2026年2月26日 出エジプト記26:15-37・ヨブ記18-19章・ルカ24:13-35
※この記事は、要点だけを抜き出して理解できる内容ではありません。モーセ五書・旧約・新約の連続した文脈の中でのみ読まれることを意図しています。
【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。
目次
【はじめに】
出エジプト記26章を開くと、キュビトの寸法、板の枚数、台座の個数—数字と素材の羅列が続く。正直に言えば、「これは何のために読むのだろう」と感じる箇所かもしれない。
しかしヨブ記19章には、全聖書の中でも最も力強い信仰告白の一つが現れる。「私を贖う方は生きておられる」—すべてを失い、友人にも見捨てられ、神に見捨てられたとさえ感じた人間が、それでも「知っている」と言う。
そしてルカ24章では、落胆してエルサレムを離れた二人の弟子が、見知らぬ旅人と7キロの道を歩く。その旅人が誰かを、彼らはずっと知らなかった。
三つの箇所に共通する問いがある。
なぜ神は見えないのか。そして見えなかった目が開かれるのは、どんな瞬間なのか。
砂漠の木材から始まったこの旅は、エマオの食卓まで続いている。
第一部:トーラー(出エジプト記26:15-37)
神が「住所」を持たれた日—幕屋の構造が語るキリスト
※この第一部だけで、「神は人の真ん中に住もうとされ、その構造のすべてがキリストを指し示している」という今日の中心メッセージが示されます。
出エジプト記26章を読むとき、多くの人は「建築マニュアルだろうか」と感じるかもしれない。キュビトの寸法、板の枚数、台座の個数—数字と素材の羅列が続く。しかしこれは単なる建設仕様書ではない。神がご自身の住まいをどのように設計されたかという、神学の書である。
そもそもなぜ神は幕屋を必要とされたのか。出エジプト25:8にその答えがある。「わたしのために聖所を作れ。わたしが彼らの中に住むために」。注目すべきは「聖所の中に」ではなく「彼らの中に」という表現だ。幕屋は神が民の真ん中に住むための装置だった。天の神が、地上に住所を持たれた。
さらに幕屋は移動式だった。民が荒野を旅すれば、神も一緒に動く。定住の神殿とは根本的に異なる神学がここにある。ヨハネ1:14はこう記す。「ことばは人となって、私たちの間に幕屋を張られた」。ギリシャ語原文ではἐσκήνωσεν(エスケーノーセン)—「幕屋を張る」という動詞が使われている。イエス・キリストは、まさに移動式の幕屋として人々のいる場所へ来られた方だった。
アカシヤ材が語るもの
板材として繰り返し登場するのがアカシヤ材(ヘブライ語:שִׁטָּה、シッター)だ。これは砂漠の荒れ地に育つ木で、密度が高く腐食に強い。過酷な環境に育ちながら、驚くほど堅固な木材となる。
| ヘブライ語 | 発音 | 意味 |
| שִׁטָּה | シッター | アカシヤ材・砂漠に育つ堅固な木 |
この素材の選択は偶然ではない。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ1:46)—人々が見下した荒れ地から来られたイエスを思わせる。神は常に、人が軽視する場所に最も重要なものを置かれる。砂漠の木材が神の住まいの柱となったように、ガリラヤの大工が世界の救い主となられた。
そのアカシヤ材の板には金がかぶせられた(26:29)。内側はアカシヤ材、外側は金。人性と神性—この二重構造はキリストの位格を予型している。
横木の数に隠された意味
南・北・西の三面それぞれに横木が5本ずつ設けられている(26:26-27)。5という数はトーラー(モーセ五書)の数であり、ヘブライ的思考では「恵み」を象徴する数とされる。
さらに26:28の「中央横木」は「端から端まで通る」と記されている。すべての板を一本の横木が貫く。これはキリストがすべての聖書を貫く「一本の糸」であることの予型と見ることができる。エマオの道でイエスは「モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを説き明かされた」(ルカ24:27)。端から端まで通る横木—それがキリストだ。
