2026年2月27日の聖書通読 あなたの問いは礼拝だ——ヨブ21章・出エジプト27章・ルカ24章に見る神との関係——

聖書の名言集
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 出エジプト記27章1-19節・ヨブ記20-21章・ルカ24章36-53節

悪魔は外から攻撃する。しかし「正しい神学」を持った人間は、信頼の名のもとに内側から傷つけることができる。ヨブを最も苦しめたのは、サタンではなく友人たちだった。

神学的に正確であることと、神の心を持っていることは、別のことだ。

この記事は、要点だけを抜き出して理解できる内容ではありません。モーセ五書・旧約・新約の連続した文脈の中でのみ読まれることを意図しています。

【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。

第一部:トーラー——神に近づくための構造

出エジプト記27章が語ること

27章は一見、建築仕様書のように見える。青銅の祭壇の寸法、庭の掛け幕の素材、柱の本数と台座の材質。細かい数字が並んでいて、霊的な感動とは無縁に思えるかもしれない。

しかし、ここに神の深い意図が隠されている。

この章で描かれているのは「庭」——幕屋の外庭である。聖所全体の構造を思い浮かべると、その意味が鮮明になる。

イスラエルの民なら誰でも入れる「外庭」。祭司だけが入れる「聖所」。大祭司のみが年に一度だけ入れる「至聖所」。これは単なる建築的区分ではない。神への接近の段階的な構造だ。

青銅が意味するもの

外庭のすべての器具は青銅で作られた。祭壇も、格子も、釘さえも。一方、聖所に近づくにつれて金の器具が増えていく。

נְחֹשֶׁת ネホシェット 青銅——裁きを象徴する金属

青銅は「裁き」を象徴すると古来より解釈されてきた。外庭は罪が裁かれる場所だからだ。民はここで動物を携えてきて、罪の告白と、いのちの代替を行った。

ここで注目したいのは、青銅の釘(27:19)だ。「幕屋の奉仕に用いるすべての用具、すべての釘は青銅とする」。釘まで指定されている。なぜか。

青銅は実用的に錆びにくい金属である。砂漠の過酷な環境、雨露、荷物の移動——幕屋は移動式の構造物だった。だから耐久性のある青銅が選ばれた。神の命令は霊的な意味を持ちながら、同時に実用的にも完璧だった。

神は「信仰だから多少のことは目をつぶれ」という方ではない。神は細部にも完璧さを求める方だ。

庭の門——開かれた入口

27章16節に、庭の門の記述がある。「青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を使った長さ二十キュビトの刺繍した幕」。二十キュビト、約9メートルの幅。これは幕屋の「正面入口」である。

注目すべきは、この庭の門が東向きだということだ(27:13)。東は太陽が昇る方向。光が来る方向。聖書において、しばしば「神の臨在が来る方向」として描かれる(エゼキエル43:2など)。

庭の門は閉じていなかった。幕は張られているが、それはアクセスを制限するためではなく、聖なる領域を区別するためだった。神はイスラエルの民に「来い」と言っていた。

「山で示されたところに従って」

27:8に印象的な言葉がある。「山であなたに示されたところにしたがって、彼らはこれを作らなければならない」。この「山」とはシナイ山のことだ。

תַּבְנִית タブニット ひな型・設計図・天の本物の模型

モーセは山の上で、神から幕屋の「ひな型」を見せられた。地上の幕屋は、天にある本物の「ひな型」を模したものだ。ヘブライ人への手紙8:5はこれを引き継ぐ。「彼らは、天にあるものの写しと影に仕えています」。

つまり出エジプト27章の建築仕様書は、天の礼拝の構造が地上に降りてきた設計図なのだ。細かい数字の羅列に見えるこの章は、実は天と地をつなぐ壮大な物語の一部である。

第一部の適用

庭に入れる者は誰でもよかった。ただ、来なければならなかった。幕屋の構造は「あなたは来てよい」という神の招きそのものだった。

青銅の祭壇で何が起きたか。罪を告白し、いのちをもって贖いを求めた。そこに来た人が、完璧な神学を持っている必要はなかった。ただ、自分の罪と必要を持って来ればよかった。

