聖書通読2026.5.1 レビ記20章・詩篇119篇89〜176節・使徒17章 聖なる者として区別されながら、なぜ人は迷い出るのか

レビ記
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——聖別の命令から復活の証言まで、神が人を捜す恵み——

なぜ神は「聖なる者となれ」と命じながら、同時に「わたしがあなたを聖なる者とする」と言うのか。律法を愛しながら「迷い出た羊」と告白する詩人の正直さは、何を意味するのか。「知られない神に」という祭壇を見て、パウロが感じた「憤り」はなぜ叫びではなく対話に変わったのか。今日の三箇所は、えり分けられた者が迷い出て、神に捜し求められるという一本の線で深くつながっている。

ご注意 本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。
【読み方のご案内】 第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。

第一部 聖別の命令——神が先に区別した

レビ記を読み続けていると、ふとこんな疑問が湧いてくる。昨日も同じような禁止規定を読んだのではないか、と。実はこの感覚は正しい。レビ記19章・20章は意図的に対になるよう構成されており、19章が「何をしてはならないか」の列挙であるのに対し、20章は「それを犯したらどうなるか」という制裁の列挙になっている。ヘブライ文学の特徴として、命令と制裁を分けて二度述べることで、「これは本当に重大なことだ」と読む者の心に刻み込む効果がある。

では、この厳しい章の神学的核心はどこにあるのか。それは7節と8節の、わずか二節の間に凝縮されている。

「あなたがたが自分の身を聖別するなら、あなたがたは聖なる者となる。わたしがあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは、わたしのおきてを守るなら、それを行うであろう。わたしはあなたがたを聖なる者とする主である。」(レビ記20:7-8)

ヘブライ語が示す二つの主語

ここで注目したいのは、ヘブライ語動詞の形(ビンヤン)の違いである。

原語(ヘブライ語)発音意味
הִתְקַדַּשְׁתֶּם(ヒトパエル)ヒトカッダシュテムあなたがた自身を聖別せよ(7節)
מְקַדִּשְׁכֶם(ピエル)メカッディシュケムわたしが聖なる者とする(8節)

7節の主語は「あなたがた」、8節の主語は「主(神)」である。人間の応答と神の主権が、一節の間に共存している。しかもヘブライ語の語順では8節の強調は「わたし・主・が」にある。聖化の根拠は神の側にある。人が聖別するのは、神がすでに聖なる者とすると宣言したからであり、これは信仰の応答であって、功績ではない。

「えり分け」——バーダルの思想

26節には「えり分けた」という言葉が出てくる。ヘブライ語では בָּדַל(バーダル)、「分離する、区別する」という動詞だ。

原語(ヘブライ語)発音意味
בָּדַלバーダル分ける、区別する
הַבְדָּלָהハヴダラー区別(安息日終了の儀式名)
בָּדָדバーダード孤独、ひとり(同語根)

「聖なること」はヘブライ的に言えば「分離されていること」である。この「区別」の感覚は、ユダヤ教の日常に今も生きている。安息日が終わる土曜夜の儀式はハヴダラー(הַבְדָּלָה)——「区別」という言葉そのものが儀式の名前になっている。光と闇を分け、聖と俗を分け、安息日と平日を分ける。この感覚はレビ記から来ている。

同じ語根から בָּדָד(バーダード)「孤独、ひとり」という言葉も生まれる。聖なることは「分離されていること」であり、それは時として孤独を伴う。しかしその孤独は神との特別な関係の中にある孤独だ。

「垣根」の思想——ラビ文学の知恵と限界

レビ記の禁止規定をめぐって、後のラビ・ユダヤ教(聖書正典ではなく、口伝律法を集めたタルムード文学)は興味深い概念を生み出した。それが「垣根(גֶּדֶר・ゲデル)」の思想である。