向かい合わせの神学—燭台と机が語る礼拝の本質
机の上には12部族を表す12個のパンが並ぶ。これは真理の御言葉の象徴だ。燭台の7つの灯は暗闇を照らし続ける—これは聖霊による知恵と啓示の象徴だ(エペソ1:17「知恵と啓示の御霊を与えてくださるように」)。
向かい合わせという配置は、両者が切り離せないことを空間で表現している。燭台の光は御言葉のパンを照らすために燃える。御言葉のパンは燭台の光によって初めて読み取れる。御霊なしには御言葉は理解できない。御言葉なしには御霊の働きを識別できない。
さらに燭台は自然光ではなく、注がれた油によって燃える(出27:20)。人間の知恵や努力では光を生み出せない。どんなに御言葉を頭に蓄えても、御霊の油がなければ机の上のパンは暗闇の中に置かれたままだ。
パウロはエペソ6:17-18で「御言葉という剣を取れ」と命じた直後に「御霊によって祈れ」と続ける。祈り(燭台・御霊)と御言葉(机・パン)は常にセットで機能する—幕屋の空間配置は、何千年も前にこの真理を静かに語っていた。
至聖所への道—霊とまことの礼拝が前提条件
ここで幕屋の空間配置全体を見渡すと、驚くべき順序が浮かび上がる。
入口(東)→ 外庭 → 聖所(燭台・机)→ 香の壇 → 垂れ幕 → 至聖所(神の臨在)
至聖所—神がおられる場所—に入る直前に、燭台(御霊)と机(御言葉)の前に立つ場がある。これは偶然の配置ではない。神の臨在の場に入るためには、御霊と御言葉による礼拝が前提条件として置かれていた。
なお、聖所と垂れ幕の間には香の壇があり(出30章)、絶えず香が焚かれていた。これは祈りの象徴だ(詩篇141:2、黙示録8:3-4)。御霊と御言葉による礼拝の先に、絶えざる祈りがある。至聖所への道の完全な姿は、出エジプト30章で改めて深く見ていきたい。
イエスはヨハネ4:23-24でこう言われた。「霊とまことによって礼拝する者を、父は求めておられる」。これはまったく新しい教えではなかった。幕屋の構造がすでに何百年もそれを語っていた。
垂れ幕の逆説
26:31-33に記される垂れ幕は、青色・紫色・緋色の撚り糸で織られ、ケルビムが織り込まれている。そしてこの垂れ幕が「聖所と至聖所との仕切り」となる。
ここに深い逆説がある。創世記3:24で、神はエデンの東にケルビムを置かれた。目的は「命の木への道を守るため」—すなわち人間を近づけないためだった。罪によって失われたエデンへの道は、ケルビムによって封じられた。
ところが幕屋では、そのケルビムが垂れ幕に織り込まれ、至聖所の前に立っている。同じケルビム、同じ機能—「ここから先には入れない」。しかしヘブル10:20はこう言う。「この垂れ幕、すなわちイエスの肉体という新しい生ける道」。
垂れ幕はキリストの肉体の予型だった。そしてキリストが十字架で息を引き取られた瞬間、神殿の垂れ幕は「上から下まで真っ二つに裂けた」(マタイ27:51)。エデンから閉ざされていた道が、その裂けた垂れ幕を通して開かれた。
神は「閉じるため」に垂れ幕を作られたのではない。「開く日のために」垂れ幕を作っておられたのだ。
幕屋全体が指し示すもの
| 幕屋の要素 | 素材・特徴 | キリストへの指し示し |
| アカシヤ材の板 | 砂漠育ち・朽ちない | キリストの人性(卑しい出自・朽ちない命) |
| 金のかぶせ | 最も貴い金属 | キリストの神性 |
| 中央横木 | 端から端まで通る | 全聖書を貫くキリスト(ルカ24:27) |
| 燭台(南側・7つの灯) | 油で燃える・自然光でない | 聖霊による知恵と啓示・御霊の祈り |
| パンの机(北側・12個) | 常に新鮮なパン | 真理の御言葉「わたしはいのちのパンだ」 |
| 燭台と机の向かい合わせ | 聖所の中心配置 | 霊とまことの礼拝—至聖所への前提条件 |
| 香の壇(出30章) | 垂れ幕の直前・絶えず香 | 祈り「聖徒の祈りが御前に上る」(黙8:3-4) |
| 垂れ幕(ケルビム) | 聖所と至聖所の仕切り | キリストの肉体・十字架で裂かれた(ヘブ10:20) |
