通読箇所:出エジプト記30章11節〜21節 ヨブ記36章〜37章 ヨハネの福音書5章1節〜18節
今日のヨブ記を読んで、正直に言う。
エリフの言葉に腹が立った。
38年ではないが、ヨブは十分すぎるほど苦しんでいる。財産を失い、子どもを失い、健康を失い、それでも神を呪わなかった人間に向かって、エリフは延々と語り続ける。言葉は整然としていて、神学的に聞こえる。反論しにくい。だからこそ腹立たしい。
傷ついている人の前で、正しいことを言う。それは時に、最も残酷な行為になる。
でも——ここで立ち止まらなければならない。
私の中にも、エリフはいないか。苦しんでいる誰かの前で、正論を並べたくなる瞬間が。「それはこういう意味があって」「神様には計画があって」と、相手の痛みより自分の神学を優先させたくなる瞬間が。腹が立つのは、エリフが他人事ではないからかもしれない。
一方、今日の出エジプト記とヨハネの福音書は、全く違うことを語っていた。
神が人に近づいてくる、という話だ。
贖い金、洗盤、そしてベテスダの池。一見バラバラに見えるこれらの箇所に、一本の糸が通っている。神の民として登録されるには贖いが必要で、神の臨在に近づくには清めが必要で——しかし最終的に、神ご自身が池のほとりまで来て、38年間誰にも助けてもらえなかった人に声をかけた。
「よくなりたいか。」
この問いの意味を、今日は一緒に考えたい。
※本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。
【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。
第一部:トーラー|出エジプト記30章11節〜21節
贖いがなければ、神の民に登録できない
「あなたがイスラエル人の登録のため、人口調査をするとき、その登録にあたり、各人は自分自身の贖い金を【主】に納めなければならない。これは、彼らの登録によって、彼らにわざわいが起こらないためである。」(出エジプト記30:12)
人口調査。現代の感覚では、単なる行政手続きに聞こえる。しかし、この箇所を読んで気づくことがある。神の民として数えられる、登録されるという行為が、贖いと切り離せないものとして描かれているということだ。
なぜ、人口調査に贖い金が必要なのか。
ここで使われているヘブライ語が手がかりになる。
| 原語 | 発音 | 意味 |
| כֹּפֶר | コーフェル | 贖い金・身代金 |
| כָּפַר | カーファル | 覆う・贖う(語根) |
| יוֹם כִּפּוּר | ヨム・キプール | 贖罪日 |
「贖い金」と訳されているכֹּפֶר(コーフェル)は、「覆う、贖う」を意味する動詞כָּפַר(カーファル)から派生した言葉だ。この語根は、後のיוֹם כִּפּוּר(ヨム・キプール=贖罪日)にも使われている。贖罪日とは、年に一度、大祭司がイスラエル全民族の罪のために至聖所に入り、神の前で民を覆ってもらう日のことだ。
つまり、人口調査における贖い金は、単なる登録料ではない。神の民として数えられるためには、まず覆いが必要だという神学的宣言なのである。
聖なる神の前に出る時、人はそのままでは立てない。何かが必要だ。それが「コーフェル」、贖いの覆いだ。
半シェケルの平等性が語るもの
「富んだ者も半シェケルより多く払ってはならず、貧しい者もそれより少なく払ってはならない。」(出エジプト記30:15)
半シェケル。誰もが同じ額を納める。富める者も貧しい者も、地位のある者もない者も、一律に同じ贖い金だ。
これは何を意味しているか。贖いの前では、すべての人が等しく必要としている者だということだ。
自分の財力で多く払い、より良い登録を得ることはできない。名声で少なく済ませることもできない。神の民として登録される資格は、人間の側の能力や条件とは全く関係ない。必要なのはただ一つ、贖いの覆いを受け入れることだ。
この半シェケルの平等性は、後のパウロの言葉を先取りしている。
「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。」(ガラテヤ3:28)
贖いの前での平等。これは律法の時代から、一貫した神の論理だった。
