2026年1月26日の聖書通読 借り物の信仰からの脱却―全き心で主と共に歩む―
はじめに
―全き心で主と共に歩む―
2026年1月26日 出エジプト記11章、第二歴代誌24章25章、ルカ9章28節-48節
「私も、聖霊様の導きがある間は良かったのに残念です!とならないように」――今朝の通読で、この思いが心に深く刻まれました。
エホヤダという素晴らしい祭司がいる間は主に従ったヨアシュ王。しかしエホヤダが死ぬと、すぐに偶像礼拝に陥り、恩人の息子を殺すという悲劇に至りました。
その息子アマツヤもまた「主の目にかなうことを行ったが、全き心をもってではなかった」(第二歴代誌25:2)と記されています。外側は整っていたのに、心が主に向いていなかったのです。
今日の箇所は、私たちに問いかけています。あなたの信仰は誰かの信仰に「乗っかっている」借り物ですか?それとも、あなた自身が主と出会った本物の信仰ですか?
🔵【愼悟先生のYouTube】
エジプト最後のわざわい:神の区別
真夜中のわざわい
「真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く。エジプトの地の長子は、王座に着いているファラオの長子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の長子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ」(出エジプト11:4-5)
十の災いの最後、最も厳しいわざわいが告げられます。
ここで注目すべきは、神がエジプトとイスラエルを明確に区別されたことです。
「しかし、イスラエルの子らに対しては、犬でさえ、人だけでなく家畜にも、だれに対してもうなりはしません。こうして主がエジプトとイスラエルを区別されることを、あなたがたは知るようになります」(11:7)
この「区別」(ヘブライ語:פָּלָה、パーラー)は、単なる差別ではなく、契約に基づく保護を意味します。神は、ご自分の民を守られる方です。
モーセの怒り
「こうして、モーセは怒りに燃えてファラオのところから出て行った」(11:8)
これまで冷静だったモーセが、ここで初めて「怒りに燃えて」います。
これは感情の爆発ではなく、義なる怒りです。何度も警告したのに、ファラオは聞き入れない。その結果、エジプト全土の長子が死ぬことになる。この悲劇を前にしたモーセの怒りは、神の怒りを反映しています。
神は忍耐深い方ですが、その忍耐にも限界があります。悔い改めの機会は永遠に与えられるわけではないのです。
ヨアシュの悲劇:借り物の信仰
素晴らしいスタート
「ヨアシュは七歳で王となり、エルサレムで四十年間、王であった」(第二歴代誌24:1)
ヨアシュは、祖母アタルヤに殺されかけたところを、祭司エホヤダに救われました。7歳で王となった孤児です。
エホヤダが生きている間、ヨアシュは主に従い、神殿を修復し、素晴らしい王でした。
しかし問題がありました。
一夫多妻の容認について
「エホヤダは彼に二人の妻を迎えさせた」(24:3)
これは驚きの記述です。祭司であるエホヤダが、なぜ王に二人の妻を迎えさせたのでしょうか?
旧約時代、一夫多妻は罪とは見なされていませんでした。しかしこれは神の「理想」ではなく、人間の罪深さへの「許容」でした。
創世記で神は「ふたりは一体となる」(創世記2:24)と言われました。これが本来の結婚の姿です。しかし、堕落した人間社会の中で、神は段階的に人々を導いておられました。
申命記21:15-17では、すでに複数の妻がいる場合の規定が書かれています。つまり「やめなさい」ではなく「するなら、こうしなさい」という形で、悪の拡大を防ぐアプローチでした。
新約になって、イエス様は結婚を創世記の理想に戻されました(マタイ19:4-6)。そして教会のリーダーには「一人の妻の夫」という基準が設けられました(第一テモテ3:2)。
エホヤダの死後
「エホヤダの死後、ユダの首長たちが来て、王を伏し拝んだ。それで、王は彼らの言うことを聞き入れた。彼らは父祖の神、主の宮を捨て、アシェラと偶像に仕えた」(24:17-18)
ここに悲劇があります。
エホヤダが死んだ途端、ヨアシュは首長たちの言いなりになって、偶像礼拝に陥りました。
ヨアシュの信仰は、エホヤダの信仰だったのです。
自分自身が主と出会い、主との個人的な関係を築いていなかった。だから、エホヤダという支えがなくなったら、崩れてしまいました。
恩人の息子を殺す