| 銀の台座 | 板を支える基礎 | 贖いの代価・キリストの血による基礎 |
幕屋は「建物」ではなかった。神がご自身の救いの計画を、目に見える形で民に示された啓示の構造物だった。イスラエルの民は毎日この幕屋を見ながら、まだ来ていない方を待ち望んでいた。そして私たちは、すでに来られた方を知りながら、この構造を振り返る。
砂漠の木材から始まった啓示の旅は、まっすぐキリストへと向かっていた。
※第二部(ヨブ記18-19章)、第三部(ルカ24章)、第四部(一貫性)へと続きます。時間のある時、さらに深く学びたい時にお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。
第二部:旧約(ヨブ記18-19章)
闇の中の確信—何も変わらない状況で「知っている」と言えるか
ヨブ記18章はシュアハ人ビルダデの二度目のスピーチだ。彼の論法は単純で残酷だ。「悪者はこのような運命をたどる」—そして暗黙のうちにヨブに向かって「だからお前は悪者だ」と指差している。
ここで注目したいのは、ビルダデの神学が間違っていないという点だ。悪者が裁かれるという原則は聖書的だ。しかし彼は致命的な誤りを犯している。正しい神学を持ちながら、目の前の人間を誤って裁く—これは今日も繰り返される過ちだ。
ヨブの絶望の深さ
19章でヨブは答える。「いつまで、あなたがたは私のたましいを悩ますのか」(19:2)。ヨブが列挙する孤独は読むだけで胸が痛い。兄弟たちが離れ、知人が遠ざかり、親族が来なくなり、親しい友が忘れ、しもべが返事もせず、妻にいやがられ、小僧っ子にさげすまれる。
19:20「私はただ歯の皮だけでのがれた」—これはヘブライ語の慣用句で「かろうじて生きている」という意味だ。
| ヘブライ語 | 発音 | 意味 |
| בְּעוֹר שִׁנַּי | ベオール・シンナイ | 歯の皮膚だけで(かろうじて生きている) |
19:25—最も孤独な場所からの最も力強い確信
そしてこの絶望の真っ只中に、突然の転換が来る。
「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを」(19:25)
ヘブライ語原文:
| ヘブライ語 | 発音 | 意味 |
| וַאֲנִי יָדַעְתִּי גֹּאֲלִי חָי | ヴァアニー・ヤダアティ・ゴアリー・ハイ | しかし私は知っている、私の贖い主は生きておられる |
| וַאֲנִי | ヴァアニー | しかし私は(逆接) |
| יָדַעְתִּי | ヤダアティ | 知っている(経験的・人格的知識) |
| גֹּאֲלִי | ゴアリー | 私の贖い主(ゴエル・親族代表者) |
| חָי | ハイ | 生きておられる |
冒頭のוַ(ヴァ)は「しかし」という逆接だ。直前の絶望的な状況に対して「しかし私は知っている」と続く。状況への反論ではなく、状況を超えた確信の宣言だ。
יָדַעְתִּי(ヤダアティ)—「知っている」はヘブライ語で単なる知識的理解ではない。創世記4:1「アダムは妻エバを知った」と同じ動詞。人格的・関係的・経験的な認識を意味する。ヨブは神学的命題として「贖い主がいる」と言ったのではない。その方を知っていた。
גֹּאֵל(ゴエル)—「贖い主」はヘブライ法における「親族代表者」の制度から来ている。ルツ記のボアズがまさにこの役割を果たした。ヨブは「私には血縁の贖い主がいる」と言っている。すべての人間関係が切れた状況で、切れることのない関係があると宣言した。
状況が何も変わっていないことの意味
ヨブがこの確信を告白した後、何が変わったか。何も変わっていない。友人たちはまだそこにいる。体はまだ病んでいる。財産も子どもも戻っていない。
これが重要だ。信仰の確信は、状況の改善によって生まれるのではない。状況が最も暗い場所で、それでも「知っている」と言える—これが本物の信仰の質だ。
ヘブル11:1「信仰は望んでいることの確信であり、見えないものの証拠です」。ヨブはまさにこれを生きていた。
書き留められたいという願い