洗盤が指し示す二段階の清め
「彼らが会見の天幕に入るときには、水を浴びなければならない。彼らが死なないためである。」(出エジプト記30:20)
「死なないため」という表現は、神の臨在がいかに聖であるかを示している。近づく者が清くなければ、その聖さの前に立てないのだ。
ここに興味深い構造がある。祭司が神の臨在に近づく動線を整理すると、こうなる。
| 場所 | 行為 | 意味 |
| 外庭・燔祭の祭壇 | いけにえの血 | 罪の贖い |
| 洗盤(祭壇と聖所の間) | 水による清め | 聖化・清め |
| 聖所・至聖所 | 神の臨在へ | 交わり |
血の贖いだけでは不十分で、さらに水の清めが必要だ。この二段階は何を指し示しているのか。
ヨハネ3章でイエスはニコデモにこう言われた。「水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」(ヨハネ3:5)
また、エペソ5章26節でパウロは「みことばを通して水の洗いにより、教会を聖として清める」と書いている。
燔祭の祭壇=十字架の血による贖い。洗盤=みことばと御霊による聖化。この対応は、旧約の礼拝システムが単なる儀式ではなく、神が備えておられた救いの構造全体を指し示す「影」だったことを示唆している。
永遠のおきてが指し示す完成
「これは、彼とその子孫の代々にわたる永遠のおきてである。」(出エジプト記30:21)
「永遠のおきて」という言葉で、この箇所は締めくくられる。洗盤での清めは、一時的な儀式規定ではなく、神の永遠の原則を指し示しているということだ。
神の臨在に近づくには贖いが必要で、さらに清めが必要だ。この原則は変わらない。変わったのは、その具体的な形だ。動物のいけにえから十字架へ、洗盤の水から御霊の働きへ。しかし「贖いなしには神の前に立てない」という原則は、今も生きている。
そして、この原則の究極の成就として——次の時代に、神ご自身が池のほとりまで来られた。
その話は、第三部で。
第二部:旧約|ヨブ記36章〜37章
エリフの神学と、ヨブの神——距離の問題
「しばらく待て。あなたに示そう。まだ、神のために言い分があるからだ。」(ヨブ記36:2)
エリフはよく喋る。
ヨブ記32章から始まるエリフの演説は、今日の箇所でも続いている。彼は若く、自信に満ちていて、神学的に整然としている。読めば読むほど、反論しにくい言葉が並んでいる。
しかし、腹が立つ。
なぜか。それを少し丁寧に考えてみたい。
エリフの言葉は正しいか
エリフの主張を整理すると、こうなる。
| エリフの主張 | 聖書箇所 |
| 神は強いが、誰をも蔑まない | 36:5 |
| 神は正しい者から目を離さない | 36:7 |
| 苦難は神の戒めであり、耳を開く機会だ | 36:10 |
| 聞き入れて仕えるなら、しあわせのうちに全うする | 36:11 |
| 神は悩んでいる者をその悩みの中で助け出す | 36:15 |
| 神の大自然のみわざを見よ、神は偉大だ | 36:27〜37:13 |
これらの主張は、神学的には間違っていない。神が偉大であること、苦難に意味があること、神が正しい者を顧みること——どれも聖書が語ることだ。
問題は、内容ではない。語り方と、語る相手への眼差しだ。
「あなたには悪者のさばきが満ちている」
エリフはヨブに向かってこう言う。
「しかし、あなたには悪者の受けるさばきが満ちている。それでさばきと公義があなたをつかまえる。」(36:17)
「悪に向かわないように注意せよ。あなたは悩みよりも、これを選んだのだから。」(36:21)
ここでエリフは、ヨブの苦難を「ヨブが悪を選んだ結果だ」と断言している。
しかし、ヨブ記1章で神はなんと言っておられたか。
「彼のような者は地上にいない。全き者で直く、神を恐れ、悪から遠ざかっている。」(ヨブ1:8)
神ご自身が「地上に彼のような者はいない」と言われた人間に向かって、エリフは「あなたは悪を選んだ」と告発している。エリフの言葉は、神の証言と真っ向から矛盾しているのだ。
これがエリフの言葉の根本的な問題だ。彼はヨブをよく見ていない。神がヨブをどう見ておられるかを知らない。知らないまま、正しそうな神学を正しくない相手に向けて放っている。
エリフの神は「遠い」
