——復活の主はなぜマリヤに触れることを拒み、トマスには触れよと言ったのか——
復活の朝、イエスはマグダラのマリヤに「わたしにすがりついていてはいけません」と言い、八日後にはトマスに「触れなさい」と言った。同じ復活のイエスが、なぜ一方には触れることを禁じ、他方には触れることを勧めたのか。この問いに簡単な答えはない。大祭司キリスト論との関連を見る神学者もいれば、関係性の変化として読む者もいる。本記事はこの謎に誠実に向き合いながら、詩篇71篇・72篇と合わせて「神は名を呼ぶ方である」というテーマを探っていく。
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| 【読み方のご案内】 第一部(詩篇71篇)だけでも、十分に霊的糧を得られます。 時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(詩篇72篇)、第三部(ヨハネ20章)、第四部(一貫性)へとお進みください。 聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。 |
目次
第一部 詩篇71篇——老いてもなお、名を呼ばれた者の証し——
詩篇71篇には表題がない。著者の名も記されていない。しかしその内容から、多くの学者はダビデの晩年の詩と見ている。「年老いた時も私を見放さないでください」(9節)、「年老いて、しらがになっていても」(18節)——これは人生の後半を生きる者の、切実な祈りである。
ここで注目したいのは7節の言葉だ。
「私は多くの人にとっては奇蹟と思われました。あなたが、私の力強い避け所だからです。」
「奇蹟」と訳されているヘブライ語はמוֹפֵת(モフェット)である。
| 原語(ヘブライ語) | 発音(カタカナ) | 意味 |
| מוֹפֵת | モフェット | 驚くべき徴、しるし、前兆 |
| מַחְסִי | マフシー | 私の避け所、私の逃げ場 |
| תְּהִלָּה | テヒッラー | 賛美、栄光の歌 |
モフェットとは単なる「不思議な出来事」ではない。神が働いておられることを周囲に示す「生きた証拠」である。エゼキエル書12章11節でも同じ言葉が使われている——「わたしはあなたがたのしるし(モフェット)である」と神はエゼキエル自身について言われた。
つまり詩人は、自分の生涯そのものが神のしるしになっていたと告白している。波乱に満ちた生涯、失敗と回復の繰り返し、敵に囲まれながらも生き延びた歩み——それを見た人々が「あの人の人生は何かが違う」と感じた。その「何か」が神だった。
15節にはさらに深い言葉がある。
「私の口は一日中、あなたの義と、あなたの救いを語り告げましょう。私は、その全部を知ってはおりませんが。」
「その全部を知ってはおりませんが」——この一言が、この詩篇全体の誠実さを象徴している。完全に理解してから証するのではない。全部分からなくても語る。これは知的な誠実さであり、同時に信仰の謙虚さでもある。
18節では使命が明確に語られる。
「年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。」
老いることは証しをやめる理由にはならない。むしろ長く生きた者にしか語れない証しがある。若い時には見えなかった神の導きが、年を重ねることで初めて見えてくるものがある。詩人はその積み重ねをもって次の世代に語り継ごうとしている。
20節は復活の予型とも読める言葉だ。
「あなたは私を多くの苦しみと悩みとに、会わせなさいましたが、私を再び生き返らせ、地の深みから、再び私を引き上げてくださいます。」
「再び生き返らせ」「地の深みから引き上げる」——これはヨハネ20章で起きた出来事、すなわちイエスの復活と重なる言葉として読むことができる。詩人は自分の体験を通して、来るべき復活の型を無意識のうちに歌っていたのかもしれない。

第二部 詩篇72篇——メシア王への渇望、そして謎の署名——
詩篇72篇は表題に「ソロモンによる」と記されている。しかし最後の20節にはこうある。
「エッサイの子ダビデの祈りは終わった。」
ソロモンの詩なのに、ダビデの祈りで締めくくられる。これは矛盾ではないかと感じる読者も多いだろう。実はここに編集上の深い意図がある。
ヘブライ語の表題「לִשְׁלֹמֹה(リシュロモー)」は二つの意味を持つ。「ソロモンが書いた」とも読めるし、「ソロモンのために書かれた」とも読める。多くの学者は後者、すなわちダビデが息子ソロモンのために書いた祈りと理解している。そして20節の「ダビデの祈りは終わった」という言葉は、詩篇第二巻(42篇〜72篇)全体の編集上の結びとして機能している。
| 原語(ヘブライ語) | 発音(カタカナ) | 意味 |
| צֶדֶק | ツェデク | 義、正義 |
| מִשְׁפָּט | ミシュパット | 公正、さばき |
| שָׁלוֹם | シャローム | 平和、完全な安寧 |
| עָנִי | アニー | 悩む者、貧しい者 |
この三つの言葉——義、公正、平和——が72篇全体を貫くキーワードである。注目したいのは12節から14節の言葉だ。
