神の臨在・神の裁き・神の癒し

通読

創世記39章、第一列王記21-22章、マルコ7章から

今日の通読は三つの異なる時代、異なる状況を通して、神様の変わらないご性質を見せてくれます。監獄に投げ込まれたヨセフ、悪を行いながらも悔い改めたアハブ王、そして異邦人の女性と聾唖の人を癒されたイエス。それぞれの場面で、神はどのようなお方として現れてくださるのでしょうか。

【第一部】創世記39:16-23 監獄でも「主がともにおられた」

無実の罪で投獄されたヨセフ

ポティファルの妻の偽りの告発によって、ヨセフは監獄に入れられました。彼は何も悪いことをしていません。むしろ、誘惑を退け、「どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか」(39:9)と言って逃げたのです。それなのに、報われるどころか、さらに悪い状況に追い込まれました。

人間的に見れば、これほど理不尽なことはありません。正しいことをしたのに罰せられる。神に従ったのに苦しみが増す。私たちも時にそのような経験をするかもしれません。

変わらない神の臨在

しかし聖書は、この暗い状況の中で驚くべきことを告げます。

「しかし、【主】はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。」(39:21)

注目すべきは、この「主がともにおられた」という表現が、ポティファルの家にいたときにも使われていたことです(39:2-3)。そして監獄でも同じ表現が繰り返されます(39:21, 23)。

ヨセフの外側の環境は劇的に変わりました。主人の家から監獄へ。しかし、神の臨在と祝福は全く変わりませんでした

ヘセド—契約に基づく変わらない愛

「恵みを施し」と訳されているヘブライ語は חֶסֶד(ヘセド)です。この言葉は単なる親切や好意ではなく、契約に基づく誠実な愛を意味します。神がアブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた契約のゆえに、神はヨセフを見捨てることがおできにならないのです。

結果として、ヨセフは監獄の中でさえ管理者となり、「彼が何をしても、主がそれを成功させてくださった」(39:23)のです。

適用:私たちの人生にも、「なぜこんな目に遭うのか」と思う時があります。しかし神の臨在は、私たちの環境によって左右されません。監獄の中でも、病床でも、孤独の中でも、主はともにおられます。そしてヘセドの愛をもって、私たちを支え続けてくださいます。

【第二部】第一列王記21章 ナボテのぶどう畑事件

ナボテの信仰—「先祖のゆずりの地」

アハブ王は、自分の宮殿のそばにあるナボテのぶどう畑を欲しがりました。代価を払う、もっと良い畑と交換すると申し出ます。一見、公正な取引のように見えます。

しかしナボテは毅然として断りました。

「【主】によって、私には、ありえないことです。私の先祖のゆずりの地をあなたに与えるとは。」(21:3)

「先祖のゆずりの地」はヘブライ語で נַחֲלַת אֲבֹתַי(ナハラト・アヴォタイ)です。これは単なる不動産ではありませんでした。レビ記25:23で神はこう命じておられます。

「地は買い戻しの権利を放棄して売ってはならない。地はわたしのものであるから。」

イスラエルの土地は神から各部族、各家族に与えられた嗣業であり、永久に売却することは律法で禁じられていました。ナボテは神の律法に忠実であろうとしたのです。王の要求であっても、神の命令には逆らえない。これがナボテの信仰でした。

イゼベルの陰謀

アハブは不機嫌になり、寝台に横になって食事もしません。まるで駄々をこねる子どものようです。そこに妻イゼベルが登場します。

「今、あなたはイスラエルの王権をとっているのでしょう。さあ、起きて食事をし、元気を出してください。この私がイズレエル人ナボテのぶどう畑をあなたのために手に入れてあげましょう。」(21:7)

イゼベルはシドンの王の娘であり、バアル礼拝をイスラエルに持ち込んだ人物です。彼女にとって、イスラエルの神の律法など何の意味もありませんでした。彼女の出身地では、王の権力は絶対でした。

イゼベルはアハブの名で手紙を書き、偽りの証人を立て、ナボテに「神と王をのろった」という濡れ衣を着せて処刑させました。申命記17:6によれば、死刑には二人以上の証人が必要でした。イゼベルは律法の形式だけを利用して、その精神を完全に踏みにじったのです。

