2026年1月23日 出エジプト記9章13-35節、歴代誌下18-19章、ルカ8章19-39節
はじめに
―神のことばは必ず成就する―
今日の3つの箇所には、共通する力強いメッセージがあります。それは「神のことばは必ず成就する」ということです。
出エジプト記では、モーセを通して語られた雹の災いの予告が正確に実現します。歴代誌下では、ミカヤが預言した通りにアハブが戦死します。ルカでは、イエスが一言命じられると、嵐も悪霊も従います。
時代も状況も異なりますが、神のことばには変わらない確実性と権威があります。今日はこの真理を、3つの場面から見ていきましょう。
その前にお時間がありましたら、この賛美をお聞きください。
「In Your Eyes」あなたの瞳-Yuta Nakayama【Cover 】Live,Cafe,R&B
紹介されていた日本語歌詞です:
どんな痛みも つらさも恥も あなたは受け入れられた
自分を捨てるほどに 私たちを愛された
あなたの瞳に わたしは 消えることない
いつまでもずっといつも見守り続けて 支え続け愛してくれる
あなたのすばらしい愛
この歌詞を読んで思いました。すべてを知り尽くせないほど本物で、大きく、優しすぎる主イエスの愛。この方の愛を全身全霊で受け止め、その中で生きていきたい。
そして、この方が語られることばは、必ず成就します。今日の箇所を通して、その確かさを一緒に見ていきましょう。
目次
【第一部:出エジプト記9章13-35節―雹の災いと神のことばの確実性】
■ 七番目の災い:雹
出エジプト記9章13節から、七番目の災い「雹」が始まります。この災いには、これまでの災いとは異なる特徴があります。
まず、9章14節で主は言われます:「今度は、わたしは、あなたとあなたの家臣とあなたの民とに、わたしのすべての災害を送る。わたしのような者は地のどこにもいないことを、あなたに知らせるためである」
ここで「わたしのすべての災害」という表現が使われています。これは、これまでの災いが部分的な警告であったのに対し、今回からは本格的な審判に入ることを示しています。
■ 神の目的:神の名を全地に告げ知らせるため
9章16節は、非常に重要な神学的宣言です:
「それにもかかわらず、わたしは、わたしの力をあなたに示すためにあなたを立てておく。また、わたしの名を全地に告げ知らせるためである」
パウロはこの御言葉をローマ9章17節で引用し、神の主権を論じています。神はパロを「立てておく」(存続させる)ことで、ご自身の力を示そうとされました。
神の目的は単にエジプトを滅ぼすことではなく、「わたしの名を全地に告げ知らせるため」でした。実際、出エジプトの出来事は全世界に知れ渡り、ヨシュア記2章でラハブが「あなたがたの神、主が、エジプトを出たときに、あなたがたの前で紅海の水を干からびさせたことを、私たちは聞いているからです」(ヨシュア2:10)と言っているように、神の名は全地に広まりました。
■ 予告された災い
9章18-19節で、神は具体的に災いを予告されます:
「さあ、今度は、あすの今ごろ、エジプトにおいて建国の日以来、今までになかったきわめて激しい雹をわたしは降らせる。それゆえ、今すぐ使いをやり、あなたの家畜、あなたが持っている野にあるすべてのものを避難させよ。野にいて家へ連れ戻すことのできない人や獣はみな雹が落ちて来ると死んでしまう」
ここで注目すべきは、神が事前に警告を与え、避難の機会を与えられたことです。これは神の憐れみです。
■ 信仰による分かれ道
9章20-21節に、興味深い記述があります:
「パロの家臣のうちで主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させた。しかし、主のことばを心に留めなかった者は、しもべたちや家畜をそのまま野に残した」
ここで、エジプト人の中にも「主のことばを恐れた者」がいたことが分かります。神のことばを信じるか信じないかで、運命が分かれました。これは、すべての時代の人々に問われる信仰の選択です。
■ 雹の災いの実現
9章23-25節で、予告された通りに雹が降ります:
