2026年3月1日の聖書通読見よ、神の小羊――エポデの肩石が指し示すキリスト―― 

聖書の名言集
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見よ、神の小羊

――エポデの肩石が指し示すキリスト――

通読箇所:出エジプト記28章6-14節、ヨブ記24-25章、ヨハネ1章29-51節

自分の弟子が自分から離れていくと知りながら、それでも指差す——聖書の中で一番正直で勇敢な人物、それはこの人ではないか

※本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。

【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。

第一部:トーラー(出エジプト記28章6-14節)

大祭司の肩が語ること

幕屋の祭司制度は、細部に至るまで神の指示によって設計されている。その中でも、大祭司アロンが着用するエポデ(祭司の上衣)に付けられた二つの「しまめのう」の石は、特別な意味を持つ。

この石には、イスラエル十二部族の名前が刻まれていた。六つの名が一つの石に、残り六つがもう一つの石に、生まれた順に彫り込まれる(28:9-10)。そしてアロンはその石を両肩に着けて、主の前に立つ。

ここで使われているヘブライ語が重要だ。

原語(ヘブライ語)発音意味
נָשָׂאナサ負う・担う・持ち上げる
זִכָּרוֹןジッカロン記念・記憶
שֹׁהַםショハムしまめのう(宝石)

「アロンは主の前で、彼らの名を両肩に負い、記念とする」(28:12)——この「負う(ナサ)」という動詞は、レビ記において罪を担うことにも用いられる言葉だ。大祭司は単に装飾品を身に着けているのではない。民全体の存在を、文字通り「肩に担って」神の前に出ているのだ。

さらに注目したいのは素材だ。エポデは金、青、紫、緋、亜麻布という五種類の素材から作られる。この色の組み合わせは幕屋全体に一貫して流れるテーマであり、それぞれが神の栄光、天、王権、贖いの血、純粋さを象徴すると古来より解釈されてきた。

しかしここで立ち止まって考えたい。なぜ神は、民の名前を大祭司の「肩」に負わせることを命じたのか。

肩は、荷を担う部位だ。重いものを運ぶ。責任を負う。イザヤ書9:6には「その肩には主権が与えられる」と記されており、肩に負うことは統治と責任の象徴として聖書全体を流れている。

十二部族の名を肩に刻んで神の前に出るアロンの姿は、まさに「民の代表者」としての大祭司の本質を視覚化している。民が直接神の前に立てない。しかし大祭司が民の名を担い、民を代表して聖所に入る。この代表性こそが、後に来るべき真の大祭司を指し示す型なのだ。

石に刻まれた名は消えない。彫り込まれた名は、風雨に晒されても残る。神の記念(ジッカロン)として主の前に置かれた名——あなたの名前は、神の前で忘れられることがない。それがこの箇所の、静かで力強いメッセージだ。

第二部:旧約(ヨブ記24-25章)

神は黙っているのか——悪の繁栄への問いと、人間の卑小さ

ヨブ記24章は、ヨブによる痛烈な告発から始まる。

「なぜ、全能者によって時が隠されていないのに、神を知る者たちがその日を見ないのか」(24:1)

これは信仰を失った者の言葉ではない。むしろ逆だ。神の存在を信じるからこそ、この問いが生まれる。神がおられるなら、なぜこの現実があるのか——これは哲学の問いである前に、信仰者の魂の叫びだ。

ヨブが描く悪者たちの姿は具体的でリアルだ。地境を動かす者(土地の不法占拠)、みなしごのろばを奪う者、やもめの牛を質に取る者。抽象的な「悪」ではなく、社会の底辺で踏みにじられる具体的な弱者の姿がある。

原語(ヘブライ語)発音意味
גְּבוּלゲブール地境・境界線
אַלְמָנָהアルマナーやもめ
יָתוֹםヤトームみなしご

やもめとみなしご——この二つの言葉は、モーセ律法が繰り返し保護を命じた最も弱い者たちだ(出22:22、申10:18)。律法は彼らを守れと命じる。しかし現実は逆だ。その弱者たちが食いものにされている。

