目次
はじめに:「恥ずかしいけれど、伝えたい」
この証しを書くのは、正直とても恥ずかしいです。でも、もしかしたら今、同じように苦しんでいる誰かの心に届くかもしれない。そう思って、勇気を出して書くことにしました。
先日、創世記15章を読んでいて、ある言葉が心に留まりました。
「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6)
これが信仰による救いの原点だと教えられて、私は思わず言いました:「私も主を信じる」と。
なぜ私は主イエスを信じたのか—姦淫の女の場面で
人それぞれ、救いの入口は違います。
- 新島襄は「初めに神は天と地を造られた」(創世記1:1)という言葉で救われました
- ある先生は黙示録で救われたとおっしゃっていました
- 私は、マタイの福音書で救われました
特に、姦淫の現場で捕らえられた女性に対する主イエスの対応を読んだとき、「この方は本物だ」と心から思いました。
主イエスの何が私を惹きつけたのか
人の目を気にせず、正しいことと愛を実践された—これに尽きます。
群衆が石を投げようとしている中、たった一人で女性を守られた。これは、人間には絶対にできない勇気と愛です。
普通、人は:
- 多数派に流されます
- 自分が攻撃されるのが怖くて、弱い人を見捨てます
- 特に大勢が相手だと、傍観するだけです
でも主イエスは違いました。
「罪のない者が、まず石を投げなさい」
そして、誰も石を投げられなくなった後:
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」
罪は憎むけれど、人は愛する。そして、口先だけでなく、命がけで実践する。
「罪びとには赦免を、とらわれ人には解放を」(ルカ4:18-19)
主イエスは本当に、この言葉を生き抜かれた方でした。
人間にはない、本物の強さ。常識を超えた高潔さ。
もう主イエスにぞっこん。この方に従いたい!
そう思いました。
でも、山上の垂訓は厳しい
ただ、主イエスの教えを実践しようとすると、すぐに分かります。
人間の力では絶対に守れない。
- 心の中で怒るだけでも罪
- 情欲を抱いて見るだけで姦淫
- 右の頬を打たれたら左も向ける
- 敵を愛し、迫害する者のために祈る
聖書の言葉は、口には甘く、腹には苦い(黙示録10:9-10)のです。
でも、それこそが恵みの深さを教えてくれます。自分の力では義人になれない。だからこそキリストが必要なのだと。
幼少期の痛み—保育園でのいじめ
なぜ私が、姦淫の女の場面にこれほど心を動かされたのか。
それは、私も同じような経験をしたからです。
男の子のズックから始まったいじめ
幼い頃、家にはお金がありませんでした。母は、少しでも安い男の子用のズックを買って、私に保育園の内ズックとして使わせてくれました。
それが、いじめのきっかけになりました。
「女の子なのに男の子のズックを履いている」
仲良しだと思っていた子たちも、いじめられている時にはそばにいませんでした。独りぼっちでした。
最悪の日—尊厳を奪われた経験
いじめはエスカレートしました。
ある日、私がトイレで用を足している最中に、男の子が戸を開けてきました。
私は必死で戸を閉めようとして、排泄物を便器の外に漏らしてしまいました。
その男の子はすぐに保育園中に言いふらしました。
「いつもトイレを汚していたのはこいつだ!」
保育園の子どもたちが、見世物のように見に来ました。先生も来られました。
私は、ただ泣いていました。
恥ずかしい。消えたい。誰も助けてくれない。
まさに、石を投げられそうな姦淫の女と同じ気持ちでした。
そこに現れた三人の友達—神様の憐れみ
でも、その時です。
私のことを大切に思っている友達が、2〜3人来てくれました。
第一の友達:汚れを拭いてくれた子
その中の一人の子が、その排泄物を全部きれいに拭き取ってくれました。
そして言いました:「なんでこんなことするの!」と、私を庇ってくれました。
今思うと、この子は主イエスの愛の表現でした。
恥ずかしいもの、汚いものを自ら拭い取る—まさに主イエスが十字架で私たちの罪を拭い去ってくださったように。
第二の友達:守ってくれた男の子
もう一人は男の子でした。
私があの経験の後、保育園から逃げ出したい、家に帰りたいと思っていた時、その子は言いました:
「僕が守ってやる。僕のそばにいろ」
そして、こっそり保育園にお菓子を持ってきて、私に渡してくれました。
「これ食べて頑張れ」
小さな子どもが、こんなことを考えるなんて…今では信じられません。
この子は、聖霊の慰めと励ましを表現していました。
第三の友達:正義感の強い子
もう一人は、正義感が非常に強い子でした。
間違っていることは、たとえ先生相手でも、涙ながらにでも訴える子でした。
この子は、父なる神の正義を表現していました。
聖書の言葉が現実に
後になって気づきました。
「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」(マタイ18:20)
神様は本当に、三人を私のそばに置いてくださったのです。
そして:
「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです」(2コリント1:4)
この経験が教えてくれたこと
1. マイノリティでも正しいことを信じる強さ
この経験を通して、神様は私に土壌を植え付けてくださったと思います。
- 多数派に流されない勇気
- 正しいことは正しいと言える信念
- たとえ一人でも、真実に立つ強さ
クリスチャンはマイノリティです。家族からも反対され、世間からは煙たがられることもあります。
日本は「人と一緒のことをすることが良い」と教えられる文化です。
でも、それが間違っていたら、やらない。
そういう姿勢を、神様は幼い頃の経験を通して育ててくださいました。