37章でエリフの言葉は頂点に達する。雷、いなずま、雪、氷、嵐——神の大自然のみわざが次々と描写され、神の圧倒的な偉大さが語られる。文学的には美しい箇所だ。
しかし、こんな言葉が出てくる。
「私が語りたいと、神にどうして伝えられようか。人が尋ねるなら、必ず彼は滅ぼされる。」(37:20)
エリフにとって、神は語りかけられない方だ。尋ねると滅ぼされる方だ。圧倒的な自然の力として、遠くから崇められる方だ。
ここに注目したい。
| 人物 | 神への姿勢 | 結果 |
| エリフ | 神は遠く、尋ねると滅ぼされる | 距離を保つ、観察者として語る |
| ヨブ | 「なぜですか」と神に直接叫ぶ | 神が直接答えられる(38章〜) |
| ヤコブ | 神と格闘し、離さない | 「イスラエル」と名づけられる |
| モーセ | 「あなたご自身を見せてください」と直談判 | 神の栄光を見せていただく |
エリフの神学は正しく見えて、神との生きた関係性を欠いている。
ヨブが叫び続けたのは、神を信頼していたからだ。「なぜですか」という問いは、絶望の叫びではなく、答えてくれると信じている者の叫びだ。愛する方への、必死の呼びかけだ。
一方エリフは、神について正確に語れるが、神に向かって語ることができない。知識はあるが、関係がない。神学は持っているが、神がいない。
エリフが映し出すもの
ここで、読む者は自分自身を問われる。
苦しんでいる人の前に立つとき、私はエリフになっていないか。相手の痛みを本当に見ようとせず、正しそうな言葉を並べていないか。「神には計画がある」「これも訓練だ」「信仰を持って」——これらの言葉は、文脈を外れれば傷に塩を塗る行為になりえる。
エリフを責めることは簡単だ。しかし、エリフは決して意地悪な人間ではない。彼は真剣に神を語ろうとしている。ただ、見ていないのだ。目の前の人を。
そして注目すべきことに、ヨブ記の最後で神はヨブの三人の友人を叱責されるが、エリフについては何も言われていない。沈黙だ。それが何を意味するのか、読者は考え続けることになる。
しかし、エリフは一つの真実に触れている
「神は悩んでいる者をその悩みの中で助け出し、そのしいたげの中で彼らの耳を開かれる。」(36:15)
「悩みの中で助け出す」「しいたげの中で耳を開く」——これは正しい。神は苦難を外から観察しておられるのではなく、苦難の中に入って助け出される方だ。
エリフはこの真実を語りながら、自分はヨブの苦難の外に立って語っている。言葉と姿勢が矛盾している。
しかし、この言葉は預言的だ。なぜなら、次の時代に神ご自身が、苦難の中にいる人のところまで降りてこられるからだ。ベテスダの池のほとりで、38年間横たわっていた人のそばに立ち、声をかけられた方として。
その話は、第三部で。
第三部:新約|ヨハネの福音書5章1節〜18節
池に来られたイエス——「よくなりたいか」という問い
「イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。『よくなりたいか。』」(ヨハネ5:6)
エルサレムに、ベテスダという池があった。
ヘブライ語でבֵּית חֶסֶד(ベート・ヘセド)、「恵みの家」という意味だ。五つの回廊を持つこの池には、大勢の病人、盲人、足のなえた者たちが横たわっていた。水が動くとき、最初に入った者が癒されるという言い伝えがあったからだ。
しかしそこは、競争の場でもあった。動ける者だけが癒される。助けてくれる人がいなければ、何度チャンスが来ても届かない。
その中に、38年間病んでいた人がいた。
「恵みの家」の逆説
「恵みの家」と呼ばれながら、ベテスダは恵みを受け取れない人たちの場所でもあった。
38年間、この人は何を見てきたか。水が動くたびに、自分より先に誰かが入っていく。38年分の「また今回も」が積み重なっている。希望と失望を繰り返しているうちに、おそらく希望すること自体が疲れてくる。
「私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。」(5:7)
この答えに注目したい。イエスは「よくなりたいか」と聞いた。しかしこの人は「よくなりたい」とは答えなかった。代わりに、なぜ癒されないかの理由を説明した。
