信仰の原点に帰る

通読

創世記35章・第一列王記4-5章・マルコ3章の通読から

今日の通読箇所は、創世記35:1-15、第一列王記4-5章、マルコ3章です。一見つながりがないように見える三つの箇所ですが、「神との関係の原点」「神の国の平和」「真の神の家族」というテーマが浮かび上がってきます。

第一部:ベテルへの帰還(創世記35:1-15)

ベテルとは何か

神はヤコブに「立ってベテルに上り、そこに住みなさい」と命じられました(35:1)。

ベテル(בֵּית אֵל / ベート・エル)は「神の家」を意味します。בֵּית(ベート)は「家」、אֵל(エル)は「神」です。

この場所は、約20年前、ヤコブが兄エサウから逃れてハランへ向かう途中、石を枕にして野宿した場所です。その夜、彼は天に届く梯子と、その上り下りする天使たちの夢を見ました(創世記28章)。神はそこでアブラハムへの約束をヤコブにも与えると語られました。

なぜ今、ベテルなのか

直前の34章では、シェケムでの悲惨な事件がありました。ディナの事件と、シメオンとレビによる虐殺。ヤコブの家族は霊的に汚れた状態でした。

だからこそ神は「ベテルに上れ」と言われた。信仰の原点に戻れという招きです。

異国の神々を捨てる

興味深いことに、ヤコブの家族はまだ異国の神々を持っていました(35:2-4)。ラケルがかつてラバンから盗んだテラフィム(家庭の守り神、31:19)や、シェケムからの略奪品に含まれていた偶像かもしれません。

ヤコブは家族に命じます。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい」(35:2)。

彼らは偶像と耳輪をヤコブに渡し、ヤコブはそれらを樫の木の下に埋めました(טָמַן / ターマン)。破壊したのではなく埋めた——この曖昧さは考えさせられます。しかし少なくとも、神の前に出るためには、他の神々との決別が必要でした。

エル・ベテル — 場所ではなく神を礼拝する

ヤコブは祭壇を築き、その場所をエル・ベテル(אֵל בֵּית אֵל)と呼びました(35:7)。

これは「ベテルの神」という意味です。注目すべきは、場所に名前をつけたのではなく、神ご自身に焦点を当てた名前だということです。「あの場所で私に現れてくださった神」への感謝と礼拝が込められています。

二度目の「イスラエル」命名

ここで疑問が生じます。ヤコブは32:28のヤボクの渡しですでに「イスラエル」という名を与えられていました。なぜ再び同じ名前が与えられるのでしょうか(35:10)。

いくつかの理解が可能です:

1. 確認と聖別:32章は夜中の神秘的な格闘でしたが、35章では神ご自身が明確に、公式に宣言された

2. 文脈の重要性:34章のシェケム事件という汚れの後、清めを経て、改めて契約関係が確認された

3. 約束から成就へ:同様に、35:15で「ベテル」と名付けたのも、28:19の「約束としての命名」に対する「成就としての命名」

34章の悲劇の後だからこそ、神が改めて「あなたはイスラエルだ」と宣言してくださったことに、深い恵みを感じます。失敗の後でも、神は契約を新たにしてくださるのです。

第二部:ソロモンの平和な王国(第一列王記4-5章)

繁栄と平和の描写

ソロモンの治世は、イスラエル史上最も平和で繁栄した時代でした。

「ユダとイスラエルは、ソロモンの治世中、ダンからベエル・シェバまで、みな、おのおの自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下で安心して住むことができた。」(4:25)

「ダンからベエル・シェバまで」は、北から南まで、イスラエル全土を表す慣用句です。

ぶどうの木の下、いちじくの木の下で安心して住む」という表現は、平和と繁栄の象徴です。この表現は後に、預言者ミカがメシア時代を描写する際にも用いられます(ミカ4:4)。ソロモンの治世は、やがて来るメシアの王国の予型でした。

マハナイム — 覚えておきたい地名

4:14に「マハナイム」という地名が登場します。

マハナイム(מַחֲנַיִם) = 「二つの陣営」

これは創世記32:1-2で、ヤコブがラバンのもとから帰る途中、神の使いたちに出会った場所です。ヤコブは「これは神の陣営だ」と言ってこの名をつけました。

「二つの陣営」が何を指すかについては、神の陣営とヤコブの陣営、あるいは天使が二組に分かれてヤコブを守護した姿など、いくつかの解釈があります。いずれにしても、天と地が接する場所というニュアンスがあります。

