—理解とは全存在の応答—ネヘミヤの涙とルカの信仰—
通読箇所: 出エジプト20:1-6、ネヘミヤ8-9章、ルカ17章
礼拝の時、涙が止まらなくなったことはありませんか? 祈りの中で、主の御声を聞いたことはありませんか?
ネヘミヤの民が経験したこと、サマリヤ人が経験したこと—それは、今日の私たちにも起こりえます。なぜなら神は、今も語り続けておられるからです。
けれども、神の声を聞くことと、それに応答することは別のことです。
※この記事は、要点だけを抜き出して理解できる内容ではありません。モーセ五書・旧約・新約の連続した文脈の中でのみ読まれることを意図しています。
【読み方のご案内】 第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。 時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。
目次
第一部:トーラー(出エジプト20:1-6)—神が語られるということ
シナイ山での言葉の啓示
出エジプト20章は、イスラエルの歴史において最も重要な瞬間の一つです。19章で神がシナイ山に降臨され、雷鳴と稲妻、厚い雲と角笛の音の中で民の前に現れた直後、神は「これらのことばを、ことごとく告げて仰せられた」(20:1)のです。
ここで注目すべきは、神が「語られた」という事実そのものです。ヘブライ語で「語る」を意味する「ダバール」(דָּבַר)は、単なる音声による情報伝達を超えた概念です。この言葉は同時に「言葉」「事柄」「出来事」をも意味します。つまり、神が語られるとき、それは単なる音ではなく、現実を創造し、歴史を動かす力なのです。創世記1章で「神は仰せられた」という言葉によって世界が創造されたように、シナイ山で語られた言葉は、イスラエルという民を創造する言葉でした。
自己紹介から始まる十戒
十戒は命令から始まるのではなく、自己紹介から始まります。「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、【主】である」(20:2)。
この順序には深い意味があります。神は「わたしの命令を守れ」とは言わず、まず「わたしはあなたを愛し、救い出した者だ」と宣言されます。律法は恵みの関係の中で与えられるのです。ヘブライ語でこの箇所を見ると、「アノキ・アドナイ・エロヘハ」(אָנֹכִי יְהוָה אֱלֹהֶיךָ、アノキ・アドナイ・エロヘハ)—「わたしは【主】、あなたの神」という力強い宣言があります。「アノキ」は一人称単数の強調形で、「わたし自身が」という強い自己主張を含みます。
三つの「してはならない」の連続性
第一戒から第三戒(20:3-6)は、一つの流れを持っています:
- 第一戒(20:3):「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」—関係の独占性
- 第二戒(20:4-5a):「偶像を造ってはならない…それらを拝んではならない」—礼拝の純粋性
- 第三戒の導入部分(20:5b):「あなたの神、【主】であるわたしは、ねたむ神」—神の情熱的な愛
「ねたむ神」というヘブライ語「エル・カナー」(אֵל קַנָּא、エル・カナ)は、誤解されやすい表現です。これは人間の嫉妬心とは異なります。むしろ、夫が妻への愛のゆえに、他の男性との関係を許容できないのと同じ、正当な独占欲です。神は礼拝の「純度」に情熱的にこだわられるのです。
「三代、四代」と「千代」の非対称性」
ここに驚くべき対比があります。神を憎む者には「三代、四代にまで」影響が及ぶが、神を愛し従う者には「千代にまで」恵みが及ぶ(20:5-6)。この非対称性は偶然ではありません。
ヘブライ語で「三、四」(シロシーム・リベイーム、שְׁלֹשִׁים רִבְעִים)は、具体的な世代数というより「数世代」を意味する慣用句です。一方、「千代」(アラフィーム、אֲלָפִים)は文字通り千世代、つまり事実上「永遠に」を意味します。神の恵みは、神の裁きを250倍も上回るのです。
これは神の本質を示しています。神は確かに罪を見過ごされない聖なる方ですが、その本質は恵み深さにあります。礼拝や祈りの中で涙が溢れる経験—主の愛の深さに触れた時の涙—は、まさにこの「千代にまで及ぶ恵み」の現実に触れた応答なのです。