確信の直前、ヨブは叫んでいた。「ああ、今、できれば、私のことばが書き留められればよいのに。ああ、書き物に刻まれればよいのに」(19:23-24)。
ここに深い皮肉がある。ヨブが「書き留められたい」と願ったそのことばが、数千年の時を超えて今も読まれている。神はヨブの願いを、ヨブが想像した以上の形で叶えられた。
ビルダデの神学とヨブの信仰の対比
| ビルダデ | ヨブ | |
| 神学的知識 | 正しい原則を持つ | 説明できない状況の中にいる |
| 適用 | 目の前の人間を誤って裁く | 神に向かって手を伸ばす |
| 信仰の質 | 知識的・命題的 | 人格的・経験的 |
| 結果 | ヨブを傷つけた | 「贖う方は生きておられる」と言えた |
正しい説明ができることと、本物の信仰を持つことは別だ。ビルダデは前者を持ち、ヨブは後者を持っていた。
※第三部(ルカ24章)、第四部(一貫性)へと続きます。
第三部:新約(ルカ24:13-35)
招かれなければ入らない神—エマオの道が語る啓示の順序
復活の日の午後、二人の弟子がエルサレムからエマオへ向かって歩いていた。エマオはエルサレムから約11キロメートル、徒歩で2〜3時間の距離だ。彼らは「このいっさいの出来事について話し合っていた」(24:14)。
「望みをかけていました」—過去形だ。望みはすでに過去のものになっていた。
目がさえぎられていた理由
「しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」(24:16)
| ギリシャ語 | 発音 | 意味 |
| ἐκρατοῦντο | エクラトゥント | 制御されていた・保持されていた(受動態) |
「さえぎられていた」は受動態だ。誰かが意図的に目を閉じさせていた、という含意がある。イエスがここで正体を明かさなかったのは、彼らに答えを与える前に、問いを深く感じさせるためだったと考えられる。理解には順序がある。「なぜ」が腑に落ちてから、「誰か」がわかる。
聖書全体がキリストを指している
24:27「それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた」
「モーセおよびすべての預言者から始めて」—これはトーラーから始まり、預言書全体を通るという意味だ。今日の第一部で見た幕屋の構造も、この「聖書全体のキリスト」の一部だった。アカシヤ材も、垂れ幕も、横木も—すべてがキリストを指し示していた。
心が燃えていた
「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか」(24:32)
| ギリシャ語 | 発音 | 意味 |
| καιομένη | カイオメネー | 燃やされていた(受動態) |
「燃えていた」は受動態だ。自分で燃やしたのではない。燃やされていた。御言葉が語られるとき、聖霊が心に火をつける。これは第一部で見た燭台—注がれた油によって燃える光—の成就だ。
招かなければ入らない神
目的の村に近づいたとき、「イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった」(24:28)。イエスは強制しなかった。招かれなければそのまま行かれようとした。
| ギリシャ語 | 発音 | 意味 |
| παρεβιάσαντο | パレビアサント | 強く懇願した・無理に願った |
黙示録3:20でイエスはこう言われる。「見よ、わたしは戸の外に立ってたたく。だれでもわたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って」
招かれなければ入らない神—これがエマオの隠れたテーマだ。
パンを裂かれた瞬間
「彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった」(24:30-31)
御言葉の説き明かしで心は燃えた。しかし目が開かれたのはパンを裂かれた瞬間だった。おそらく彼らはルカ22:19で同じ仕草を見ていた。「これはあなたがたのために与えるわたしのからだです」。同じ手、同じ祝福の言葉、同じ裂き方。記憶が甦った瞬間、目が開かれた。