「モーセが杖を天に向けて差し伸ばすと、主は雷と雹を送り、火が地に向かって走った。主はエジプトの国に雹を降らせた。雹が降り、雹のただ中を火がひらめき渡った。建国以来エジプトの国中どこにもそのようなことのなかった、きわめて激しいものであった。雹はエジプト全土にわたって、人をはじめ獣に至るまで、野にいるすべてのものを打ち、また野の草をみな打った。野の木もことごとく打ち砕いた」
ただし、9章26節「ただ、イスラエル人が住むゴシェンの地には、雹は降らなかった」とあるように、神の民は守られました。
■ スペルト小麦の興味深い記録
9章31-32節に、農作物の被害状況が記録されています:
「亜麻と大麦は打ち倒された。大麦は穂を出し、亜麻はつぼみをつけていたからである。しかし小麦とスペルト小麦は打ち倒されなかった。これらは実るのがおそいからである」
スペルト小麦(古代小麦)は、この時代から栽培されていた品種で、現代の小麦と比べて成長が遅いという特徴があります。皮肉なことに、この「遅さ」が幸いして雹の被害を免れました。
スペルト小麦は品種改良されていない古代の小麦で、食物繊維が豊富、低GI値、栄養価が高いという特徴があります。現代でも健康志向のパン作りに使われています。
聖書の細かい記述が、現代の私たちにも実用的な知識を与えてくれるのは、神のことばの豊かさを示していますね。
■ パロの偽りの悔い改め
9章27-28節で、パロは言います:
「今度は、私は罪を犯した。主は正しいお方だ。私と私の民は悪者だ。主に祈ってくれ。神の雷と雹は、もうたくさんだ。私はおまえたちを行かせよう。おまえたちはもう、とどまってはならない」
しかし、モーセは9章30節で見抜いています:「しかし、あなたとあなたの家臣が、まだ、神である主を恐れていないことを、私は知っています」
案の定、9章34-35節:「パロは雨と雹と雷がやんだのを見たとき、またも罪を犯し、彼とその家臣たちは強情になった。パロの心はかたくなになり、彼はイスラエル人を行かせなかった。主がモーセを通して言われたとおりである」
パロの悔い改めは、苦しみから逃れるための一時的なものでした。これは「神のことばは必ず成就する」という今日のテーマの一例です。主がモーセに「パロの心はかたくなになる」と予告された通りになったのです。
■ 出エジプトの災いと黙示録の災い
今日の箇所を読んで、黙示録の終末の災いとの類似性に気づかれた方もいるでしょう。実際、聖書には「型(タイプ)」という読み方があり、旧約の出来事が新約の現実を予め示していることがあります。
出エジプトの十の災いと、黙示録の七つの封印、七つのラッパ、七つの鉢の災いには、いくつかの共通点があります:
- 水が血に変わる(出エジプト7章、黙示録8章、16章)
- 腫れ物(出エジプト9章、黙示録16章)
- 雹(出エジプト9章、黙示録8章、16章)
- いなご(出エジプト10章、黙示録9章)
- 闇(出エジプト10章、黙示録8章、16章)
ただし、規模と性質は異なります。出エジプトは一国への局地的な災いでしたが、黙示録は全地球的な災いです。
この「型論」については、別の記事で詳しく扱いたいと思います。大切なのは、神の裁きの性質は一貫しており、神は必ずご自分の民を守り抜かれるということです。
記事の最後に、出エジプトの災いと黙示録の災いの詳しい比較表をHTML図解で提供していますので、ご覧ください。
【第二部:歴代誌下18-19章―ヨシャパテとアハブ、そしてミカヤの預言】
■ 不適切な同盟
歴代誌下18章1節:「こうして、ヨシャパテには富と誉れとが豊かに与えられたが、彼はアハブと縁を結んだ」
ヨシャパテは主を愛する良い王でしたが、北イスラエルの悪王アハブと縁組み(おそらくヨシャパテの息子ヨラムとアハブの娘アタルヤの結婚、歴代誌下21:6参照)をしました。これは霊的な妥協でした。
後に預言者エフーが19章2節で叱責します:「悪者を助けるべきでしょうか。あなたは主を憎む者たちを愛してよいのでしょうか。これによって、あなたの上に、主の前から怒りが下ります」
これは現代のクリスチャンへの警告でもあります。パウロが「不信者とくびきを共にしてはいけません」(IIコリント6:14)と言ったように、霊的な一致がないのに協力関係を結ぶことは危険です。