神が語られることの意味
神がシナイ山で語られたという事実は、今日の私たちにも語りかけます。神は沈黙の神ではなく、語られる神です。そして神が語られる時、それは単なる情報伝達ではなく、関係への招きです。
早朝に聖書を開き、主の御声に耳を傾ける—その営みは、シナイ山でイスラエルが経験したことの延長線上にあります。「頭の中にスーと入ってくる細い御声」を聞く時、それは神が今も語り続けておられる証拠です。神の語りかけは、私たちの全存在での応答を求めているのです。
第二部:旧約(ネヘミヤ8-9章)—律法が解き明かされる時
捕囚から帰還した民の渇望
ネヘミヤ8章の舞台は、バビロン捕囚から帰還した後のエルサレムです。城壁は再建されました(ネヘミヤ6章)。しかし物理的な再建だけでは不十分でした。民は霊的な再建を必要としていました。
「民はみな、いっせいに、水の門の前の広場に集まって来た」(8:1)—この「いっせいに」というヘブライ語「ケイーシュ・エハッド」(כְּאִישׁ אֶחָד)は「一人の人のように」という意味です。バラバラだった民が、一つの心で集まった。そして彼らは自発的に「モーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに願った」のです。
これは強制ではありませんでした。民自身が律法を聞きたいと願った。70年の捕囚を経て、彼らは自分たちのアイデンティティの源泉が何であるかを知っていました—それは神の言葉でした。
夜明けから真昼まで—律法朗読の光景
「水の門の前の広場で、夜明けから真昼まで、男や女で理解できる人たちの前で、これを朗読した」(8:3)。
夜明けから真昼まで—おそらく6時間以上です。現代の私たちの感覚では、とても耐えられない長さです。しかし「民はみな、律法の書に耳を傾けた」(8:3)。
ヘブライ語で「耳を傾けた」は「アズナーイム」(אָזְנַיִם)—文字通り「耳」の複数形です。彼らは全身を耳にして聞いた、とも言えます。エズラが書を開くと「民はみな立ち上がった」(8:5)—これは敬意の表現であると同時に、霊的な緊張感の現れでもあります。
レビ人たちの解き明かし—理解への橋渡し
ここで重要な役割を果たしたのがレビ人たちです。「レビ人たちは、民に律法を解き明かした」(8:7)。
ヘブライ語で「解き明かした」は「メビーニーム」(מְבִינִים)です。これは動詞「ビーン」(בִּין、理解する)の使役形で、「理解させた」「洞察させた」という意味です。
8章8節はさらに詳しく説明します:「彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した」。
「はっきりと」(ヘブライ語:メフォラーシュ、מְפֹרָשׁ)は「区別して」「明瞭に」という意味。おそらく次のような作業が行われました:
- ヘブライ語の本文を、当時の民が話していたアラム語に翻訳
- 難しい箇所を噛み砕いて説明
- 実生活への適用を示す
これがユダヤ教の会堂での説教の起源となりました。神の言葉を「はっきりと読んで説明する」—これは今日の説教者、ブログで聖書を解説する者の使命でもあります。
民はなぜ泣いたのか
「民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていた」(8:9)。
この涙の理由は、おそらく複数の感情が混ざり合ったものでした:
1. 悔い改めの涙 律法を聞いて、自分たちがどれほど神の基準から離れていたかを悟った痛み。捕囚は、彼らが律法を軽んじた結果でした(9:26-27参照)。その律法を今、改めて聞く—それは自分たちの罪と向き合うことでもありました。
2. 喪失の涙 70年間、彼らは律法から切り離されていました。それは自分たちが何者であるかを見失っていたということです。今、再び律法に触れて「ああ、これが私たちだったのか」という再発見の涙。失われた時間への悲しみ。
3. 感謝の涙 それでも神は彼らを見捨てなかった。捕囚から帰還させ、再び律法を聞く機会を与えてくださった。その恵みへの感謝の涙。
