通読箇所:出エジプト記23章20節〜33節、ヨブ記2章〜3章、ルカの福音書21章1節〜28節
目次
はじめに
サタンが神をそそのかした?——それとも、神がヨブを差し出した?
ヨブの妻は「愚かな女」?——それとも、10人の子を失った母の正直な叫び?
「神をのろって死になさい」と言いながら、なぜ彼女はヨブの傍を去らなかったのか?
信仰とは、正しい言葉を語ることだろうか。それとも、嵐の中でそこに留まり続けることだろうか。
全能の神が「徐々に追い払う」と言われたのはなぜか。神にとって「すぐに」は簡単なはずなのに。
そして、天地が揺れ動く恐怖の中でイエスが命じたのは「恐れるな」ではなく、「頭を上に上げなさい」だった——この違いは何を意味するのか。
今日の通読は、出エジプト記・ヨブ記・ルカの福音書を通して、「苦しみの中にある神の守り」という一つのテーマを追います。
※この記事は、要点だけを抜き出して理解できる内容ではありません。モーセ五書・旧約・新約の連続した文脈の中でのみ読まれることを意図しています。
【読み方のご案内】 第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。
第一部:トーラーポーション(出エジプト記23章20-33節)
「わたしの使いをあなたの前に遣わし」——神の守りの約束
出エジプト記23章20-33節は、シナイ契約の締結部分の最後に位置する、神からイスラエルへの壮大な約束の宣言である。ここには契約の民に対する守りの約束、征服の計画、そして警告が凝縮されている。
神の使い——「わたしの名がその者のうちにある」
20節で神は「わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう」と宣言される。この「使い」(מַלְאָךְ/マルアーフ)は、単なる天使ではない。21節で「わたしの名がその者のうちにある」と言われている点に注目したい。
ヘブライ語で「名」(שֵׁם/シェーム)は、その存在の本質、性格、権威を意味する。神の名がその者のうちにあるということは、この使いが神ご自身の権威と本質を帯びているということである。さらに「その者はあなたがたのそむきの罪を赦さない」という表現は、罪を赦す権限——本来は神だけに属する権限——をこの使いが持っていることを暗示している。
旧約学者の多くは、この「主の使い」を受肉前のキリストの顕現(クリストファニー)と理解してきた。創世記の「主の使い」がハガルに現れ(創世記16:7-13)、アブラハムに現れ(創世記22:11-18)、燃える柴からモーセに語りかけた(出エジプト3:2-6)、その同じ方がイスラエルの前を行くのである。
ここにすでに、新約のインマヌエル(「神われらと共にいます」)の型が見える。神は民を遠くから導くのではなく、その只中を共に歩む方として約束されている。
従順の条件と祝福の内容
22-26節には、御声に聞き従うことを条件とした具体的な祝福が列挙される。「わたしはあなたの敵には敵となり」(22節)、「あなたのパンと水を祝福し」(25節)、「病気を除き去ろう」(25節)、「流産する者も、不妊の者もいなくなり」(26節)、「あなたの日数を満たそう」(26節)。
これらの祝福が「御声に確かに聞き従い、わたしが告げることをことごとく行うなら」という条件付きであることは重要である。シナイ契約は無条件の恵みの契約ではなく、応答と従順を求める契約である。この点で、後に見るアブラハム契約の無条件性との対比が際立つ。
興味深いのは、25節の「あなたがたの神、主に仕えなさい」の「仕える」(עָבַד/アーヴァド)が、奴隷的な服従ではなく、礼拝的な奉仕を意味する語であることだ。エジプトでパロに「仕えていた」(同じ語根)民が、今度は解放されて主に「仕える」。奴隷の労働と礼拝の奉仕が同じ語であること——これはヘブライ語が語る深い真理である。本当の自由とは、正しい方に仕えることの中にある。
「徐々に追い払おう」——神のタイミングの知恵
27-30節の征服の約束には、意外な要素が含まれている。「くまばち」(צִרְעָה/ツィルアー)を遣わすという超自然的介入の約束がある一方で、29-30節では「わたしは彼らを一年のうちに、あなたの前から追い払うのではない」と宣言される。
その理由は「土地が荒れ果て、野の獣が増して、あなたを害することのないため」。全能の神が「徐々に」と言われる。ここに驚くべき配慮がある。