■ ミカヤの召喚
アハブはヨシャパテを誘ってラモテ・ギルアデに戦いに行こうとします。ヨシャパテは「まず、主のことばを伺ってみてください」(18:4)と賢明な提案をします。
アハブは400人の預言者を集め、彼らは口をそろえて「上って行きなさい。そうすれば、神は王の手にこれを渡されます」(18:5)と言いました。
しかし、ヨシャパテは違和感を覚えます:「ここには、私たちがみこころを求めることのできる主の預言者がほかにいないのですか」(18:6)
アハブは渋々答えます:「いや、ほかにもうひとり、私たちが主のみこころを求めることのできる者がいます。しかし、私は彼を憎んでいます。彼は私について、決して良いことは預言せず、いつも悪いことばかりを預言するからです。それは、イムラの子ミカヤです」(18:7)
真の預言者は、権力者に媚びません。ミカヤはまさにそのような預言者でした。
■ ミカヤの皮肉
ミカヤが召喚される前、使いの者は彼に言います:「いいですか。預言者たちは口をそろえて、王に対し良いことを述べています。お願いですから、あなたもみなと同じように語り、良いことを述べてください」(18:12)
しかし、ミカヤは答えます:「主は生きておられる。私の神が告げられることを、そのまま述べよう」(18:13)
そして、王の前でミカヤは最初にこう言います:「攻め上って勝利を得なさい。彼らはあなたがたの手に渡されます」(18:14)
一見、他の預言者と同じことを言っているようですが、これは皮肉でした。おそらく、偽預言者たちの空虚な言葉をそのまま繰り返すことで、その虚しさを際立たせたのでしょう。
アハブは見抜きます:「いったい、私が何度あなたに誓わせたら、あなたは主の名によって真実だけを私に告げるようになるのか」(18:15)
■ ミカヤの真の預言
そこでミカヤは真実を語ります:
「私は全イスラエルが、山々に散らされているのを見た。まるで、飼い主のいない羊の群れのように。そのとき、主は仰せられた。『彼らには主人がいない。彼らをおのおのその家に無事に帰さなければならない』」(18:16)
これは明らかに、アハブが戦死することを預言しています。
さらに、ミカヤは天の御座の幻を語ります(18:18-22)。主が「だれか、イスラエルの王アハブを惑わして、攻め上らせ、ラモテ・ギルアデで倒れさせる者はいないか」と問われ、「ひとりの霊」が「偽りを言う霊」となって預言者たちを惑わすと答えます。
これは、偽預言者たちが語っていることは、神の許しの中で起こっている惑わしだということです。
■ アハブの卑怯な策略
アハブはミカヤを投獄し(18:26)、戦いに行きます。しかし、彼は変装します:
「私は変装して戦いに行こう。でも、あなたは、自分の王服を着ていてください」(18:29)
これは非常に卑怯です。ヨシャパテを「おとり」にして自分を守ろうとしたのです。アラムの王が「ただイスラエルの王を目ざして戦え」(18:30)と命じていたことを知っていたのかもしれません。
実際、戦車隊長たちはヨシャパテを囲みますが、ヨシャパテが助けを叫び求めると、「主は彼を助けられた。神は彼らを、彼から離れるように仕向けられた」(18:31)とあります。神はヨシャパテを守られました。
■ 神の主権的介入
しかし、アハブは変装しても神の審判から逃れることはできませんでした:
「ところが、ひとりの兵士が何げなく弓を放つと、イスラエルの王の胸当てと草摺の間を射抜いた」(18:33)
「何げなく」放たれた矢が、正確にアハブを射抜きました。これは偶然ではありません。神の主権的介入です。
箴言21章30節:「主に対抗する知恵はない。英知もない。はかりごともない」
どれほど策を弄しても、神のことばは必ず成就します。ミカヤの預言は正確に実現しました。
■ ヨシャパテへの叱責と励まし
ヨシャパテは無事に帰還しますが、預言者エフーから叱責を受けます:
「悪者を助けるべきでしょうか。あなたは主を憎む者たちを愛してよいのでしょうか。これによって、あなたの上に、主の前から怒りが下ります。しかし、あなたには、良いことも幾つか見られます。あなたはこの地からアシェラ像を除き去り、心を定めて常に神を求めて来られました」(19:2-3)