「神の霊が祭司エホヤダの子ゼカリヤをおおった。彼は民よりも高いところに立って、彼らに言った。『神はこう仰せられる。あなたがたは、なぜ主の命令を破り、繁栄を逃がすのか。あなたがたが主を捨てたので、主もあなたがたを捨てられた』」(24:20)
エホヤダの息子ゼカリヤが、預言者として立ち上がり、王と民を戒めました。
「ところが、彼らは彼に対して陰謀を企て、王の命令によって、主の宮の庭で彼を石で打ち殺した」(24:21)
ヨアシュは、自分の命を救ってくれたエホヤダの息子を、自らの命令で殺したのです。
これは単なる背教ではありません。完全な裏切りです。
イエス様の言葉
イエス様は、このゼカリヤについて語られました。
「それは、義人アベルの血から、あなたがたが神殿と祭壇との間で殺したバラクヤの子ゼカリヤの血に至るまで、地上で流されたすべての正しい血が、あなたがたに降りかかるためです」(マタイ23:35)
「アベルからゼカリヤまで」――これはヘブライ語聖書(タナハ)の配列を意識した表現です。
ヘブライ語聖書では:
・最初の殉教者:創世記のアベル
・最後の殉教者:第二歴代誌のゼカリヤ(歴代誌が最後の書)
つまり「聖書全体にわたって流された義人の血」という意味なのです。
マタイ福音書で「バラクヤの子ゼカリヤ」となっているのは、祖父の名前か別の伝承の可能性がありますが、重要なのは「アベルから聖書最後の殉教者まで」という構造です。
ゼカリヤの最後の言葉は心に刺さります:
「ゼカリヤは死ぬとき、『主がご覧になって、責任を問われますように』と言った」(24:22)
悲惨な最期
ヨアシュの最期も悲惨でした。
「軍勢が、重傷を負ったヨアシュを捨てて離れて行ったとき、彼の家来たちは、祭司エホヤダの息子たちの血のゆえに謀反を企て、寝台の上で彼を殺した。彼は死んで、人々は彼をダビデの町に葬ったが、王たちの墓には葬らなかった」(24:25)
エホヤダが生きている間は素晴らしい王だったのに。
私たちも同じ危険があります。牧師先生の信仰、親の信仰、尊敬する信仰者の信仰に「乗っかって」いるだけなら、その人がいなくなったり、試練が来たりしたら、崩れてしまいます。
自分自身が主と出会い、主との個人的な関係を築かなければなりません。
アマツヤの警告:「全き心」の欠如
良いスタートのはずが
「アマツヤは二十五歳で王となり、エルサレムで二十九年間、王であった。彼は主の目にかなうことを行ったが、全き心をもってではなかった」(第二歴代誌25:1-2)
ヨアシュの息子アマツヤも、良いスタートを切りました。
父を殺した家来たちを処刑しましたが、その子どもたちは殺しませんでした(25:3-4)。これはモーセの律法に従った正しい判断です。
軍隊を整え、エドムと戦って勝利しました。
外から見たら、立派な王でした。
でも、聖書は一言、釘を刺します:
「全き心をもってではなかった」
これが恐ろしいのです。
正しいことをしていても、心が主から離れていたら、必ず崩れるのです。
エフライムへの厳しい言葉
アマツヤは戦いのため、イスラエル(北王国)から十万人の勇士を銀百タラントで雇いました。
すると神の人が来て言いました:
「王よ、イスラエルの軍勢をあなたとともに行かせてはなりません。主は、イスラエル、すなわちエフライムのいかなる人々とも、ともにおられないからです」(25:7)
「主は、エフライムのいかなる人々とも、ともにおられない」
これは衝撃的な言葉です。
エフライムは、かつてヤコブから長子の祝福を受けた部族でした(創世記48章)。「エフライム」は「二倍に実を結ぶ」という意味で、繁栄と祝福の象徴でした。
でも今、「主はともにおられない」。
何があったのか?
ヤロブアム以来の金の子牛礼拝です(第一列王記12章)。政治的理由で偶像礼拝を制度化し、数世代にわたって続けた結果、神が去られたのです。
これは恐ろしい警告です。
教会も、個人も、最初は熱心でも、少しずつ妥協し、世俗化し、偶像(お金、名誉、成功、人の評価)に心を向けていくと、気づかないうちに「主がともにおられない」状態になる可能性があります。
偶像に走るアマツヤ
「アマツヤがエドムを討って帰って来た後のこと、彼はセイル人の神々を持って来て、それらを自分の神々として立てた。彼はその前で伏し拝み、犠牲を供えていた」(25:14)
勝利の直後、アマツヤは致命的な過ちを犯します。
エドムに勝ったのに、エドムの神々を拝み始めたのです。
預言者が警告しても聞きませんでした:
「すると、主はアマツヤに向かって怒りを燃やし、彼のもとに預言者を遣わして言われた。『なぜあなたは、あなたの手から自分の民を救い出すこともできないような神々を求めたのか』」(25:15)
これは痛烈な皮肉です。あなたに負けた国の神を、なぜ拝むのか?