38年間、この人の思考回路は「池に入ること」に固定されていた。癒しの方法は一つしかないと思い込んでいた。そこに、池とは全く関係のない方法で癒しが来ることを、この人は想定していなかった。
「よくなりたいか」という問いの深さ
なぜイエスはこんな問いを発したのか。答えは明らかのように見える。38年も病んでいる人が「よくなりたくない」はずがない。
しかし、この問いには深みがある。
| 視点 | 「よくなりたいか」の意味 |
| 人間的視点 | 当然の問い——しかし答えは明白に見える |
| 心理的視点 | 38年という時間が「病のアイデンティティ」を作り上げていた可能性がある |
| 主権的視点 | イエスが癒しの源であることの宣言——池ではなく、この方が決める |
| 霊的視点 | 変わることへの意志を問う——恵みは一方的だが、受け取る側の向きがある |
38年という時間は、人の内側を変える。病が「自分」になっていく。「助けてくれる人がいない」という思考が、世界の見え方そのものになっていく。
イエスの問いは、その固定した思考回路への介入だったかもしれない。「あなたは今、どこに向いているか」という問いだ。
イエスが近づいてきた
ここで、今日の通読全体を貫く流れが見えてくる。
出エジプト記では、神の臨在に近づくのは人間の側だった。贖い金を納め、洗盤で清められ、段階を経て近づいていく。神は至聖所におられ、人が近づく構造だった。
しかしベテスダで起きたことは、その逆だ。
この人は近づいていない。近づけなかった。38年間、池のほとりで横たわっていた。動くことができなかった。
イエスが来られた。
大勢の病人たちの中を歩きながら、イエスはこの人を見つけた。「それがもう長い間のことなのを知って」——イエスはこの人の38年を知っておられた。名前も知らないような群衆の中の、動けない一人の人間の38年を。
これが、神に近づくことの革命だ。
人が近づけないなら、神が来られる。条件を整えられないなら、条件を満たす方が来られる。
ギリシャ語で読む「起きて」
「イエスは彼に言われた。『起きて、床を取り上げて歩きなさい。』」(5:8)
ここで「起きて」と訳されているギリシャ語はἐγείρω(エゲイロー)だ。
| 原語 | 発音 | 意味 |
| ἐγείρω | エゲイロー | 起こす・目覚めさせる・復活させる |
| ἐγερθείς | エゲルテイス | 起こされた者(受動態) |
ἐγείρω(エゲイロー)は、新約聖書でイエスの復活を語る時にも使われる言葉だ。「キリストは死者の中から起こされた(エゲイロー)」(ローマ6:4)という文脈で繰り返し登場する。
38年間横たわっていた人に向かってイエスが言われた「起きなさい」は、単なる身体的な命令ではない。死から命へ、無力から歩みへ、という復活の言葉と同じ語が使われている。
床を取り上げて歩きなさい——この命令には段階がある。起きる、床を取り上げる、歩く。自分では何もできなかった人が、命じられるままに動き始める。命令と従順の中に、癒しが現実になっていく。
安息日論争が示すもの
「ところが、その日は安息日であった。」(5:9)
ここから論争が始まる。ユダヤ人たちは「安息日に床を取り上げてはいけない」と告発する。癒された人は「私を直してくださった方が命じた」と答える。彼らはイエスを探し始める。
その後イエスは宮でこの人を見つけ、こう言われた。
「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪いことがあなたの身に起こるから。」(5:14)
この言葉は難しい。病と罪を直接結びつけているように読める。しかしイエスはヨハネ9章で、生まれつき目の見えない人について「この人が罪を犯したのでも、両親が犯したのでもない」と明言されている。
ここでイエスが言われたのは、癒された後の歩みについての警告だ。恵みを受けた後、どう生きるかが問われている。
パリサイ人の反応と、イエスの答え
「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」(5:17)
この一言で、論争は別の次元に移る。安息日を守るかどうかの話ではなくなった。イエスが神と等しい方かどうかの話になった。