神は一度の失敗で人を見捨てられません。ヨシャパテの良い点も認められています。これが恵みです。
ヨシャパテはこの経験から学び、19章4節以降、国中にさばきつかさを立て、霊的改革を進めます。失敗から学び、悔い改めて前進する姿勢は、すべてのクリスチャンの模範です。
【第三部:ルカ8章19-39節―イエスの権威と信仰】
■ イエスの家族
ルカ8章19-21節で、イエスの母マリヤと兄弟たちが来ますが、群衆のため近づけませんでした。
イエスは言われます:「わたしの母、わたしの兄弟たちとは、神のことばを聞いて行う人たちです」(8:21)
これは血縁よりも霊的なつながりの重要性を教えています。神の家族は、神のことばを聞いて行う人々です。
■ 嵐を静めるイエス
8章22-25節は、イエスが嵐を静める有名な場面です。
弟子たちは「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです」と叫びます(8:24)。するとイエスは風と荒波を叱りつけられ、なぎになりました。
そして、イエスは言われます:「あなたがたの信仰はどこにあるのです」(8:25)
弟子たちが問われたのは、「イエスがともにおられるなら、絶対に沈まない」という信仰です。イエスは舟の中で眠っておられました。これは、神の主権下での完全な平安を示しています。
詩篇121篇4節:「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」
しかし、人となられたイエスは眠られました。これは真の人性を示すとともに、「わたしがともにいるから大丈夫」という無言のメッセージでもありました。
私たちも人生の嵐の中で恐れます。そのとき、まず感謝することが大切です。「主よ、あなたがともにおられることを感謝します」と。同時に、正直に「主よ、助けてください!怖いです」と叫ぶことも信仰です。詩篇の半分以上は嘆きの詩篇ですから。
信仰とは、神の主権への信頼と、正直な訴えと、感謝が一緒になったものです。
■ レギオンの悪霊
8章26-39節は、ゲラサの悪霊につかれた人の解放の物語です。
この人は「長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた」(8:27)という悲惨な状態でした。
悪霊はイエスを見ると「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください」(8:28)と叫びます。
悪霊でさえ、イエスが「いと高き神の子」であることを知っていました。
■ レギオンの意味
イエスが「何という名か」と尋ねると、悪霊は「レギオンです」と答えました(8:30)。
「レギオン」(λεγιών)はラテン語のlegio(軍団)からの借用語で、ローマ軍の一軍団は約6,000人でした。つまり、「おびただしい数」という意味です。
聖書は悪霊の階級制度を明示的に教えてはいませんが、エペソ6章12節には「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊」とあり、何らかの階層構造が示唆されています。
しかし、どんな位階の悪霊も、イエスの名の前にはひれ伏します(ピリピ2:10)。レギオンのような強力な悪霊の集団でも、イエスの一言で豚に移されました。
■ 「この血」と「このことば」―黙示録12章11節の深い意味
再び出エジプト記に戻ります。今日私が一番お伝えしたいことです。
出エジプト9章26節「ただ、イスラエル人が住むゴシェンの地には、雹は降らなかった」とあるように、神の民は守られました。
ここで、これから起こる事、現代の私達の時代かもしれない黙示録の災いを思い起こしてください。出エジプトの災いと黙示録の災いには類似性がありますが、黙示録の艱難の方がより大きく、より苦しいものです。
しかし、勝利した者がいると聖書は語っています。黙示録12章11節を見てください。「打ち勝った」とはっきり記されています。ています。
ではどうやって?