でもアマツヤは聞きませんでした。心が高ぶっていたからです。
「彼が王にまだ話している最中に、王は彼に言った。『われわれはおまえを王の助言者にしたか。やめよ。なぜ、打ち殺されるようなことをするのか』」(25:16)
預言者を脅して黙らせる――これは霊的に完全に終わっている状態です。
無謀な挑戦と悲惨な敗北
高ぶったアマツヤは、イスラエルの王ヨアシュに挑戦しました(25:17)。
ヨアシュは寓話で答えます:
「レバノンのあざみが、レバノンの杉に使者を送って、『あなたの娘を私の息子の妻にくれないか』と言ったが、レバノンの野の獣が通り過ぎて、そのあざみを踏みにじった」(25:18)
「あなたは小さなあざみで、私は杉だ。身の程を知れ」という意味です。
でもアマツヤは聞きませんでした。
結果:
・ベテ・シェメシュで捕らえられた
・エルサレムに引いて来られた
・城壁を四百キュビト(約180m)破壊された
・神殿と王宮の財宝を奪われた
・人質を取られた(25:21-24)
これは想像を絶する屈辱です。兄弟国イスラエルから、こんな仕打ちを受けるとは。
そして最後:
「アマツヤが主に従うことから離れたとき、エルサレムで人々が彼に対して謀反を企てた。彼はラキシュに逃げたが、人々はラキシュに追っ手を送り、そこで彼を殺した」(25:27)
イスラエルの王ではなく、自分の民に殺されたのです。
オベデ・エドムについて
ちなみに25:24に「オベデ・エドムが管理している神の宮にあった…」とあります。
これはダビデ時代のオベデ・エドム(第二サムエル6:10-12)とは別人です。約200年の時代差があります。
おそらく、最初のオベデ・エドムが神殿奉仕で祝福された家系なので、その子孫が同じ名前を受け継ぎ、神殿奉仕を続けていたのでしょう。
聖書には「先祖の名を受け継ぐ」パターンが多く見られます。
ルカ9章:山上の栄光と山下の現実
変貌山の体験
「これらのことを教えてから八日ほどして、イエスはペテロとヨハネとヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられると、その御顔の様子が変わり、その衣は白く光り輝いた」(ルカ9:28-29)
イエス様は三人の弟子を連れて山に登り、祈っておられました。
すると、御顔の様子が変わり、衣が白く光り輝きました。そして、モーセとエリヤが現れて、イエスと語り合っていました。
「それはモーセとエリヤで、栄光のうちに現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していたのであった」(9:30-31)
興味深いのは、ルカがこの時点で、モーセとエリヤが何を話していたか知っていたことです。
おそらく、イエス様が復活されてから、「あの時、私たちはエルサレムでの私の最期について話していたんだよ」と弟子たちに教えられたのでしょう。
ペテロの提案
「この二人がイエスと別れようとしたとき、ペテロがイエスに言った。『先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために』。ペテロは自分の言っていることが分かっていなかった」(9:33)
ペテロは、モーセとエリヤとイエスを同列に扱おうとしました。
でも、父なる神は雲の中から言われました:
「これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け」(9:35)
そして、雲が去ると:
「そこに見えたのはイエスだけであった」(9:36)
これが答えです
以前、この箇所をClaude先生と学んだ時のことを、今も覚えています。
・エリヤ = 預言、祈りの勇士
・モーセ = 律法、み言葉の知識
・雲が去った後に残ったのは = イエスだけ
どんなにみ言葉の知識を詰めても(モーセ=律法)、どんなに御霊に満たされて祈っても(エリヤ=祈りの勇士)、最終的に私たちと共にいてくださるのは主イエスだけ。
主イエスの十字架の血潮の力なくして、私たちには何もないのです。
これは忘れたくない真理です。来年もまた、この箇所に巡り合いますね。
山を下りて:不信仰な時代
「次の日、一行が山から下りて来ると、大勢の群衆がイエスを迎えた」(9:37)
山の上では栄光の体験。しかし山を下りると、悪霊に苦しむ子どもと、その悪霊を追い出せない弟子たちがいました。
「すると見よ、群衆の中から、一人の人が叫んで言った。『先生、お願いします。息子を見てやってください。私の一人息子です。ご覧ください。霊がこの子に取りつくと、突然叫びます。そして、引きつけを起こさせて泡を吹かせ、打ちのめして、なかなか離れようとしません。あなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした』」(9:38-40)
イエス様の応答は厳しいものでした:
「イエスは答えられた。『ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子をここに連れて来なさい』」(9:41)