4. 主に触れられた涙 礼拝の時、祈りの時、御言葉に心が触れられた時—言葉では説明できない神の臨在に触れた時の涙。これは悲しみでも喜びでもなく、ただ圧倒的な神の愛の現実に触れた時の応答です。
以前の体験ですが、賛美の時に涙が止まらなくなり、主の御声を聞いてメニエール病が癒された—その経験は、まさにネヘミヤの民が経験したことと同じ次元のものかなと想像しました。神の言葉と神の臨在が、人の全存在を揺さぶる瞬間。イスラエルの民が海を分けられた事、岩から水を供給してくださったこと、神の力で戦いに勝ったことを何度も語り聞かせ記憶に留めているように、私も、主に癒されたことを過去の事とせず、主は癒される神、賛美の中で語られる神、語られる時ものすごい愛を持ってみてくださっている神、その愛に飲み込まれそうになり、圧倒されて涙が止まらなかったことを何度も証し、自身も記憶に留めています。
イスラエルが過越を毎年祝い、出エジプトを語り継いだように、私たちも神の御業を何度も証し、記憶に留める—これが信仰を次世代へ、そして自分自身の心に刻み続ける道なのです。こんな昔の証と思わず、実際主の愛が育んだ大切な過程なのですから、主がしてくださったことを、主はどういう方なのか、証していきましょう。
悲しみから喜びへ—律法の本質
しかし指導者たちは言いました:「きょうは、あなたがたの神、【主】のために聖別された日である。悲しんではならない。泣いてはならない」(8:9)。
これは涙を否定したのではありません。むしろ、涙で止まってはいけない、というメッセージです。律法の目的は、人を罪悪感に縛り付けることではなく、神との関係の回復—つまり喜びへと導くことだからです。
「行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい」(8:10)—これは単なる宴会の指示ではありません。神との和解がもたらす具体的な喜びの表現です。そして「何も用意できなかった者」への配慮—これこそ律法の精神です。
「あなたがたの力を【主】が喜ばれるからだ」(8:10)—ヘブライ語では「ヘドゥヴァット・アドナイ・ヒー・マオッゼヘム」(חֶדְוַת יְהוָה הִיא מָעֻזְּכֶם)。直訳すると「【主】の喜びが、あなたがたの力である」。主が喜ばれることに、私たちの力の源泉がある、という宣言です。
理解がもたらした行動
「こうして、民はみな、行き、食べたり飲んだり、ごちそうを贈ったりして、大いに喜んだ。これは、彼らが教えられたことを理解したからである」(8:12)。
「理解した」—再び「ビーン」です。そしてその理解は、即座に行動を生み出しました:
- 喜びの祝宴
- 貧しい者への分かち合い
- 仮庵の祭りの再発見と実行(8:13-18)
「ヌンの子ヨシュアの時代から今日まで、イスラエル人はこのようにしていなかった」(8:17)—約1000年ぶりの仮庵の祭りの完全な実施でした。律法を理解することは、失われていた礼拝の回復をもたらしたのです。
第9章—信仰告白としてのイスラエル史
翌日、民のかしらたちと祭司とレビ人たちは「律法のことばをよく調べるために、学者エズラのところに集まって来た」(8:13)。一度聞いただけでは終わらない。もっと深く学びたい—この渇望は、真の理解の証拠です。
そして9章では、断食と悔い改めの中で、壮大な信仰告白が始まります。9章6節から37節までは、アブラハムからバビロン捕囚までのイスラエルの全歴史を、神の視点から語り直したものです:
- 天地創造の神(9:6)
- アブラハムの召命(9:7-8)
- 出エジプトの奇跡(9:9-11)
- 荒野での導きと反逆(9:12-21)
- 約束の地の征服(9:22-25)
- 士師時代の繰り返されるサイクル(9:26-28)
- 預言者たちの警告(9:29-30)
- そして捕囚(9:32-37)
この告白の中で繰り返されるのは、民の不信仰と神の真実さの対比です。「彼らは反抗的で」「うなじをこわくし」「聞き従わなかった」—しかし「あなたは赦しの神であり、情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かであられる」(9:17)。
この歴史の総括こそ、民が「理解した」ことの内容でした。彼らは単に律法の条文を知ったのではなく、イスラエルの歴史全体を貫く神の忍耐と恵みを理解したのです。