神の裁きの宣告

しかし、神は沈黙しておられませんでした。預言者エリヤが遣わされます。

「あなたはよくも人殺しをして、取り上げたものだ。…犬どもがナボテの血をなめたその場所で、その犬どもがまた、あなたの血をなめる。」(21:19)

アハブに対する裁きは、彼の家の断絶、イゼベルの悲惨な死を含む厳しいものでした。

驚くべき神の応答

ここで驚くべきことが起こります。

「アハブは、これらのことばを聞くとすぐ、自分の外套を裂き、身に荒布をまとい、断食をし、荒布を着て伏し、また、打ちしおれて歩いた。」(21:27)

あのアハブが悔い改めたのです。そして神は応答されました。

「あなたはアハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間は、わざわいを下さない。しかし、彼の子の時代に、彼の家にわざわいを下す。」(21:29)

これは驚くべき恵みです。「主の目の前に悪を行った者はだれもいなかった」(21:25)と言われたアハブでさえ、へりくだれば神は応答してくださる。

しかし同時に、罪の結果が完全に消えたわけではありません。裁きは次の世代に延期されました。神は憐れみ深いお方ですが、同時に正義を曲げることもなさいません。

適用:どんな罪を犯した人でも、へりくだって神の前に出るなら、神は応答してくださいます。しかし、悔い改めは罪の結果をすべて帳消しにするわけではありません。だからこそ、私たちは最初から神に従う道を選ぶことが大切なのです。

【第三部】第一列王記22章 真の預言者ミカヤと偽りの400人

ラモテ・ギルアデとは何か

アハブはユダの王ヨシャパテを誘い、ラモテ・ギルアデを奪還する戦いに行こうとします。

ここで地理的な説明が必要です。「ギルアデ」(גִּלְעָד, ギルアド)はヨルダン川東岸の山地全体を指す広い地域名です。モーセの時代にルベン族、ガド族、マナセ半部族に分配されました。

「ラモテ・ギルアデ」(רָמוֹת גִּלְעָד, ラモト・ギルアド)は、そのギルアデ地方にある一つの町です。「ラモテ」は「高台」という意味で、「ギルアデの高台の町」という地名です。この町はガド族の領土内にあり、逃れの町の一つに指定されていました(申命記4:43、ヨシュア20:8)。

イスラエルの領土であっても、アラム(シリア)との度重なる戦争で奪われていたため、「取り戻す」必要があったのです。

400人の預言者とミカヤ

アハブは約400人の預言者を集めて神意を伺います。彼らは口をそろえて「攻め上って勝利を得なさい」と言いました。

しかしヨシャパテは違和感を覚えたようです。「ほかに主の預言者はいないのですか」と尋ねます。するとアハブは渋々ミカヤの名を挙げました。

「いや、ほかにもうひとり…イムラの子ミカヤです。しかし、私は彼を憎んでいます。彼は私について良いことは預言せず、悪いことばかりを預言するからです。」(22:8)

ミカヤの皮肉と王の反応

ミカヤが連れて来られ、同じ質問をされます。すると彼は答えました。

「攻め上って勝利を得なさい。主は王の手にこれを渡されます。」(22:15)

言葉だけを見れば、400人の預言者と同じ内容です。しかしアハブは激怒しました。

「いったい、私が何度あなたに誓わせたら、あなたは主の名によって真実だけを私に告げるようになるのか。」(22:16)

なぜアハブは「良い預言」を聞いて怒ったのでしょうか。おそらくミカヤの声のトーンや態度が明らかに皮肉だったのでしょう。アハブはミカヤの性格を知っていました。だから、突然「良いこと」を言ったとき、それが本心ではないとすぐに見抜いたのです。

ここに人間の矛盾した心理が見えます。真実を聞きたくないのに、嘘を言われることも許せない。アハブは自分に都合の良い真実だけを求めていました。

天の会議のビジョン

ミカヤは真実を語り始めます。彼は天の会議を見たと言います。

「主は仰せられました。『だれか、アハブを惑わして、攻め上らせ、ラモテ・ギルアデで倒れさせる者はいないか。』…ひとりの霊が進み出て…『私が出て行き、彼のすべての預言者の口で偽りを言う霊となります。』」(22:20-22)