ここに礼拝の完成形がある。御言葉(説き明かし)と食卓(パンを裂く)—霊とまことの礼拝が揃った瞬間に、完全な啓示が来た。第一部で見た燭台と机の向かい合わせが、エマオの食卓で成就した。
| 幕屋の象徴 | エマオの成就 |
| 燭台(御霊・知恵と啓示) | 聖書の説き明かし・心が燃えた |
| 机のパン(真理の御言葉) | パンを裂いて渡された |
| 両者が向かい合う | 御言葉と食卓が重なった瞬間 |
| 至聖所への道 | 目が開かれ、イエスだとわかった |
ここで一つの疑問が浮かぶ
弟子たちはいつ、主イエスが真の王であることを正しく理解したのか。
エマオで理解が始まり、復活の40日間(使徒1:3)で深まり、昇天の時点でもまだ「イスラエルの王国はいつ回復されますか」(使徒1:6)と聞いていた—政治的期待が残っていた。
ペンテコステで聖霊が降り、ペテロが「これはヨエルの預言の成就だ」と宣言できた時、初めて公に確信をもって語れるようになった。理解は段階的だった。エマオで再解釈が始まり、ペンテコステで確信と言葉が与えられた。
※第四部(三箇所を貫く神学的一貫性)へと続きます。
第四部:三つの箇所を貫く神学的一貫性
見えない神が見えるようにされる—啓示の構造と招きの神学
今日の三つの箇所は、一見まったく異なる世界を描いている。砂漠の幕屋建設の仕様、友人たちに責め続けられる病人の告白、復活の日の午後に村へ向かう二人の旅人。時代も場所も状況も異なる。しかし読み終えた時、一本の糸が三つを貫いていることに気づく。
神は見えない。しかし神は、見えるようにしてくださる。
啓示の三つの構造
第一:器が必要だ
幕屋は神の臨在を宿す「器」だった。砂漠の木材、金の台座、青・紫・緋の垂れ幕—これらは単なる建築素材ではなく、見えない神が見える形で宿るために選ばれた器だ。ヨブの破れた体、失われた財産、孤立した魂—その極限の状況が、「贖う方は生きておられる」という言葉を生み出す器となった。エマオの落胆した二人の弟子、夕暮れの食卓—これらがイエスの臨在を受け取る器となった。
神は常に、人が期待しない器を選ばれる。
第二:御言葉と御霊が向かい合う
幕屋の聖所では、燭台(御霊の光)と机(御言葉のパン)が向かい合って置かれていた。エマオの道でイエスは聖書を説き明かされた(御言葉)。弟子たちの心は燃えた(御霊の働き)。そしてパンを裂かれた食卓で(御言葉の成就)、目が開かれた。幕屋の燭台と机の向かい合わせは、エマオの食卓で成就していた。
第三:招きが必要だ
幕屋の捧げ物は自発的だった(出25:1-8)。ヨブは「書き留めてほしい」と叫んだ(19:23-24)。エマオでは弟子たちが「いっしょにお泊まりください」と強く願った(24:29)。三つの箇所すべてで、人間の側の切実な求めと招きが、神の臨在の扉を開いている。
神は押し入らない。招かれるのを待っておられる。
ヨブが橋渡しをしている
| 幕屋 | ヨブ | エマオ | |
| 時代 | 出エジプト後 | 族長時代か | 復活の日 |
| 贖い主との関係 | 構造物として予型 | 名前なき確信 | 目の前にいて見えない |
| 見える契機 | 神の命令と民の捧げ物 | 極限の告白 | 招きとパンを裂く |
| 啓示の完成 | 神の臨在が宿る | 「後の日に立たれる」 | 「目が開かれた」 |
ヨブの「贖う方は生きておられる」という告白は、幕屋が構造で語り、エマオで成就したものを、言葉で語った。三つの箇所は、同じ一方を三つの異なる角度から指し示している。
今日の三箇所が現代の私たちに語ること
幕屋の垂れ幕は裂けた。至聖所への道は開かれている。しかし開かれた道を歩むためには、今も燭台(御霊)と机(御言葉)の前に立つ必要がある。霊とまことの礼拝なしには、神の臨在には近づけない—幕屋の構造は今もそれを語り続けている。
ヨブの確信は、状況が変わらなくても「知っている」と言えることを教えている。祈りが聞かれないように感じるとき、神が沈黙しておられるように感じるとき、それでも「私の贖い主は生きておられる」と言える信仰—これはヨブから学ぶ。