「我慢しなければならないのか」
これは興味深い表現です。ギリシャ語原文は「ἀνέχομαι」(anechomai)で、「耐え忍ぶ、我慢する」という意味です。
でも、これは「うんざりした我慢」ではなく、親が愛する子どもの未熟さに耐える、あの痛みを伴う愛の忍耐だと思います。
イエス様は:
・山上では神の栄光を体験(変貌)
・山を下りると不信仰と悪霊の現実
このギャップの中で、「いつまで共にいれば分かってもらえるのか」という、深い愛ゆえの嘆きです。
山の上では、モーセとエリヤと「エルサレムで遂げようとしておられる最期」(十字架)について話していました。イエス様は、ご自分が人類のために何をしようとしているか、その重みを分かっておられました。
そして山を下りたら、弟子たちは悪霊を追い出せない。人々は「神の偉大さに驚嘆」するけど、誰もイエス様の十字架の予告を理解しない。それどころか「誰が一番偉いか」と議論している。
この孤独を想像すると、胸が締め付けられます。
見捨てる気持ちではなく、もっと信じてほしい、もっと理解してほしいという、切なる願いが込められています。
「誰が一番偉いか」論争
「さて、弟子たちの間で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった」(9:46)
イエス様が十字架の話をしている最中に、弟子たちは誰が偉いか議論していました。
なんという対比でしょう。
でも、私たちも同じです。
面と向かってはしないけれど、心の中ではやっているかもしれません。説教を聞きながら、「あの人よりは自分の方が信仰深い」と思ったり、奉仕で「自分はこんなに頑張っている」と密かに誇ったり。
時代を超えて、自分が偉くなりたいという人の思いは変わりません。
主イエスが示された、神と人とに謙遜に仕えることは、本当に困難です。
「主が王」と言いながら、自分が王になっている。できないから、「主が王」と言うのかなと思うほどです。
今日の適用:愼悟先生の「3・2・1」
今日も愼悟先生の礼拝YouTubeで語られていた「3・2・1」が、本当に心に刺さりました。
3つの土台
・イエス様は私の模範
・聖書は私の基準
・聖霊様は私の導き
2つの目標
・イエス様が王となるように
・イエス様が全ての栄光を取るように
1つの使命
・一つとなり御国の使命を達成する
本当に大切だと思います。悔い改めさせられます。
ヨアシュから学ぶこと
霊的指導者への依存ではなく、主ご自身との関係を。
エホヤダが死んだらヨアシュは堕落しました。私たちは人ではなく、主に根ざす必要があります。
尊敬する牧師、信仰深い親、素晴らしいメンター――これらは神からの恵みです。でも、その人たちの信仰に「乗っかる」のではなく、自分自身が主と出会わなければなりません。
アマツヤから学ぶこと
「全き心」の重要性。
アマツヤは良いことをしたけど「全き心をもってではなかった」。形だけの従順ではなく、心からの献身を。
正しいことをしていても、心が主から離れていたら、必ず崩れます。
・形だけの信仰生活
・習慣だけの礼拝
・義務感だけの奉仕
外側は整っているように見えても、心が主に向いていなければ、いつか必ず偶像に走ります。
変貌山から学ぶこと
山上の体験も大切ですが、日常の悪霊との戦いの中で、信仰を持ち続けることが重要。
山の上での栄光の体験は素晴らしいものです。でも私たちは、そこに留まることはできません。
山を下りて、悪霊と戦い、不信仰な時代の中で、それでも主に従い続ける――これが信仰者の歩みです。
私たちへの問いかけ
今日の箇所から、いくつかの問いかけが心に残ります:
1. あなたの信仰は誰かの信仰に「乗っかっている」借り物ですか?それとも、あなた自身が主と出会った本物の信仰ですか?
2. あなたは「主の目にかなうこと」を「全き心をもって」行っていますか?
3. 山上の体験を求めるだけでなく、山下の日常で主に従っていますか?
4. 「誰が一番偉いか」という思いが、心の中に潜んでいませんか?
5. 主を王座に据えていますか?それとも自分が王座に座っていませんか?
最後に:主イエスだけで十分
モーセ(律法)もエリヤ(預言)も去りました。
残ったのは、イエスだけでした。
そして、それで十分なのです。
いや、それこそが必要なすべてです。
「私も、聖霊様の導きがある間は良かったのに残念です!とならない様に」――この祈りを心に刻みながら、今日も主と共に歩みたいと思います。
何時までも聖霊様の言われることに耳を傾けていたい。そして主イエスから目を離さないでいたい。
主が、私たちを守り、導いてくださいますように。
* * *
「これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。」
「この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。」
(ルカ9:35-36)


コメント