タルムードの一篇であるピルケー・アヴォット(「父祖たちの章」という意味の格言集、聖書外文書)には「トーラーの周りに垣根を作れ」という言葉がある。禁じられた行為に近づきすぎないよう、さらに追加の規定を設けることで、核心を守ろうとする発想だ。

これは人間の知恵として理解できる。大切なものを守るために距離を取る。しかしここに危険もある。追加規定が積み重なるうちに、人間が作った垣根が神のことば以上の権威を持ち始める。イエス様がパリサイ人に向かって「あなたがたは神の命令を捨てて、人間の言い伝えを守っている」(マルコ7:8)と語られたのは、まさにこの問題を指していた。神が求めるのは規定の外側に立つことではなく、神ご自身の聖さに与ることだ。

19章との繋がり——愛と聖は対立しない

注目したいのは、20章が19章の直後に来るという配置だ。レビ記19:18には「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という言葉がある。イエス様が「すべての律法はこれに尽きる」と引用されたあの言葉が、実はレビ記にある。

愛の命令(19章)と聖の命令(20章)は対立しない。聖別された民こそが、隣人を正しく愛せる。神によって区別され、神の聖さを帯びた者が、世界に向かって愛をもって仕えていく——これがトーラーの描く人間像だ。

適用

「聖別」は特別な人だけの話ではない。神がすでに「えり分けた」と宣言している。私たちに求められるのは、その宣言に応答する日常の選択だ。何を見るか、何を語るか、何を心に留めるか——小さな区別の積み重ねが、識別力を育て、神の聖さを反映する器を形作っていく。

聖別のヘブライ語構造
ヘブライ語「聖別」の三層構造
√QDŠ(カーダシュ)——レビ記20:7-8のビンヤン分析
語根(ショレシュ)
√ ק ד שׁ
QDŠ(カーダシュ)
「聖なること・分離・区別」を表す基本語根
カル(基本形)
קָדוֹשׁ
カードーシュ
聖なる(形容詞)
「聖なる、聖なる、聖なる」(イザヤ6:3)
神の本質・属性を表す。神はご自身の性質として聖である。
ヒトパエル(再帰形)
הִתְקַדַּשׁ
ヒトカッダシュ
自分自身を聖別する
「あなたがた自身を聖別せよ」(20:7)
人間の応答・行為。神の宣言に応えて自らを整える。
ピエル(強意形)
קִדַּשׁ
キッダシュ
(他を)聖なる者とする
「わたしが聖なる者とする」(20:8)
神の主権的行為。神が人を聖なる者にする。
レビ記20:7-8 の一節の間に共存する二つの主語
7節
הִתְקַדַּשְׁתֶּם
ヒトカッダシュテム(ヒトパエル完了)
主語:あなたがた(人間)
「あなたがたが自分の身を聖別するなら、あなたがたは聖なる者となる」——人間の応答・行動
8節
מְקַדִּשְׁכֶם
メカッディシュケム(ピエル分詞)
主語:主(神)
「わたしはあなたがたを聖なる者とする主である」——神の主権・宣言が先にある
「position before positive」の原則
神がまず「あなたはわたしのもの」と宣言する(位置)——その宣言に人間が応答する(行動)。聖別の根拠は神の側にある。人間の努力が聖さを生み出すのではなく、神の所有宣言への応答が「聖なる生き方」として実を結ぶ。
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第二部 迷い出た羊の告白——詩篇最長の詩が最後に語ること

詩篇119篇は聖書の中で最も長い詩篇であり、176節、ヘブライ語アルファベット22文字それぞれで始まる8節ずつの連が積み重なる、壮大な構造を持つ。全篇を貫くテーマはひとつ——神のことばへの愛だ。

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」(詩篇119:105)
「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです」(詩篇119:103)

これほどの熱烈な告白が176節にわたって続く。ところが、この詩篇の最後の一節は、意外な言葉で締めくくられる。

「私は、滅びる羊のように、迷い出ました。どうかあなたのしもべを捜し求めてください。私はあなたの仰せを忘れません。」(詩篇119:176)