問いを持ったまま来てよい。痛みを持ったまま来てよい。庭の門は東を向いて開かれている。


第二部:旧約——正しい神学が凶器になる時

ヨブ記20章・21章が語ること

ヨブ記を読む時、私たちは不思議な緊張感を感じる。ツォファルが言っていることは、神学的に間違っていない。「悪者は滅びる」「罪には報いがある」——これは聖書全体を貫く真実だ。

では何が問題なのか。

正しい命題を、間違った人に、間違った文脈で、断罪の目的で使った。

これが20章のツォファルのしたことだ。

20章:真実の武器化

ツォファルは20:2で「いらだつ思いが私に答えを促す」と言っている。彼は感情的になっている。ヨブの言葉に傷ついた、あるいは苛立った。その感情の上に「神学的正論」を乗せて反論する。

これは現代にも見られるパターンだ。怒りや苛立ちを「正義」や「真理」の言葉で包む。相手を傷つけているのではなく「真実を告げている」と自分に言い聞かせる。

ここで注目したいのは、ツォファルの言葉には「あなたのことだ」という直接の言及がないことだ。しかし全員がわかっている。これはヨブへの間接的な断罪だ。直接言わないことで、反論しにくくしている。これは今も変わらない人間の「賢い残酷さ」だ。

21章:ヨブの神学的反乱

ヨブの21章は、感情的な抗議ではない。これは観察に基づいた神学的挑戦だ。

21:7「なぜ悪者どもが生きながらえ、年をとっても、なお力を増すのか」

これはヨブが信仰を失ったのではない。むしろ逆だ。神を信じているからこそ、現実との矛盾が問いになる。神を信じていない人は「世の中そんなものだ」で終わる。ヨブは「神がおられるなら、なぜ」と問い続ける。

そして決定的な言葉が来る。21:14-15「しかし、彼らは神に向かって言う。『私たちから離れよ。私たちは、あなたの道を知りたくない。全能者が何者なので、私たちは彼に仕えなければならないのか』」

神を完全に無視しながら、繁栄して安らかに死んでいく人々がいる。これが現実だとヨブは言う。ツォファルの理論では説明できない現実が、ここにある。

21:22——この章の核心

「彼は神に知識を教えようとするのか。高い所におられる方がさばきを下すのだ」

これは皮肉に満ちた一節だ。文脈的にはツォファルへの反論——「お前は神の裁きのパターンを完全に理解しているつもりか」という問いかけだ。

しかし同時に、ヨブ自身への自己言及でもある。ヨブも神に「なぜ」と問い続けている。

ツォファルは答えを持っていたが神に近くなかった。ヨブは問いを持っていたが神と格闘していた。

神は後の38章で嵐の中からヨブに答える。その時神は神学的な説明をしない。ただ「わたしはここにいる。わたしが誰であるかを見よ」と語りかける。そしてヨブ42:7で神はツォファルたちに言う。「あなたがたは、わたしのしもべヨブが語ったように、わたしについて正しいことを語らなかった」。

正しい答えを持っていたツォファルではなく、問いを持ち続けたヨブの方が「神について正しいことを語った」と評価された。

21:27——友人の動機を見抜く

「ああ、私はあなたがたの計画を知っている。私をそこなおうとするたくらみを」

ヨブはここで、友人たちの議論が純粋な神学的探求ではないことに気づいている。彼らはヨブを「有罪」にしようとしている。なぜか。

ヨブが無実であるという可能性を認めることは、彼らの神学体系を崩すからだ。「義人は祝福され、悪者は滅びる」という公式が崩れる。だからヨブは有罪でなければならない。

ヨブの友人たちは残酷だったのではなく、恐れていた。自分たちも同じ目に遭うかもしれないという恐れ。その恐れがヨブを断罪させた。

第二部の適用

ヨブ記は問いを持つことを肯定している。神への「なぜ」は不信仰ではない。むしろ、神との関係があるからこそ生まれる問いだ。

神を信じない人は神に問わない。ヨブの「なぜ」は、神がおられることへの逆説的な信頼から来ていた。

あなたの問いは礼拝だ。ヨブはその証人だ。


第三部:新約——開かれた心と、祝福しながら去る主

ルカ24章36-53節が語ること

復活の日の夕方。弟子たちはエルサレムのどこかの部屋に集まっていた。エマオへの道でイエスと話した二人が戻ってきて、「主は復活された」と報告している最中だった。その時だ。

「イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた」(36節)

ドアが開いたわけではない。足音もなかった。突然、そこにおられた。

恐れから驚きへ、驚きから理解へ

弟子たちの反応は正直だ。「驚き恐れて、霊を見ているのだと思った」(37節)。

これは信仰の薄さを示しているのではない。これは人間の正直な反応だ。死んだ人が戻ってくることは、あり得ないことだった。たとえ「復活する」と事前に言われていても、実際に目の前に現れた時、人間の認識は「これは霊だ」という方向に動く。

イエスはこの反応を責めなかった。「なぜ取り乱しているのですか」(38節)——これは叱責ではなく、穏やかな問いかけだ。

そしてイエスは言う。「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません」(39節)。

イエスが証明しようとしたのは「復活という概念」ではなく、「わたしはあなたがたの知っているイエスだ」ということだった。抽象的な神学命題ではなく、関係性の継続を示した。

焼いた魚を召し上がった

41節が美しい。「それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、『ここに何か食べ物がありますか』と言われた」。

「うれしさのあまり信じられない」——これは美しい表現だ。恐れて信じられないのではなく、うれしすぎて信じられない。人間の心の機微をルカは正確に記録している。

弟子たちが焼いた魚を差し上げると、イエスは「彼らの前で、それを取って召し上がった」(43節)。

復活の体を持つ方が、焼いた魚を食べた。これは何を意味するのか。霊ではなく肉体を持っていることの証明という側面もある。しかしそれ以上に、イエスは弟子たちと食卓を共にすることを選んだという事実が深い。食事は関係性の表現だ。復活後の最初の行動の一つが「共に食べること」だったのは、偶然ではない。

「聖書を悟らせるために心を開いた」

44節から、場面が転換する。

「わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした」(44節)。

「モーセの律法と預言者と詩篇」——これはヘブライ語聖書の三部構成を指す。トーラー(律法)、ネビイーム(預言者)、ケトゥビーム(諸書)。

תַּנַ”ךְ タナハ ヘブライ語聖書の三部構成の呼称

そして45節。「そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」

διήνοιξεν αὐτῶν τὸν νοῦν ディエーノクセン アウトーン トン ヌーン 「貫通するように彼らの知性を開いた」

διήνοιξενは「完全に開く」という意味の複合動詞だ。δια(完全に・貫いて)+ἀνοίγω(開く)の組み合わせ。単に「開いた」ではなく、「貫通するように開いた」というニュアンスがある。

νοῦνは「心・知性・理解力」を指す。感情ではなく、理解する能力そのもの。

イエスがしたことは、弟子たちの理解する能力自体を変えたということだ。同じ聖書を読んでいたのに、今まで見えなかったものが見えるようになった。

祝福しながら離れていった

50-51節が今日の通読の中で最も美しい場面かもしれない。

「イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた」。

「祝福しながら離れていった」。昇天の瞬間、イエスの最後の姿は「祝福している姿」だった。手を上げて、祝福の言葉を語りながら、天に上げられていった。

これは旧約のアロンの祝禱(民数記6:24-26「主があなたを祝福し、あなたを守られますように」)を思い起こさせる。大祭司が民を祝福するように、イエスは弟子たちを祝福しながら去っていった。しかし旧約の大祭司は幕の前で祝福した。イエスは天に上りながら祝福した。もはや幕はない。

「非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り」

52節。弟子たちはイエスが去っていくのを見て、悲しんだだろうか。違う。「非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた」。

なぜ「置いていかれた」のに喜べたのか。彼らは理解した。イエスが去ったのは終わりではなく、約束の成就の始まりだと。「わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります」(49節)——聖霊が来る。新しい段階が始まる。

第三部の適用

ルカ24章の弟子たちは、完璧な信仰を持っていなかった。疑い、恐れ、うれしさのあまり信じられなかった。しかしイエスは彼らの不完全な状態を受け入れ、手を触れさせ、魚を食べ、心を開いてくださった。