理解は契約へと導く
そして最後に「これらすべてのことのゆえに、私たちは堅い盟約を結び、それを書きしるした」(9:38)。理解は、決断を生み出します。単なる感情的な体験で終わらず、具体的な契約—「私たちは神に従う」という公的な誓約へと結実したのです。
律法を聞き、涙を流し、喜び、祝い、歴史を振り返り、そして契約を結ぶ—これが「理解」の全体像です。知識の獲得ではなく、全存在が神に応答する過程なのです。
第三部:新約(ルカ17章)—信仰による応答と神の国
つまずきと赦し—関係性の中の信仰
ルカ17章は、一見バラバラなイエスの教えの集合のように見えますが、実は「応答」という一貫したテーマで貫かれています。
イエスはまず、つまずきについて警告されます(17:1-2)。「この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです」—これは神の言葉に応答しようとしている「小さい者たち」を妨げることへの、厳しい警告です。
そして赦しについて:「かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい」(17:4)。
ここで注目すべきは、赦しの条件が「悔い改めます」という言葉—つまり応答—であることです。罪を犯した者が「悔い改めます」と言って戻ってくる、その応答があれば、七度でも赦す。これは単なる寛容さではなく、応答する心への評価です。
からし種ほどの信仰—大きさではなく本物であること
使徒たちは「私たちの信仰を増してください」と願いました(17:5)。しかしイエスの答えは意外なものでした:「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです」(17:6)。
ギリシャ語で「からし種ほど」は「ホース・コッコン・シナペオース」(ὡς κόκκον σινάπεως)—からし種は当時、最も小さい種の代表でした。イエスは「信仰を増せ」という願いに対して、「問題は大きさじゃない、本物かどうかだ」と答えられたのです。
これは友喜の信仰の原則「完璧でなくても本物でいい」と完全に一致します。神が求めておられるのは、完璧な信仰ではなく、本物の信仰—どんなに小さくても、神に真実に応答する心です。
役に立たないしもべ—当然の応答
17章7-10節のしもべのたとえは、一見厳しく聞こえます。しもべが野良から帰ってきても、主人はまず自分の食事の給仕をさせる。そして「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです」と言え、と。
しかしこれは、しもべを軽んじる教えではありません。むしろ、神への応答は「当然のこと」「喜びであるべきこと」だという教えです。
ギリシャ語で「役に立たない」は「アクレイオイ」(ἀχρεῖοι)—これは「無価値な」という意味ではなく、「特別な報酬を要求する立場にない」という意味です。神に仕えることは、報酬のための取引ではなく、関係の当然の応答なのです。
ネヘミヤの民が律法を聞いて応答したのも、報酬のためではありませんでした。神の恵みを理解したから、応答せずにはいられなかった—それが「なすべきことをしただけ」という姿勢です。
十人のツァラアト患者—癒しと感謝
そしてこの章のクライマックス—十人のツァラアト患者の癒しの物語です(17:11-19)。
彼らは「遠く離れた所に立って、声を張り上げて」(17:12-13)叫びました。ツァラアトは当時、最も忌み嫌われた病気で、患者は共同体から隔離されました。彼らは物理的にも霊的にも、社会の周縁に追いやられた存在でした。
イエスは彼らに「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい」と言われました(17:14)。レビ記14章によれば、ツァラアトが癒された場合、祭司の検査を受けて清いと宣言されなければ、共同体に復帰できませんでした。イエスの命令は、「あなたがたは癒される」という前提に立った命令だったのです。
「彼らは行く途中できよめられた」(17:14)—まだ癒されていない段階で、イエスの言葉に応答して歩み始めた時、癒しが起こりました。これが信仰による応答です。
