——ヨブが叫んだ仲裁者は、血の汗を流して祈っていた——
通読箇所:出エジプト記25:1-9 / ヨブ記8-9章 / ルカ22:31-53
はじめに
「私たちふたりの上に手を置く仲裁者が、私たちの間にはいない」 (ヨブ9:33)
これはヨブが苦しみの底で叫んだ言葉だ。神を信じていないから出た言葉ではない。神を信じ、神の偉大さを誰よりも深く知っていたからこそ、その神に届かない絶望が言葉になった。
今日の通読は三箇所にまたがる。出エジプト記25章——荒野で神が幕屋の設計図を渡す場面。ヨブ記8〜9章——友人の神学に反論しながら、ヨブが深淵に立つ場面。そしてルカ22章——ゲッセマネの園で、血の汗を流しながら祈るイエスの場面。
一見、何の繋がりもないように見える。
しかしこの三つは一本の糸で繋がっている。その糸の名前は「仲裁者」だ。神は幕屋の設計図の中にすでにその答えを描いていた。ヨブはその答えを知らずに叫んだ。そしてゲッセマネで、仲裁者はご自身の体で答えを示された。
ヨブの叫びが放たれてから、答えが来るまでに何百年もかかった。しかし神はその叫びを聞いていた。聞いていただけでなく、答えをすでに用意していた。
今日はその長い物語を、一日の通読の中で辿る。
※この記事は、要点だけを抜き出して理解できる内容ではありません。モーセ五書・旧約・新約の連続した文脈の中でのみ読まれることを意図しています。
【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。
第一部:トーラー——幕屋、神は共に住みたかった
※この第一部だけで、「神は人間の側に来たかった——その願いは幕屋の設計図の一枚一枚に刻まれていた」という今日の中心メッセージが示されます。
出エジプト記25章は、シナイ山での出来事の続きです。神はモーセに十戒を与え、様々な律法を語られました。そして律法の後に神が最初に設計図を渡したのは、意外なことに「神殿の建設計画」でも「軍事戦略」でもありませんでした。神ご自身が住む場所——幕屋(ミシュカン)の設計図でした。
この順番に、神の優先順位が現れています。
奉納物は「強制」ではなく「心から」
2節でまず注目したいのは、奉納物の条件です。「すべて、心から進んでささげる人から」——ヘブライ語原文では
【ヘブライ語】נְדִיבַת לִבּוֹ (ネディーバット・リッボー) 心の自発性
という言葉が使われています。神は豊かな素材を必要とされましたが、強制によって集めることを望まれなかった。神の住処は、強いられた献金の上には建てられない——これは新約のコリント第二9:7「各自、惜しむ心からでなく、強いられてでもなく」と完全に響き合っています。
素材が語る神学
集められた素材のリストは一見無味乾燥に見えますが、それぞれが深い意味を持っています。
金(ザーハーブ)——神性と王権
金は神性と王権の象徴です。幕屋の最も聖なる部分——契約の箱、燭台、香の祭壇——はすべて金で覆われます。神の臨在がある場所には金がある。これは「神の国」の象徴的な言語です。
銀(ケセフ)——贖いの代価
銀は特別です。出エジプト記30章を見ると、銀は人口調査の際にイスラエルの民が「自分のいのちの贖いのしろ」として納めたお金と同じものです。つまり幕屋の土台は文字通り「贖いの代価」の上に立っている。これはキリストの十字架による贖いを予型として指し示しています。
青銅(ネホシェット)——裁き
青銅は裁きの象徴です。青銅の祭壇——動物の犠牲がささげられる場所——はこの素材で作られます。罪が裁かれる場所に青銅がある。民数記21章で民が罪を犯したとき、神は青銅の蛇を作るよう命じられました。イエスはヨハネ3:14でこれをご自身の十字架と結び付けておられます。
じゅごんの皮(タハシュ)——外見は粗く、内側に栄光
じゅごんの皮は幕屋の最も外側を覆う素材です。外見は粗く、美しくない。しかし内側には金と宝石がある。ここでイザヤ53:2の言葉を思い起こさずにはいられません。「彼には見るべき美しさもなく、輝きもなく」——外側から見れば何の価値もないように見えるが、内側に神の栄光が宿っている。幕屋の外皮はイエスの御姿の予型として読む神学者たちがいます。
25:8——すべての素材が向かう一点
金の輝き、銀の贖い、青銅の裁き、粗いじゅごんの皮——これらすべての素材を神が求められた理由が、8節に凝縮されています。
「彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む」 (出エジプト記25:8)
ヘブライ語で「住む」は
【ヘブライ語】שׁכן (シャカン) 住む・宿る・テントを張る
この動詞から「シェキナー」——神の栄光の臨在——という言葉が生まれました。幕屋を指すミシュカン(מִשְׁכָּן)も同じ語根です。神が人の間に「テントを張る」というイメージです。