神は敵を一掃する力を持っておられる。しかしイスラエルがまだその土地を管理する成熟に達していない段階で、すべてを与えることはかえって害になる。空白地帯は野の獣を招く。つまり、勝利のペースは民の成長のペースに合わせられているのである。
これは信仰生活の原理でもある。私たちはしばしば「なぜ神はすぐに問題を解決してくださらないのか」と問う。しかし出エジプト23章は答える——あなたがまだ「ふえ広がって」いないからだ、と。神の忍耐は、私たちの成長を待つ愛の表現である。
アブラハム契約の再確認——約束の地の範囲
31節で神は領土の範囲を示される。「葦の海からペリシテ人の海に至るまで、また、荒野からユーフラテス川に至るまで」。「葦の海」(יַם־סוּף/ヤム・スーフ)は紅海(あるいはその北端の湖沼地帯)を指し、「ペリシテ人の海」は地中海、「荒野」はネゲブの南方荒野、そして「ユーフラテス川」(נְהַר/ナハル・ペラート)が北東の境界である。
この範囲は、創世記15:18「エジプトの川からあの大川、ユーフラテス川まで」というアブラハム契約の約束と明確に対応する。神はモーセの時代に、アブラハムへの約束を忘れておられなかった。数百年の時を経て、同じ約束が再確認されている。
歴史的に、この全領土がイスラエルの支配下に入ったのは、ソロモン王の治世(列王記第一4:21)のみであり、それも一時的であった。この約束の究極的な成就は、メシア王国を待っている。
契約の排他性——「契約を結んではならない」
32-33節の警告は厳しい。異教の民やその神々と契約を結ぶこと、彼らを国に住まわせることを禁じている。「わなとなる」(מוֹקֵשׁ/モーケーシュ)という語が使われており、これは狩猟用の罠を意味する。異教との妥協は、気づかないうちに足を取られる罠なのである。
この警告が後のイスラエルの歴史においてどれほど的中したかは、士師記以降の歴史が痛ましく証明している。カナン人の偶像崇拝との妥協が、繰り返しイスラエルを霊的な堕落へと導いた。
しかしここで注意すべきは、排他性の目的が排斥そのものではなく、契約関係の純粋さを守ることにあるという点である。神は嫉妬深い方である——それは独占欲ではなく、花婿が花嫁を愛するがゆえの聖なる嫉妬である。
〈ヘブライ語キーワード〉
| 原語 | 発音 | 意味 |
| מַלְאָךְ | マルアーフ | 使い・使者 |
| שֵׁם | シェーム | 名・本質・権威 |
| עָבַד | アーヴァド | 仕える・礼拝する |
| צִרְעָה | ツィルアー | くまばち |
| יַם־סוּף | ヤム・スーフ | 葦の海(紅海) |
| חִנָּם | ヒンナーム | 理由なく・無償で |
| מוֹקֵשׁ | モーケーシュ | 罠・わな |
第二部:旧約(ヨブ記2章〜3章)
「何の理由もないのに」——神の法廷とヨブの叫び
ヨブ記2-3章は、聖書の中で最も生々しい苦しみの記録の一つである。ここには天上の法廷での神とサタンの対話、義人の肉体的苦しみ、妻の叫び、友人の沈黙、そしてヨブ自身の魂の底からの嘆きが描かれる。
天上の法廷——サタンの告発と神の主権
2章1-6節は、1章6-12節と同じ構造を繰り返す。「神の子ら」(בְּנֵי הָאֱלֹהִים/ブネー・ハエロヒーム)が主の前に来て立ち、サタンもその中にいた。「神の子ら」は天使的存在を指し、これは天上の王宮における評議会の場面である。
注目すべきは、サタン(הַשָּׂטָן/ハッサーターン)が定冠詞「ハ」を伴っている点である。これは固有名詞ではなく、「告発する者」「敵対する者」という役職名であることを示す。サタンはここで、天の法廷における検察官のような役割を果たしている。
2章3節の神の言葉には、神学的に極めて重要な一語がある。「おまえは、わたしをそそのかして、何の理由もないのに彼を滅ぼそうとしたが」。この「何の理由もないのに」のヘブライ語がחִנָּם(ヒンナーム)である。
この語は「無償で」「理由なく」「根拠なく」を意味する。実は1章9節でサタンが「ヨブはいたずらに(חִנָּם)神を恐れましょうか」と問うた、まさに同じ語である。サタンは「ヨブの信仰にはタダ(ヒンナーム)ではない、利益という理由がある」と主張した。神は2章3節で同じ語を使い返して「ヨブの苦しみにはヒンナーム(理由)がない」と宣言される。
