― 創世記49-50章、第一歴代誌16-17章、ルカ1章から ―
2026年1月8日
はじめに
今日の通読箇所は、創世記のヤコブの死と埋葬、第一歴代誌のダビデの幕屋での礼拝体制、そしてルカ福音書のマリヤとエリサベツの出会いという、一見バラバラに見える三つの箇所です。しかし、これらを通して「天への憧れ」「霊と真の礼拝」「荒野で叫ぶ者の声」という美しいテーマが浮かび上がってきます。
1. 「自分の民に加えられる」― ヤコブの死生観
創世記49:33「ヤコブは子らに命じ終わると、足を床の中に入れ、息絶えて、自分の民に加えられた。」
ヘブライ語で「נֶאֱסַף אֶל־עַמָּיו」(ネエサフ・エル・アマーヴ)。「集められた」という受動態です。ヤコブが自分で行ったのではなく、神によって集められたというニュアンスがあります。
これは単なる「死んだ」という婉曲表現ではありません。アブラハム、イサク、そして信仰の先祖たちの「集まり」に加わるという確信。肉体は死んでも、信仰者の共同体は死を超えて続くという希望がここにあります。
ヘブル人への手紙12:1は「多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いている」と語ります。ヤコブは、その雲の中に加えられたのです。
ヨセフの涙と口づけ
創世記50:1「ヨセフは父の顔に取りすがって泣き、父に口づけした。」
創世記を通して、ヨセフは何度も泣いています。兄たちと再会した時、ベニヤミンを見た時、父ヤコブと再会した時。そして今、父の死に際して。エジプトの宰相として、おそらく人前では感情を抑えることが求められたでしょう。しかし父の前では、少年のように泣くことができた。権力や地位があっても、人間としての感情を失わない。これがヨセフの美しさです。
アベル・ミツライムの語源
創世記50:11「その地の住民のカナン人は、ゴレン・ハアタデのこの葬儀を見て、『これはエジプトの荘厳な葬儀だ』と言った。それゆえ、そこの名はアベル・ミツライムと呼ばれた。」
「アベル・ミツライム」(אָבֵל מִצְרַיִם)の「アベル」(אָבֵל)は「嘆き」「悲しみ」「哀悼」を意味します。直訳すると「エジプトの嘆き」です。
興味深いことに、ヘブライ語の「アベル」には二つの同音異義語があります。一つは「嘆き」、もう一つは「牧草地、草原」(地名によく使われる)です。この地名は両方の意味をかけた言葉遊び(パロノマシア)になっている可能性があります。
【補足】カインとアベルの「アベル」(הֶבֶל/ヘベル)は全く別の単語です。こちらは「息」「蒸気」「空しさ」を意味し、伝道者の書の「空の空」と同じ語根です。スペルが異なります(הֶבֶל vs אָבֵל)。
マクペラと天への憧れ
ヤコブがカナンの地マクペラへの埋葬にこだわった理由は何でしょうか。
マクペラは「天と地がつながる場所」、マムレは「神と共に食事をする場所」として、アブラハムの信仰の記念碑的な場所でした。アブラハムがこの土地を購入した時、彼は地上での王国を築きたかったわけではありません。本当に私たちが帰るべき場所は天の中にあること、主の御許にあること、その天に憧れを抱いて歩んでいたのです。
ヘブル人への手紙11:13-16「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです…彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。」
【適用】私もここを目指したい。奉仕が、働きの成果が目標ではなく、天にあこがれを抱いて歩みたい。
2. 二つの幕屋と「霊と真」の礼拝
第一歴代誌16章には、ダビデの時代に二つの礼拝システムが並行して存在していたことが記されています。
ダビデの幕屋(エルサレム、シオンの丘)
第一歴代誌16:1「こうして、彼らは、神の箱を運び込み、ダビデがそのために張った天幕の真ん中に安置した。」
第一歴代誌16:37「彼は、その場所、すなわち、主の契約の箱の前に、アサフとその兄弟たちをとどめておき、毎日の日課として、常に箱の前で仕えさせた。」
ダビデの幕屋では、契約の箱の前での賛美と祈りが中心でした。垂れ幕なし、直接的な神の臨在。これは霊的な礼拝の型です。
モーセの幕屋(ギブオン)
第一歴代誌16:39-40「祭司ツァドクと彼の兄弟である祭司たちを、ギブオンの高き所にある主の住まいの前におらせ、全焼のいけにえを、朝ごと、夕ごとに、絶えず、また、すべて主のイスラエルに命じた律法に書かれているとおりに、全焼のいけにえの壇上で、主にささげさせた。」
モーセの幕屋では、律法に定められた犠牲が継続していました。朝夕の全焼のいけにえ。これは真理に基づく礼拝の型です。
三人の奉仕者の配置と統合
【重要な時系列】契約の箱がエルサレムに来た当初は、アサフがダビデの幕屋で、ヘマンとエドトンはギブオンで奉仕していました。後に三人の系統が統合されて共に奉仕するようになりました。