この御言葉には、今日のテーマと深く関わる真理が隠されています。
「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった」(黙示録12:11)
ギリシャ語原文を見ると、「血」にも「ことば」にも定冠詞が付いています。
日本語では分かりにくいのですが、これは:
- 「ある血」ではなく「この血」(τὸ αἷμα)
- 「あることば」ではなく「このことば」(τὸν λόγον)
という意味です。
つまり:
この血 = 私たちが知っている、あの十字架で流された小羊イエスの血
このことば = 私たちが告白している、あの十字架の贖いの証
天の会話の参加者全員が、そして地上の私たちも知っている、体験している、告白している、この血、この証なのです。
そして「いのち(ψυχή、プシュケー)を惜しまなかった」という表現には、二つの意味が含まれています:
第一の意味:肉体的いのちを惜しまなかった
実際に殉教した聖徒たち。文字通り命を捨てた人々。
第二の意味:自我に死ぬことを惜しまなかった
ガラテヤ2章20節「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」
これが、私たち日本のクリスチャンへの大きな励ましです。
日本には今のところ、命を奪われるような激しい迫害はないかもしれません。しかし、この御言葉は私たちにも語りかけています。
日々の辛い時、自分の弱さを思い知った時、それこそ十字架の贖いの中を生きる必要がある時です。
- 自分の考えではなく、神のみこころを求める
- 自分の栄光ではなく、神の栄光を求める
- 自分のいのちではなく、キリストのいのちを生きる
これが「ψυχή(自我)を惜しまない」生き方です。
この十字架の血潮を見上げ、この贖いを宣言し続けること。これこそが、私たちの勝利の秘訣なのです。
悪霊の軍団レギオンでさえ、イエスの一言で退けられました。まして、この小羊の血の力は、どれほど強力でしょうか。
私たちが日々直面する試練、誘惑、弱さ、恐れ。それらすべてに対して、私たちは叫ぶことができます:
「この小羊の血によって、私は勝利する!」
「この十字架の証を、私は宣言する!」
これが、神のことばが必ず成就するという信仰です。
**具体的な実践:イエスの血潮の宣言**
私は毎日、新宿シャローム教会から紹介されている「イエスの血潮12の宣言」を祈っています。
この宣言を、「私」を家族の名前に置き換えて祈ったところ、家族が救われたという証も聞いています。私自身も、この祈りによって力強く主に目を向けて歩んでいます。
この宣言を家で一人で祈っている時、「それを祈らないでほしい」という声が聞こえた気がしました。悪霊かサタンでしょう。そんな時はなおさら力強く宣言します。
十字架の血潮の力を必要としない人は、一人もいません。
血潮の宣言の裏には毎日の悔い改めが聖書本文から記載されています。それは心に痛いものですが、どこから救われたのかを知ることで、なおさら十字架へと向かわせます。
**「イエスの血潮12の宣言」はこちらからダウンロードできます:**
[新宿シャローム教会「イエスの血潮12の宣言」PDF](リンク) 👇
https://shinjuku-shalom.com/wp-content/uploads/2016/02/BloodOfJesus.pdf
この宣言は、黙示録12章11節にある「小羊の血と、自分たちのあかしのことば」を具体的に実践する助けとなります。
■ ゲラサの人々の反応
悪霊は豚の群れに入り、豚は湖に駆け下っておぼれ死にました(8:33)。
人々が来ると、「イエスの足もとに、悪霊の去った男が着物を着て、正気に返って、すわっていた」(8:35)のを見ました。
しかし、人々の反応は驚くべきものでした:「ゲラサ地方の民衆はみな、すっかりおびえてしまい、イエスに自分たちのところから離れていただきたいと願った」(8:37)
彼らは豚の経済的損失を恐れ、超自然的な力を恐れ、生活の変化を望まなかったのです。彼らは「いやし」より「豚」を選びました。
これは私たちへの警告です。私たちも無意識に、主を「追い出している領域」があるかもしれません:
- 経済的安定のために不正に目をつぶる領域
- 人間関係を守るために真理を妥協する領域
- 快適さを優先して主の導きを拒む領域
