本物の信仰、本物の友情、本物の応答 – 神が求めておられるもの

聖書の名言集

2025年11月20日トーラーポーション通読より 創世記25章1-11節/第一サムエル19-20章/マタイ22章1-22節

今日の通読箇所は、一見すると全く異なる三つの物語です。アブラハムの晩年、ダビデの逃亡生活、そしてイエス様のたとえ話。しかし、これらの箇所には共通する問いが流れています。それは「何が本物か」という問いです。

本物の信仰とは何でしょうか。本物の友情とは。そして本物の応答とは。今日の箇所は、私たちにこの根源的な問いを投げかけています。

アブラハムの「良い白髪」- 試練を経た平安

創世記25章8節、アブラハムの最期の描写は美しい言葉で記されています。「アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた」

ヘブライ語では「שֵׂיבָה טוֹבָה」(セイヴァー・トヴァー)、直訳すると「良い白髪」という表現です。アブラハムの人生を振り返ってみてください。故郷を離れ、約束の地で寄留者として生き、サラを失い、イサクをささげかけ、様々な失敗も経験しました。

それでも最後は「良い白髪」でした。試練の多い人生でも、神様との歩みを保ち続けた者の到達点。これが本物の信仰の結実です。

興味深いのは、9節でイサクとイシュマエルが一緒に父を葬っていることです。かつて追い出されたイシュマエルが、約束の子イサクと共に。神様は家族の和解さえも成し遂げられました。

ナヨテで起きたこと – 霊的体験は信仰そのものではない

第一サムエル記19章、ダビデはサウルから逃れてラマのナヨテにいるサムエルのもとに行きました。そこは預言者たちが集まり、祈りと礼拝が絶えず行われている場所でした。サムエルは「監督をする者として立っている」(19:20)とあります。ヘブライ語では「נִצָּב」(ニツァーヴ)で、「立ち続けている」という意味です。一時的にいたのではなく、そこに立ち続けていた。継続的な霊的営みの場でした。

サウルがダビデを捕らえようと使者たちを送ると、彼らは次々と預言し始めました。一度目、二度目、三度目。ついにサウル自身も行き、彼も預言し、一昼夜の間、裸のまま倒れていました(19:24)。

これは驚くべき霊的体験です。聖霊の圧倒的な臨在。預言の賜物。しかし、その後サウルはどうなったでしょうか?

第一サムエル記20章を読むと、答えは明らかです。サウルの心は全く変わっていませんでした。彼は依然としてダビデを殺そうとし、自分の息子ヨナタンにさえ槍を投げつけました(20:33)。

**これは私たちへの重要な警告です。霊的な体験、預言、異言、癒し、そういったものは素晴らしい神様の恵みです。しかしそれ自体が信仰ではありません。**サウルはナヨテで聖霊に圧倒されましたが、心は頑ななままでした。

一方、ダビデはどうでしょうか。派手な霊的体験の記録はありません。彼はただ主との関係を保ち続けました。サムエルのもとに逃れ(19:18)、霊的な交わりの場に身を置き、神様を信頼し続けました。

本物の信仰は、体験の強烈さではなく、主との関係の継続性によって測られるのです。

ヨナタンの十字架 – 自分のいのちのように友を愛する

第一サムエル記20章には、聖書の中でも最も美しい友情の物語が記されています。ヨナタンとダビデの友情です。

20章17節、「ヨナタンは、もう一度ダビデに誓った。ヨナタンは自分を愛するほどに、ダビデを愛していたからである」

「自分を愛するほどに」、ヘブライ語では「כְּאַהֲבַת נַפְשׁוֹ」(ケアハヴァット・ナフショー)、直訳すると「自分のいのちの愛のように」です。これはレビ記19章18節の「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と同じ構造の表現です。ヨナタンは、神様の命令を文字通り実践していたのです。

しかし、ヨナタンの立場を考えてみてください。彼は王子であり、次期王になるはずの人物でした。でも彼は知っていました。神様がダビデを選んでおられることを。

20章14-15節、ヨナタンはダビデに言います。「もし、私が生きながらえておれば、【主】の恵みを私に施してください。たとい、私が死ぬようなことがあっても、あなたの恵みをとこしえに私の家から断たないでください」