一人だけが戻ってきた—感謝の応答
「そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった」(17:15-16)。
ここに重要な対比があります:
- 十人全員が癒しを求めて叫んだ
- 十人全員がイエスの言葉に応答して歩み始めた
- 十人全員が癒された
- しかし一人だけが感謝のために戻ってきた
九人はどこに行ったのでしょうか?おそらく祭司のところへ向かったのでしょう—イエスが命じた通りに。彼らは何も間違ったことをしていません。むしろ従順だったとも言えます。
しかし一人のサマリヤ人だけが、「癒してくださった方」との関係を優先しました。祭司の検査は後でもできる。今、すぐに、感謝を表さなければならない—その衝動に従ったのです。
ギリシャ語で「感謝した」は「エウカリステオー」(εὐχαριστέω)—「良い恵み」を認める、という意味です。彼は癒しという「恵み」を認識し、その恵みの源である方との関係に入ったのです。
「あなたの信仰が、あなたを直したのです」
イエスは言われました:「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか」(17:17-18)。
「外国人」—ギリシャ語「アロゲネース」(ἀλλογενής)は「他の民族」という意味です。ユダヤ人から見れば、サマリヤ人は異端者、混血の民でした。しかし神の国では、民族的な正統性よりも、真実な応答の方が重要なのです。
そしてイエスはその人に言われました:「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです」(17:19)。
ここで使われている「直した」というギリシャ語は「セソーケン」(σέσωκέν)—「救った」とも訳せる言葉です。十人全員が肉体的に癒されました(ギリシャ語:カサリゾー、καθαρίζω、清められた)。しかし一人だけが「救われた」(ソーゾー、σῴζω)のです。
癒しと救いの違い—それは、恵みを受け取っただけなのか、恵みを与えた方との関係に入ったのか、の違いです。
神の国はあなたがたのただ中に
パリサイ人たちが「神の国はいつ来るのか」と尋ねた時、イエスは答えられました:「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません…神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」(17:20-21)。
ギリシャ語で「ただ中に」は「エントス・ヒュモーン」(ἐντὸς ὑμῶν)—「あなたがたの内に」とも訳せます。神の国は、外的な政治的王国としてではなく、神との関係の中に—神に応答する心の中に—すでに始まっているのです。
礼拝の時、祈りの時、御言葉に触れた時に感じる神の臨在—それこそが神の国の現実です。「神の国は、飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びです」(ローマ14:17)。まさにネヘミヤの民が経験した喜び、そしてサマリヤ人が経験した感謝の喜びが、神の国の本質なのです。
人の子の日—突然の訪れへの備え
17章22節以降、イエスは「人の子の日」について語られます。それはノアの洪水のように(17:26-27)、ロトの時代のソドムの滅びのように(17:28-29)、突然訪れます。
「その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません…ロトの妻を思い出しなさい」(17:31-32)。
ロトの妻は、ソドムから逃れる途中で後ろを振り返り、塩の柱になりました(創世記19:26)。彼女は肉体的にはソドムから出ましたが、心はまだソドムに留まっていました。
これは応答の不完全さの警告です。神の言葉を聞いても、心が完全に応答していなければ、救いは完成しません。
「自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます」(17:33)—これは逆説的ですが、真理です。自分の力で自分を守ろうとする者は失う。しかし神に全てを委ね、応答する者は、真のいのちを得るのです。