【初期の配置(16章)】
・ダビデの幕屋(エルサレム):アサフとその兄弟たち(16:5-7, 37)
・モーセの幕屋(ギブオン):ヘマン、エドトン(16:41-42)
第一歴代誌16:41-42「彼らとともにヘマン、エドトン、その他、はっきりと名の示された者で、選ばれた者たちを置き、主をほめたたえさせた。『まことに主の恵みは、とこしえまで。』ヘマンとエドトンの手には、歌う者たちのためにラッパとシンバルとがあり、また、神の歌に用いる楽器があった。」
【成熟期の配置(25章)】
第一歴代誌25:1「ダビデと将軍たちは、アサフとヘマンとエドトンの子らを奉仕のために取り分けた。彼らは立琴と十弦の琴とシンバルを携えて預言する者であった。」
ダビデの晩年、神殿奉仕の準備として、三人の系統が統合されました。将来の神殿での礼拝に備えて、一つの奉仕チームとして組織化されたのです。
【神殿完成後の統合(第二歴代誌5章)】
第二歴代誌5:12「レビ人の歌うたいたち全員、すなわちアサフ、ヘマン、エドトン、および彼らの息子たち、兄弟たちは、白亜麻布を着て、シンバルと十弦の琴と立琴を持ち、祭壇の東側に立ち、百二十人の祭司が彼らとともにいてラッパを吹いた。」
ソロモンの神殿が完成し、契約の箱が神殿に移された時、二つの場所で分かれていた礼拝者たちが一つになりました。「霊」と「真」が一つになった礼拝の完成です。
「霊と真」の礼拝の意味
ヨハネ4:23-24「まことの礼拝者たちが、霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
主イエスが言われた「霊と真理による礼拝」の両面が、ダビデの時代に二つの幕屋として分かれて存在していたのは興味深いことです。
・ダビデの幕屋=霊的な礼拝(賛美と祈り、神の臨在への直接的なアクセス)
・モーセの幕屋=真理に基づく礼拝(律法に定められた犠牲、神の定めへの従順)
そしてソロモンの神殿で、この二つが一つになりました。契約の箱と犠牲の祭壇が同じ場所に集まる。これは新約の教会の型でもあります。賛美と祈り(霊)、みことばと従順(真理)、両方が揃って初めて完全な礼拝になるのです。
二つの幕屋と三人の奉仕者の時系列
アサフ・ヘマン・エドトンの配置変遷
契約の箱の前での賛美と祈り
垂れ幕なし・直接的な神の臨在
律法に定められた犠牲
朝夕の全焼のいけにえ
将来の神殿での礼拝に備え、一つの奉仕チームとして組織化
契約の箱と犠牲の祭壇が同じ場所に
二つの幕屋システムが一つに
ヨハネ 4:23-24
「まことの礼拝者たちが、霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。」
二つの幕屋は「霊と真」の礼拝の型であり、
神殿での統合は新約の教会を予表している
3. ダビデ契約と「とこしえの王国」
第一歴代誌17:11-14「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちのもとに行くようになるなら、わたしは、あなたの息子の中から、あなたの世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしのために一つの家を建て、わたしはその王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる…わたしは、彼をわたしの家とわたしの王国の中に、とこしえまでも立たせる。彼の王座は、とこしえまでも堅く立つ。」
「とこしえ」という約束は、人間の王では成就し得ません。ソロモンも、その後の王たちも、みな死にました。王国は分裂し、捕囚に遭いました。
しかし神は嘘をつかない。この約束が成就するのは、イエス・キリストにおいてのみです。
ルカ1:32-33「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王座をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
ダビデのメシア理解
第一歴代誌17:19「主よ。あなたは、このしもべのために、あなたのみこころのままに、この大いなることのすべてを行い、この大いなることをすべて知らせてくださいました。」
ダビデは「この大いなることをすべて知らされた」と告白しています。彼は自分の息子ソロモンへの約束として受け取りながらも、「とこしえ」という言葉に、それ以上のものを霊的に悟っていたのでしょう。
使徒2:30-31「ダビデは預言者であり…神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓われたことを知っていたので、キリストの復活について前もって知り、それを語ったのです。」