ヨブの告発の鋭さは24章の後半でさらに増す。悪者は昼間は身を隠し、夜に活動する。「すべて彼にとっては暗黒が朝である」(24:17)——光を避け、暗闇を友とする者たちの姿。しかし彼らは「しばらくの間、高められるが、消えうせる」(24:24)。麦の穂先のように枯れる。

ヨブは断言する——これは「まやかし」ではない(24:25)。

そして25章、ビルダデの反論はわずか6節で終わる。ヨブ記の中で最も短い発言だ。内容はこうだ。「神は偉大だ。人間はうじ虫だ。以上。」

「人はどうして神の前に正しくありえようか。女から生まれた者が、どうしてきよくありえようか」(25:4)

「ましてうじである人間、虫けらの人の子はなおさらである」(25:6)

ビルダデは神の偉大さを語ることで、ヨブの問いを封じようとしている。「神が偉大なのだから、人間ごときが問うな」という論理だ。しかしこれは答えではない。沈黙させることと、答えることは違う。

ここで注意が必要だ。ビルダデの「うじ虫」発言は、聖書が権威をもって教える神学ではない。ヨブ記42:7で神はビルダデたちに向かって「あなたたちはわたしについて正しいことを語らなかった」と明言する。つまりビルダデの神学は、神ご自身によって否定されている。

人間を「うじ虫」と見る神学と、「あなたはわたしの目に高価で尊い」(イザヤ43:4)と語る神——どちらが聖書の中心的メッセージか。答えは明らかだ。

では神はヨブの問いに答えたのか。ヨブ記を通読すると、神は「なぜ悪者が栄えるのか」という問いに直接答えない。代わりに神はヨブに問い返す——「地の基を据えたのはだれか。あなたはどこにいたか」(38:4)。これは回避ではない。人間の問いの枠組み自体を、より大きな視野で捉え直す神の応答だ。

しかし新約において、この問いはついに別の形で答えを得る。悪が栄え、弱者が踏みにじられる世界に——神自身が人となって入ってこられた。


第三部:新約(ヨハネ1章29-51節)

「見よ、神の小羊」——出会いの連鎖が始まる

バプテスマのヨハネがイエスを見た瞬間、彼の口から言葉が飛び出した。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)

これはヨハネ福音書の中で最も神学的に凝縮された一文の一つだ。

原語(ギリシャ語)発音意味
ἀμνόςアムノス小羊
αἴρωアイロー取り除く・担い上げる・持ち去る
ἁμαρτίαハマルティア罪・的外れ

「取り除く(アイロー)」という動詞が興味深い。単に罪を消すのではなく、「担い上げて運び去る」というニュアンスを持つ。出エジプト記でアロンが民の名を肩に「負う(ナサ)」のと、構造的に響き合っている。大祭司が民の名を担ったように、神の小羊は世の罪を担い上げて去る。

ヨハネはなぜ「小羊」という言葉を使ったのか。ユダヤ人の聴衆には即座に複数のイメージが重なって聞こえたはずだ。過越の小羊(出12章)、イザヤ53:7の「屠り場に引かれる小羊」、毎朝夕の宮での全焼のささげもの。これらすべてが「神の小羊」という一語に凝縮されている。

ここで注目したいのは、ヨハネの態度だ。

「私もこの方を知りませんでした」(1:31、33)——ヨハネはイエスと親戚関係にあった(ルカ1:36)。幼少期から知っていたはずの人物を「知らなかった」と言う。これは個人的な知識の話ではなく、「この方がメシヤであるとは、啓示によって初めて知った」という意味だ。御霊が鳩のように下ってとどまるのを見た時——それが啓示の瞬間だった。