ヘブライ語が語る「迷い出た」の深み

原語(ヘブライ語)発音意味
תָּעִיתִיターイーティー私は迷い出た(完了形)
כְּשֶׂה אֹבֵדケ・シェー・オーヴェード滅びる羊のように
בַּקֵּשׁバッケーシュ捜し求めよ(命令形・祈り)
עַבְדֶּךָアヴデッカあなたのしもべを

תָּעִיתִי(ターイーティー)は完了形だ。「迷い続けている」という現在進行の状態ではなく、「迷い出てしまった」という完了した事実の告白である。しかもこの後に来るのは「捜し求めてください」という命令形の祈り——羊が自分で帰るのではなく、羊飼いが来て捜すことを求めている。

イザヤ53章との語根の一致

ここで注目したいのは、同じヘブライ語動詞 √TĀ’ĀH(ターアー)が、イザヤ53:6にも使われていることだ。

「私たちはみな、羊のようにさまよい(תָּעִינוּ・ターイーヌ)、それぞれ自分かってな道に向かって行った。主は私たちすべての者の咎を、彼に負わせた。」(イザヤ53:6)

詩篇119篇の詩人とイザヤは、同じ動詞で「迷い出た羊」を描いている。苦難のしもべが「すべての者の咎を負う」文脈の中で使われるこの動詞を、詩人は個人の告白の中に織り込んでいる。律法を愛しながら迷い出る自分の姿が、代わりに傷つく方の姿と重なっている。

この終わり方の神学的意味

律法への愛を174節にわたって歌い上げてきた詩人が、最後に「迷い出た羊だ」と告白する。これは矛盾ではない。むしろこれが人間の正直な姿だと詩人は知っていた。

詩篇119篇の詩人は一度も「私はすべて守りました」と言わない。随所に「悩んでいます」「敵に囲まれています」「私は卑しめられています」という告白が続く。律法を愛すればするほど、自分の足りなさが見えてくる。見えてくるほどに「捜してください」という祈りが深くなる。

これは律法主義の賛歌ではなく、恵みへの渇きの詩篇だ。パウロがローマ書7章で「私は何と惨めな人間なのか」と叫んだのと、同じ霊的運動をこの詩人も歩んでいた。

ルカ15章との響き合い

イエス様の「失われた羊のたとえ」(ルカ15:4-7)は、詩篇119:176と深く響き合う。

詩篇119:176ルカ15章
「滅びる羊のように迷い出た」「百匹の中の一匹が迷い出る」
「あなたのしもべを捜し求めてください」「見つけるまで捜し回る」
「私はあなたの仰せを忘れません」「肩にかついで喜ぶ」

詩篇の詩人は「捜してください」と祈っている。イエス様のたとえでは、羊飼いはすでに捜しに出ている。祈りが届く前に、神はもう動いていた——これが新約の啓示の深みだ。

詩篇119篇が「迷い出た羊」で終わり、その羊飼いの姿がイザヤ53章の苦難のしもべを経て、ルカ15章のイエス様のたとえへと至る。旧約から新約への一本の線が、ここに見える。

適用

信仰とは、迷い出ることのない完璧さではなく、迷い出た時に「捜してください」と叫べることかもしれない。そしてその叫びは必ず届く——羊飼いはすでに捜しに来ているのだから。

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第三部 知られない神を知る——アレオパゴスの証言

使徒17章は、パウロの宣教旅行の中でも特別な章だ。テサロニケ、ベレヤ、そしてアテネへ——哲学と知性の都市、古代世界の文化的頂点へとパウロは導かれていく。

ベレヤ人という模範

アテネに入る前に、ひとつ立ち止まりたい箇所がある。

「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」(使徒17:11)

ベレヤ人の姿勢——熱心に聞き、毎日聖書で確かめる。これは信仰の模範として新約全体を通じて輝いている。パウロの言葉であっても、使徒の権威であっても、聖書で検証する。