ここに深い皮肉がある。サタンは「ヨブの信仰に理由がある」と疑い、神は「ヨブの苦しみに理由がない」と断言する。同じ一語の中で、告発者の疑いと神の真実がぶつかり合っている。
「そそのかして」——誰がヨブを差し出したのか
2章3節の「そそのかして」(וַתְּסִיתֵנִי/ヴァッテシーテニー)の動詞סוּת(スート)は「けしかける、唆す、煽動する」を意味する。神ご自身が「おまえがわたしをそそのかした」と言っておられる。
しかし1章8節を振り返ると、最初にヨブの名前を出したのは神ご自身である。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか」。では実際に誰が「そそのかした」のか。
この緊張は簡単に解消すべきではない。テキストが示しているのは次のような構造である。神がヨブの名を出し(1:8)、サタンがヨブの信仰の動機を告発し(1:9-11)、その告発に基づいて神が許可を与え(1:12)、2章でさらにサタンがエスカレートさせた(2:4-5)。神は2章3節で、このプロセス全体をサタンの「そそのかし」と呼んでおられる。
つまり、神の主権の中でサタンが活動しているという構図がここにある。サタンは神の許可なしには何もできない(「ただ彼のいのちには触れるな」2:6)。しかし同時に、サタンの悪意は本物であり、ヨブの苦しみは「理由がない」と神ご自身が認めている。この両方が同時に真実である。きれいに整理できないこの緊張こそが、ヨブ記の正直さであり、苦しみの中にある人間の現実に最も近い神学なのだと思われる。
ヨブの妻——もう一人の当事者
2章9節のヨブの妻の言葉「神をのろって死になさい」は、伝統的に不信仰の象徴として読まれてきた。ヨブ自身も「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている」と返している。
しかし、彼女の立場を想像してみる必要がある。彼女もまた、10人の子どもをすべて失った母親である。全財産が一日で消え、今度は夫が全身を悪性の腫物に打たれ、灰の中に座っている。「神をのろって死になさい」という言葉の奥にあるのは、不信仰というよりも、愛する者の苦しみをもう見ていられないという叫びではないだろうか。
そして見落とされがちな事実がある。ヨブ記42章の回復の場面で、ヨブに再び子どもが与えられるが、それは妻がまだ傍にいたことを意味する。「神をのろって死になさい」と言いながらも、彼女自身はヨブの傍を去らなかった。言葉は絶望的であったが、存在は忠実であった。信仰とは時に、正しい言葉を語ることではなく、嵐の中でそこに留まり続けることなのかもしれない。
ヨブの信仰——契約の外にいた義人
2章10節でヨブは「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか」と語る。そして「ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった」と記される。
ここで注目すべきは、ヨブがイスラエルの契約の民ではないという事実である。ヨブ1:1で彼は「ウツの地」の人とされ、これはエドム地方と考えられている。彼はアブラハム契約にも、シナイ契約にも属していない。トーラーを持っていない。にもかかわらず、神ご自身が「彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない」(2:3)と証言される。
これはメルキゼデク(創世記14:18)と同様、契約の枠組みの外にも神を知り、神を恐れる人々がいたことを示す重要な証言である。神の働きはイスラエルという契約の器を通して進むが、神ご自身はその器に閉じ込められてはいない。
七日間の沈黙——友情の最も美しい瞬間
2章11-13節は、ヨブの三人の友の到着を描く。テマン人エリファズ、シュアハ人ビルダデ、ナアマ人ツォファル。彼らの名前にはそれぞれ地理的・民族的背景があり、エリファズはエサウの長子の名(創世記36:4)と同じで、テマンはエドムの町である。ヨブと同じく、イスラエルの外の知恵者たちである。
彼らの初めの行動は模範的であった。遠くからヨブを見たが見分けられないほどだった。声をあげて泣き、上着を裂き、ちりを頭にまき散らし、七日七夜、地にすわっていた。「だれも一言も彼に話しかけなかった。彼の痛みがあまりにもひどいのを見たからである」。