これは非常に難解な箇所です。神が偽りの霊を遣わすとはどういうことでしょうか。

一つの理解は、アハブがすでに真理を退け続けてきた結果、神がその選択を尊重されたということです。パウロはローマ1章で、神に背き続ける者に対して「神は彼らを引き渡された」と三度繰り返しています(1:24, 26, 28)。神は人間の自由意志を尊重されます。真理を拒む者には、ついに偽りの中を歩むことを許されるのです。

預言の成就

アハブは変装して戦いに行きました。これは彼がミカヤの預言を少しは信じていた証拠かもしれません。しかし、神の言葉から逃れることはできませんでした。

「ひとりの兵士が何げなく弓を放つと、イスラエルの王の胸当てと草摺の間を射抜いた。」(22:34)

「何げなく」と訳された言葉は、原語では「無邪気に」「意図せずに」という意味です。狙ったわけではない一本の矢が、変装した王の鎧の隙間を正確に射抜いたのです。偶然でしょうか。いいえ、神の主権的な摂理です。

アハブは死に、犬が彼の血をなめました。エリヤを通して語られた預言が成就したのです(21:19)。

適用:真の預言者は、人が聞きたい言葉ではなく、神が語れと言われた言葉を語ります。私たちも、耳に心地よい言葉だけを求めるのではなく、たとえ厳しくても真実を語ってくれる声に耳を傾ける必要があります。

【第四部】マルコ7:24-37 異邦人への恵みと深いうめき

スロ・フェニキヤの女性の信仰(24-30節)

イエスはツロの地方に行かれました。ユダヤ人の地を離れ、異邦人の地域に入られたのです。そこで一人の女性が娘の癒しを求めて来ました。

マルコは彼女について二つの情報を記しています。「ギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生まれであった」(7:26)。

「ギリシヤ人」(ギリシャ語:Ἑλληνίς, ヘレニス)とは、民族的なギリシャ人という意味ではありません。これは宗教的・文化的な意味での「異邦人」、つまり「ユダヤ人ではない」「ユダヤ教徒ではない」という意味です。

「スロ・フェニキヤの生まれ」Συροφοινίκισσα, シュロフォイニキッサ)は、「シリア地方のフェニキヤ人」という意味で、彼女の地理的・民族的な出自を示しています。ツロやシドンを含む地中海沿岸の地域の出身です。

興味深いことに、マタイ15:22では同じ女性を「カナンの女」と呼んでいます。カナン人とは、イスラエルが約束の地に入ったとき追い出すべきだった先住民です(申命記7:1-2)。旧約聖書を知るユダヤ人にとって、「カナン人」は宿敵の子孫を意味しました。

つまり、ユダヤ人の視点から見ると、この女性は二重の意味で「部外者」でした。

・宗教的に:ユダヤ教徒ではない(ギリシヤ人)

・民族的に:イスラエルの宿敵の子孫(フェニキヤ人/カナン人)

普通なら「メシアの恵みを受ける資格がない」と見なされる立場です。それなのに彼女はイエスのもとに来て、娘の癒しを願い続けました。

イエスの答えは一見厳しく聞こえます。

「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」(7:27)

「子どもたち」はイスラエルの民を指し、「小犬」は異邦人を指しています。しかし、ここで使われている「小犬」(κυνάριον, クナリオン)は、野良犬や汚れた犬ではなく、家庭で飼われている愛玩犬を意味する言葉です。完全な拒絶ではなく、優先順位の問題を示しておられたのでしょう。

女性の応答は見事でした。

「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」(7:28)

彼女はイエスの言葉を否定しませんでした。かといって卑屈にもなりませんでした。イエスの言葉の中に希望の余地を見出したのです。子どもたちが食べている間、小犬も食卓の下でパンくずをもらえる。イスラエルへの祝福が溢れ出て、異邦人にも届くはずだと。