「これは、彼が、助けを叫び求める貧しい者や、助ける人のない悩む者を救い出すからです。彼は、弱っている者や貧しい者をあわれみ、貧しい者たちのいのちを救います。彼はしいたげと暴虐とから、彼らのいのちを贖い出し、彼らの血は彼の目に尊ばれましょう。」
「彼らの血は彼の目に尊ばれましょう」——この一行に、ただの政治的理想を超えた何かが宿っている。歴史上のいかなる王も、虐げられた者の血をこれほど尊んだだろうか。
この詩篇が3000年後の今も読まれ続けているのは、まだ完全には成就していない渇望として機能しているからだ。72篇をメシア預言として読むとき、新約聖書との対応が鮮やかに見えてくる。
| 72篇の言葉 | 新約との対応 |
| 8節「海から海に至るまで統べ治める」 | ゼカリヤ9:10、黙示録11:15 |
| 11節「すべての王が彼にひれ伏す」 | ピリピ2:10 |
| 10節「シェバの王はみつぎを納める」 | マタイ2章の東方の博士 |
| 14節「彼らの血は彼の目に尊ばれる」 | 十字架の贖い |
| 17節「人々は彼によって祝福される」 | アブラハム契約の成就 |
ソロモンの栄華ですら、来るべき王の影に過ぎなかった。詩篇72篇は渇望の詩である。そしてその渇望はヨハネ20章へと続く。墓から出てきた方こそ、この詩篇がおよそ1000年にわたって待ち望んでいた王だったのだ。

第三部 ヨハネ20章——「あなたの名を呼ぶ」——復活の主はなぜマリヤに触れることを拒み、トマスには触れよと言ったのか——
ヨハネ20章は復活の章である。しかしこの章を注意深く読むと、一つの鮮やかな事実が浮かび上がる。復活のイエスは、四人の人物にそれぞれまったく異なる形で現れたということだ。
ヨハネ——からだをかがめてのぞき込み、亜麻布を見て、信じた(8節)。しかし何を信じたのか。9節はこう続く。「彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。」つまりヨハネが信じたのは復活そのものではなく、墓が空であるという事実だった。直感によって何かを感じ取ったが、まだ完全ではなかった。
ペテロ——墓に入り、亜麻布と頭に巻かれていた布を見た。しかし「信じた」とは書かれていない。行動する人だが、信仰の言語化が遅い。それがペテロという人物だった。
マリヤ——泣きながら墓のそばに立ち続けた。御使いにも、イエスにも「なぜ泣いているのですか」と問われた。彼女はイエスを園の管理人だと思った。しかしイエスが「マリヤ」と名を呼んだ瞬間、すべてが変わった。
ここで詩篇71篇の言葉が重なる。詩人は「私は多くの人にとっては奇蹟と思われました」と歌った。その奇蹟の核心は、神が個人の名を知っておられるということだ。復活の朝、イエスはマリヤの名を呼んだ。ヨハネ10章3節の言葉通りに——「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」。
そしてここに謎の言葉が続く。
「イエスは彼女に言われた。『わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。』」(17節)
ギリシャ語原文はμή μου ἅπτου(メー・ムー・ハプトゥ)である。
| 原語(ギリシャ語) | 発音(カタカナ) | 意味 |
| μή | メー | 〜してはならない(禁止) |
| ἅπτου | ハプトゥ | 触れ続ける、すがりつく(現在命令形) |
| ἀναβέβηκα | アナベベーカ | 上った、昇った(完了形) |
現在命令形の否定は「今やっていることをやめなさい」という意味を持つ。マリヤはすでにイエスにすがりついていた。イエスはその行為を止めるよう言われた。
なぜか。理由はイエス自身が語っている——「まだ父のもとに上っていないから」。そして続く言葉が重要だ。「わたしの兄弟たちのところに行って告げなさい。」マリヤには今すぐ果たすべき使命があった。感動してイエスにすがりついている場合ではなかった。
この「触れてはならない」については様々な神学的解釈がある。ヘブル人への手紙の大祭司キリスト論との関連で——復活したイエスはご自身の血を携えて天の至聖所に入る大祭司として昇天される直前の聖なる状態にあった、という読み方もある。レビ記16章の贖罪日の大祭司が至聖所に入る前に誰も触れることができなかった型との対応として興味深い解釈だ。
しかし正直に言えば、聖書はその詳細を説明していない。なぜなら——同じ章で、イエスはトマスに「触れよ」と言われたからだ。
「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。」(27節)
これもまだ昇天前である。もし儀式的な理由で触れることが禁じられていたなら、トマスへの招きは矛盾する。ここから導かれる最も誠実な答えはシンプルだ。
イエスはマリヤに「すがりつくのをやめなさい、使命がある」と言い、トマスには「疑いを解くために触れなさい」と言った。同じ復活のイエスが、同じ昇天前に、その人に今何が必要かを見抜いて、まったく異なる言葉をかけた。