この七日間の沈黙は、ヘブライの喪の慣習(シヴァー)と重なる。そしてこの沈黙こそが、友人たちの最も正しい応答であった。ローマ12:15は「泣く者といっしょに泣きなさい」と命じるが、パウロは「泣く者に説教しなさい」とは書いていない。主イエスご自身も、ラザロの墓の前で、復活させる力を持ちながら、まず涙を流された(ヨハネ11:35)。
苦しむ人に対する最も深い寄り添いとは、解釈を与えることではなく、共にいることである。分からないことを無理に解釈しようとすると、かえって苦しむ人を傷つける。「あなたに罪があるからだ」という説明は、説明する側を安心させるかもしれないが、苦しむ当事者にとっては二次的な傷となる。マタイ7:12の「自分にしてもらいたいことを人にもしなさい」は、究極的には「自分が苦しむ時にしてほしいことを、苦しむ人にしなさい」ということである。多くの場合それは、解釈ではなく臨在、説教ではなく沈黙、正論ではなく涙である。
ヨブの嘆き——自分の生まれた日を呪う
3章で、ヨブはついに口を開く。しかし注意深く読むと、ヨブは神を呪ってはいない。彼が呪ったのは「自分の生まれた日」(3:1)である。これはサタンが予告した「きっと、あなたをのろうに違いありません」(2:5)の成就ではない。ヨブは苦しみの中でも、神を呪うことだけは踏み越えなかった。
3章3-10節の嘆きは、創世記1章の創造の秩序を逆転させる文学的構造を持つ。「その日はやみになれ」(4節)は、「光あれ」の否定である。「光もその上を照らすな」「暗やみ」「夜明けの星は暗くなれ」——ヨブは自分の誕生の日について、創造以前の混沌(トーフー・ヴァ・ボーフー)への回帰を願っている。苦しみがあまりにも大きいとき、人は存在そのものの取り消しを願う。
3章8節には「レビヤタンを呼び起こせる者」という表現があり、これは古代近東の混沌の海の怪物の神話的イメージである。ヨブの嘆きは個人の苦しみを超えて、宇宙的な混沌への叫びとなっている。
3章20-26節の問いは痛切である。「なぜ、苦しむ者に光が与えられ、心の痛んだ者にいのちが与えられるのだろう」(20節)。これは哲学的な疑問ではなく、苦しみの渦中からの実存的な叫びである。
注目すべきは、この嘆きがエレミヤ書20:14-18と驚くほど類似していることである。預言者エレミヤもまた「私の生まれた日は、のろわれよ」と叫んだ。信仰者の正直な嘆きは、聖書の中に居場所を持っている。そして最終的に神が「ヨブはわたしについて確かなことを語った」(42:7)と言われたのは、三人の友ではなく嘆いたヨブの方であった。正しい神学の言葉より、正直な叫びの方が神に近いという逆説がここにある。
〈ヘブライ語キーワード〉
| 原語 | 発音 | 意味 |
| הַשָּׂטָן | ハッサーターン | 告発者・敵対する者 |
| חִנָּם | ヒンナーム | 理由なく・無償で |
| סוּת | スート | そそのかす・煽動する |
| בְּנֵי הָאֱלֹהִים | ブネー・ハエロヒーム | 神の子ら |
| שִׁבְעָה | シヴアー | 七(七日間の喪) |
第三部:新約(ルカの福音書21章1-28節)
「からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい」——やもめの献金から終末の希望へ
ルカ21章1-28節は、エルサレム神殿の境内で語られたイエスの教えである。貧しいやもめの献金という小さな場面から始まり、神殿崩壊の預言を経て、終末の大患難と人の子の再臨にまで視野が広がっていく。この章には、AD70年のエルサレム陥落という「近い将来」と、世の終わりの再臨という「遠い将来」が、預言的二重性をもって重なり合っている。
やもめのレプタ銅貨二枚——神が見ている「ものさし」
1-4節のやもめの献金の記事は、短いがきわめて重要である。金持ちたちが「あり余る中から」献金を投げ入れる中で、貧しいやもめがレプタ銅貨二枚を投げ入れた。
「レプタ」(λεπτόν/レプトン)は、当時流通していた最小単位の銅貨である。マルコ12:42はこれを「一コドラント」と換算しており、労働者の日当の約128分の1に相当する。文字通り、ほとんど無価値に等しい額である。
