幕屋の臨在のパン・ヨブの絶望・バラバの解放が示す一つの真実
【通読箇所】出エジプト記25:23-30 ヨブ記12-13章 ルカの福音書23:1-26
※この記事は、要点だけを抜き出して理解できる内容ではありません。モーセ五書・旧約・新約の連続した文脈の中でのみ読まれることを意図しています。
今日の記事を貫くキーワードは תָּמִיד(タミード)——「絶えず、中断なく」という意味のヘブライ語です。この言葉が指し示す真実は、要約の中には現れません。継続して読み進める中でのみ、見えてくるものがあります。
【読み方のご案内】
第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。幕屋の机からヨブの絶望、そしてイエスの裁判へと繋がる一本の糸が、さらに鮮やかに見えてきます。
目次
第一部:御前に絶えずある——臨在のパンの机
机の構造が語るもの
出エジプト記25章23節から30節は、幕屋の備品の中でも「机」の設計図である。燭台や契約の箱ほど有名ではないが、この机が担う神学的意味は深い。
机の材料はアカシヤ材に純金をかぶせたもの。幕屋の器具に繰り返し登場するこの組み合わせは、偶然ではない。アカシヤ材は中東の乾燥地帯に育つ非常に硬く朽ちにくい木材で、ヘブライ語では以下のように呼ばれる。
עֵץ שִׁטִּים(エツ・シティーム) アカシヤ材
朽ちない木に、変質しない金をかぶせる。これは後にキリスト論の型として読まれてきた。人性(朽ちうる木)と神性(変質しない金)の結合。
机の四隅には環がつけられ、棒を通して担げるようになっていた。これは契約の箱と同じ構造だ。神の臨在は固定された場所に縛られない、移動できる臨在として設計されている。荒野を旅する民とともに動く神。
タミードという命令
25章30節に注目したい。
「机の上には臨在のパンを置き、絶えずわたしの前にあるようにする」
「絶えず」と訳されたヘブライ語は以下の言葉だ。
תָּמִיד(タミード) 継続して、中断なく、常に
安息日も、祭りの日も、戦時も、このパンは御前に置かれ続けた。祭司たちは毎週安息日に新しいパンと取り替えたが(レビ記24:8)、空白の瞬間は一切なかった。古いパンを下げると同時に新しいパンが置かれた。
神はパンを食べない。ではなぜこの命令があるのか。
臨在のパンのヘブライ語は以下の通りだ。
לֶחֶם הַפָּנִים(レヘム・ハパニーム) 御顔のパン
パンが御前に置かれ続けることは、人間が神との交わりを絶やさないという誓約のシンボルだった。これは神が人に何かを求めているのではなく、神が人との関係を「絶やさない」ことを御自身で保証する形として設計されたとも読める。
日常の器に宿る聖さ
興味深い点として、幕屋の器具の中で「机」だけが純粋に日常の家具と同じ形をしている。燭台は特殊な形状、契約の箱も特殊な構造だ。しかし机は机である。食卓は人間の日常生活の中心にある。神はその最も人間的な場所に、御自身の臨在のシンボルを置かれた。
これはイエスが「最後の晩餐」でパンを取り、「これはわたしのからだだ」と言われた時に完成する。タミードとして御前に置かれ続けたパンは、イエス・キリストにおいて永遠のタミードとなった。ヨハネ6章35節「わたしはいのちのパンです」という宣言は、この文脈の中で聞けば、その重さが全く変わってくる。
ヘブライ書10章19節から22節はこう言う。「ですから、兄弟たち、私たちはイエスの血によって、大胆に聖所に入ることができます」。臨在のパンの机が示した「御前に絶えず」という原理は、今や信者一人ひとりに開かれた現実となっている。
臨在のパンの机——構造と神学的意味
→ 型:朽ちうる人性(イエスの人としての性質)
→ 型:変わらない神性(イエスの神としての性質)
パンあり
パンあり
パンあり
同時入替
御前に
神との関係が途切れない——神ご自身の保証として設計された。
型論的繋がり:幕屋の机からキリストへ
タミードで御前に
パンです」
からだだ」
入ることができる
第二部:神が私を殺しても——ヨブの絶望の底にある信仰
友人たちの「正しい間違い」
ヨブ記12章はヨブの反論から始まる。
「まさに、あなたがたは地の民。あなたがたとともに知恵も死ぬ」(12:2)
