今日の通読は、創世記49章(ヤコブの臨終の祝福)、歴代誌第一10-11章(サウルの死とダビデの即位)、マルコ16章(イエスの復活と大宣教命令)でした。
一見バラバラに見えるこれらの箇所が、読み進めるうちに深く響き合っていることに気づかされました。今日は、その響き合いを分かち合いたいと思います。
目次
ユダへの祝福——獅子の預言
ヤコブは死の床で、12人の息子たちを呼び寄せ、「終わりの日に起こること」を告げました(創世記49:1)。
長子ルベンは「水のように奔放」(49:4)と言われ、長子の権利を失います。シメオンとレビは「怒りにまかせて人を殺し」(49:6)、散らされることが告げられます。
しかしユダには、驚くべき祝福が与えられました。
「ユダは獅子の子。わが子よ。あなたは獲物によって成長する。雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こすことができようか。王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。」(創世記49:9-10)
「シロ」(שִׁילֹה)とは誰か
この「シロ」という言葉は、古来よりメシア預言として解釈されてきました。ヘブライ語では שִׁילֹה(シーロー)と書かれ、主に3つの解釈があります。
①「彼のものである者」(שֶׁלּוֹ / shello)— 王権が「それが属する方」に来るまで
② 地名シロ — 幕屋があった場所(しかし文脈的に弱い)
③「平和をもたらす者」 — シャローム(平和)との関連
タルグム・オンケロス(アラム語訳聖書)は、この箇所を「王権が属する方、メシアが来るまで」と訳しています。イエス・キリストはユダ族から生まれ(マタイ1:2-3)、この預言を成就されました。
「ぶどうの血で衣を洗う」——十字架か、ハルマゲドンか
49:11には「彼はその着物を、ぶどう酒で洗い、その衣をぶどうの血で洗う」とあります。この表現は何を意味するのでしょうか。
興味深いことに、この預言には二重の成就があると考えられます。
【初臨——十字架】
イザヤ63:1-3では「なぜ、あなたの着物は赤いのか」という問いがあります。キリストの十字架の血による贖いを指し示しています。
【再臨——ハルマゲドン】
黙示録19:13では、再臨のキリストが「血に染まった衣を着ておられた」と記されています。裁きの日の完全なる勝利を表しています。
獅子の「うずくまり」——復活の預言
49:9で、ユダは「うずくまり(כָּרַע / カラー)、身を伏せる(רָבַץ / ラバツ)」と描写されています。そして「だれがこれを起こすことができようか」と続きます。
獅子が最も危険なのは、飛びかかる直前の静止の瞬間です。眠れる獅子を起こす者はいない——しかし、その獅子は自ら起き上がる時が来るのです。
黙示録5:5では「ユダ族の獅子、ダビデの根が勝利を得た」と宣言されます。十字架で「伏せた」ように見えた主が、復活で「起き上がられた」。創世記49章とマルコ16章が、ここで響き合います。
🦁 ユダへの祝福のメシア預言の構造
創世記49:8-12 ― ヤコブの臨終の預言
イェフダー・アッター・ヨドゥーハー・アヘーハー
「ユダよ、兄弟たちはあなたをたたえ、あなたの手は敵のうなじの上にあり」
📖 解釈
「ユダ」(יְהוּדָה)と「たたえる」(יוֹדוּ)は同じ語根。ユダは「賛美」を意味し、その名の通り兄弟たちから称賛される者となる。
グール・アルイェー・イェフダー … カラー・ラバツ・ケアルイェー
「ユダは獅子の子…雄獅子のように、彼はうずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こすことができようか」
📖 解釈
「うずくまる」(כָּרַע)「伏せる」(רָבַץ)— 獅子が最も危険なのは、飛びかかる直前の静止の瞬間。「だれがこれを起こすことができようか」は、この眠れる獅子の威厳を示す。
✝ 新約の成就
黙示録5:5「ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得た」
ロー・ヤスール・シェベト・ミイェフダー … アド・キー・ヤボー・シーロー
「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う」
📖 「シロ」(שִׁילֹה)の3つの解釈
①「彼のものである者」(שֶׁלּוֹ / shello)— 王権が属する方
② 地名シロ — 幕屋があった場所(文脈的に弱い)
③「平和をもたらす者」— シャローム(平和)との関連
✝ メシア預言としての成就
タルグム・オンケロス(アラム語訳):「王権が属する方、メシアが来るまで」
イエス・キリストはユダ族から生まれ(マタイ1:2-3)、永遠の王権を持つ方
キベス・バヤイン・レブショー・ウベダム・アナビーム・スートー
「彼はその着物を、ぶどう酒で洗い、その衣をぶどうの血で洗う」
🕊 初臨(十字架)
イザヤ63:1-3「なぜ、あなたの着物は赤いのか」
キリストの血による贖いの業
👑 再臨(ハルマゲドン)
黙示録19:13「血に染まった衣を着ておられた」
裁きの日の完全なる勝利
📖 「ロバをぶどうの木につなぐ」
文字通り:メシア時代の豊かさ。ぶどうがあまりに豊富で、家畜に食べられても惜しくない。
預言的成就:マタイ21:1-7 イエスのエルサレム入城(ゼカリヤ9:9の成就)
ハフリリー・エイナイム・ミヤイン・ウレベン・シナイム・メハラーブ
「その目はぶどう酒によって曇り、その歯は乳によって白い」
📖 解釈(呪いではなく祝福!)