あなたの問いは礼拝だ。疑いも、恐れも、「うれしすぎて信じられない」混乱も——それを持ってイエスのところに来てよい。主は祝福しながら、あなたを迎える。

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第四部:全体の一貫性——神への接近、三千年の物語

三つの箇所を貫くテーマ

今日の通読は、一見バラバラに見える三つの箇所だった。砂漠の建築仕様書。苦しむ男の神学的反乱。復活した主との夕べの食卓。

しかしこれらは一本の糸で繋がっている。

「神に近づくとはどういうことか」

この問いに、三つの箇所がそれぞれ異なる角度から答えている。

出エジプト27章が示したもの:構造としての接近

外庭は誰でも入れた。ただし、来なければならなかった。幕屋の庭の門は東を向いて開かれていた。神は「来てよい」と言っていた。

この構造は「神は遠い」ということを示していたのではない。むしろ逆だ。神は近づくことができる方だということを、制度として示した。近づき方を神自身が設計した。ひな型は天にあった。地上の幕屋は、天の礼拝の写しだった。

完璧な神学の知識は要求されなかった。ただ来ることが求められた。

ヨブ20-21章が示したもの:格闘としての接近

ツォファルは正しい神学を持っていたが、神に近づいていなかった。彼は神学体系の守護者だった。その体系に合わない現実——ヨブの苦しみ——は、体系を守るために排除されなければならなかった。

ヨブは問いを持っていた。しかし神は最終的にヨブの側に立った。

神への問いは、神を否定しているのではなく、神との関係を前提にしている。問わない人は、神がいないか、神に関心がないかのどちらかだ。ヨブが「なぜ」と叫び続けたのは、神がおられることを信じていたからだ。

ヨブの格闘は礼拝だった。

ルカ24章が示したもの:完成としての接近

イエスは弟子たちの「心を開いた」。出エジプトの幕屋では、至聖所への道は幕で遮られていた。しかしイエスの十字架でその幕が裂けた。そして復活後、イエスは弟子たちの心の幕を開いた。

これは出エジプトの幕屋の構造の完成だ。神に近づくための外庭・聖所・至聖所という段階的構造は、イエスにおいて解体されたのではなく、完成された。

もはや外庭で動物を屠る必要はない。イエス自身が究極のいけにえとなった。もはや大祭司が年に一度だけ至聖所に入る必要はない。イエス自身が永遠の大祭司として天の至聖所に入った(ヘブライ9:12)。

そして弟子たちは「非常な喜びを抱いてエルサレムに帰った」。幕屋の時代、神に近づくことは畏れを伴う厳粛な儀式だった。復活後の時代、神に近づくことは「非常な喜び」になった。

三千年の問い、一つの答え

ヨブは叫んだ。「だれか私に聞いてくれる者はないものか」(31:35)。

幕屋の庭に来た名もないイスラエルの民は、動物を携えて来た。言葉にならない罪の重さを携えて来た。

弟子たちは「うれしさのあまり信じられない」混乱を抱えたまま、復活の主の前に立った。

三者に共通するのは、完璧な状態で神に近づいていないということだ。

幕屋の構造は「罪ある者のための神への道」だった。ヨブの格闘は「答えのない者の神への叫び」だった。弟子たちの疑いは「信仰が完成していない者の神への応答」だった。

そしてすべての場面で、神は拒まなかった。

日本の文脈に向けて

日本において「宗教」は、しばしば「正しく行うこと」と結びついている。正しい作法、正しい言葉、正しい心構え。準備が整ってから近づく、という感覚がある。

しかし今日の三箇所は、全く逆のことを語っている。

神は「準備が整ってから来い」とは言っていない。

問いを持ったまま来てよい。痛みを持ったまま来てよい。疑いを持ったまま来てよい。「うれしすぎて信じられない」混乱を抱えたまま来てよい。

幕屋の庭の門は東を向いて開かれている。ヨブの「なぜ」は神に届いた。復活の主は弟子たちの心を「貫通するように開いた」。

ヘブライ人への手紙4:16

「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」

παρρησίᾳ パレーシア 大胆に——「何でも言える自由」「隠しごとのない率直さ」

神の前で「何でも言える」。問いも、疑いも、怒りも、悲しみも。それが「大胆に近づく」ということだ。

幕屋の構造は完成した。ヨブの問いは届いた。弟子たちの心は開かれた。

あなたの番だ。

——あなたの問いは礼拝だ——

あなたの問いは礼拝だ——図解

あなたの問いは礼拝だ

2026年2月27日 出エジプト記27章・ヨブ記20-21章・ルカ24章36-53節

神への接近——三千年の物語を図解する

図1:幕屋の接近構造(出エジプト27章)