なお、本記事での解釈はあくまで一つの読み方に過ぎない。この謎めいた言葉の真意については、天に上げられた時に主イエスご自身に直接お聞きしたいことの一つとして、ここに正直に記しておきたい。
トマスの信仰告白はヨハネ福音書のクライマックスである。
「私の主。私の神。」(28節)
| 原語(ギリシャ語) | 発音(カタカナ) | 意味 |
| ὁ κύριός μου | ホ・キュリオス・ムー | 私の主 |
| ὁ θεός μου | ホ・テオス・ムー | 私の神 |
1章1節「ことばは神であった」から始まり、最後にトマスが「あなたは神だ」と告白する。懐疑から始まった者が、最も深い信仰の言葉を語った。神は一つのパターンで人を信仰に導かない。ヨハネの直感、ペテロの行動、マリヤの愛、トマスの懐疑——すべてが復活の証人への道だった。
第四部 一貫性——証人の系譜、老詩人から復活の朝まで——
今日の通読三箇所を並べて読んだとき、一本の糸が見えてくる。証人の系譜である。
詩篇71篇の老詩人は言った。「私はなおも、あなたの力を次の世代に告げ知らせます」(18節)。名も記されていない老人が、年老いて力の衰えた中で、それでも証し続けることを宣言した。その証しの動機は義務ではなく、神に「再び生き返らせ、地の深みから引き上げてくださった」(20節)という個人的な体験だった。
詩篇72篇はその証しが向かう先を示した。理想の王、メシアへの渇望。地上のいかなる王も完全には果たせなかった——貧しい者を弁護し、虐げられた者の血を尊び、海から海に至るまで統べ治める王。ダビデは息子ソロモンのためにこの祈りを書きながら、その祈りはソロモンをはるかに超えた方を指し示していた。この渇望はおよそ1000年の時を経て、成就を待ち続けた。
そしてヨハネ20章で、その王が墓から出てきた。
しかし復活の朝に起きたことは、壮大な宇宙的出来事としてではなく、きわめて個人的な形で始まった。天使の軍勢が現れたわけでも、エルサレム全体に宣言が響いたわけでもない。一人の泣いている女性の名が、静かに呼ばれた。
「マリヤ。」
72篇が渇望した王は、まず一人の名を呼ぶことから復活の朝を始めた。「弱っている者や貧しい者をあわれみ、彼らの血は彼の目に尊ばれる」(72:13-14)——その言葉通りに、七つの悪霊を追い出してもらった女性の名を、復活の主は最初に呼んだ。
ここに今日の通読全体を貫くテーマがある。
神は名を呼ぶ方である。
この「名を呼ぶ」という神の行為は、イザヤ43章1節にも深く響く。「恐れるな。わたしはあなたを贖った。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのものだ」——バビロン捕囚の絶望の中で語られたこの言葉と、復活の朝にマリヤの名を呼んだイエスの声は、同じ一つの神の声である。名を呼ぶことは、贖いの宣言だった。
71篇の老詩人は「私は生まれたときから、あなたにいだかれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方」(6節)と言った。生まれる前から名を知られていた。72篇の王は「助けを叫び求める貧しい者」を個別に救い出す(12節)。そしてヨハネ20章で復活の主は、泣いているマリヤの名を呼び、疑っているトマスに「触れなさい」と言い、それぞれの必要に応じて個別に現れた。
証人になる道は一つではない。ヨハネのように直感で感じ取る者、ペテロのように行動しながら信仰を形にしていく者、マリヤのように声を聞いて信じる者、トマスのように懐疑を通り抜けて最も深い告白に至る者——神はそれぞれの名を呼び、それぞれの必要を知り、それぞれの道で証人へと導く。
71篇の詩人が「その全部を知ってはおりませんが」と言いながら証し続けたように、私たちもすべてを理解してから証しを始める必要はない。分からないことは分からないと言いながら、それでも「あなたは私を再び生き返らせてくださった」という体験を語り続けることができる。
老詩人の証しは次の世代に渡された。その証しの連鎖の果てに、復活の主が現れた。そして今度は復活の証人たちが、さらに次の世代へと証しを渡していく。
マリヤは「行って告げなさい」と言われた。その使命は今も続いている。
| 【お祈り】 天の父なる神様、今日の通読を通して、あなたが名を呼ぶ方であることを改めて知りました。 詩篇71篇の老詩人のように、全部は分からなくても、あなたの力を次の世代に語り続ける者とさせてください。 復活の朝にマリヤの名を呼ばれた主イエスよ、今日もあなたは私の名を知っておられます。 イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。 |
AI(Claude)を使用しています。
下記の図解でおさらい経出来ます 👇
——ヨハネ20章29節
「私の主。私の神。」——トマスの告白(28節)
詩篇71篇の老詩人も、マリヤも、トマスも——神はそれぞれの名を知り、それぞれの必要に応じて現れた。
詩篇72篇は約3000年前に書かれ、今もまだ完全な成就を待っている渇望の詩である。
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