パリサイ人が怒ったのは、イエスの主張を理解したからだ。イエスは「神は私の父だ」と言っている。それは「私は神と等しい」という宣言だ。
これは真実だ。だからイエスには嘘がつけない。完全に神であり完全に人である主イエス・キリスト——この真実の前で、パリサイ人は怒り、弟子たちは礼拝した。同じ言葉を聞いて、人は分かれる。
ベテスダが「恵みの家」である理由
池の名前は「恵みの家」だった。しかしその池は、この人に恵みを与えなかった。
恵みを与えたのは、池ではなかった。池のほとりまで来られた方だった。
ベテスダが本当に「恵みの家」になったのは、イエスが来られたその日だ。
場所が恵みの家なのではない。イエスがおられるところが恵みの家だ。
第四部:一貫性|三つの箇所を貫く神学的テーマ
神が距離を縮めてこられた——贖いから臨在へ、条件から恵みへ
「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」(ヨハネ5:17)
今日の三つの箇所を並べると、一見バラバラに見える。
出エジプト記の贖い金と洗盤。ヨブ記のエリフの演説。ヨハネの福音書のベテスダの池。時代も場所も文脈も違う。しかし、通読を終えて静かに振り返ると、一本の糸が見えてくる。
神と人間の距離が、縮まってきている。
三つの時代における「近づき方」
| 時代 | 神への近づき方 | 特徴 |
| 出エジプト記(幕屋の時代) | 贖い金→血のいけにえ→洗盤→聖所 | 人が段階を経て神に近づく。条件と手順がある |
| ヨブ記(族長時代) | エリフ:遠くから神を語る/ヨブ:神に直接叫ぶ | 神学的知識と生きた関係性の違いが浮かび上がる |
| ヨハネ5章(イエスの時代) | イエスが池のほとりまで来られる | 神が人に近づく。近づけない者のもとへ神が来られる |
出エジプト記の幕屋システムは、神の聖さと人間の罪深さの間にある「距離」を可視化したものだった。神は至聖所におられ、人は外庭から段階を経て近づいていく。近づくためには贖いが必要で、清めが必要で、正しい手順が必要だった。
この構造は間違っていない。神の聖さは本物だ。人間の罪深さも本物だ。その間に距離があることは、厳然たる事実だ。
しかし神は、この距離をそのままにしておかれなかった。
エリフが見えなかったもの
ヨブ記でエリフは、神の偉大さを語り続けた。雷、いなずま、嵐、氷——自然のみわざを通して神の圧倒的な力を描写した。それは美しく、正確だった。
しかしエリフには見えていないものがあった。
神が人の苦しみの中に入ってこられるということだ。
エリフ自身が語った言葉がある。「神は悩んでいる者をその悩みの中で助け出し、そのしいたげの中で彼らの耳を開かれる。」(36:15)
この言葉は真実だ。しかしエリフはこの言葉の意味を、自分が語った以上には知らなかった。「悩みの中で助け出す」ことの究極の形が何であるかを、エリフは見ていなかった。
その答えが、ベテスダで示された。
「悩みの中で助け出す」の究極形
38年間横たわっていた人は、自分から神に近づいていない。近づけなかった。池のほとりで、毎回チャンスを逃し続けた。
そこにイエスが来られた。
これがエリフの言葉の成就だ。神は悩みの中で助け出される。しいたげの中で耳を開かれる。その「耳を開く」とは、遠くから言葉を投げることではない。そのそばまで来て、声をかけることだ。
出エジプト記の洗盤が指し示していた「水による清め」は、ヨハネ3章でイエスが語られた「水と御霊による新生」に結びつく。血のいけにえが指し示していた「贖い」は、十字架に結びつく。幕屋のシステム全体が、イエスという一点に向かって収束していく。
そしてその収束点で起きたことが、ベテスダだ。
神が人のそばまで来られた。近づけない者のもとへ、神ご自身が距離を縮めてこられた。
半シェケルの平等性からベテスダへ
出エジプト記の半シェケルは、贖いの前での平等を示していた。富める者も貧しい者も、同じ額を納める。神の民として登録されることに、人間的な条件は関係ない。
ベテスダでイエスが選ばれたのは誰だったか。
大勢の病人たちの中で、38年間——最も長く、最も動けず、最も誰にも助けてもらえなかった人だ。人間的な基準で言えば、最も回復の見込みが薄い人だ。