原語(ギリシャ語)発音意味
ἀνακρίνωアナクリノー上から下まで精査する、吟味する

「調べた」はギリシャ語で ἀνακρίνω(アナクリノー)、「上から下まで精査する、吟味する」という意味だ。表面をなでるのではなく、深く掘り下げて確かめる——これがベレヤ的な聖書の読み方だ。

アテネという都市

「さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。」(使徒17:16)

「憤りを感じた」のギリシャ語は παρωξύνετο(パロクシュネト)、「激しくかき立てられた、強く刺激された」という意味だ。英語で「paroxysm(発作)」の語源でもある。パウロは冷静な観察者ではなかった。偶像に満ちた都市を見て、内側から燃え立つような思いを持った。

しかし注目すべきは、その「憤り」の表れ方だ。パウロは叫ばなかった。非難しなかった。会堂で論じ、広場で語り、哲学者たちと対話した。内側の炎を、対話という形に変えた。

アレオパゴス演説の五段構造

アレオパゴスの真ん中に立ったパウロの演説(22〜31節)は、即興に見えて精密に構成されている。

【第一段(22〜23節)——接点を作る】「知られない神に」という祭壇を出発点とする。非難ではなく、相手の宗教心を肯定的に評価することから始める。「あなたがたは宗教心にあつい」——これは皮肉ではなく、誠実な観察だ。

【第二段(24〜25節)——神の本質を語る】「天地の主は手でこしらえた宮などにはお住みになりません」——ソロモン神殿奉献の祈り(第一列王記8:27)と同じ神学を、ギリシャ人にわかる言葉で語る。相手の思想の中にある真理の断片と共鳴させながら、聖書の神へと導く。

【第三段(26〜27節)——人間の本質を語る】「ひとりの人からすべての国の人々を造り出した」——創世記の創造論だ。すべての人間は一人のアダムから来た。そして神は人間が「探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともある」と言う。

【第四段(28節)——相手の詩人を引用する】「私たちもまたその子孫である」——これはストア派の詩人アラトスの詩からの引用だ。パウロは相手の文化の中に神への渇きを見出し、そこから真の神へと橋を架ける。

【第五段(30〜31節)——悔い改めと復活を告げる】「今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます」——ここが核心だ。そして復活の宣言で締めくくる。

原語(ギリシャ語)発音意味
ψηλαφάωプセーラファオー手探りで探し求める
μετανοέωメタノエオー悔い改める(思いの方向転換)
ἀνάστασιςアナスタシス復活(「立ち上がる」の意)
παρωξύνετοパロクシュネト激しくかき立てられた

三種類の反応

「死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは『このことについては、またいつか聞くことにしよう』と言った。しかし、彼につき従って信仰に入った人たちもいた。」(使徒17:32-34)

あざ笑う者、先送りする者、信仰に入る者——この三種類の反応は、今も変わらない。復活は今も最大の躓きであり、最大の希望だ。パウロはアテネで大群衆を回心させたわけではない。しかし「アレオパゴスの裁判官デオヌシオ、ダマリスという女、その他の人々」が信仰に入った。少数でも、確かな応答があった。

日本への架け橋

パウロがアテネで見た「知られない神に」という祭壇——日本の至るところに、これに似たものがある。八百万の神、ご先祖様への祈り、自然への畏敬——その根底に、名のない何かへの渇きがある。明確には語れないが、何か大きなものに守られたい、何か聖なるものに触れたいという思いが、日本人の宗教心の奥に流れている。

パウロのアプローチから学べることがある。非難ではなく架け橋から始める。創造から語る——「ひとりの人から」という言葉は、すべての人間の尊厳と共通の起源を語る。そして最後は十字架と復活——どんなに巧みに語っても、ここだけは譲れない核心だ。