これは激しい皮肉だ。友人たちは確かに正しいことを言っていた。神は全能であり、人間の知恵は神の前では無力だという主張は神学的に正確だ。しかしヨブはその「正しさ」に怒っている。なぜか。
友人たちの問題は知識の欠如ではなく、文脈の欠如だった。苦しんでいる人の前で正しい神学を語ることが、いかに残酷になりうるか。13章7節でヨブはその核心を突く。
「あなたがたは、神のためにと言って不正を語り、神のためにと言って欺くことを語るのか」
神を弁護しようとした者たちが、神の名において不正を行うという逆説。善意の宗教的言葉が人を傷つける時、それはヨブ記が最初に記録している。
知恵は神とともにある
12章13節から25節は、壮大な神の主権の讃歌だ。
「知恵と力は神とともにあり、思慮と英知も神のものだ」(12:13)
ヘブライ語で「知恵」と「力」はそれぞれ以下の言葉だ。
חָכְמָה(ホクマー) 知恵
גְּבוּרָה(ゲブラー) 力
この二つの組み合わせは旧約聖書全体を通じて神の本質的属性として繰り返される。ヨブはここで友人たちの「知恵」を否定しているのではなく、真の知恵の所在を明確にしている。知恵は人間の議論の中にあるのではなく、神とともにある。
13:15——信仰の逆説
13章でヨブは神に直接訴えることを求める。
「けれども、この私は全能なる方に語りかけ、神と論じ合うことを願う」(13:3)
友人たちについては「みな無用の医者だ」(13:4)と切り捨て、「あなたがたが沈黙を守っていたら、それがあなたがたの知恵となっていただろうに」(13:5)と言う。沈黙こそが時に最大の知恵だという洞察は、今日の私たちにも刺さる。
そして13章15節。
「見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも私の道を神の御前に主張しよう」
ここには有名なテキスト上の問題がある。ヘブライ語写本には二つの読み方が存在する。本文(ケティブ)には「望まない」、欄外注記(ケレ)には「彼に(神に)」と書かれており、読み方によって意味が変わる。多くの訳は「望む」の方を採用するが、「望まない」という読みも捨てがたい。「神が私を殺しても、私には望みがない——それでも神の御前に立つ」という絶望と信頼の同時存在。
どちらの読みも、ヨブの信仰の本質を変えない。その信仰は楽観主義ではなく、絶望の底で踏みとどまる何かだ。
この信仰はどこから来るのか。ヨブ自身が12章4節でさりげなく答えを出している。「神を呼び求め、神が答えてくださった者なのに」。過去に神が答えてくださった経験。その記憶が、現在の絶望の中での踏みとどまりの根拠になっている。
アブラハムがイサクを祭壇に載せた時(創世記22章)、ヘブライ書11章19節によれば「神は死者の中からでも人を生き返らせることができると考えた」。論理的説明のつかない信頼。ゲッセマネでイエスが「この杯を取り去ってください。しかし、わたしの思いではなく、あなたのみこころのままに」と祈った時(ルカ22:42)、同じ構造の信仰がある。
私にはヨブの「怖い」と思えるほどの神への信仰は、実は聖書全体を貫く信仰の形そのものだ。
13:23——罪を知らせてほしいという祈り
最後に13章23節に触れたい。
「私には、咎と罪がどれほどあるのでしょうか。私の背きと罪を私に知らせてください」
これは開き直りではない。ヨブは自分が完全だとは言っていない。ただ友人たちの「罪があるから苦しむのだ」という断定に対して「ならばその罪を具体的に示してほしい」と求めている。これは神への誠実な訴えだ。詩篇139篇23節「神よ、私を探り、私の心を知ってください」と同じ精神がある。
神の御前で自分の罪を隠さず、しかし根拠のない断罪も受け入れない。これもまた「御前に立つ」ことの一つの形だ。
第三部:沈黙と代替——御前に立たされたイエス
三つの法廷
ルカ23章1節から26節には、イエスが三つの権威の前に立たされる場面が描かれている。ユダヤの最高法院(サンヘドリン)はすでに22章で裁きを下した。23章ではローマ総督ピラトの法廷、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの法廷、そして再びピラトの法廷へと移っていく。