「חַכְלִילִי」(ハフリリー)は「曇り」ではなく「輝く」「赤みを帯びた」という意味も。
「目がぶどう酒で輝く」— 豊かなぶどう酒を楽しむ
「歯が乳で白い」— 豊富な乳製品、繁栄の象徴
→ メシア王国における物質的・霊的豊かさを描写
約BC1800年
ヤコブの預言
約BC1000年
ユダ族の王権確立
AD30年頃
シロの到来
将来
完全な成就
🦁 ユダの獅子 — 伏せて、起き上がる
十字架で「伏せた」ように見えた主が、復活で「起き上がられた」。
「だれがこれを起こすことができようか」— しかし、獅子は自ら起き上がる。
「主に尋ねなかった」サウルの悲劇
歴代誌第一10章は、サウル王の最期を記録しています。ギルボア山での戦いで敗北し、サウルは自ら剣の上に倒れて死にました。
歴代誌の著者は、サウルの死因を明確に記しています。
「このように、サウルは主に逆らったみずからの不信の罪のために死んだ。主のことばを守らず、そのうえ、霊媒によって伺いを立て、主に尋ねなかった。それで、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された。」(歴代誌第一10:13-14)
「主に尋ねなかった」——この一言が、サウルの生涯を要約しています。
サウルは霊媒には尋ねました(サムエル記上28章)。人間的な解決策は求めました。しかし主には尋ねなかった。ダビデは完璧な人生ではありませんでしたが、詩篇で何度も「主よ、教えてください」「導いてください」と叫んでいます。尋ね続けたのです。
私たちの信仰生活において、「主に尋ねる」習慣があるでしょうか。答えがすぐに来なくても、尋ね続ける者でありたいと思わされます。
ダビデの三勇士——名前のない第三の勇士
歴代誌第一11章には、ダビデの勇士たちの名簿が記されています。特に「三勇士」は最高の栄誉を持つグループでした。
① ヤショブアム(ハクモニの子)— 槍をふるって一度に300人を刺し殺した
② エルアザル(アホアハ人ドドの子)— パス・ダミムの大麦畑で踏みとどまった
③ ? — 歴代誌では名前が省略されている
サムエル記第二23章と比較すると、第三の勇士はシャンマ(アゲ人)であることがわかります。しかし歴代誌ではその名前が明確に記されていません。
これは写本の問題かもしれませんが、私はここに読者への招きを感じます。「三人目は誰か?」と問いかけることで、「あなたもその一人になれるか?」と語りかけているような。ダビデのために命をかける者、主のために立ち上がる者——その「第三の席」は、まだ空いているかのようです。
ベツレヘムの井戸の水——「水」のモチーフ
今日の通読で「水」というモチーフが繰り返し現れることに気づきました。
ルベン:「水のように奔放」(創世記49:4)
ヘブライ語では פַּחַז כַּמַּיִם(パハズ・カマイム)。「パハズ」は「沸き立つ」「制御できない」という意味です。水は生命に不可欠ですが、制御されなければ破壊的になる。ルベンの情熱は、父の寝床を汚すという形で暴走してしまいました。
ダビデの三勇士:ベツレヘムの井戸の水(歴代誌11:17-19)
ダビデが「ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ」と言った時、三勇士は命がけでペリシテ人の陣営を突き抜けて水を汲んできました。しかしダビデはその水を飲まず、主に注ぎ出して献げました。
「そんなことをするなど、わが神の御前に、絶対にできません。これらいのちをかけた人たちの血が、私に飲めましょうか。」(歴代誌第一11:19)
ここに対照があります。ルベンは自分の欲望のために「水のように」制御を失いました。ダビデは命がけで得た水さえも、主への献げ物としました。
水を「自分のために使うか」「主に献げるか」——これは私たちの情熱、才能、資源すべてに当てはまる問いではないでしょうか。
⚔️ ダビデの三勇士 比較表
歴代誌第一11章 / サムエル記第二23章
📖 なぜ「三勇士」が重要なのか?