丁寧に、誠実に、相手の文化と言葉を尊重しながら語るとき、必ず「デオヌシオとダマリス」はいる。

アレオパゴス演説の構造
アレオパゴス演説の五段構造
使徒行伝17:22-31 パウロの精密な伝道論
22〜23節
接点を作る——相手の宗教心を肯定する
「知られない神に」という祭壇を発見点とする。批判ではなく「宗教心にあつい方々」と評価することから始める。
「あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。」
24〜25節
神の本質を語る——創造主・超越者
「天地の主は手でこしらえた宮に住まない」——ソロモンの奉献の祈りと同じ神学を、ギリシャ人の言葉で語る。ストア哲学とも共鳴する点から入る。
「神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方。」
26〜27節
人間の本質を語る——共通の起源・神への渇き
「ひとりの人から」すべての民族が来た(創世記の創造論)。そして神は人が「探り求めることでもあるなら見いだすこともある」と言う。
ψηλαφάω(プセーラファオー)=暗闇で手探りする
「神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。」
28節
相手の詩人を引用する——文化の中の真理
ストア派詩人アラトス「私たちもまたその子孫である」を引用。聖書だけでなく相手の文化の言葉を使い、そこにある神への渇きを真の神へとつなぐ橋にする。
「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」
30〜31節
悔い改めと復活を告げる——核心を外さない
「今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます」——どんなに丁寧に対話しても、最後は十字架と復活。ここだけは譲れない核心。
ἀνάστασις(アナスタシス)=復活・立ち上がること
「その方を死者の中からよみがえらせることによって、確証をすべての人にお与えになった。」
復活を告げた時の三種類の反応(17:32-34)
😤
あざ笑う
復活は今も最大の躓き。理性で理解できないと退ける人々。
🕐
先送りする
「またいつか聞くことにしよう」——関心はあるが踏み出せない。
🙏
信仰に入る
デオヌシオ(裁判官)、ダマリス(女性)、その他の人々——少数でも確かな応答。
🌸 日本への架け橋——アレオパゴスのアプローチより
非難ではなく架け橋から——「偶像はいけない」ではなく「あなたが求めているものを知っている」から
創造から語る——すべての人間の共通の起源・尊厳を語る
文化の中の渇きをすくう——日本の詩歌・自然観の中にある神への渇きを発見する
結果は神に委ねる——「デオヌシオとダマリス」は必ずいる
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第四部 えり分けられ、迷い出て、捜される——三つの箇所を貫く一本の線

今日の三つの通読箇所は、一見まったく異なる世界を描いているように見える。レビ記の厳格な律法規定、詩篇の個人的な信仰告白、使徒行伝の哲学都市での宣教——舞台も時代も語り口も違う。しかしこれら三つを並べると、一本の神学的な線が浮かび上がってくる。

えり分けられた者が、迷い出て、捜し求められる。

第一の動き——神が先に区別する

レビ記20章の出発点は、神の行為だ。「わたしはあなたがたを聖なる者とする主である」(8節)、「わたしがあなたがたを国々の民からえり分けた」(26節)——聖化の主語は神であり、人間の応答はその後に来る。

ヘブライ語 בָּדַל(バーダル)が示す「分離・区別」は、単なる道徳的規定ではない。神が先に手を伸ばして、「あなたはわたしのものだ」と言った宣言だ。聖別とは、神の所有宣言への応答として生きることだ。

第二の動き——えり分けられた者が迷い出る

しかしレビ記の直後に詩篇119篇176節が来る。律法への愛を174節にわたって歌い続けた詩人の最後の言葉が「私は滅びる羊のように迷い出ました」だ。

これは矛盾ではない。むしろ聖書の正直さだ。神に区別された者、律法を愛する者でさえ、迷い出る。完璧な聖別を実現できる人間はいない。神の命令が高ければ高いほど、自分の足りなさが鮮明になる。

イザヤ53:6の「私たちはみな、羊のようにさまよい」と詩篇119:176の「迷い出ました」は同じヘブライ語動詞 √TĀ’ĀH(ターアー)だ。この「迷い」は個人の失敗であると同時に、人類全体の姿でもある。