エマオの道は、落胆して歩く者のそばにイエスが「近づいて、ともに道を歩いておられた」(24:15)ことを教えている。気づいていなくても、認識できなくても、イエスはすでにそこにおられた。そして招くとき、入ってこられる。
結び—砂漠の木材から始まった旅の行き先
今日の旅は砂漠のアカシヤ材から始まった。荒れ地に育つ、人が見過ごしやすい木材。それが神の住まいの柱となった。ガリラヤの大工が世界の救い主となられたように、神は常に人が軽視する場所に最も重要なものを置かれる。
ヨブは極限の苦しみの中で「贖う方は生きておられる」と言った。名前も顔も知らない方を、人格的知識として「知っていた」。
エマオの弟子たちは、その贖い主がパンを裂かれた瞬間に目が開かれた。
砂漠の木材から始まった啓示の旅は、エマオの食卓に至った。そして今日も続いている。御言葉が語られるとき、心は燃える。パンが裂かれるとき、目が開かれる。
「ですから、兄弟たち。私たちはイエスの血によって、大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました」
ヘブル10:19-20
贖う方は生きておられる。見えなかった目が、今日も開かれていく。
📊 幕屋の空間配置図

私の独り言
(GPTで生成してもらったけれど、聖書の記述通りでなかったので、至聖所への順番が違ったり、至聖所に入り口があったりで・・・訂正に訂正を重ねると無料の為、容量がオーバー、これが限界!香の壇がメノラーやパンの机より手前にある事と、パンの机と、メノラーが向かい合ってないところが惜しい。パンはベーグルのような輪型パンで12個の描かれてないところも記述と違う。。次は通読でレビ記を旅する時しっかり指示だしして描きたい。今日はイメージだけ見たかった。それにしてもこんなに美しく描けるAI凄い、その内もっと進化していくのだろう)
幕屋の空間配置と神学的意味
出エジプト記26章—至聖所への道は「霊とまことの礼拝」を通る
上=西(至聖所)/下=東(入口)/左=南/右=北
贖いのふた(宥めの座)の上にケルビム2体
聖所と至聖所の仕切り
祈りの象徴 詩篇141:2 / 黙示録8:3-4「聖徒たちの祈りが御前に上る」
燭台(御霊)と机(御言葉)の向かい合わせは、
至聖所への前提条件を空間で示していた
油で燃える 聖霊の知恵と啓示
御霊による祈り エペソ1:17
合わせ
出26:35
常に新鮮に 真理の御言葉 ヨハネ6:35
祭司の清め
いけにえの場
| 幕屋の要素 | 素材・特徴 | キリストへの指し示し |
|---|---|---|
| アカシヤ材の板 | 砂漠育ち・朽ちない | キリストの人性(卑しい出自・朽ちない命) |
| 金のかぶせ | 最も貴い金属 | キリストの神性 |
| 中央横木 | 端から端まで通る | 全聖書を貫くキリスト(ルカ24:27) |
| 燭台・南側(左) | 油で燃える・7つの灯 | 聖霊による知恵と啓示・御霊の祈り |
| パンの机・北側(右) | 常に新鮮な12個のパン | 真理の御言葉「わたしはいのちのパンだ」 |
| 燭台と机の向かい合わせ | 聖所の中心配置 | 霊とまことの礼拝—至聖所への前提条件(ヨハ4:23) |
| 香の壇(出30章) | 垂れ幕の直前・絶えず香 | 祈り「聖徒の祈りが御前に上る」(黙8:3-4) |
| 垂れ幕(ケルビム) | 聖所と至聖所の仕切り | キリストの肉体・十字架で裂かれた(ヘブ10:20) |
| 銀の台座 | 板を支える基礎 | 贖いの代価・キリストの血による基礎 |
「ですから、兄弟たち。私たちはイエスの血によって、大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました」
ヘブル10:19-20上=西(至聖所)・下=東(入口)・左=南・右=北 / Cocoon対応・背景白系・テキスト黒系

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