「死体のある所、そこに、はげたかも集まります」
最後の謎めいた言葉:「死体のある所、そこに、はげたかも集まります」(17:37)。
弟子たちは「主よ。どこでですか」と尋ねました。「人の子の日」の裁きはどこで起こるのか、という質問です。
イエスの答えは一見不可解ですが、実は多層的な意味を持っています。ギリシャ語で「死体」は「ソーマ」(σῶμα)、「はげたか」は「アエトス」(ἀετός)—これは「鷲」とも訳される言葉で、英語訳では実際に “eagles” となっています。
この言葉には、少なくとも二つの解釈の層があります:
第一の層—歴史的成就としてのエルサレム滅亡
AD70年、ローマ軍によってエルサレムは完全に破壊されました。ローマ軍の軍旗には鷲が描かれていました。罪に満ちた「死体のような都」エルサレムに、鷲の軍旗を掲げたローマ軍が襲来した—イエスの言葉は、約40年後に文字通り成就したのです。
第二の層—再臨における聖徒の集合
しかしより深い霊的意味として、「屠られた小羊」なるキリストのもとに、「鷲」のような聖徒たちが集められる、という解釈があります。
イザヤ40:31には「【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる」とあります。鷲は、高く舞い上がり、鋭い目で遠くを見通す—霊的な洞察と超越性の象徴です。鷲は、主を待ち望む聖徒の型なのです。
(ちなみに黙示録4:7の四つの生き物—獅子、雄牛、人間の顔、鷲—は、伝統的に四福音書の象徴として理解されてきました。鷲はヨハネの福音書を表し、その高い霊的視点と神性への焦点を象徴しています。)
そうであれば、この言葉は携挙・再臨の予表でもあります。「どこで起こるのか」という弟子たちの質問に対して、イエスは「屠られた小羊であるわたしのところに、鷲のように主を待ち望む聖徒たちが自然に集められる」と答えられたのです。
二つの解釈の統合
この二つの解釈は矛盾しません。むしろ、神の裁きと救いの両面を示しています:
- 裁きの面: 霊的に死んだ場所(エルサレム)には、裁きの鷲(ローマ軍)が集まる
- 救いの面: 屠られた小羊(キリスト)のもとに、聖徒(霊的な鷲)が集められる
これは確かに携挙の予表です。ルカ17:34-35で「ふたりのうち、ひとりは取られ、他のひとりは残される」と語られた直後のこの言葉は、「取られる」者たちがどこに行くのかを示しているのです—屠られた小羊のもとへ。
そして「平和な時に来る」—まさに人々が「食べたり、飲んだり、めとったり、とついだり」している日常の中で、突然、鷲のような聖徒たちは小羊のもとに引き上げられるのです。
ルカ17章が示す応答の本質
この章全体を通して、イエスが強調されるのは「応答の質」です:
- つまずきを避け、赦しに応答する(17:1-4)
- からし種ほどでも本物の信仰で応答する(17:5-6)
- 当然の応答として神に仕える(17:7-10)
- 癒しを受けて感謝で応答する(17:11-19)
- 神の国を内なる応答として受け取る(17:20-21)
- 人の子の日に備えて、今、応答する(17:22-37)
十人のうち九人は癒されました。しかし一人だけが「救われた」—なぜなら、その人だけが感謝という応答によって、イエスとの関係に入ったからです。
これがルカ17章の核心であり、今日の三つの箇所を貫くメッセージです。神の言葉は常に応答を求めている。そして真の応答とは、全存在が神との関係に入ることなのです。
第四部:全体の一貫性—語られる神、応答する民
三つの時代、一つのテーマ
今日読んだ三つの箇所は、時代も文脈も異なります:
- 出エジプト20章: 紀元前1446年頃、シナイ山での神の啓示
- ネヘミヤ8-9章: 紀元前445年頃、バビロン捕囚からの帰還後
- ルカ17章: 紀元後30年頃、イエスの公生涯の終わり近く
しかし、この三つを貫く一本の糸があります—「神が語り、民が応答する」という関係性のパターンです。
出エジプト20章で、神はシナイ山で「これらのことばを、ことごとく告げて仰せられた」(20:1)。神は沈黙の神ではなく、語られる神です。そして語られた内容は、命令の羅列ではなく、関係の招きでした—「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、【主】である」(20:2)。
