人生で絶体絶命の危機に直面したことはありますか?四方八方塞がって、もう逃げ場がないと感じた瞬間。第一サムエル記23章から24章は、まさにそんな状況に置かれたダビデの物語です。しかし、この緊迫した追跡劇の中に、私たちは神の摂理の美しさを見ることができます。
救った町に裏切られる
物語は、ダビデがケイラという町をペリシテ人の攻撃から救ったところから始まります。
「ダビデとその部下はケイラに行き、ペリシテ人と戦い、彼らの家畜を連れ去り、ペリシテ人を打って大損害を与えた。こうしてダビデはケイラの住民を救った。」(第一サムエル23:5)
恩人であるはずのダビデに対して、ケイラの住民はどうしたでしょうか?ダビデが主に伺うと、主は答えられました:
「ダビデは言った。『ケイラの者たちは、私と私の部下をサウルの手に引き渡すでしょうか。』【主】は仰せられた。『彼らは引き渡す。』」(第一サムエル23:12)
なんという皮肉でしょう。命を賭けて救った町が、恐れのために恩人を裏切ろうとする。ダビデはケイラから逃げ出さざるを得ませんでした。
ヨナタンの最後の訪問
荒野を逃げ回るダビデのもとに、一人の友が訪れます。サウル王の息子、ヨナタンです。
「サウルの子ヨナタンは、ホレシュのダビデのところに来て、神の御名によってダビデを力づけた。彼はダビデに言った。『恐れることはありません。私の父サウルの手があなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。』」(第一サムエル23:16-17)
ヨナタンは自分が戦死することをまだ知りませんでした。しかし、神の選びに従い、自分の王位継承権を手放してでも友を励ます姿に、真の友情が輝いています。
ジフ人の裏切り
しかし、試練は続きます。今度はジフ人たちがサウルに情報を提供します。
「ジフ人たちがギブアのサウルのところに上って来て言った。『ダビデは私たちのところに隠れているではありませんか。』」(第一サムエル23:19)
ケイラに続き、またもや裏切り。ダビデは絶えず場所を変えながら逃げ続けます。
絶体絶命の瞬間
そして、最悪の事態が訪れます。
「サウルは山の一方の側を進み、ダビデとその部下は山の他の側を進んだ。ダビデは急いでサウルから逃げようとしていた。サウルとその部下が、ダビデとその部下を捕らえようと迫って来ていたからである。」(第一サムエル23:26)
想像してみてください。山を挟んで、片側にサウル王と軍隊、もう片側に逃げるダビデと部下たち。包囲網は完成しつつあり、もう逃げ場はありません。
人間の目には、ダビデの運命は尽きたように見えました。
「仕切りの岩」での奇跡
まさにその瞬間、何が起こったでしょうか。
「そのとき、ひとりの使者がサウルのもとに来て告げた。『急いで来てください。ペリシテ人がこの国に突入して来ました。』それでサウルはダビデを追うのをやめて帰り、ペリシテ人を迎え撃つために出て行った。こういうわけで、この場所は、『仕切りの岩』と呼ばれた。」(第一サムエル23:27-28)
絶妙なタイミングでした。あと数分遅ければ、ダビデは捕らえられていたでしょう。しかし、ペリシテ人の襲来という「偶然」が、サウルの追跡を中断させました。
聖書はこの場所に名前を残しました。「仕切りの岩」(ヘブライ語:セラ・ハマフレコテ)、つまり「分離の岩」という意味です。
この名前は単なる地名ではありません。それは神が介入された場所の記念碑です。サウルとダビデを「仕切った」のは岩ではなく、神ご自身でした。
敵さえも用いられる神
ここで、さらに深い洞察があります。サウルがペリシテ人と戦い、しかも勝利したことです(24:1「サウルがペリシテ人討伐から帰って来たとき」)。
これは不思議なことです。妬みと殺意に満ちたサウルが、なぜ戦いに勝てたのでしょうか?
