライ語「イェカル・ハイカル」(יְקַר הַיְקָר)は、痛烈な皮肉である。「たいそうなお値段だこと」——宇宙の創造者、イスラエルの牧者である神を、奴隷一人分の標準価格で値踏みしたのか、と。
そしてこの預言は、さらに約五百年後、文字通り成就した。マタイ26章15節、ユダが祭司長たちに「イエスをあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか」と持ちかけたとき、彼らが量ったのは銀貨三十枚だった。ユダがその銀貨を神殿に投げ込んだ後、祭司長たちはそれで陶器師の畑を買った(マタイ27:3-10)。ゼカリヤの預言の一語一句が、正確に再現されたのである。
この流れを整理すると、一つの型(タイプ)が浮かび上がる。ヨセフは兄弟に売られ、売られた先で救い主となった。イエスは弟子に売られ、十字架の先で全人類の救い主となった。ヨセフは銀貨二十シェケル、イエスは銀貨三十枚。どちらも奴隷の値段であり、どちらも身内の裏切りによって売られ、どちらも売られることを通して多くの人のいのちを救う者となった。
創世記の二十シェケルから、出エジプト記の三十シェケルへ、ゼカリヤ書の三十シェケルへ、そしてマタイの福音書の三十枚へ——この値札が千五百年以上の時を貫いて走り、十字架の場面に到達する。この一本の糸を、人間が織ることはできない。
奴隷の値段で売られた王
パウロはピリピ人への手紙2章6-7節でこう記した。「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」「仕える者の姿」——ギリシャ語で「ドゥールー・モルフェーン」(δούλου μορφήν)、直訳すれば「奴隷の形」である。
神の御子が「奴隷の形」を取られた。そしてその方が、律法で奴隷の値段とされた銀貨三十枚で売られた。これは偶然の一致ではなく、神の救済計画の深い一貫性を示している。人間が神を最も安く見積もった瞬間——奴隷の標準価格で神の子を売り渡した瞬間——それが十字架であり、人類の救いの瞬間だった。
ハマンは自分を最高値に値踏みして破滅した。祭司長たちはイエスの権威を認めることを拒んで、真理から遠ざかった。しかし、人間の誤った値踏みのただ中で、神は最も低い値段を受け入れることによって、最も高い代価——永遠のいのち——を人間に与えてくださった。
私たちの値踏み
今日の三つの通読箇所は、最終的に一つの問いを私たちに投げかけている。あなたは神をどう値踏みするのか。
出エジプト記の律法は、人間の基準では命に平等な値段をつけることすらできないことを示した。エステル記は、人間の値踏みと神の値踏みが真逆であることを示した。ルカの福音書は、真実を知りながらそれを認めないという、最も危険な値踏みの形を示した。
そしてゼカリヤ書を通して、神ご自身がこう問いかけておられる——「あなたがたは、わたしをいくらだと値踏みするのか。」
銀貨三十枚か。奴隷の標準価格か。それとも、すべてを捨ててでも従うに値する方か。
二千年前、祭司長たちは三十枚の銀貨を量った。ユダはそれを受け取った。しかし同じ時代に、ペテロは「あなたは生ける神の子キリストです」と告白した(マタイ16:16)。マリアは高価なナルドの香油をイエスの足に注いだ(ヨハネ12:3)。値踏みは、いつの時代も分かれる。
エステル記に神の御名は記されていない。しかし、見えない御手がすべてを導いておられた。同じように、私たちの日常の中にも、見えない御手は働いておられる。その御手に気づくかどうか。気づいたとき、どう応答するか。それが、私たちの「値踏み」の答えとなる。

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