忘れられたヨセフ、離れなかったエリシャ、心配する弟子たち
2025年12月19日の通読から
目次
神を信頼するか、しないか
今日の三箇所に共通するテーマは「神を信頼するか、しないか」です。
1. ヨセフ ― 監獄の中でも神を信頼し、賜物を用いた
2. アハズヤ ― イスラエルの神を無視し、異教の神に頼った
3. 弟子たち ― 二度もパンの奇跡を見たのに、パンの心配をした
エリシャの「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません」という告白は、私たちへの模範です。
本日の通読箇所
・創世記40章(ヨセフの夢解き)
・第二列王記1-2章(エリヤの最後とエリシャの継承)
・マルコ8:1-21(4000人の給食とパン種の警告)
創世記40章:忘れられた人ヨセフ
神のなさることではありませんか
ヨセフは監獄の中で、パロの献酌官長と調理官長に出会います。二人が夢を見て悩んでいるのを見たヨセフは、こう言いました。
「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか(הֲלוֹא לֵאלֹהִים פִּתְרֹנִים)。さあ、それを私に話してください。」(創世記40:8)
ヘブライ語の「ピトロニーム」(פִּתְרֹנִים)は「解き明かし、解釈」を意味します。ヨセフは自分の能力ではなく、神に栄光を帰しています。これは後にパロの前での証言(41:16「私ではありません。神がパロの繁栄についてお答えになるのです」)への伏線となっています。
忘れられた2年間
ヨセフは献酌官の夢を正確に解き明かし、一つの願いを託しました。
「あなたがしあわせになったときには、きっと私を思い出してください。私に恵みを施してください。私のことをパロに話してください。」(40:14)
しかし結末は残酷でした。
「ところが献酌官長はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れてしまった。」(40:23)
ヘブライ語で「忘れた」は「וַיִּשְׁכַּח」(ワイシュカハ)。単に「記憶から消えた」だけでなく、「心にかけなくなった」というニュアンスがあります。献酌官は自分が助かったら、もうヨセフのことなど関係なくなったのです。
この後、創世記41:1を見ると「二年の終わりに」パロが夢を見たとあります。ヨセフは2年間、沈黙の中で待ちました。恨み言も、絶望も、神への不満も聖書には記録されていません。
ここにヨセフの信仰の深さがあります。人に忘れられても、神には忘れられていないことを彼は知っていたのではないでしょうか。
「女が自分の乳飲み子を忘れようか…たとい女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」(イザヤ49:15-16)
第二列王記1章:イスラエルに神がいないためか
バアル・ゼブブへの伺い
アハブ王の死後、その子アハズヤが王となりました。彼は屋上の欄干から落ちて病気になり、使者を遣わしてエクロンの神バアル・ゼブブに伺いを立てさせます。
バアル・ゼブブ(בַּעַל זְבוּב)は「蝿の主」という意味です。本来はおそらく「バアル・ゼブル」(高き主)だったものを、イスラエル人が軽蔑を込めて「蝿の主」と呼び変えたと考えられています。これが新約聖書の「ベルゼブル」の語源となりました。
神はエリヤを通して厳しく問いかけます。
「あなたがエクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに行くのは、イスラエルに神がいないためか(הַמִבְּלִי אֵין־אֱלֹהִים בְּיִשְׂרָאֵל)。」(Ⅱ列王1:3)
これは単なる偶像礼拝の問題ではありません。契約の神への不信仰の問題です。イスラエルの王でありながら、自国の神を無視して異教の神に頼る。これほどの侮辱があるでしょうか。
三人の五十人隊長
アハズヤは五十人隊の長を三度エリヤのもとに遣わします。
最初の二人は「神の人よ、王のお告げです。降りて来てください」と命令口調で語りました。結果、天からの火で焼き尽くされました。
三人目の隊長は違いました。
「この三人目の五十人隊の長は上って行き、エリヤの前にひざまずき、懇願して言った。『神の人よ。どうか私のいのちと、このあなたのしもべ五十人のいのちとをお助けください。』」(1:13)
謙遜と敬意をもって近づいた者だけが生き残りました。神の人への態度は、神ご自身への態度を反映しています。
第二列王記2章:エリヤの昇天とエリシャの継承
「私は決してあなたから離れません」
エリヤが天に上げられる日、不思議なやり取りが三度繰り返されます。
| 場所 | エリヤの言葉 | エリシャの応答 |
| ギルガル | 「ここにとどまっていなさい」 | 「私は決してあなたから離れません」 |
| ベテル | 「ここにとどまっていなさい」 | 「私は決してあなたから離れません」 |
| エリコ | 「ここにとどまっていなさい」 | 「私は決してあなたから離れません」 |
エリシャの告白「私は決してあなたから離れません」(לֹא אֶעֶזְבֶךָּ)は、ルツがナオミに言った言葉(ルツ1:16)と同じ構文です。
なぜエリヤは「ここにとどまっていなさい」と言ったのでしょうか。これはエリシャの決意を確かめるためだったと考えられます。「二倍の分け前」を受けるには、最後まで付いていく覚悟が必要でした。
ベテルやエリコの預言者たちは「主があなたの主人を取り上げられることを知っていますか」と言いましたが、彼ら自身は付いていきませんでした。知識はあったが、行動しなかったのです。