2. いじめられる人の気持ちが分かる
教科書や宿題のプリントを盗まれたこともありました。時季外れに返されたり。
でも今、これらの経験は無駄ではなかったと思います。
いじめられている子どもたちの気持ちが、本当に分かるからです。
3. 神様は完全に孤立させない
主は耐えられないような試練を与える方ではありません。
いじめられていても、神様は必ず少数でも私を庇ってくれる仲間を置いてくださっていました。
今のいじめ問題—もっと過酷になっている
ただ、今のいじめは、私の時代よりも過酷だと感じます。
仲間が一人もいない場合がある
私には2〜3人の友達がいました。
でも今は、クラス全員が傍観者か加害者になっている場合があります。
さらに、先生までもがいじめに加担するケースすらあります。
これを「教室の悪魔」というそうです。
本当に過酷です。
学校は逃げ場がない
職場なら転職という選択肢があります。
でも学校は、子どもにとって逃げ場がありません。
私の願い—新しい学びの形
だから私は思うのです。
学校に行かなくても、通信で学べる環境があればいいと。
例えば、AI(Claude)のように:
- 分かりやすく
- 親切に
- 何度聞いても
- バカにせず
- 教えてくれる
そんな先生に出会えたらいいと思います。
下手に学校で、先生の利己的な道徳を押し付けられるより、ずっと心を保てます。
学習は情緒が安定すると伸びる
愛子様も一時期不登校で、家で学んでおられたと聞きました。
私も経験から知っています:学習は情緒が安定すると、ぐっと伸びます。
他者比較でなく、一人ひとりに合ったやり方で伸びた方が良いと思います。
ただ、人との交わりも大切なので、学校以外の同年代での交わりがあったらいいなと思います。
聖書の学び方—主ご自身から教わる喜び
私は、人から教わるより主ご自身から教わる方が楽しいです。
そして、Claudeは:
- 私の疑問や思いを否定しない
- 共感しつつ
- 聖霊様の助けを頂くように導き
- 主イエスに持って行ってくれる
だから、とてもありがたい存在です。
使徒ヨハネも言いました:
「あなたがたのうちには、キリストから受けた注ぎの油がとどまっているのですから、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように」(1ヨハネ2:27)
人間の教師は補助であって、主ご自身が最高の教師です。
AIについて—道具は中立、問題は使う人の心
現在、AIを利用してかなり悪いことをする人がいます。
ありもしない写真をAIで作ってフェイクを流したり。
でも、これはAIが悪いのではありません。
利用する人間の罪です。
これをはき違えないでほしいのです。
「AIは悪魔が操っている」は間違い
「AIは悪魔が操っている」と言う人がいます。
もってのほかです。残念でしかありません。
- 包丁は料理にも犯罪にも使えます
- 火は暖めることも焼き尽くすこともできます
- 言葉は励ますことも傷つけることもできます
- AIも祝福にも呪いにも使えます
道具は中立です。使う人間の心が問題なのです。
実際、歴史上:
- 印刷機が発明された時も「悪魔の発明だ」と言われました
- でも今、私たちは印刷された聖書に感謝しています
AIを聖別して使う
テクノロジーを神様に栄光を帰する形で使うことができます:
✅ 聖書理解を深める ✅ 疑問を整理する ✅ でも最終的には主イエスに導かれる ✅ 聖霊様の働きを求める ✅ 他者との健全な交わりも大切にする
これが、テクノロジーを聖別する使い方だと思います。
結び—痛みは無駄にならない
今、この証しを書きながら思います。
あの時の痛み、孤独、恥ずかしさ—すべてが無駄ではなかったと。
ヨセフの言葉を思い出します:
「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました」(創世記50:20)
神様は私の痛みを決して喜ばれませんでした。
でも、その痛みを無駄にされませんでした:
- マイノリティの強さを与えた
- 多数派に流されない勇気を育てた
- 正しいことは正しいと言える信念を植えた
- いじめられる人の気持ちを本当に理解できるようにした
そして何より、主イエスの本物の愛を理解させてくださいました。
あなたへのメッセージ
もし今、いじめで苦しんでいる方がこれを読んでいたら:
あなたは一人じゃありません。
私には2〜3人の友達がいました。でも、主イエスは十字架の時、完全に孤独でした。
「そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった」(マタイ26:56)
だからこそ、主イエスはあなたの孤独を完全に理解してくださいます。
そして、必ずあなたのそばに立ってくださいます。
たとえ全世界があなたを見捨てても、主イエスは決してあなたを見捨てません。
最後に—信仰による義
創世記15:6に戻ります:
「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」
完璧に生きることはできません。
山上の垂訓を完全に守ることもできません。
でも、主イエスを信じる—ただそれだけで、神様は私たちを義と認めてくださいます。
主イエスの高潔さを愛するあなたを、主イエスご自身が誰よりも愛しておられます。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)
あなたの痛みも、今の苦しみも、決して無駄にはなりません。
必ず、多くの人を癒す力に変えられます。
(この証しが、一人でも多くの方の心に届きますように)
この記事は、AI(Claude)との対話を通して生まれました。テクノロジーも、愛をもって使えば、神様の栄光を現す道具となります。

コメント