聖所は段階的な「神への近づき」を示す設計だった。外庭の門は東を向いて開かれていた——誰でも来てよかった。

外庭
(庭)
נְחֹשֶׁת / ネホシェット(青銅)
誰でも入れる / 青銅の祭壇:罪の告白・いのちの代替
門は東向きに開かれていた(27:13) / 高さ5キュビトの掛け幕
聖所
祭司のみが入れる / 金の燭台・供えのパン・香の祭壇
日々の奉仕が行われる場所
至聖所
大祭司のみ 年に一度だけ / 契約の箱(神の臨在)
幕によって遮られていた
十字架で
完成
イエスの十字架で幕が裂けた(ルカ23:45)
復活後、弟子たちの「心の幕」も開かれた(ルカ24:45)
誰でも大胆に神に近づける(ヘブライ4:16)
ひな型(תַּבְנִית / タブニット):地上の幕屋は天の礼拝の「写し」。 神自身が設計図を示された(出エジプト27:8、ヘブライ8:5)。

図2:今日の重要な原語

נְחֹשֶׁת
ネホシェット
青銅——裁きを象徴。錆びにくく耐久性が高い。幕屋の外庭のすべての器具に使われた。
תַּבְנִית
タブニット
ひな型・設計図。天にある本物の模型。地上の幕屋はこの「写し」として建てられた。
διήνοιξεν
ディエーノクセン
「貫通するように開いた」。復活のイエスが弟子たちの理解する能力そのものを変えた(ルカ24:45)。
παρρησίᾳ
パレーシア
大胆に——「何でも言える自由」「隠しごとのない率直さ」。神の前で問いも疑いも正直に語れる(ヘブライ4:16)。

図3:神への近づき方——三者の比較

比較項目 ツォファル(ヨブ20章) ヨブ(21章) 弟子たち(ルカ24章)
神学的知識 正しい命題を持っていた
「悪者は滅びる」は真実
問いの中にいた
「なぜ悪者が繁栄するのか」
理解できていなかった
聖書の意味が見えなかった
神との関係 神学体系の守護者
神に近づいていなかった
神と格闘していた
神がおられると信じていたから問えた
主を見て恐れた
「うれしさのあまり信じられず」
問いの扱い 問いを断罪で封じた 問いを神に向け続けた 疑いのまま主の前に立った
神の評価 「正しいことを語らなかった」
(ヨブ42:7)
「わたしについて正しいことを語った」
(ヨブ42:7)
心を開かれ、使命を与えられた
(ルカ24:45-48)
教訓 正しい答えを持っていても
神から遠ざかれる
問いは神を否定しない
——格闘こそ礼拝
不完全なまま来てよい
——主が心を開いてくださる

図4:神への接近——旧約から新約へ

出エジプト27章
構造としての接近
庭の門は開かれていた
ヨブ20-21章
格闘としての接近
問いそのものが礼拝
ルカ24章
完成した接近
心の幕が開かれた
時代 箇所 神への近づき方 「幕」の状態
幕屋時代 出エジプト27章 制度・儀式を通じて。誰でも来てよかった。ただし動物を携えて。 至聖所は幕で遮られていた
ヨブの時代 ヨブ20-21章 問いと格闘を通じて。神への「なぜ」は拒絶されなかった。 答えは見えなかったが神は聞いていた
復活後 ルカ24章 イエス自身が来てくださった。心そのものを開いてくださった。 十字架で幕が裂け、心の幕も開かれた
現在 ヘブライ4:16 大胆に(παρρησίᾳ / パレーシア)恵みの御座に近づける。 幕はない。いつでも近づける。

幕屋の庭の門は東を向いて開かれていた。

ヨブの「なぜ」は神に届いた。

復活の主は弟子たちの心を「貫通するように開いた」。

あなたの問いは礼拝だ。

問いを持ったまま来てよい。疑いを持ったまま来てよい。
神は「準備が整ってから来い」とは言っていない。

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