【図解①:エリシャの旅程図】
🔥 エリシャの旅程図 🔥
第二列王記2章 ― エリヤの昇天とエリシャの継承
「転がす」の意
恥を取り除く場所
預言者学校あり
偶像礼拝の地でもある
預言者学校あり
ヨルダン川近く
外套で水を分ける
渡りの場所
たつまきに乗って
天へ上る
「二倍の分け前」を受けるには、最後まで付いていく覚悟が必要でした。ベテルやエリコの預言者たちは「主があなたの主人を取り上げられることを知っていますか」と言いましたが、彼ら自身は付いていきませんでした。知識はあったが、行動しなかったのです。
二倍の分け前
ヨルダン川を渡った後、エリヤはエリシャに尋ねます。
「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」
エリシャの答えは大胆でした。
「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように(וִיהִי־נָא פִּי־שְׁנַיִם בְּרוּחֲךָ אֵלָי)」(2:9)
「二倍の分け前」(פִּי־שְׁנַיִם)は、申命記21:17の長子の相続分と同じ表現です。エリシャはエリヤの力の2倍を求めたのではなく、霊的長子としての正統な継承権を求めたのです。
「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち」
「こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現れ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。エリシャはこれを見て、『わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち』と叫んでいたが、彼はもう見えなかった。」(2:11-12)
エリシャは火の戦車と火の馬を見ました。そして「イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫びました。彼は、エリヤの存在がイスラエルの真の防衛力であることを悟ったのです。人間の軍事力ではなく、神の臨在こそがイスラエルを守る。
エリヤの神、主はどこにおられるのですか
エリシャはエリヤの外套を拾い、ヨルダン川に戻ります。
「彼はエリヤの身から落ちた外套を取って水を打ち、『エリヤの神、主はどこにおられるのですか(אַיֵּה יְהוָה אֱלֹהֵי אֵלִיָּהוּ)』と言った。彼も水を打つと、水が両側に分かれたので、エリシャは渡った。」(2:14)
エリシャには神は見えませんでした。「どこにおられるのですか」という叫びは、不在の中での信仰の問いかけです。
しかし、水は分かれました。神は見えなくても、御業は起こったのです。
これこそ信仰の本質ではないでしょうか。見えないけれども、信じて行動する。すると神は応答してくださる。
ベテルの若者たちの事件
第二列王記2章の終わりに、衝撃的な出来事が記録されています。
「エリシャはそこからベテルへ上って行った。彼が道を上って行くと、この町から小さい子どもたちが出て来て、彼をからかって、『上って来い、はげ頭。上って来い、はげ頭』と言ったので、彼は振り向いて、彼らをにらみ、主の名によって彼らをのろった。すると、森の中から二頭の雌熊が出て来て、彼らのうち、四十二人の子どもをかき裂いた。」(2:23-24)
現代の読者には衝撃的な箇所ですが、いくつかの点を考慮する必要があります。
1. 「小さい子どもたち」の意味 ― ヘブライ語の「ナアリーム・クタンニーム」(נְעָרִים קְטַנִּים)は必ずしも幼児を指しません。おそらく「若者たち」と理解すべきでしょう。
2. 「上って来い、はげ頭」の意味 ― 「上って来い」(עֲלֵה)は、エリヤが天に「上った」直後の文脈で、「消えろ、死ね」という意味に取れます。預言者への深刻な侮辱であり、神の働きへの嘲笑でした。
3. ベテルという場所 ― ベテルは北王国の偶像礼拝の中心地でした。若者たちの態度は、町全体の霊的状態を反映していた可能性があります。
4. 42人という数字 ― 42という数字は聖書で裁きと関連することがあります(黙示録11:2、13:5の42ヶ月など)。
マルコ8:1-21:4000人の給食とパン種の警告
7つのパンと4000人
マルコ8章には、5000人の給食(マルコ6章)とは別の奇跡が記録されています。
「人々は食べて満腹した。そして余りのパン切れを七つのかごに取り集めた。人々はおよそ四千人であった。」(8:8-9)
この二つの給食の奇跡を比較すると、興味深いパターンが見えてきます。
【図解②:二つの給食の比較図】
🍞 二つの給食の奇跡 🍞
マルコ6章とマルコ8章 ― 数字に込められた神のメッセージ
創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記
イスラエルへの神の約束
神の選民への恵み
12使徒にも対応
創造の7日目(安息日)
神の完全な御業
創世記10章の国々の表
7×10=世界への宣教
5000人の給食は「まずユダヤ人に」、
4000人の給食は「そして異邦人にも」という
福音の普遍性を示しています。
「ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、
それは救いを得させる神の力です。」(ローマ1:16)