しかしイエスは「この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました」と言われた。ここで用いられている「たくさん」(πλεῖον/プレイオン)は比較級であり、絶対額ではなく比率による評価を示している。
神の「ものさし」は人間のそれとは根本的に異なる。人は結果を見るが、神は動機と犠牲の度合いを見る。「持っていた生活費の全部」(τὸν βίον/トン・ビオン)を投げ入れたとあり、この「ビオス」は単なる「お金」ではなく、「生活・生計・いのち」を意味する語である。やもめは文字通り、自分のいのちを神に差し出した。
この場面がヨブ記と共鳴していることに気づく。ヨブは全財産と家族を失い、自分の体さえ打たれた。それでも神への信仰を手放さなかった。やもめは乏しさの中から全てを神に差し出した。どちらも、見返りの計算なしに神の前に立つ姿である。サタンが問うた「ヨブはいたずらに(ヒンナーム)神を恐れましょうか」への答えが、このやもめの中にもある。
神殿崩壊の預言——「石がくずされずに積まれたまま残ることのない日」
5-6節で場面は一転する。人々が神殿の壮麗さを讃えていると、イエスは「石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます」と宣言された。
ヘロデ大王が紀元前20年頃から着手した神殿の大改築は、イエスの時代にもまだ続いていた(ヨハネ2:20「四十六年もかかったこの神殿を」)。巨大な石灰岩のブロックで組まれた神殿は、古代世界の驚異の一つであった。ヨセフスの記録によれば、石の中には長さ約12メートル、高さ約3.5メートルに及ぶものもあったという。
この預言はAD70年にローマ将軍ティトゥスによって文字通り成就した。ローマ軍は神殿を焼き払い、溶けた金を回収するために石を一つ一つ剥がした。イエスの言葉は一語も地に落ちなかった。
二重の預言的視野——AD70年と終末
7節以降の弟子たちの質問「いつ起こるのでしょう。どんな前兆があるのでしょう」に対するイエスの答えは、二つの時間軸が交差する預言的講話となっている。これは旧約預言に共通する「預言的二重性」あるいは「預言の山脈」と呼ばれる現象である。遠くから二つの山を見ると一つに重なって見えるが、近づくと間に谷があることが分かる。同様に、AD70年の出来事と終末の出来事が一つの預言の中に重なり合っている。
近い将来(AD70年)に焦点を合わせた部分:
20-24節の「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら」は、明確にAD70年のローマ軍包囲を指す。並行箇所のマタイ24:15が「荒らす憎むべき者」(ダニエル書からの引用)という象徴的表現を用いているのに対し、ルカは「軍隊に囲まれる」という具体的・歴史的な描写を選んでいる。これはルカが異邦人読者に向けて、ユダヤ的黙示文学の象徴を歴史的事実に翻訳していると考えられる。
「ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい」(21節)。教会史家エウセビオスは、エルサレムのキリスト者たちが実際にこのイエスの警告に従い、AD66年のローマ軍の一時撤退の間にペラ(ヨルダン川東岸の町)へ逃れて救われたと記録している。イエスの預言は、それを聞いた世代の命を実際に救った。
22節の「書かれているすべてのことが成就する報復の日」は、旧約預言(特にダニエル9:26「来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する」)の成就を指している。
遠い将来(終末)に焦点を合わせた部分:
8-11節の「わたしの名を名のる者が大ぜい現れ」「戦争や暴動」「民族は民族に」「大地震」「疫病やききん」は、いわゆる「産みの苦しみの始まり」(マタイ24:8)であり、AD70年前後にも部分的に成就したが、終末に向かって激化していく出来事の描写である。
25-27節は明確に終末的である。「日と月と星には、前兆が現れ」は、イザヤ13:10、ヨエル2:31などの旧約預言と呼応する天体的徴候であり、27節の「人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来る」は、ダニエル7:13-14の「人の子」のビジョンの直接的な成就を示す。
「異邦人の時」——二つの時代をつなぐ橋