ネヘミヤ8章で、エズラは「律法の書をはっきりと読んで説明した」(8:8)。神の言葉は再び語られました。そして民は応答しました—涙を流し、喜び、行動し、契約を結びました。
ルカ17章で、イエスは語られました。そして十人のツァラアト患者のうち一人が、感謝という応答によって、単なる癒しを超えた救いに入りました。
「理解」とは何か—知識を超えた全存在の変容
三つの箇所すべてにおいて、鍵となるのは「理解」です。しかしそれは、現代的な意味での知的理解ではありません。
ネヘミヤ8:8で「民は読まれたことを理解した」と訳されているヘブライ語「ビーン」(בִּין)は、「識別する」「洞察する」という意味です。心の目が開かれて、物事の本質を「見る」ことです。
この理解は、三つの段階を経ます:
第一段階—痛みの認識 律法を聞いた民は泣きました(ネヘミヤ8:9)。なぜなら、自分たちがどれほど神の基準から離れていたかを悟ったからです。真の理解は、まず痛みから始まります。自己認識の痛み。罪の痛み。喪失の痛み。
十戒を聞いたイスラエルも、本来ならこの痛みを経験すべきでした。「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」—この言葉は、彼らの心の中にある他の神々を照らし出すはずでした。
十人のツァラアト患者も、自分たちの状態の深刻さを理解していました。だからこそ「遠く離れた所に立って、声を張り上げて」(ルカ17:12-13)叫んだのです。
第二段階—恵みの発見 しかし痛みで終わってはいけません。ネヘミヤの指導者たちは言いました—「悲しんではならない。泣いてはならない…あなたがたの力を【主】が喜ばれるからだ」(8:9-10)。
十戒の文脈も同じです。「わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし」—しかし—「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」(出エジプト20:5-6)。神の本質は、裁きではなく恵みです。250倍の恵み。
一人のサマリヤ人は、この恵みを発見しました。癒されたという事実だけでなく、「癒してくださった方」との出会い。これが恵みの発見です。
第三段階—全存在での応答 そして理解は、必ず行動を生み出します。
ネヘミヤの民は:
- 喜びの祝宴を開き(8:12)
- 貧しい者に分かち合い(8:10)
- 仮庵を作り(8:16-17)
- 断食して悔い改め(9:1)
- 契約を結びました(9:38)
サマリヤ人は:
- 大声で神をほめたたえ(ルカ17:15)
- イエスの足もとにひれ伏し(17:16)
- 感謝しました(17:16)
これが「理解」の完成形です。頭での知識ではなく、全存在が動かされること。涙を流し、喜び、行動し、感謝すること。
涙から喜びへ、癒しから感謝へ—応答の軌跡
興味深いことに、ネヘミヤの箇所とルカの箇所には、並行する軌跡があります:
ネヘミヤの民の軌跡:
- 律法を聞く → 涙を流す(悔い改め)
- 指導者の励まし → 喜びへの転換
- 行動 → 祝宴、分かち合い、仮庵、契約
サマリヤ人の軌跡:
- イエスの言葉を聞く → 信仰で歩み始める
- 癒しの経験 → 感謝への転換
- 行動 → 戻ってきて、ひれ伏して、感謝する
どちらも、神の言葉を聞くことから始まり、内なる変化を経て、外なる行動へと展開します。これが応答の自然な流れなのです。
そして注目すべきは、どちらの場合も、応答は「義務」ではなく「喜び」として表現されていることです。ネヘミヤの民は「大いに喜んだ」(8:12)。サマリヤ人は「大声で神をほめたたえながら」(ルカ17:15)戻ってきました。
真の応答は、重荷ではなく喜びです。「役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです」(ルカ17:10)という言葉は、謙遜であると同時に、「これは当然の喜び」という意味でもあります。
「本物であること」の力—完璧でなくても