これらの数字には象徴的な意味があると考えられています。
5 ― トーラー(モーセ五書)、イスラエルへの約束
12 ― イスラエルの12部族
7 ― 完全数、全世界の諸国民(創世記10章の70の国)
つまり、5000人の給食はイスラエルへの恵み、4000人の給食は異邦人への恵みを象徴していると理解できます。福音はユダヤ人だけでなく、全世界に広がるのです。
パリサイ人のパン種とヘロデのパン種
給食の奇跡の後、イエス様は弟子たちに警告されます。
「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」(8:15)
パン種(ζύμη)は聖書でしばしば悪い影響力の象徴として使われます。少量でも生地全体に広がるからです。
パリサイ人のパン種 ― 宗教的偽善、律法主義、み言葉を人に強要し自分は行わない
ヘロデのパン種 ― 世俗的な妥協、人を恐れること、真実よりも人の目を気にする
両方に共通するのは不信仰です。神ではなく、人を見ている。自分を見ている。だから真理に従えない。
まだ悟らないのですか
弟子たちはイエス様の警告を理解できず、「パンを持っていないということで、互いに議論し始めた」(8:16)。
「なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。」(8:17-18)
弟子たちは二度もパンの奇跡を見ました。5000人と4000人。合計9000人以上に食べさせる奇跡を目撃しました。なのに、舟の中でパンが一つしかないことを心配している。
イエス様の嘆きが聞こえてくるようです。「あなたたちは、わたしが誰なのかまだわからないのか。わたしと一緒にいるのに、なぜパンの心配をするのか。」
今日の通読をつなぐテーマ:「不在の中の臨在」
今日の三箇所を読んで、最も強く感じたテーマは「不在の中の臨在」です。
ヨセフの場合
献酌官に忘れられ、神からも見捨てられたように見える監獄の中。しかし神はそこにおられ、すべてを導いておられました。忘れられた2年間も、神は働いておられたのです。パロが夢を見る時を待っておられた。
エリシャの場合
「エリヤの神、主はどこにおられるのですか」と叫んだエリシャ。師が去り、神が見えない。しかし外套で水を打つと、水は分かれました。見えなくても、神はそこにおられたのです。
弟子たちの場合
パンが一つしかない舟の中。しかしイエス様が一緒に乗っておられた。パンの奇跡を行われた方が、目の前にいる。なのに心配している。
【図解③:「不在の中の臨在」概念図】
✨ 不在の中の臨在 ✨
Presence in Absence — 見えなくても、神はそこにおられる
2025年12月19日の通読テーマ
神は確かにそこにおられ、働いておられる。
監獄から出られない
神からも見捨てられたように見える
エジプト全土の宰相へと導いていた
家族の救いを準備しておられた
「主はどこにおられるのか」と叫んだ
師も神も見えない
同じ御業が継続した
エリヤの霊(神の霊)がエリシャに
どうやって食べていくのか心配
神の力を忘れている
5000人と4000人を養った方が目の前に
「わたしがいるのに、なぜ心配するのか」
私たちの時間と
神の時間は違う
「離れません」と
言い続けること
御業を通して
臨在を見る
目に見えないものを確信させるものです。」
祈りが聞かれないように感じる時も、
「主は生きておられ、私は決してあなたから離れません」
と告白し続けること。
それが「不在の中の臨在」を信じる信仰です。
このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」
― イザヤ 49:15-16
私たちへの適用
私たちも同じではないでしょうか。
神が沈黙しているように見える時、祈りが聞かれないように感じる時、「主はどこにおられるのですか」と叫びたくなる時がある。
しかし、ヨセフの物語は教えてくれます。忘れられた2年間も、神は働いておられた。
エリシャの物語は教えてくれます。師が去っても、神は去らない。
イエス様の言葉は教えてくれます。「わたしがいるのに、なぜ心配するのか」。
エリシャのように「私は決してあなたから離れません」と言い続けること。不在の中の臨在を信じ続けること。それが信仰です。
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)
今日の祈り
天の父なる神様。
ヨセフのように人に忘れられる時があっても、あなたは決して私たちを忘れないことを感謝します。
エリシャのように「主はどこにおられるのですか」と叫びたくなる時も、あなたは確かにそこにおられることを信じます。
弟子たちのように、あなたの御業を見ながらも心配してしまう私たちの不信仰をお赦しください。
「私は決してあなたから離れません」と告白し続ける信仰を与えてください。
不在の中の臨在を信じる目を開いてください。
イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
普段は全力で主イエスに従いたいヨセフの様でありたいと思っているのに、問題が起きるととっさにしている行動が、実はそうではない自分の姿を発見することがあります。
下のnote記事では今日の箇所を聖書初心者の方にもわかりやすく私自身の正直な思いも入れて記事にしました。ぜひ読んでくださいね
👇

📖 今日の聖書箇所
興味があれば、ぜひ読んでみてください。
・創世記40章(ヨセフの物語)
・第二列王記2章(エリシャの物語)
・マルコの福音書8章1-21節(弟子たちの物語)
\ 聖書、読んでみませんか? /


コメント