24節の「異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます」は、二つの預言的視野をつなぐ鍵となる句である。
「異邦人の時」(καιροὶ ἐθνῶν/カイロイ・エスノーン)は、エルサレムが異邦人の支配下に置かれる期間を指す。AD70年のローマによる陥落から始まり、その後のビザンツ帝国、イスラム勢力、十字軍、オスマン帝国、イギリス委任統治を経て、1948年のイスラエル建国、1967年の六日戦争によるエルサレム旧市街の回復に至る歴史は、この「異邦人の時」の展開として読むことができる。
この「時」が「終わる」時、次の段階——すなわち終末的出来事——が始まる。24節は、AD70年の預言と終末の預言の間にある「谷」の期間を一文で要約しているのである。
迫害の中の約束——「髪の毛一筋も失われることはありません」
12-19節は弟子たちへの迫害の予告であるが、その中に驚くべき約束が挟まれている。
14-15節「どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます」。この「知恵」(σοφίαν/ソフィアン)は人間的な弁論術ではなく、キリストご自身から直接与えられる神的な知恵である。コリント第一1:20「この世の知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか」とパウロが問うた、まさにその知恵である。
16-18節には一見矛盾する記述がある。「中には殺される者もあり」(16節)、しかし「あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません」(18節)。殺されるのに髪の毛は失われない——これは物理的な無傷の保証ではなく、永遠の視点からの完全な守りを意味している。肉体は殺されても、神の前における存在の一部たりとも失われることはない。これはヨブの「私は知っている。私を贖う方は生きておられ」(ヨブ19:25)という確信と深く共鳴する。
「頭を上に上げなさい」——うつむく理由の中で顔を上げる
28節はこの講話のクライマックスである。「これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです」。
「頭を上に上げなさい」のギリシャ語ἀνακύψατε(アナキュプサテ)は、かがんだ姿勢から身を起こす動作を表す。ルカ13:11で18年間腰が曲がったままだった女性が癒された場面にも関連する語根が使われている。イエスは、終末の恐ろしさの中で信仰者がうつむいていることを前提とした上で、それでも顔を上げよと命じておられる。
「恐れるな」ではなく「頭を上げよ」——この区別は大きい。恐れがないふりをせよとは言っていない。恐れの中で、なお顔を上げる根拠がある、と言っておられるのである。その根拠とは「贖いが近づいた」(ἡ ἀπολύτρωσις/ヘー・アポリュトローシス)という事実である。「アポリュトローシス」は奴隷を身代金を払って解放する行為を指す語であり、最終的な完全な解放がそこに迫っていることを告げている。
ここで出エジプト23章とのつながりが見える。エジプトの奴隷状態から解放されたイスラエルに、神は使いを遣わして道を守ると約束された。そして今、イエスは終末の患難の中にある弟子たちに、最終的な「贖い」——究極の出エジプト——が近づいていると告げる。出エジプトの解放は、再臨における最終的解放の型(タイプ)だったのである。
〈ギリシャ語キーワード〉
| 原語 | 発音 | 意味 |
| λεπτόν | レプトン | レプタ銅貨(最小通貨単位) |
| βίος | ビオス | 生活・生計・いのち |
| καιροὶ ἐθνῶν | カイロイ・エスノーン | 異邦人の時 |
| σοφία | ソフィア | 知恵 |
| ἀνακύπτω | アナキュプトー | 身を起こす・頭を上げる |
| ἀπολύτρωσις | アポリュトローシス | 贖い・解放 |
第四部:全体の一貫性——苦しみを通り抜ける神の守り
「理由もなく、しかし見捨てず」——三つの箇所を貫く神学的テーマ
出エジプト記23章、ヨブ記2-3章、ルカの福音書21章。この三つの箇所は時代も文脈も大きく異なるが、驚くべき一貫性をもって一つのテーマを語っている。それは「神の守りは苦しみを迂回させるのではなく、苦しみの只中を通り抜けさせる」ということである。