ダビデは「とこしえの王国」という約束を受け取り、それが単なる人間の王朝では成就し得ないことを霊的に悟っていました。しかし、それが処女降誕、十字架、復活という形で成就するとは、詳しくは知らなかったでしょう。これは「漸進的啓示」と呼ばれる概念です。旧約の聖徒たちは約束の光を見ていましたが、私たちほど明確には見ていなかった。それでも信仰によって応答したのです。
4. マリヤとエリサベツ ― 聖霊による認識
ルカ1:41-44「エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。そして大声をあげて言った。『あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。』」
エリサベツは肉眼では見えなかったはずです。マリヤのお腹はまだ膨らんでいなかったでしょう(受胎直後)。しかし、胎内のヨハネが躍り、エリサベツは聖霊に満たされて「私の主の母」と告白しました。
聖霊は、肉眼で見えないものを認識させてくださる。御心にかなう人、主に従順な人がそばに来ると霊が喜ぶ。これは本物の霊的体験です。主の臨在を運ぶ人がそばに来ると、内なる霊が応答するのです。
ルカ1:45「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」
この言葉は、マリヤだけでなく、ヤコブにも、ダビデにも当てはまります。そして今日の読者である私たちにも。約束を信じきる者は幸いなのです。
ザカリヤの預言の構造
ザカリヤの預言(ルカ1:67-79)は二部構成になっています。
【第一部:メシアによる救い(68-75節)】
「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた…われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。」
これはダビデの家から立てられる「救いの角」、すなわちメシア・イエス・キリストについての預言です。
【第二部:先駆者ヨハネの使命(76-79節)】
「幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」
これはバプテスマのヨハネの使命についての預言です。彼は「主の道を備える者」として、光を指し示す役割を担いました。
5. 「荒野で叫ぶ者の声」― 私たちの使命
「暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く」(ルカ1:79)
ヨハネ自身は「光」ではありませんでした(ヨハネ1:8「彼は光ではなかった。ただ、その光についてあかしするために来たのである」)。しかし彼は光を指し示すことで、暗闘の中にいる人々が光を見出す助けとなりました。
ヨハネ1:23「私は、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です。」
ヨハネは自分が何者かと問われた時、「私はキリストではない」「私はエリヤではない」と否定し続け、最後に残ったのは「声」だけでした。声は見えない。声は残らない。声は、指し示す先にあるものを見せるためだけに存在する。
でも、その声がなければ、人々はキリストを見出せなかった。
ヨハネ3:30「彼は盛んになり私は衰えなければならない。」
これがすべてのキリスト者の模範です。私たち自身が光なのではなく、キリストという光を指し示すことで、人々が光を見出す。「私は荒野で叫ぶ者の声」というヨハネの自己理解を、私たちも胸に刻みたいのです。
ザカリヤの預言の構造
ルカ 1:67-79 ― 二部構成の預言
イエス・キリスト
ダビデの家に立てられる「救いの角」
バプテスマのヨハネ
主の道を備える「いと高き方の預言者」
「荒野で叫ぶ者の声」
ヨハネ自身は「光」ではなかった。
しかし光を指し示すことで、
暗闘の中にいる人々が光を見出す助けとなった。
「彼は盛んになり私は衰えなければならない」
まとめ:約束を信じきる信仰
今日の三つの箇所に共通するテーマは「約束の成就を待ち望む信仰」です。
ヤコブ:約束の地カナンを完全には所有できなかったが、マクペラの墓地にこだわった。それは約束への信仰の表明。
ダビデ:自分では神殿を建てられないと告げられたが、子孫を通しての「とこしえの王国」を信じて感謝した。
マリヤとエリサベツ:まだ見ていない救いを、胎内の子を通して信じ、賛美した。
「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」(ルカ1:45)
この言葉が、今日の私たちへのメッセージです。天への憧れを抱き、霊と真理をもって礼拝し、荒野で叫ぶ者の声として、キリストを指し示し続けていきましょう。


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