シナイ山で雷鳴と稲妻の中に降られた神が、今度は人間の手で作られた布と木と金属の中に住もうとされている。律法を与える前に、神はまず「共に住みたい」という願いを示された。
これは神の本質です。距離を置いて命令を下す神ではなく、人間の側に来て、共に住もうとする神。
この願いは幕屋で完結しませんでした。ヨハネ1:14は記します——「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」。このギリシャ語動詞は
【ギリシャ語】σκηνόω (スケーノオー) テントを張る・住まう
出エジプト25章のシャカンを意識した言葉の選択です。ヨハネは言っています——幕屋がずっと指し示していたものが、ここで肉体を持って現れた、と。
神は最初から、共に住みたかった。
第二部:旧約——ヨブ記、仲裁者のいない深淵
※第二部では、「共に住みたい」と願われる神に、なぜ人間は近づけないのか——その深淵をヨブが正面から見つめます。そしてその絶望の中から、思いがけない伏線が生まれます。
ビルダデという神学者
ヨブ記8章で語るのは、友人ビルダデです。彼の言葉は一見筋が通っています。「神は公義を曲げるだろうか」(8:3)——正しい神学命題です。「神を忘れる者の道はこのようだ」(8:13)——正しい警告です。
しかし彼の神学には致命的な欠陥があります。それは目の前の人間を見ていないということです。
彼が持ち出すパピルスと葦の比喩(8:11-12)は興味深い。「パピルスは沼地でなくても育つだろうか」——パピルスは古代エジプトで紙の原料として使われた植物です。水辺にしか育たない。水がなければどれほど若くても枯れる。ビルダデはこれを使って言います——神なき者は水なきパピルスのように枯れる、と。
正しい比喩です。しかしヨブに当てはまらない。ヨブは神を忘れていない。神を必死に求めている。それでも枯れていく——これがビルダデの神学では説明できない現実です。
「蜘蛛の巣」の比喩(8:14-15)も同様です。精巧に見えても体重を支えられない——神以外のものに信頼を置く者の脆さを言っています。これも正しい。しかしヨブは蜘蛛の巣に頼っていない。神に頼っている。それでも崩れていく。
ビルダデは正しい神学を持ちながら、目の前の人間を見ていなかった。これはヨブ記が私たちに突きつける最初の問いです——神学的に正確であることと、苦しむ人に寄り添うことは、別のことである、と。
ヨブの正直さ
9章でヨブが語り始めます。そしてここに聖書の中でも稀な、驚くべき正直さがあります。
「まことに、そのとおりであることを私は知っている。しかし、どうして人は自分の正しさを神に訴えることができようか」 (ヨブ9:2)
ヨブはビルダデの言葉を否定しません。神は公義の方だ。それは知っている。しかし——という形で、ヨブは語り始めます。
注目したいのは9:9です。「神は牡牛座、オリオン座、すばる座、それに南の天の室を造られた」——ヨブは星座の名を挙げます。
【ヘブライ語】כְּסִיל (ケシール) オリオン座
【ヘブライ語】כִּימָה (キーマー) すばる座(プレアデス)
古代の人々が夜空を見上げて神の偉大さを感じた星々です。ヨブは苦しみの中で空を見上げ、その星を造った方の偉大さを語っている——この場面には不思議な美しさがあります。
深淵に立つヨブ
「たとい神が私のそばを通り過ぎても、私には見えない。神が進んで行っても、私は認めることができない」 (ヨブ9:11)
これは信仰の喪失ではありません。むしろ逆です。神がいることを信じているからこそ、その神に届かない絶望が深い。神の聖さと人間の有限さの間にある深淵を、ヨブは誰よりも鮮明に見つめていました。
「たとい私が雪の水で身を洗っても、灰汁で私の手をきよめても、あなたは私を墓の穴に突き落とし」(9:30-31)——どれほど自分を清めようとしても、神の前に立てない。人間の努力では埋まらない溝がある。
そしてヨブは9章の最後でその溝を言語化します。
「私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない」 (ヨブ9:33)
ヘブライ語で仲裁者は
【ヘブライ語】מוֹכִיחַ (モキアッハ) 裁定する者・間に立つ者
神と人の両方の上に手を置いて、その溝を埋める者。ヨブはその不在を嘆いています。
これは絶望の叫びです。しかし同時に、預言的な叫びでもあります。ヨブはその仲裁者を知らずに叫んでいます。しかしその叫びは、聖書全体の中で答えを待っている問いとして響き続けます。テモテ第一2:5はこう答えます——「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、人としてのキリスト・イエスです」。
復活信仰への伏線
今日の箇所ではまだ現れませんが、ヨブ記を読み進めると、ヨブの信仰は「仲裁者がいない」という絶望から、思いがけない方向へと深まっていきます。