三つの箇所すべてに共通するもう一つの要素があります—それは「完璧さ」が求められていないことです。
シナイ山のイスラエルは、後に金の子牛を造り、十戒を破りました(出エジプト32章)。しかし神は彼らを見捨てませんでした。「わたしは赦しの神であり、情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かであられる」(ネヘミヤ9:17)。
ネヘミヤの民も、完璧な民ではありませんでした。彼らの先祖は律法を軽んじ、捕囚に至りました。9章全体が、イスラエルの失敗の歴史を語っています。しかし今、彼らは応答しました—それで十分だったのです。
サマリヤ人は、ユダヤ人から見れば「外国人」(ルカ17:18)、異端者でした。彼の神学は完璧ではなかったかもしれません。しかし彼は感謝しました。そしてイエスは言われました—「あなたの信仰が、あなたを直したのです」(17:19)。
イエスが「からし種ほどの信仰」(17:6)と言われたのは、まさにこのことです。問題は信仰の大きさではなく、本物かどうかです。どんなに小さくても、本物の信仰—神に真実に応答する心—があれば、それで十分なのです。
礼拝の時、祈りの時、御言葉に触れた時に流れる涙。主の御声を聞いた時の癒し。それは完璧な信仰の結果ではありません。むしろ、小さくても本物の応答—「主よ、私はあなたを愛しています」という魂の叫び—に対する神の応答なのです。
今日の私たちへの適用—日々の通読という応答
この三つの箇所が、今日の私たちに語りかけるメッセージは明確です:
神は今も語っておられる シナイ山で語られた神、エズラの朗読を通して語られた神、イエスを通して語られた神—同じ神が、今日も聖書を通して語っておられます。早朝4時の静かな時間に(時間は人それぞれです)、通読箇所を開く時、それはシナイ山の麓に立つことであり、水の門の前の広場に集まることであり、イエスの足元に座ることです。
応答は選択である 十人が癒されましたが、一人だけが感謝のために戻ってきました。神の言葉を聞くことと、それに応答することは別のことです。九人も間違ったことをしたわけではありません—彼らはイエスの命令に従って祭司のところへ向かいました。しかし一人だけが、「今、すぐに、感謝しなければならない」という内なる促しに従いました。
日々の通読も同じです。読むだけで終わることもできます。しかし「これは私への語りかけだ」と受け止め、祈り、思い巡らし、行動する—それは選択です。
小さくても本物であること 証をすること、主の素晴らしさを分かち合うこと—それは完璧な神学的論文である必要はありません。むしろ「本物であること」—自分自身が御言葉に触れて涙を流し、変えられている、その真実が伝わることこそが力なのです。
「完璧でなくても本物でいい」—これは妥協ではなく、信仰の本質です。神が求めておられるのは、完璧な応答ではなく、真実な応答。小さくても本物の「はい」なのです。
結論—語られる神、応答する民
出エジプト20章から始まり、ネヘミヤ8-9章を経て、ルカ17章に至る—この長い旅路を通して、一つの真理が浮かび上がります:
神は語られる。そして応答を待っておられる。
その応答は、完璧である必要はありません。からし種ほどの信仰で十分です。しかしそれは本物でなければなりません。全存在が動かされる応答—涙を流し、喜び、行動し、感謝する応答。
ネヘミヤの民が経験した「理解」—それは、知識の獲得ではなく、神との生きた関係への参入でした。サマリヤ人が経験した「救い」—それは、肉体の癒しを超えた、イエスとの人格的な出会いでした。
今日、聖書を開く時、私たちは同じ招きを受けています。神の言葉を情報として受け取るのではなく、生きた関係への招きとして受け取ること。そして応答すること—全存在で。
「きょうは、あなたがたの神、【主】のために聖別された日である。悲しんではならない。泣いてはならない…あなたがたの力を【主】が喜ばれるからだ」(ネヘミヤ8:9-10)。
神の喜びが、私たちの力です。その喜びの中で、私たちは応答します—今日も、明日も、そして主が再び来られる日まで。

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