ローマ法では死刑を執行するには総督の承認が必要だった。ユダヤの指導者たちはイエスを殺したかったが、法的権限を持っていなかった。だから彼らはローマの法廷へイエスを連れて行った。
ここで注目すべきは訴状の内容だ。23章2節でユダヤの指導者たちはピラトに向かってこう言う。「この者はわが民を惑わし、カエサルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることが分かりました」。これは意図的な歪曲だ。イエスはマルコ12章17節で「カエサルのものはカエサルに返しなさい」と明確に言っている。
三度の無罪宣言
ピラトはイエスを取り調べ、4節で言う。「この人には、訴える理由が何も見つからない」。これが一度目の無罪宣言。ヘロデのもとへ送られ、戻ってきた後、15節で「ヘロデも同様だった」として二度目の無罪が確認される。そして22節でピラトは三度目に言う。「この人がどんな悪いことをしたというのか。彼には、死に値する罪が何も見つからなかった」。
三度の無罪宣言。これはルカが意図的に構成したものだ。ペテロがイエスを三度否んだ(22:54-62)のと呼応するように、ピラトは三度無罪を宣言しながら最終的に引き渡す。三度の否認と三度の無罪宣言が並走している。
イエスの沈黙
ヘロデの前でのイエスの態度は特筆に値する。
「それで、いろいろと質問したが、イエスは何もお答えにならなかった」(23:9)
ヘロデはイエスに「しるしを見たい」と思っていた(23:8)。奇跡を娯楽として消費しようとする者には、イエスは何も語らない。これは拒絶ではなく、識別だ。真剣に求める者には語り、見世物を求める者には沈黙する。
イザヤ53章7節の預言が重なる。「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かなかった。屠り場に引かれて行く羊のように」。
ピラトの前でも、イエスの言葉は最小限だ。「あなたがそう言っています」(23:3)。ギリシャ語では以下の表現が使われている。
σὺ λέγεις(スュ・レゲイス) あなた自身がそう言っている
肯定とも否定とも取れる応答。しかしその沈黙と最小限の言葉の背後に、すべてを御存知の方が、すべてを御父に委ねているという静けさが見える。
バラバという名前の神学
23章18節から25節、バラバの解放の場面に来る。群衆はバラバの釈放を叫んだ。暴動と殺人の罪人が解放され、無罪のイエスが引き渡される。これは単なる歴史的不条理ではない。贖罪の原理が歴史の舞台で文字通り演じられた瞬間だ。
バラバという名前はアラム語で以下の意味を持つ。
בַּר אַבָּא(バル・アッバー) 父の子
罪ある「父の子」が解放され、真の「御父の独り子」が死に渡された。さらに一部の写本(マタイ27:16の一部)にはバラバのフルネームが「イエス・バラバ」として記録されている。もしそうであれば、ピラトは群衆に「イエス・バラバ」か「イエス・キリスト」かを選ばせたことになる。同じ名前を持つ二人の、これ以上ないコントラスト。
群衆はバラバを選んだ。しかしその選択の中で、神の救済計画は粛々と進んでいた。
シモンという名の目撃者
23章26節、十字架への道でキレネ人シモンがイエスの十字架を担わされる場面で今日の箇所は終わる。「田舎から出て来た」という描写が気になる。彼は何も知らずにエルサレムに来て、その日、歴史上最も重い荷物を担ぐことになった。マルコ15章21節によれば彼はアレクサンドロとルポスの父であり、後に初代教会の信者として知られていたと考えられている。
予期しない出会いが、人生を変える。シモンは強制されて担いだ十字架だったかもしれない。しかしその強制の中に、神の招きがあった。
第四部:御前に立つことを諦めない——三つの箇所を貫く一つの真実
三つの場面が指し示すもの
今日の通読は、表面上は全く異なる三つの場面を扱っている。幕屋の机の設計図、苦しむヨブの神への訴え、そしてイエスの裁判と十字架への道。時代も文脈も登場人物も異なる。しかし読み終えた時、一本の糸が三つを貫いていることに気づく。
神の御前に立つことを諦めない、という信仰の形だ。
タミード——絶えず、中断なく