14章でヨブは問います——「人は死んだら、また生きるだろうか」(14:14)。これは疑問ですが、問い続けることへの意志でもあります。そして19章でその問いは確信に変わります。
「わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられる。後の日に、その方は必ず地の上に立たれる」 (ヨブ19:25)
仲裁者がいないという絶望から、贖い主は生きているという確信へ——この旅がヨブ記の霊的な背骨です。今日の9章は、その旅の出発点です。絶望の深さが後の確信の高さを決める。ヨブは底まで降りたからこそ、19章で天まで届く信仰を語ることができた。
第三部:新約——ゲッセマネ、仲裁者が現れた
※第三部では、ヨブが叫んだ「仲裁者」が、ゲッセマネの園で何をされていたかを見ます。
ペテロへの言葉——仲裁者の仕事はすでに始まっていた
ゲッセマネに向かう前、イエスはペテロに驚くべきことを言われます。
「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」 (ルカ22:31-32)
ここで注目したいのは、サタンの「願い」が「聞き届けられた」という表現です。ヨブ記1章を思い起こさせます。サタンがヨブを試すことを神に願い、許可された——あの場面と同じ構造です。神はサタンの働きさえも御手の中に置いておられる。
しかしイエスはすぐに続けます。「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」——ここにすでに仲裁者の働きがあります。サタンがふるいにかけようとしている。しかし仲裁者が間に立って祈っている。ヨブが「私たちの間に仲裁者がいない」と嘆いた、まさにその位置に、イエスは立っておられます。
「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(22:32)——イエスはペテロの失敗の先にある回復をすでに見ておられた。
ゲッセマネ——仲裁者の重さ
「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」 (ルカ22:42)
ヨブは神に訴えることができないと言いました(9:14)。しかしイエスは訴えておられる——しかも「取りのけてください」と。これは驚くべきことです。神の御子が、苦しみを避けたいという願いを正直に父に向かって叫んでいる。
しかし祈りの結論は「みこころのとおりに」です。この一言の中に、仲裁者としての全重量があります。神の側の義と人間の側の苦しみ——その両方を引き受けて「みこころのとおりに」と言える者だけが、神と人の間に立てる。
ルカだけが記録する細部があります。「汗が血のしずくのように地に落ちた」(22:44)。医者であったルカ(コロサイ4:14)はこれを医学的観察として記しています。血汗症——極度のストレス下で毛細血管が破裂し汗腺に滲み出る現象です。イエスの苦しみは精神的な演技でも比喩でもなく、身体を破壊するほどのリアルな重さだった。
眠る弟子たちと祈るイエス
祈り終えたイエスが弟子たちのところに戻ると、彼らは眠っていました。ルカは優しく「悲しみの果てに」眠り込んでいたと記します(22:45)。責めではなく、人間の限界への理解として。
しかしここに静かな対比があります。仲裁者が血の汗を流して祈っている間、守られるべき者たちは眠っていた。イエスが「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた意味が、この後すぐに現れます——ペテロは剣を抜き、イエスを否認し、弟子たちは逃げ散ります。祈っていなかった者たちは、試練の時に崩れました。
ユダの口づけ——最後の問いかけ
「ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか」 (ルカ22:48)
愛の挨拶である口づけを裏切りの手段として使う——これ以上の皮肉はありません。しかしイエスの言葉は怒りではなく、問いかけです。「しようとするのか」——まだ間に合う、という最後の呼びかけとも読めます。
大祭司のしもべの耳が切り落とされたとき(22:50)、イエスは「やめなさい」と言ってその耳を癒されます(22:51)。逮捕される直前に、敵の僕を癒している。仲裁者の働きは、ご自身が傷つけられる瞬間まで続いていました。
「今はあなたがたの時です。暗やみの力です」 (ルカ22:53)
これはイエスの敗北宣言ではありません。この「暗やみの時」さえも、神の計画の中にある。ヨブ記でサタンの働きが神の許可の中にあったように、この夜の闇もまた、神の御手の外にはない。仲裁者は今、捕らえられようとしています。しかしこれこそが、仲裁者の仕事の本番でした。
第四部:三箇所を貫く神の一貫性
※ここまで読んでくださった方へ。出エジプト・ヨブ・ルカ——三つの箇所に流れる一本の糸を、最後に確認します。
問いと答えの間に、何千年もあった
