エサウの系図からヨブへ — 聖書が教える「全ての人の神」

通読

はじめに

今日の通読箇所は、創世記36章、列王記上8-9章、マルコ4章26節以降です。

一見すると、エサウの系図、ソロモンの神殿奉献、イエス様が嵐を静める奇跡——まったく関連のない三つの場面に見えます。

しかし、じっくり読み進める中で、これらを貫く一つの壮大なテーマが浮かび上がってきました。

「神は全ての人の神である」

選びの民イスラエルだけでなく、その外にも働いておられる神の姿が、今日の箇所全体に流れています。


第一部:エサウの系図に隠された宝(創世記36章)

「退屈な系図」の中に

創世記36章は、エサウ(エドム)の子孫の系図です。正直に言えば、聞き慣れない名前が延々と続き、読み飛ばしたくなる箇所かもしれません。

しかし、聖書に無駄な箇所はありません。この系図の中に、驚くべき宝が隠されていました。

エリファズとテマン——ヨブ記への扉

創世記36:10-11を見てください。

エサウの子の名は次のとおり。エサウの妻アダの子エリファズ…エリファズの子はテマン、オマル、ツェフォ、ガタム、ケナズである。

「エリファズ」「テマン」——この名前に見覚えはないでしょうか。

ヨブ記2:11にこうあります。

ヨブの三人の友人…テマン人エリファズ、シュアハ人ビルダデ、ナアマ人ツォファルは…

エサウの息子エリファズ、その息子テマン。そしてヨブ記に登場する「テマン人エリファズ」。

これは偶然の一致ではありません。ヨブの友人エリファズは、エサウの子孫だったのです。テマンの地に住む、エドム人の知恵者でした。

ヨブはいつの時代の人か

この繋がりから、ヨブが生きた時代が見えてきます。ヨブは族長時代(アブラハム、イサク、ヤコブの時代)の人物だった可能性が高いのです。

その根拠をいくつか挙げてみましょう。

(1)テマン人エリファズの存在

エサウの孫テマンの子孫が登場するということは、ヨブもその時代に近い人物だったことを示唆します。

(2)ウツの地との関連

ヨブ記1:1「ウツの地にヨブという名の人がいた」

創世記36:28には「ディシャンの子は次のとおり。ウツ、アラン」とあります。エドム地域との地理的な繋がりがあります。

(3)ヨブ自身が祭司として犠牲を捧げている

ヨブ記1:5で、ヨブは家長として自ら犠牲を捧げています。レビ的祭司制度が存在しない族長時代の特徴です。アブラハム、イサク、ヤコブも同様に、家長が祭司の役割を果たしていました。

(4)富の測り方

ヨブ記1:3「羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭」

家畜で富を測るのは、貨幣経済以前の遊牧民的な富の概念であり、族長時代の特徴です。

(5)ヨブの長寿

ヨブ記42:16「この後ヨブは百四十年生き…」

アブラハム175歳、イサク180歳、ヤコブ147歳という族長時代の寿命に近い数字です。

(6)モーセの律法への言及がない

ヨブ記全体を通して、シナイ契約、律法、出エジプト、イスラエルの歴史への言及が一切ありません。これは、ヨブがモーセ以前の人物であることを強く示唆しています。

エドムの知恵の伝統

エドム(特にテマン)は、古代世界で知恵の伝統によって知られていました。

エレミヤ49:7はこう語ります。

テマンについて。万軍の【主】はこう言われる。「テマンにはもう知恵がないのか。分別ある者から、すぐれた知恵は消えうせたのか。」

オバデヤ書8も同様です。

その日には…わたしはエドムから知恵ある者を絶えさせないだろうか。エサウの山から英知を

これらの預言は、エドムが知恵の中心地であったことを前提としています。ヨブ記はまさに、その「エドムの知恵文学」の頂点と言えるかもしれません。

補足:アマレク人とアナク人の違い

創世記36:12に「エリファズにアマレクを産んだ」とあります。

アマレク人は後にイスラエルの宿敵となりますが、「アナク人」(ネフィリム系の巨人)とは全く別の民族です。名前が似ているので混同しやすいですが、整理しておきましょう。

アマレク人(עֲמָלֵק:エサウの孫。エリファズとそばめティムナの子。巨人ではない。

アナク人(עֲנָקִים:「首飾りをつけた者」の意味。ネフィリムの子孫とされる巨人の民族。ヘブロン周辺に住んでいた。

神は選びの外にも働いておられた

ここで立ち止まって考えたいことがあります。

なぜ神は、異邦人ヨブの物語を聖書に入れたのでしょうか。

ヨブはイスラエル人ではありません。アブラハムの契約の民ではない。モーセの律法も知らない。

それなのに、神はヨブを「わたしのしもべ」と呼ばれました(ヨブ記1:8)。

「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない。」

神の目に「地上で最も正しい人」が、選民イスラエルの外にいたのです。

エサウの系図は、単なる名前の羅列ではありません。神がイスラエルの外にも働いておられた証拠なのです。


第二部:異邦人のために祈った王(列王記上8-9章)

神殿奉献の壮大さ

列王記上8章は、ソロモンによる神殿奉献の場面です。

契約の箱が至聖所に運び込まれ、主の栄光の雲が宮に満ちました。祭司たちは「その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった」(8:11)ほどでした。