神の守りの約束——しかし「徐々に」
出エジプト23章の約束は圧倒的である。使いを遣わし、敵を追い払い、病を除き、パンと水を祝福する。しかしこの壮大な約束の中に、意外な一語が挟まれていた。「徐々に」(מְעַט מְעַט/メアット・メアット、「少しずつ少しずつ」)。
神は敵を一年で一掃する力を持っておられる。しかしそうはなさらない。イスラエルがまだ土地を管理する成熟に達していないから、空白地帯を作れば野の獣が増える。祝福にも適切なタイミングがある。勝利のペースは、民の成長のペースに合わせられている。
この原理は、ヨブ記にも当てはまる。ヨブの苦しみは瞬間的なものではなかった。友人たちが来るまでにも時間がかかり、七日間の沈黙があり、その後の長い対話があり、最終的に神が嵐の中から語られたのはさらに後のことである。回復は「徐々に」来た。
ルカ21章でも同じ原理が働いている。「終わりは、すぐには来ません」(9節)。「異邦人の時の終わるまで」(24節)。AD70年から再臨までの「異邦人の時」という長い期間が間に置かれている。神は急がない。しかし確実に、約束の成就に向かって歴史を導いておられる。
「少しずつ少しずつ」——これは信仰の忍耐を試す言葉であると同時に、神の深い配慮を示す言葉である。
「ヒンナーム」の逆説——理由なき苦しみと理由なき恩寵
今日の通読で最も神学的に深い語は、ヨブ記2章3節のחִנָּם(ヒンナーム)であろう。この語は「理由なく」「無償で」を意味する。
ヨブ1:9でサタンは問うた。「ヨブはヒンナーム(ただで・理由なく)神を恐れましょうか」。つまり「ヨブの信仰には利益という理由がある。タダではない」と。これに対し、神は2:3で同じ語を使い返された。「ヒンナーム(理由もなく)彼を滅ぼそうとした」。
ここに聖書全体を貫く逆説がある。
サタンの論理は因果応報の世界観に基づいている。善いことをすれば報われ、悪いことをすれば罰される。だからヨブの信仰にも「報酬」という理由があるはずだ、と。ヨブの三人の友も同じ論理に立つ。ヨブが苦しんでいるのは「罪」という理由があるからだ、と。
しかし神はこの因果応報の枠組みそのものを「ヒンナーム」の一語で打ち壊される。ヨブの苦しみには理由がない。そしてこの「理由のなさ」は恐ろしいが、同時にそこに福音の種がある。なぜなら、理由なき苦しみがあり得るなら、理由なき恩寵もまたあり得るからである。
ルカ21章のやもめが「生活費の全部」を投げ入れた行為は、人間的な損得の計算を超えている。ヨブが全てを失ってなお「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(1:21)と言った信仰も、利益計算を超えている。そして神がイスラエルに使いを遣わし、約束の地を与えると宣言されたのも、イスラエルが他の民より優れていたからではない(申命記7:7「あなたがたはどの民よりも少なかった」)。
因果応報の世界では、すべてに理由がある。しかし恵みの世界では、最も大切なもの——赦し、愛、献身——に「理由」はない。ヒンナームなのである。
うつむく理由の中で顔を上げる
三つの箇所すべてに、「うつむく理由がある中で、顔を上げる根拠」が示されている。
出エジプト23章では、前途に強大な敵——エモリ人、ヘテ人、カナン人——が待ち受けている。うつむく理由は十分にある。しかし「わたしの使いがあなたの前を行く」(23節)。前方に何があろうと、それより先に神の使いがいる。
ヨブ記2-3章では、ヨブは灰の中に座り、自分の生まれた日を呪い、死を願った。これ以上うつむいた姿はない。しかしヨブは最終的に「今、この目であなたを見ました」(42:5)と告白する。苦しみの底で、かえって神と直接出会った。
ルカ21章では、天体の異変、国々の混乱、人々が恐怖で気を失う中で、イエスは「からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい」(28節)と命じられる。ギリシャ語のἀνακύπτω(アナキュプトー)は「かがみから身を起こす」であり、うつむいた状態が前提されている。恐れがないのではない。恐れの中でなお顔を上げる根拠がある——「贖いが近づいた」からである。
ここに、出エジプトからヨブを経てルカに至る一本の線が見える。神の民は常にうつむく理由を抱えている。荒野の困難、理由なき苦しみ、終末の患難。しかし同時に、顔を上げる根拠も常に与えられている。先を行く使い、嵐の中から語りかける神、雲に乗って来る人の子。