ヨブが叫んだのはいつのことだったか——聖書学者の多くはヨブ記をアブラハムと同時代かそれ以前と見ています。出エジプトよりも古い可能性がある。そして出エジプト25章の幕屋の設計図はモーセの時代、ゲッセマネはそのさらに千五百年後です。
しかし今日、私たちはこの三つの箇所を一日で読みました。そして気づきます——これは一つの物語だった、と。
問いがあり、予型があり、成就があった。
出エジプト25章が語ること
神はシナイ山でイスラエルに律法を与えた後、最初に設計図を渡したのは「神ご自身が住む場所」でした。幕屋の素材——贖いを指す銀、裁きを指す青銅、外見は粗く内側に栄光を秘めたじゅごんの皮——これらはすべて、来たるべき仲裁者の姿を素材の言語で語っていました。
神はすでに答えを用意していた。ヨブがまだ叫ぶ前から。
ヨブ9章が語ること
ヨブは神の偉大さを誰よりも深く知っていたがゆえに、神に近づけない絶望も誰よりも深く味わいました。「私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない」——この叫びは、答えられないまま宙に浮いているように見えます。しかし聖書全体の文脈の中で読むとき、この叫びは預言的な問いとして機能しています。
神はこの叫びを聞いていた。そして答えを用意していた——幕屋の設計図の中に、すでにその輪郭を描いていた。
ルカ22章が語ること
ゲッセマネの園で、仲裁者が血の汗を流しながら祈っています。「みこころのとおりにしてください」——この一言の中に、仲裁者としての全重量があります。神の側の義と人間の側の罪、その両方を引き受けて「みこころのとおりに」と言える者だけが、神と人の間に立てる。
ヨブは「神は私のように人間ではないから」(9:32)と言いました。しかしゲッセマネのイエスは人間です。血の汗を流し、御使いに力づけられる必要があった——神が人となることの深さがここにあります。神は「人間ではない」という溝を、ご自身が人となることで埋められた。
ヨブが求めた仲裁者の条件は二つでした。神と人、両方の上に手を置ける者。テモテ第一2:5はこう答えます——
「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、人としてのキリスト・イエスです」 (テモテ第一2:5)
完全に神であり、完全に人である方だけが、その両方の上に手を置けます。
復活信仰への伏線——ヨブ記の旅
今日の箇所でヨブは絶望の底にいます。しかしヨブ記はここで終わりません。14章でヨブは問います——「人は死んだら、また生きるだろうか」。そして19章でその問いは確信に変わります——「わたしを贖う方は生きておられる。後の日に、その方は必ず地の上に立たれる」(19:25)。
仲裁者がいないという絶望から、贖い主は生きているという確信へ。この旅の出発点が今日の9章でした。そしてルカ22章のイエスは、まさにその「後の日に地の上に立たれる」贖い主です。ゲッセマネで捕らえられ、十字架で死に、しかし三日目に復活される——ヨブの確信は、千数百年後に文字通り成就しました。
神は最初から、共に住みたかった
出エジプト25章の幕屋、ヨブ9章の絶望の叫び、ルカ22章のゲッセマネ——この三つを貫く一本の糸は、神の変わらない願いです。
幕屋で神は「彼らの中に住む」と言われた。ヨブは「仲裁者がいない」と叫んだ。そしてゲッセマネで仲裁者は「みこころのとおりに」と祈られた。
ヨハネ1:14はこの全体を一文で語ります。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」——「住まわれた」はσκηνόω、「テントを張る」という動詞です。出エジプト25章のシャカン(שׁכן)と同じイメージ。幕屋(ミシュカン)が指し示していたものが、肉体を持って現れた。
神は律法を与える前に幕屋の設計図を渡した。それは神の優先順位を示しています——命令よりも先に、共にいたいという願いがある。
ヨブの叫びは宙に浮いたままではありませんでした。神はその叫びを聞いていた。答えるのに千年以上かかりましたが、答えは血の汗を流しながら「みこころのとおりに」と祈る形で来ました。
あなたのために、すでに祈られている
「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」 (ルカ22:32)
これは過去のペテロだけへの言葉ではありません。仲裁者は今も生きて、私たちのために執り成しておられます(ヘブル7:25)。ヨブが求めた「私たちふたりの上に手を置く者」は、今も神の右に座して、私たちのために手を置いておられる。
神は最初から、共に住みたかった。ヨブの叫びはその願いに向かって放たれた矢でした。そしてゲッセマネで、その矢は的に当たりました。
聖書の名言集 / 2026年2月21日

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