第三の動き——神が捜しに来る

ここで使徒17章が登場する。パウロがアテネで見たのは「知られない神に」という祭壇だった。偶像に満ちた都市で、名も知らぬ神を求めてさまよう人々——これもまた「迷い出た羊」の姿だ。

しかしパウロは「あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう」と言う。神が人を捜しに来た、という宣言だ。27節の ψηλαφάω(プセーラファオー)「暗闇の中で手探りする」——神は、暗闇の中で手探りしている人間のその手を、向こうから握りに来る。

箇所動き主語
レビ記20章えり分ける・聖別する
詩篇119:176迷い出る・捜してくださいと叫ぶ人間
使徒17章捜しに来る・見いだせると告げる神(パウロを通して)

「知られない神」から「捜す神」へ

アテネ人は「知られない神」に祭壇を建てた。神の存在は感じながら、その名を知らなかった。詩篇の詩人は神の名を知りながら、それでも迷い出た。レビ記のイスラエルは神の律法を持ちながら、隣国の偶像に引き寄せられた。

知識があっても迷い出る。律法を愛しても迷い出る。これが人間の現実だ。しかし今日の三箇所が一致して指し示すのは、その現実の先にある神の応答だ。神は人間の迷いを見捨てない。えり分けた者を追いかける。手探りしている手を握りに来る。復活したキリストによって「確証をすべての人にお与えになった」(使徒17:31)。

最後に——「世界中を騒がせて来た者たち」

使徒17:6で反対者はパウロたちをこう呼んだ——「世界中を騒がせて来た者たち」。

この言葉は、今日の三つの箇所全体への答えでもあるかもしれない。レビ記の聖別の命令は、当時のカナンの文化を「騒がせた」。詩篇119篇の律法への愛は、迷いの中でも「捜してください」と叫び続けることで、沈黙を「騒がせた」。パウロのアレオパゴス演説は、哲学の都アテネを「騒がせた」。

福音はいつも、現状に満足している世界を騒がせる。それは破壊のためではなく、暗闇の中で手探りしている人の手を握るために来る、その到来の音だ。

えり分けられ、迷い出て、捜される——この旅路の果てに、羊飼いの顔がある。

えり分けられ・迷い出て・捜される
えり分けられ・迷い出て・捜される
レビ記20章・詩篇119篇・使徒行伝17章を貫く神の救済の流れ
第一
の動き
▶ レビ記20章
神が先に区別する
「えり分けた」בָּדַל(バーダル)
「わたしがあなたがたを国々の民からえり分けたからである」(20:26)
聖化の主語は神。人間が聖くなるのではなく、神が「あなたはわたしのもの」と先に宣言する。
主語:神
第二
の動き
▶ 詩篇119篇176節
えり分けられた者が迷い出る
「迷い出た」תָּעִיתִי(ターイーティー)完了形
「私は、滅びる羊のように、迷い出ました。どうかあなたのしもべを捜し求めてください」
律法を愛しながら、それでも迷い出る——これが人間の正直な現実。しかし告白の後に来るのは絶望ではなく、祈りだ。
主語:人間
第三
の動き
▶ 使徒行伝17章
神が捜しに来る
「探り求める」ψηλαφάω(プセーラファオー)
「あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう」(17:23)
暗闇の中で手探りしている人間の手を、神は向こうから握りに来る。パウロはその使者として立った。
主語:神(パウロを通して)

レビ記20章
えり分ける
主語:神
詩篇119:176
迷い出る・叫ぶ
主語:人間
使徒17章
捜しに来る
主語:神
祈りが届く前に、羊飼いはすでに捜しに出ていた(ルカ15:4)

AI(Claude)を使用しています。

※本記事ブログ「聖書の名言集」(tehiri-mu.com)の通読記事を(聖書の専門用語を知らない、聖書初心者の方の為に)再構成したものがnoteで読めます。

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