詩篇139篇23-24節の祈りが必要です:「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」
■ 解放された人の使命
一方、悪霊を追い出された人は「お供をしたいとしきりに願った」(8:38)のですが、イエスは言われました:
「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい」(8:39)
彼は「イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、町中に言い広めた」のです。
彼は最高の証人となりました。なぜなら、彼の変化は誰の目にも明らかだったからです。
私たちも、主が私たちにしてくださったことを証しする使命を持っています。
【結論:神のことばは必ず成就する】
今日の3つの箇所を通して、一つの真理が輝いています:
神のことばは必ず成就する。
- 出エジプト記: モーセが預言した雹の災いは、予告通りに起こりました。パロの心がかたくなになることも、主が予告された通りでした。
- 歴代誌下: ミカヤが預言した通り、アハブは戦死しました。どんなに変装しても、神の審判からは逃れられませんでした。
- ルカ: イエスが命じられると、嵐も悪霊も従いました。イエスのことばには創造主の権威があります。
イザヤ55章11節:「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる」
これは、私たちの信仰の土台です。
神のことばが確実だからこそ、私たちは:
- 救いの約束を信じることができます
- 試練の中でも希望を持つことができます
- 人生の嵐の中でも平安を保つことができます
- 永遠の命の約束を確信できます
同時に、神のことばには応答責任があります。
パロの家臣の中には「主のことばを恐れた者」と「主のことばを心に留めなかった者」がいました。前者は家畜を避難させて守られ、後者は失いました。
ゲラサの人々は、目の前にいる救い主を拒みました。一方、解放された人は、主の証人となりました。
私たちも、神のことばにどう応答するかを日々選んでいます。
愼悟先生のYouTubeにある歌の歌詞にあるように:
どんな痛みも つらさも恥も あなたは受け入れられた
自分を捨てるほどに 私たちを愛された
あなたの瞳に わたしは 消えることない
いつまでもずっといつも見守り続けて 支え続け愛してくれる
あなたのすばらしい愛
主は私たちのすべてを知り、すべてを受け入れ、すべてを愛してくださいます。
その主のことばは、必ず成就します。
だから、私たちは安心して、主に信頼し、主のことばに従って生きることができるのです。
この小羊の血によって、
この十字架、血潮の証によって、
私たちは勝利します。
主の恵みと平安が、皆さんとともにありますように。
出エジプトの災いと黙示録の災いの比較
1. 災いの一覧比較
| 出エジプトの十の災い | 類似 | 黙示録の災い |
|---|---|---|
| 1. 水が血に変わる | ||
| 第一の災い:ナイル川が血に(出7:14-25) ・川の魚が死ぬ ・水が飲めなくなる ・エジプト全土の水が血に |
✓ | 第二のラッパ:海が血に(黙8:8-9) 第二の鉢:海が血に(黙16:3) 第三の鉢:川と泉が血に(黙16:4-7) ・海の生物の三分の一が死ぬ ・聖徒と預言者の血を流した報い |
| 2. 蛙の災い | ||
| 第二の災い:蛙(出8:1-15) ・蛙が国中に上がってくる ・家、寝室、かまどまで侵入 |
(黙示録には直接的な対応なし) ※黙16:13に「蛙のような汚れた霊」の言及あり |
|
| 3. ぶよ/あぶの災い | ||
| 第三の災い:ぶよ(出8:16-19) 第四の災い:あぶ(出8:20-32) ・人と獣を襲う ・ゴシェンには来ない(神の民の保護) |
(直接的な対応なし) | |
| 4. 疫病と腫れ物 | ||
| 第五の災い:家畜の疫病(出9:1-7) 第六の災い:腫れ物(出9:8-12) ・人と獣に悪性の腫れ物 ・呪術師も立っていられない |
✓ | 第一の鉢:悪性の腫れ物(黙16:2) ・獣の刻印を受けた者に ・獣の像を拝む者に ・苦しいが死なない |
| 5. 雹の災い | ||