ヨナタンは自分の王位継承権を完全に手放しました。これは一種の「死」です。自分の権利、自分の野心、自分の将来、すべてを手放して、神様が選んだ人を支える道を選びました。

これは後のバプテスマのヨハネの言葉を思い起こさせます。「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません」(ヨハネ3:30)。真の友情、真の愛は、自分を小さくすることを厭いません。

ヨナタンは父サウルと友ダビデの間で十字架を負っていました。両方を愛していました。父は自己中心的で、神様の選びを拒否していました。友は神様に選ばれた者でした。ヨナタンは最終的に神様の選びに従う道を選びました。

これが本物の友情です。自己犠牲を伴う愛。神様の御心を優先する愛。

婚礼の礼服 – 神が用意された義を着る選択

マタイ22章の婚礼のたとえは、多くの教訓に満ちています。招かれた者たちは来たがらず、王は大通りから人々を集めました。良い人も悪い人も。宴会場は客でいっぱいになりました。

しかし、22章11-12節、王が客を見に入ると、婚礼の礼服を着ていない人が一人いました。王が「どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか」と尋ねると、その人は黙っていました。

なぜ黙っていたのでしょうか。言い訳がなかったからです。

当時の習慣では、婚礼の主催者が客に礼服を提供するのが普通でした。つまり、王は礼服を用意していました。その人は、用意された礼服を着ることを拒否したのです。

婚礼の礼服は、キリストの義の衣を表しています(イザヤ61:10、黙示録19:8参照)。神様は私たちに義の衣を提供してくださっています。無料で。私たちの行いや功績ではなく、キリストの十字架の血潮による贖いによって。

しかし、私たちには選択があります。その衣を受け取り、着るという選択です。

**神様は救いを用意してくださいましたが、私たちはそれを受け取る決断をしなければなりません。**これが本物の応答です。

カイザルと神 – 神の像を持つ私たちを神に返す

マタイ22章15-22節、パリサイ人たちはイエス様を罠にかけようとしました。「税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか」

イエス様は彼らの悪意を見抜き、デナリ銀貨を持って来させて尋ねられました。「これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか」

「カイザルのです」

「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」(22:21)

この答えの深さに注目してください。コインにはカイザルの像が刻まれています。だからカイザルに返す。では、「神のもの」とは何でしょうか?

創世記1章26-27節を思い起こしてください。人間は神のかたち(像)に造られました。

コインにはカイザルの像が刻まれているからカイザルに返す。私たち人間には神の像が刻まれているから、私たち自身を神に返すのです。

税金を納めるかどうかという政治的な質問に対して、イエス様は究極的な信仰の問いに変えられました。あなたは誰のものですか?あなた自身を誰に返しますか?

これが本物の応答です。自分自身を神様に返すこと。

結び – 神が求めておられる「本物」

今日の三つの箇所は、それぞれ異なる角度から「本物」を問いかけています。

アブラハムは試練を経て「良い白髪」に到達しました。本物の信仰は、人生の最後まで神様との歩みを保ち続けます。

サウルは聖霊に圧倒されても心は変わりませんでした。ダビデは派手な体験がなくても主との関係を保ちました。本物の信仰は、体験の強烈さではなく、関係の継続性です。

ヨナタンは自分の王位継承権を手放してまで友を愛しました。本物の友情は、自己犠牲を伴います。

婚礼の客は王が用意した礼服を着なければなりませんでした。本物の応答は、神様が用意された救いを受け取る選択です。

そして私たち自身は、神の像を持つ者として、自分自身を神様に返すことが求められています。

本物とは、外側の体験や見せかけではなく、内側の心の問題です。

そして、これらすべての箇所が指し示しているのは、究極の「本物」であるイエス・キリストです。キリストこそ、本物の信仰を体現し、本物の愛を示し、本物の義を提供してくださる方です。

私たちは今日、自分に問いかける必要があります。私の信仰は本物でしょうか。私の応答は本物でしょうか。

神様が求めておられるのは、霊的な体験のコレクションではありません。見せかけの敬虔さでもありません。神様が求めておられるのは、心からの、本物の応答です。

「神のものは神に返しなさい」

この言葉は、今日も私たちに語りかけています。

あなたの信仰は本物ですか? - 聖書が教える「本物」と「偽物」の違い|ユキ(友喜)
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