ダビデの軍には多くの勇士がいましたが、特に「三勇士」(שְׁלשָׁה / シェロシャー)は最高の栄誉を持つグループでした。彼らはダビデのために命をかけ、神の民のために戦いました。彼らの姿は、キリストのために生きる献身の模範です。
| 順 | 名前 | 功績 | 聖書箇所 |
|---|---|---|---|
| 1 |
ヤショブアム יָשָׁבְעָם (ハクモニの子) |
⚔️ 槍をふるって一度に300人(または800人)を刺し殺した
補佐官のかしら。三勇士の筆頭。 |
Ⅰ歴代11:11 Ⅱサムエル23:8 ※サムエル記では「ヨシェブ・バシェベテ」とも |
| 2 |
エルアザル אֶלְעָזָר (アホアハ人ドドの子) |
🌾 パス・ダミムの大麦畑でペリシテ人に立ち向かった
民が逃げる中、一人踏みとどまって畑を守り、大勝利を収めた。 |
Ⅰ歴代11:12-14 Ⅱサムエル23:9-10 |
| 3 |
シャンマ שַׁמָּה (アゲ人・ハラル人) |
🫛 レンズ豆の畑でペリシテ人の軍勢に立ち向かった
民が逃げる中、畑の真ん中に踏みとどまって勝利。 |
Ⅱサムエル23:11-12 ⚠️ 歴代誌では名前が省略されている |
❓ なぜ歴代誌ではシャンマの名前がないのか?
歴代誌第一11章では、三勇士のうちシャンマの名前が明確に記されていません。サムエル記第二23章と比較して初めて三人が特定できます。
考えられる理由:
- 写本の問題(欠落)
- 歴代誌の著者による意図的な編集
- 読者への招き——「三人目は誰か?あなたもその一人になれるか?」
📚 歴代誌とサムエル記の比較
📘 歴代誌第一 11章
- ヤショブアム:300人を殺した
- エルアザル:大麦の畑で戦った
- 第三の勇士:名前なし
- ダビデ王朝の正統性を強調
📕 サムエル記第二 23章
- ヨシェブ・バシェベテ:800人を殺した
- エルアザル:畑の種類は不明
- 第三の勇士:シャンマと明記
- より詳細な戦闘の記録
💧 三勇士の共同の功績:ベツレヘムの井戸の水
Ⅰ歴代11:15-19
ダビデが「ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ」と言った時、三人の勇士はペリシテ人の陣営を突き抜けて水を汲んできました。
しかしダビデはその水を飲まず、主に注ぎ出して献げました。
「そんなことをするなど、わが神の御前に、絶対にできません。これらいのちをかけた人たちの血が、私に飲めましょうか。」(Ⅰ歴代11:19)
教訓:命がけで得たものさえも、主への献げ物とする——これが真の礼拝です。
👑 ダビデの勇士たちの階層
最高位
三勇士
(シェロシャー)
次席
アブシャイ
三十人の長だが
三勇士には及ばず
第三位
ベナヤ
護衛長
獅子を殺した勇士
⬇
三十人の勇士たち(Ⅰ歴代11:26-47に名簿)
⚔️ 三勇士から学ぶこと
「民が逃げる中、一人踏みとどまる」——これが勇士の姿です。
私たちも信仰の戦いにおいて、逃げずに踏みとどまる者でありたい。
そして得たものを自分のためではなく、主に献げる者でありたい。
📝 注:歴代誌とサムエル記の数字の違い(300人 vs 800人など)は、写本の伝承過程での変化、または異なる伝承を反映している可能性があります。どちらも聖書として権威ある記録です。
沈黙から宣教へ——マルコ16章
マルコ16:8で女たちは「だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」と記されています。
そして16:15で主は「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」と命じられます。
沈黙から宣教へ——この転換点に何があったのでしょうか。
それは復活の主との出会いです。
恐れは沈黙を生み、出会いは宣教を生む。私たちが福音を語るのは、単なる義務感ではなく、「語らずにはいられない」何かに出会ったからです。
マルコ16:17-18には、信じる者に伴うしるしが記されています。
「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」
これらのしるしは「試すためのもの」ではなく、「福音宣教に伴う神の確証」です。パウロがマルタ島で蛇に噛まれても守られたように(使徒28:3-6)、神は福音を伝える者を守り、必要な時に必要な力を与えてくださいます。
ヤコブの霊的視力——肉体が衰える時
ヤコブは49:1で「終わりの日に起こることを告げよう」と言います。ヘブライ語では לְאַחֲרִית הַיָּמִים(レアハリート・ハヤミーム)——「日々の終わりに」。
この時、ヤコブの肉体の目はほとんど見えなくなっていたはずです(48章でエフライムとマナセを見分けられなかった)。しかし、霊の目ははるか未来を見通していました。
ルベンの過去の罪を見、シメオンとレビの暴力を見、しかしユダの先にシロ(メシア)を見た。肉体が衰える時、霊的な視力が研ぎ澄まされる——これは年を重ねることの恵みかもしれません。ヤコブは死の床で、最も遠くを見ていたのです。
今日の通読を終えて
創世記49章、歴代誌第一10-11章、マルコ16章——一見バラバラに見える箇所が、深いところで響き合っていました。
・ユダの獅子が「伏せて、起き上がる」預言と、イエスの十字架と復活
・「主に尋ねなかった」サウルと、尋ね続けたダビデ
・自分のために水を使ったルベンと、主に水を献げたダビデ
・恐れによる沈黙から、出会いによる宣教へ
聖書を読む喜びは、こうした響き合いに出会う瞬間にあります。
今日も、主が語ってくださったことを感謝します。
「主よ、お話しください。しもべは聞いております。」


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