| 第七の災い:雹(出9:13-35) ・雹と火が混じって降る ・建国以来最悪の災い ・人、獣、植物を打つ ・ゴシェンには降らない |
✓ | 第一のラッパ:雹と火(黙8:7) 第七の鉢:大粒の雹(黙16:17-21) ・地と木々の三分の一が焼ける ・1タラント(約34kg)の雹 ・人々は神を冒涜する |
| 6. いなごの災い | ||
| 第八の災い:いなご(出10:1-20) ・空前絶後のいなごの大群 ・雹を免れた植物をすべて食い尽くす ・地が見えないほど覆う |
✓ | 第五のラッパ:いなごのような者(黙9:1-12) ・底知れぬ所から上ってくる ・人間だけを5ヶ月苦しめる ・神の印のない者を襲う ・さそりのような力を持つ |
| 7. 闇の災い | ||
| 第九の災い:闇(出10:21-29) ・三日三晩の暗闇 ・手で触れるような闇 ・イスラエルの住む所には光があった |
✓ | 第四のラッパ:天体の三分の一が暗くなる(黙8:12) 第五の鉢:獣の国が暗闇に(黙16:10-11) ・太陽、月、星が暗くなる ・人々は苦痛のゆえに舌をかむ |
| 8. 初子の死 | ||
| 第十の災い:初子の死(出11:1-12:36) ・すべての初子が死ぬ ・過越の子羊の血による保護 ・大いなる叫び |
第六のラッパ:人類の三分の一が殺される(黙9:13-21) ※初子特定ではなく、より広範囲の死 |
|
2. 類似点と相違点
共通する神学的パターン
- 偶像礼拝への審判:出エジプトはエジプトの神々への審判(出12:12)、黙示録は獣と偽預言者への審判
- 段階的な警告:両方とも徐々にエスカレートする災い
- 悔い改めの機会:災いの合間に悔い改めの時が与えられる
- 神の民の保護:ゴシェンの保護、神の印による保護
- 最終的な解放:出エジプト→約束の地、黙示録→新天新地
型(出エジプト)から完成(黙示録)への発展
| 要素 | 出エジプト(型) | 黙示録(完成) |
|---|---|---|
| 規模 | エジプト一国 | 全地球、宇宙規模 |
| 対象 | エジプト人 | 獣の刻印を受けた全人類 |
| 解放 | 地上の奴隷状態から | 罪と死の支配から |
| 仲介者 | モーセ(預言者) | イエス・キリスト(神の子) |
| 犠牲 | 過越の子羊(象徴) | 神の小羊キリスト(実体) |
| 目的地 | カナンの地(地上) | 新天新地(天的) |
| 期間 | 数ヶ月 | 7年(患難期) |
| 性質 | 物理的災い | 物理的+霊的災い |
なぜ黙示録の災いはより激しいのか?
- 啓示の進展:出エジプト時代は神が主にイスラエルにのみ知られていましたが、黙示録時代は福音が全世界に宣べ伝えられた後です(マタイ24:14)。知識が増えれば、責任も増します(ルカ12:48)。
- 恵みの拒絶の深刻さ:出エジプトは預言者モーセの拒絶でしたが、黙示録は神の御子キリストの拒絶です。「神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか」(ヘブル10:29)
- 最終的決着:出エジプトは救済史の一段階でしたが、黙示録は歴史の完結、最終審判です。
3. 神の民の保護の比較
| 出エジプトでの保護 | 黙示録での保護 |
|---|---|
| ゴシェンの地には災いが来ない(出9:26) | 144,000人のユダヤ人信者に神の印(黙7:1-8) |
| 過越の子羊の血を門柱に塗る(出12:13) | 小羊の血によって白くされた衣(黙7:14) |
| 物理的な場所による保護 | 霊的な印による保護 |
| 完全に災いを免れる | 多くは殉教するが、永遠の命は保証される |
出エジプトと黙示録の保護には、重要な違いがあります。
出エジプトでは、ゴシェンの地には物理的に災いが来ませんでした。イスラエル人は肉体的にも守られました。
しかし、黙示録における保護は、主に霊的な保護です:
- 黙示録13:7「彼(獣)は聖徒たちに戦いを挑んで打ち勝つことが許された」
- 黙示録12:11「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった」
つまり、多くの聖徒は物理的には殉教しますが、霊的には完全に勝利するのです。
これは恐ろしいことでしょうか?