答えは、神がイスラエル全体を守っておられたからです。そして同時に、サウルのペリシテ討伐は、ダビデを守るための神の計画の一部でもありました。
もしペリシテ人がサウルに勝っていたら、サウルはすぐにダビデ追跡に戻れたかもしれません。しかし、サウルが討伐に時間をかけている間に、ダビデは安全な場所に逃れることができました。
神は敵さえも、ご自身の目的のために用いられるのです。
ほら穴での試練
ダビデはエン・ゲディの荒野に逃れました。そこで、信じられない出来事が起こります。
サウル王が用を足すために入ったほら穴が、偶然にもダビデたちが隠れているほら穴でした(24:3)。
ダビデの部下たちは言います:「今こそ、主があなたに敵を渡すと言われた、その時です!」(24:4)
しかし、ダビデは違いました。
「ダビデは立ち上がり、サウルの上着のすそを、こっそり切り取った。こうして後、ダビデは、サウルの上着のすそを切り取ったことについて心を痛めた。」(24:4-5)
ダビデは復讐のチャンスを持っていました。しかし、彼は選びませんでした。なぜなら、サウルは「主に油そそがれた方」だったからです(24:6)。
神の時を待つ信仰
ダビデはサウルに語りかけます:
「わが父よ。どうか、私の手にあるあなたの上着のすそをよくご覧ください。私はあなたの上着のすそを切り取りましたが、あなたを殺しはしませんでした。それによって私に悪いこともそむきの罪もないことを、確かに認めてください。」(24:11)
そして、こう続けます:
「どうか【主】が、私とあなたの間をさばき、【主】が私の仇を、あなたに報いられますように。私はあなたを手にかけることはしません。」(24:12)
ダビデは神の時を待つ信仰を持っていました。自分で復讐するのではなく、主に委ねる。これが真の信仰です。
サウルは泣いて言います:「あなたは私より正しい」(24:17)。しかし、この悔い改めは長続きしませんでした。後にサウルは再びダビデを追います。
一時的な感情と、真の悔い改めは違います。
私たちの人生の「仕切りの岩」
この物語から、私たちは何を学べるでしょうか?
1. 偶然はない
「仕切りの岩」での救出は、偶然ではありませんでした。ペリシテ人の襲来のタイミング、使者が到着したタイミング、すべてが神の計画の中にありました。
私たちの人生にも「偶然」に見える出来事があります。しかし、信仰の目で見るなら、それらは神の摂理の一部です。
2. 絶体絶命の中での神の介入
ダビデが最も絶望的な状況にあったとき、神は介入されました。神はしばしば、私たちが自分の力では何もできないと悟るまで待たれます。それは、神だけが栄光を受けるためです。
「人の足なみは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか。」(箴言20:24)
3. 敵さえも神の道具
サウルのペリシテ討伐が、実はダビデを守るための神の計画の一部だったように、神は私たちの敵さえも、ご自身の目的のために用いられることがあります。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)
4. 復讐は主のもの
ダビデは復讐のチャンスを持っていましたが、それを選びませんでした。彼は主に委ねました。
「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」(ローマ12:19)
私たちも、不当な扱いを受けたとき、自分で仕返しをするのではなく、主に委ねる信仰が求められています。
5. 神の時を待つ
ダビデは王になることを約束されていました。しかし、彼は自分の手で王座を奪い取ろうとはしませんでした。彼は神の時を待ちました。
私たちも、神の約束を持っているかもしれません。しかし、その実現の時は神が決められます。焦らず、主の時を待つ信仰が大切です。
あなたの「仕切りの岩」はどこにありますか?
振り返ってみてください。あなたの人生にも「仕切りの岩」はありませんでしたか?
- 絶体絶命と思われた状況から、絶妙なタイミングで救われた経験
- 敵だと思っていた人や出来事が、実は自分を守るために用いられていた気づき
- 偶然に見えたことが、実は神の導きだったという発見
それらは、神があなたの人生に介入された証拠です。
ダビデとサウルを「仕切った」のは岩ではなく、神ご自身でした。同じように、あなたの人生で起こる「偶然」も、実は神の御手の働きです。
結論:摂理を信じる生き方
第一サムエル記23-24章は、単なる歴史物語ではありません。それは神の摂理が生きて働いている証拠です。
ダビデは多くの裏切りに遭いました。ケイラの住民、ジフ人たち、そして何よりもサウル王。しかし、神は一度もダビデを見捨てませんでした。
「仕切りの岩」という名前は、今日も私たちに語りかけます:神は生きておられ、あなたの人生に介入される方であると。
あなたが今、追い詰められていると感じているなら、思い出してください。神はダビデのために「仕切りの岩」を用意されました。神はあなたのためにも、適切な時に、適切な方法で介入してくださいます。
「主は私の巌、私のとりで、私を救う方、身を避けるわが巌、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。」(詩篇18:2)
信じて待ちましょう。神の摂理を。そして、あなた自身の「仕切りの岩」を見つける日が来ることを。
関連聖句
- 箴言20:24
- ローマ8:28
- ローマ12:19
- 詩篇18:2
- ヨハネ15:15(友情について)
さらに深く学ぶために
- ダビデとヨナタンの友情については、第一サムエル18-20章
- ダビデの詩篇については、詩篇57篇(エン・ゲディでの経験を背景にした詩篇)
- 神の摂理については、創世記50:20(ヨセフの物語)

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