しかしイエスはこの人を見られた。「それがもう長い間のことなのを知って」——この人の38年を知っておられた。
これが恵みの論理だ。長く苦しんだことが、むしろイエスの目を引いた。人間の助けが届かないところに、神の恵みが届く。
半シェケルの平等性は、この恵みの論理を先取りしていた。贖いの前で誰も有利ではないということは、恵みの前で誰も不利ではないということだ。
ヨブとベテスダの男——二人の共通点
| 項目 | ヨブ | ベテスダの人 |
| 苦難の期間 | 記録なし、しかし長期 | 38年間 |
| 周囲の反応 | 友人たちの正論による告発 | 誰も助けてくれない |
| 自分の力 | 何もできない | 動けない |
| 神の対応 | 38章で神ご自身が現れて語られる | イエスがそばまで来て声をかける |
| 回復の方法 | 神との直接の出会い | イエスの言葉による直接の癒し |
二人とも、人間的な助けが届かない場所にいた。二人とも、自分の力では状況を変えられなかった。そして二人とも、神ご自身が直接関わってくださることで、状況が一変した。
エリフの正論はヨブを助けなかった。池のシステムはベテスダの人を助けなかった。人間が作り出した「正しい方法」では届かない場所に、神は直接来られる。
「今に至るまで働いておられる」
「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」(5:17)
この言葉は深い。
神の働きは止まらない。安息日にも働いておられる。なぜなら、神の働きの本質は「休む」ことではなく「命を与える」ことだからだ。安息日の本来の意味は、神の完成した御業の中に入ることだ。そしてイエスがベテスダで行われたことは、まさに神の完成した御業——贖いと回復——を指し示していた。
パリサイ人は安息日を守ることに一生懸命だったが、安息日が指し示していた方を見逃した。律法の条文を守りながら、律法の目的を見失った。
形式を守ることと、その形式が指し示す本質に触れることは、別のことだ。
出エジプト記の幕屋システムも、洗盤も、贖い金も——それ自体が目的ではなかった。それらはすべて、来たるべき方を指し示す影だった。
今日の通読から、私たちへ
三つの箇所を貫いて、一つの問いが残る。
あなたは今、どこに立っているか。
出エジプト記の祭司のように、段階を経て神に近づこうとしているか。エリフのように、神について正しく語りながら、神との距離を保っているか。それとも、38年間横たわっていた人のように、自分の力ではどうにもならない場所で、来てくださる方を待っているか。
逆説的だが、最も神に近い場所は、自分の力が尽きた場所かもしれない。
エリフは神について多くを語った。しかし神はヨブに直接現れた。池のシステムは「恵みの家」と呼ばれた。しかし恵みが来たのは、システムを通してではなく、イエスが来られた時だった。
「贖いがなければ神の民に登録できない」——これは出エジプト記の原則だ。しかし新約の啓示はこれを否定しない。むしろ深める。贖いはある。ただし、その贖いは人間が用意するのではなく、神が来てご自身で用意してくださった。
半シェケルの贖い金が指し示していたものは、十字架だった。洗盤の水が指し示していたものは、御霊の清めだった。そしてベテスダで起きたことは、その全体の縮図だった。
神は今に至るまで働いておられる。
距離を縮めながら、来てくださいながら、「よくなりたいか」と問いかけながら。
* * *
「わたしの父は今に至るまで働いておられます。
ですからわたしも働いているのです。」
(ヨハネ5:17)
下記の四つの図解で今日の箇所のおさらいができます 👇
(ヨハネ3:5、エペソ5:26)
(マタイ27:51)
そのしいたげの中で彼らの耳を開かれる。」
(ヨブ記 36:15)
神に近づく
格闘できる神
人に来られる
しかし、その贖いを用意されたのは人ではなく、来てくださった神ご自身だった。
イエスの復活を語る時にも使われる同じ言葉。(ローマ6:4)
そのしいたげの中で彼らの耳を開かれる。」(ヨブ記36:15)
——エリフが語り、イエスが成就された言葉

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