イスラエルの歴史における最も聖なる瞬間の一つです。

ソロモンの驚くべき祈り

この神聖な場面で、ソロモンは長い祈りを捧げます。その中に、驚くべき一節があります。

列王記上8:41-43

また、あなたの民イスラエルの者でない外国人についても、彼があなたの御名のゆえに、遠方の地から来て…この宮に来て祈るとき、あなたご自身が…その外国人があなたに向かって願うことをすべてかなえてください。そうすれば、この地のすべての民が御名を知り…あなたを恐れるようになり…

神殿奉献という、イスラエルにとって最も特別な瞬間に、ソロモンは異邦人のために祈ったのです。

これは革命的なことでした。神殿はイスラエルの神、イスラエルの民のためのもの——そう考えるのが自然です。しかしソロモンは、この神殿が「すべての民」が神を知る場所となることを願いました。

これは、創世記12:3でアブラハムに与えられた約束の成就への希望です。

あなたによって地上のすべての民族が祝福される。

そして後に、イエス様が神殿で商人たちを追い出した時の言葉に繋がります(マルコ11:17)。

「わたしの家は、すべての国民の祈りの家と呼ばれる」と書いてあるではないか。

神は最初から「すべての民族の神」であることを意図しておられたのです。

契約の箱の中身の謎

興味深い記述があります。

列王記上8:9

箱の中には、二枚の石の板のほかには何も入っていなかった

しかし、ヘブル人への手紙9:4には、契約の箱の中に「マナの入った金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二枚の板」があったと記されています。

この違いは何を意味するのでしょうか。

考えられる説明としては、サムエル記上4-6章でペリシテ人に契約の箱が奪われた際に、一部の内容物が失われた可能性があります。あるいは、マナの壺やアロンの杖は「箱の中」ではなく「箱の側」に置かれていたという解釈もあります(申命記31:26参照)。

ヘブル人への手紙はモーセ時代の理想的な状態を、列王記はソロモン時代の実際の状態を記録しているのかもしれません。

ケルビムについて

列王記上8:7「ケルビムは箱の所の上に翼を広げた」

この「ケルビム」は生きた天使ではなく、金で作られた像です(出エジプト記25:18-20)。

ソロモンの神殿には二種類のケルビムがありました。一つは契約の箱の蓋(贖いの蓋)と一体になった小さなケルビム。もう一つはソロモンが新たに作った高さ約4.5メートルの大きなケルビム(列王記上6:23-28)です。

「翼を広げた」という表現は、像が翼を広げた形で作られていたことを示しています。

ソロモンの栄光と影

9章では、ソロモンの繁栄が描かれます。しかし同時に、不穏な影も見え始めています。

9:19「戦車のための町々、騎兵のための町々」

申命記17:16で、王について「自分のために決して馬を多く増やしてはならない」と命じられていました。しかしソロモンは戦車と騎兵を増やしていきます。

神殿奉献という霊的な頂点にいながら、すでに神の命令からの逸脱が始まっていたのです。これは後の王国分裂への伏線となります。


第三部:嵐の中で眠るイエス(マルコ4章)

完全な信頼の姿

マルコ4:37-38

すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた

弟子たちが恐怖で叫ぶ中、イエス様は眠っておられました。これは単なる疲れではありません。父なる神への完全な信頼の表れです。

詩篇4:8を思い起こさせます。

平安のうちに私は横たわり、眠ります。【主】よ、あなただけが、私を安らかに住まわせてくださるからです。

「信仰がないのは、どうしたことです」

イエス様は風と湖を静めた後、弟子たちに言われました。

「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」(4:40)

これは厳しい叱責というより、招きだと思います。

「わたしがいるのに、なぜ恐れるのか。わたしと同じ平安の中に生きなさい」と。

「向こう岸へ」——異邦人への橋渡し

4:35でイエス様は「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われました。

この「向こう岸」とは、ゲラサ人の地——異邦人の地です(5章)。嵐を乗り越えた先に、イエス様は異邦人のもとへ向かわれました。

ここにも「全ての人の神」というテーマが流れています。イエス様の救いは、イスラエルだけのものではなく、全ての民族に届けられるものでした。


結論:全ての人の神

今日の三箇所を振り返ります。

創世記36章——エサウの系図。選びから外れたように見える家系から、ヨブの友人のような知恵者が生まれ、神は「わたしのしもべヨブ」と呼ぶ人物を見出されました。

列王記上8章——ソロモンの祈り。神殿奉献という最も聖なる瞬間に、異邦人のために祈りが捧げられました。「この地のすべての民が御名を知るようになる」ために。

マルコ4章——イエス様は嵐を静めた後、「向こう岸」——異邦人の地へ向かわれました。

神は選民イスラエルだけの神ではありません。全ての人の神です。

ヨブ記が聖書に含まれていることは、このことの証拠です。イスラエルの外にも、神を恐れ、神に出会った人がいた。神の恵みは、私たちが思う以上に広いのです。


日本への希望

最後に、日本への福音を考えます。

日本は「福音が届きにくい国」と言われます。クリスチャン人口は1%未満。しかし、ヨブのことを思うと希望が湧きます。

ヨブは聖書を持っていませんでした。イスラエルの民でもなかった。それでも神を恐れ、神に出会いました。

日本にも、まだ福音を聞いていないけれど、神を求めている「ヨブ」のような人々がきっといます。

神は日本でも働いておられます。私たちが思う以上に。


今日の通読箇所:創世記36章、列王記上8-9章、マルコ4:26-41

noteの方では、聖書初心者でもわかりやすく今日の箇所を紹介しています

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