ベテルでは「天への梯子」、マハナイムでは「天の陣営」——ヤコブの旅は、天との出会いに囲まれていました。

異邦人の王が主をほめたたえる

ツロの王ヒラムは、ダビデの時代から友好関係にありました。ソロモンが神殿建設のための木材を求めると、ヒラムはこう答えます:

「きょう、主はほむべきかな。このおびただしい民を治める知恵ある子をダビデに授けられたとは。」(5:7)

異邦人の王の口から「主はほむべきかな」という賛美が出ています。ソロモンの知恵は国境を越えて神の栄光を現しました。これもまた、やがて全世界がイスラエルの神を認めるようになるという預言的な先取りです。

第三部:聖霊を汚す罪と神の家族(マルコ3章)

聖霊を汚す罪とは何か

マルコ3:28-29は、多くのクリスチャンを不安にさせる箇所です:

「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」

しかし、30節の文脈が決定的に重要です:

「このように言われたのは、彼らが、『イエスは、汚れた霊につかれている』と言っていたからである。」

律法学者たちは、イエスの癒しを目の前で見ていました。それが神からの業であることを知り得る立場にいました。にもかかわらず故意に「ベルゼブルの業だ」と断言した。これは無知ゆえの過ちではなく、真理を認識しながらの意図的な拒絶と中傷です。

「聖霊を汚す罪」を恐れている人は、まさにその恐れ自体が、自分がこの罪を犯していない証拠です。律法学者たちには、そのような恐れは微塵もありませんでした。

見分けることと裁くこと

この箇所は、現代の私たちにも問いかけます。異なる教派や神学を持つクリスチャンの働きを、どう評価すべきでしょうか。

パウロはこう教えています:

「すべてのことを見分けて、良いものを堅く守りなさい。」(1テサロニケ5:21)

「見分ける」ことと「裁く」ことは違います。教えの真偽を聖書に照らして判断することは必要です。しかし、その人の働き全体を「悪霊の業」と断罪することは、全く別次元の話です。

イエスご自身もこう言われました:

「わたしの名によって力あるわざを行いながら、すぐあとでわたしを悪く言える者はいないのです。」(マルコ9:39)

神の家族とは誰か

章の最後で、イエスの母と兄弟たちが来て、イエスを呼びます。周囲の人々が「気が狂った」と言っていたからです(3:21)。

イエスの答えは驚くべきものでした:

「神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」(3:35)

これは血縁を否定しているのではありません。しかし、霊的な家族関係は血縁を超えることを宣言しています。

私たちは信仰によって、キリストの家族とされています。それは生まれや民族ではなく、神のみこころを行うこと——すなわち、イエスを信じ従うことによって与えられる特権です。

適用:今日の通読から

1. 信仰の原点に戻る:ヤコブがベテルに帰ったように、私たちも時に、最初に神と出会った場所、最初の愛に立ち返る必要があります。異国の神々——この世の価値観、偶像——を捨てて、身をきよめましょう。

2. 失敗の後でも:シェケムの悲劇の後でさえ、神はヤコブを「イスラエル」と呼び、契約を確認されました。私たちの失敗は、神の恵みを無効にしません。

3. 平和の王を待ち望む:ソロモンの治世の平和は、やがて来る真の平和の君イエス・キリストの王国を指し示しています。私たちはその王国の民とされています。

4. 見分けつつ、裁かない:神の働きを悪霊の業と断定することは重大な罪です。聖書に照らして教えを見分けつつも、働き全体を断罪することには慎重でありたいものです。

5. 神の家族として生きる:血縁や民族を超えて、神のみこころを行う者は皆、キリストの家族です。この霊的家族の一員として歩みましょう。「ああ、とても神の家族の一員になれない」と思える日でも、主イエスの十字架の血潮の力は偉大です。主イエスの贖いの御業に拠り頼み、主イエスの信仰、情熱に拠り頼みましょう。

2025年12月10日

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