彼女の信仰は、自分が「部外者」であることを認めつつも、神の恵みは溢れるほど豊かで、その「おこぼれ」でさえ自分の娘を救うのに十分だと信じたのです。

イエスは言われました。

「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」(7:29)

「そうまで言うのですか」は原語で Διὰ τοῦτον τὸν λόγον(ディア・トゥートン・トン・ロゴン)、「この言葉のゆえに」という意味です。彼女の信仰に満ちた言葉が、イエスの心を動かしました。

この出来事は、やがて福音が異邦人にも広がっていくことの先駆けでもあります。イエスの宣教の中心はイスラエルでしたが、信仰をもって求める者には、たとえ「部外者」であっても恵みが注がれるのです。

聾唖者の癒し—イエスの深いうめき(31-37節)

次にイエスはデカポリス地方に来られ、耳が聞こえず口のきけない人を癒されます。この癒しの方法は非常に印象的です。

1. 群衆の中からその人だけを連れ出された

2. 両耳に指を差し入れられた

3. ご自分の唾をつけて、その人の舌に触れられた

4. 天を見上げ、深く嘆息された

5. 「エパタ」(開け)と言われた

なぜイエスはこのような「物理的」な方法をとられたのでしょうか。

この人は聞こえないのです。言葉だけでは何も伝わりません。イエスはこの人が理解できる方法で愛と力を伝えようとされました。触れられることによって、「今からあなたの耳と舌を癒す」というメッセージを伝えられたのです。

「深く嘆息して」の意味

「深く嘆息して」と訳されているギリシャ語は ἐστέναξεν(エステナクセン)、動詞 στενάζω(ステナゾー)です。これは「あーあ、仕方ないな」という苛立ちのため息ではありません。内側からの深いうめきを表す言葉です。

同じ語根の言葉がローマ8:22-23で使われています。

「被造物全体が今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしている…御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら…」

イエスのうめきは、堕落した世界の痛みを深く感じておられる神の子の嘆きでした。

この人がこれまでどれほど苦しんできたか。聞こえない、話せない。人々の会話から排除され、自分の思いを伝えることもできない孤独。イエスはその全てを見て、感じておられました。

創世記を思い出してください。神が人を創造されたとき、耳も舌も完全に機能していました。罪の結果、世界は壊れ、人間の体も壊れました。イエスは「本来あるべき姿からの逸脱」を前にして、深くうめかれたのです。

イエスの唾と新しい創造

イエスがご自分の唾をつけて舌に触れられたことも象徴的です。創世記2:7にはこう書かれています。

「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。」

神は最初に人を造られたとき、ご自身の息を吹き込まれました。今、イエスはご自身の体の一部をもって、この人の舌を「新しく創造」しておられるかのようです。

「エパタ」はアラム語で אֶתְפַּתַח(エトパタハ)、「開け」という意味です。マルコがわざわざアラム語を保存しているのは、この言葉がイエスの口から発せられたそのままの響きを伝えたかったからでしょう。

適用:イエスは効率よりも一人一人との関係を大切にされます。聞こえない人には触れて伝え、その人の苦しみに深くうめきながら寄り添ってくださる。私たちの痛みも、イエスは他人事として見ておられるのではありません。ともにうめき、ともに苦しんでくださるお方なのです。

【結論】三つの箇所が示す神の姿

今日の通読は、三つの異なる状況を通して、神の変わらないご性質を私たちに示しています。

箇所状況神の姿
創世記39章無実の苦しみの中でどこにいても「ともにおられる」神
列王記21-22章罪と裁きの宣告の中で悔い改めに応答しつつ、正義を貫かれる神
マルコ7章病と束縛の中で一人一人に深く関わり、うめきながら回復させる神

ヨセフは監獄で神の臨在を経験しました。アハブは悔い改めたとき、神の憐れみに触れました。スロ・フェニキヤの女性は信仰によって恵みを受け取り、聾唖の人はイエスの深い愛に触れて癒されました。

あなたが今どんな状況にいても、神は変わりません。ともにおられ、悔い改める者を赦し、苦しむ者とともにうめいてくださるお方です。


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