出エジプト記25章30節の「絶えず」、ヘブライ語 תָּמִיד(タミード)という言葉から始めたい。臨在のパンは御前に絶えず置かれた。空白の瞬間は一切なかった。古いパンが下げられると同時に新しいパンが置かれた。
タミードという原理は、信仰を「特別な宗教体験の積み重ね」としてではなく、「日常の継続」として定義する。机は食卓と同じ形をしていた。最も人間的な日常の器に、神の臨在のシンボルが置かれた。信仰は非日常の中にあるのではなく、毎日の継続の中にある。
ヨブの踏みとどまり
ヨブは「タミード」という言葉を使わない。しかし彼の信仰はまさにタミードだ。すべてを失い、友人たちに誤解され、神に見捨てられたと感じながら、それでもヨブは神の御前から離れなかった。13章3節「この私は全能なる方に語りかけ、神と論じ合うことを願う」。逃げるのではなく、神に向かっていく。
ヨブが神を理解していたわけではないということが重要だ。ヨブは神の計画を知らなかった。なぜこれほどの苦しみが自分に来たのか、説明できなかった。しかし説明できないまま、御前に立ち続けた。これが聖書の信仰の形だ。理解を超えたところで、それでも神の方を向いていること。
イエスの沈黙という究極のタミード
ルカ23章のイエスは、御前に「立たされた」方だ。しかしその受動性の中に、究極の能動性がある。ピラトの前でもヘロデの前でも、イエスは弁明しなかった。自分を救うことができたはずの方が、沈黙を選んだ。その沈黙は諦めではなく、御父への完全な委託だった。
バラバの解放はその神学的核心を可視化した。罪ある者が解放され、無罪の方が死に渡される。ヨブが「神が私を殺しても待ち望む」と言った信仰は、イエスにおいて文字通り現実になった。神は御自身の独り子を死に渡された。そしてその死の中に、すべての命の源があった。
臨在のパンが「御顔のパン」であったように、イエスは御父の御顔を人間に向けた方だ。ヨハネ14章9節「わたしを見た人は、父を見たのです」。タミードとして御前に置かれ続けたパンは、イエス・キリストにおいて永遠のタミードとなった。
私たちへの問い
今日の三箇所は、それぞれ異なる方法で同じ問いを投げかけている。
出エジプト記は問う。あなたは御前に「絶えず」あろうとしているか。
ヨブ記は問う。説明のつかない苦しみの中で、それでも神の御前に立ち続けるか。
ルカ福音書は答える。イエスがその全てを、私たちの代わりに担われた。
臨在のパンの机を担ぐための棒が金をかぶせたアカシヤ材で作られていたように、私たちの信仰の歩みも、自分の力ではなく神の恵みによって支えられている。タミードという継続は、人間の努力の継続ではなく、神の恵みの継続の中に人間が参与することだ。
完璧な信仰を持ってから御前に出るのではない。怖いまま、疑問を抱えたまま、理解できないまま、それでも御前に出続けること。それが聖書全体を貫く信仰の形だ。
——以上——
タミードの概念図——三箇所を貫く一本の糸
空白の瞬間なく御前に置かれ続けるパン。机は「食卓」の形——最も人間的な日常の場に、神の臨在が宿る。
移動できる構造(担ぎ棒)は、荒野を旅する民とともに動く神を示す。
出25:30
すべてを失い、友人にも誤解されながら、ヨブは神から離れなかった。「論じ合うことを願う」——逃げるのではなく神に向かう。
「神を呼び求め、神が答えてくださった」過去の経験が絶望の中での踏みとどまりの土台になる。
ヨブ13:15
弁明せず、沈黙のまま御前に立たれたイエス。その受動性の中に御父への完全な委託がある。
バラバの解放は贖罪の型が歴史の舞台で文字通り演じられた瞬間。
ルカ23:9
タミードの流れ——「御前に絶えず」が完成するまで
置かれる
御前に立ち続ける
御前に立たされる
御前に入れる
(ヘブル10:19)
❌ 友人たちの「御前」
神について語った。正しい神学を武器にして、苦しむヨブを断罪した。「神のためにと言って不正を語る」(13:7)
✅ ヨブの「御前」
神に向かって語った。説明できないまま、それでも御前に立ち続けた。「全能なる方に語りかけ、論じ合うことを願う」(13:3)
ヨブ記:説明のつかない苦しみの中で、それでも神の御前に立ち続けるか。
ルカ福音書:イエスがその全てを、私たちの代わりに担われた。

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