寄り添いの神学——沈黙と臨在
今日の三箇所は、苦しむ人への寄り添い方についても一貫したメッセージを持っている。
出エジプト23章の神の使いは、民と共に歩む存在として約束されている。導き、守り、備えた場所へ連れて行く。しかし敵を「徐々に」追い払うということは、苦しみの期間中も共にいるということである。問題を即座に解決するのではなく、問題の中を共に歩く。
ヨブ記2章13節の友人たちの七日間の沈黙は、人間にできる最善の寄り添いであった。説明も解釈もなく、ただ共にいること。苦しむ者に対して最も必要なのは、正しい神学の言葉ではなく、共にいる存在である。マタイ7:12の「自分にしてもらいたいことを人にもしなさい」は、究極的には「自分が苦しむ時にしてほしいことを、苦しむ人にしなさい」ということである。多くの場合それは、解釈ではなく臨在、説教ではなく沈黙、正論ではなく涙である。
そしてルカ21章でイエスが約束されたのは、患難からの免除ではなく、患難の中での臨在と最終的な贖いである。「髪の毛一筋も失われない」(18節)は、苦しみがないということではなく、苦しみの中で何一つ神の手からこぼれ落ちないという約束である。
神ご自身が究極の「寄り添う方」である。インマヌエル——「神われらと共にいます」。出エジプトの使い、ヨブへの嵐の中からの語りかけ、そして受肉したキリストの臨在。すべては同じメッセージを指している。神は苦しみを説明するのではなく、苦しみの中に来てくださる。
再臨と携挙——最終的な「贖い」の姿
ルカ21:27の「人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来る」は、ダニエル7:13-14の成就であり、栄光の再臨を描いている。ここでのキリストは、王として、さばき主として、圧倒的な力と栄光をもって来られる。黙示録19:11-16が描く白い馬に乗った「王の王、主の主」の姿と重なる。
これに対し、テサロニケ第一4:16-17が描く携挙は異なる様相を持つ。「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです」。ここでのキリストは花婿として花嫁を迎えに来る姿である。
この区別は、出エジプト記の構造とも対応する。出エジプトにおいて、神はまずイスラエルをエジプトから「引き出し」(携挙の型)、その後にカナンの地で敵を「さばかれた」(再臨の型)。救出とさばきは、同じ神の計画の中にある二つの局面である。
ルカ21:28の「贖いが近づいた」は、この両方を包括する希望の宣言である。やがてキリストは来られる。苦しみは永遠ではない。「徐々に」進む神の計画は、最終的な完成へと向かっている。
今日の通読が私たちに問いかけること
出エジプト記は問う——あなたは神の「徐々に」に信頼できるか。すべてが一度に解決されなくても、先を行く使いを信じて歩めるか。
ヨブ記は問う——あなたは「理由のない苦しみ」の中で、なお神を恐れるか。ヒンナーム(理由なく)苦しむ時にも、ヒンナーム(無償で)信じ続けられるか。
ルカの福音書は問う——あなたは恐れの中でも顔を上げられるか。天地が揺れ動く中で、贖い主が来られるという希望に立てるか。
三つの問いは、一つの答えに収束する。私たちが信頼するのは、状況の好転ではなく、状況の中におられる神ご自身である。先を行く使いであり、嵐の中から語りかける声であり、雲に乗って来る人の子。その方が共にいてくださるから、私たちはうつむいた姿勢から身を起こし、頭を上に上げることができる。
〈三箇所の神学的対応表〉
| テーマ | 出エジプト23章 | ヨブ2-3章 | ルカ21章 |
| 神の臨在 | 使いが前を行く | 嵐の中から語る神 | 雲に乗って来る人の子 |
| 苦しみの現実 | 強大な敵の存在 | 理由なき苦難 | 迫害と天変地異 |
| 神のタイミング | 「徐々に」追い払う | 長い沈黙の後の応答 | 「異邦人の時」の期間 |
| 信仰者の応答 | 御声に聞き従う | なお誠実を保つ | 頭を上に上げる |
| 最終的な希望 | 約束の地の相続 | 回復と二倍の祝福 | 贖いの完成 |

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