いいえ、これこそ本当の希望です。なぜなら、死さえも、私たちをキリストの愛から引き離すことはできないからです(ローマ8:38-39)。
神が守られるのは、私たちの肉体ではなく、私たちの信仰と永遠のいのちです。そして、それこそが本当に守るべきものです。
イエスは言われました:
「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)
「この血」と「このことば」の力
黙示録12章11節のギリシャ語を見ると、「血」にも「ことば」にも定冠詞が付いています:
- 「ある血」ではなく「この血」(τὸ αἷμα)
- 「あることば」ではなく「このことば」(τὸν λόγον)
つまり、私たちが知っている、体験している、告白している、この十字架の血、この贖いの証によって勝利するのです。
「いのち(ψυχή、プシュケー)を惜しまなかった」には二つの意味があります:
- 肉体的いのちを惜しまなかった:文字通り殉教した聖徒たち
- 自我に死ぬことを惜しまなかった:日々、キリストを第一とする生き方(ガラテヤ2:20)
出エジプトの物理的保護は「型」であり、黙示録の霊的保護こそが「完成」なのです。
日本には今のところ、命を奪われるような激しい迫害はないかもしれません。しかし、黙示録12章11節は私たちにも語りかけています。
日々の辛い時、自分の弱さを思い知った時、それこそ十字架の贖いの中を生きる必要がある時です:
- 自分の考えではなく、神のみこころを求める
- 自分の栄光ではなく、神の栄光を求める
- 自分のいのちではなく、キリストのいのちを生きる
これが「ψυχή(自我)を惜しまない」生き方です。
この十字架の血潮を見上げ、この贖いを宣言し続けること。これこそが、私たちの勝利の秘訣なのです。
- 携挙前患難説:教会は患難期前に携挙されるので、地上の災いを経験しない(Iテサロニケ1:10、5:9)
- 携挙中・後患難説:クリスチャンも患難期を通るが、神の印による保護がある
- 黙示録7:14の解釈:「大患難から抜け出て来た者たち」について、患難期の途中で携挙されたとする見解もあります
いずれにせよ、確実なのは:
- 神は私たちを見捨てない
- 死は終わりではなく、栄光の始まり
- 「生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」(ローマ14:8)
だから、私たちは恐れる必要はありません。
4. まとめ:型論的理解の意義
出エジプトと黙示録の関係から学べること
- 神の一貫性:神の性質と裁きの原則は時代を超えて一貫している
- 救済史の統一性:聖書は創世記から黙示録まで一つの物語である
- 神の忍耐:最終審判の前に、何度も警告と悔い改めの機会を与えられる
- 神の正義:偶像礼拝と神への反逆には必ず審判が下る
- 神の愛:審判の中でも、神の民を保護し、最終的に救い出される
出エジプトの出来事は単なる過去の歴史ではなく、終末を生きる私たちへの教訓として記録されました。型を学ぶことで、完成の意味がより深く理解できるのです。
- すべての細部に意味を求めない(主要な点での対応を見る)
- 型論から新しい教理を創造しない(既に啓示された真理を例証するもの)
- 謙虚な姿勢を保つ(「こう読むと豊かになる」という視点)
型論の詳しい解説は、別の記事で取り扱う予定です。

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