そして、ヨハネは自分の弟子がイエスについて行っても引き止めない。むしろ「見よ、神の小羊」と言って送り出す。伝道者として、これは並大抵のことではない。自分が育てた弟子が離れていく。組織的には「損失」だ。しかしヨハネにとって、それは完全に正しいことだった。自分の使命は「指差す」ことであって、「集める」ことではない。

この姿勢が、その後の出会いの連鎖を生む。

アンデレはイエスに会い、すぐに兄弟シモンを連れてくる。イエスはシモンを見て「あなたをケパ(岩)と呼ぶことにします」と言う——まだ何もしていないシモンに、将来の姿を見て名を与える。

原語(ギリシャ語)発音意味
Κηφᾶςケーファスケパ(アラム語で岩)
Πέτροςペトロスペテロ(ギリシャ語で岩)

名前を変えることは、聖書において新しいアイデンティティの付与を意味する。アブラムがアブラハムに、ヤコブがイスラエルになったように。イエスはシモンの中に、まだ現れていない「岩」を見ていた。

ピリポへの召命は簡潔だ。「わたしに従って来なさい」——それだけ。ピリポはすぐナタナエルを探しに行く。

「ナザレから何の良いものが出るだろう」というナタナエルの言葉は、正直な偏見だ。ナザレは辺鄙な田舎町、メシヤが出るような場所ではないという常識的な反応。しかしピリポの答えが秀逸だ。「来て、そして、見なさい。」議論しない。証明しない。ただ来るように促す。

そしてイエスはナタナエルを見て言う。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」「偽りがない」——ヘブライ語的背景では、これは「ヤコブ的なずる賢さがない」という意味に響く。ヤコブ(後のイスラエル)はその名の通り「かかとをつかむ者・欺く者」だった。ナタナエルは偏見を口にしたが、それは正直な言葉だった。計算のない、飾りのない率直さ。イエスはそれを見抜いていた。

「いちじくの木の下にいるのを見た」——この一言でナタナエルは完全に信じる。いちじくの木の下は、ユダヤ人が祈りや聖書の黙想をする場所として知られていた。誰にも見られていないと思っていた瞬間を、イエスは見ていた。

そしてイエスは約束する。「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを見る」(1:51)——これは創世記28:12、ヤコブがベテルで見た夢の引用だ。階段(ラダー)を上り下りする御使いたち。イエスご自身が、天と地をつなぐ「はしご」だと宣言している。

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第四部:全体の一貫性

肩に負われた名前——大祭司の石から神の小羊へ

今日の三つの箇所は、一つの問いと一つの答えで繋がっている。

問い:神は人間を本当に顧みているのか。

ヨブは叫ぶ。悪者が栄え、弱者が踏みにじられる。やもめとみなしごが食いものにされる。神はなぜ黙っているのか(ヨブ24章)。ビルダデは答える代わりに沈黙を命じる——「人間はうじ虫だ、神の前で何を言うか」(ヨブ25章)。しかしビルダデの神学は、神ご自身によって否定された。

答え:神は顧みている。それも、名前を刻んで。

出エジプト記28章で、神はアロンに命じた。十二部族の名前を宝石に刻み、両肩に負って主の前に出よ。民は聖所に入れない。しかし大祭司が民の名を担い、民を代表して神の前に立つ。あなたの名は石に刻まれ、神の前で記念とされる——これが律法の約束だった。

しかしアロンは死ぬ。石は摩耗する。

だからバプテスマのヨハネは叫んだ。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)。

アロンが民の名を肩に「負った(ナサ)」ように、神の小羊は世の罪を「担い上げて(アイロー)」去る。律法の大祭司が型であったなら、イエスは実体だ。石に刻まれた名は消えることがあっても、神の小羊に担われた罪は永遠に取り除かれる。

そしてヨハネ1章後半の出会いの連鎖が、このテーマをさらに深める。イエスはシモンを見て、まだ何者でもない彼に名を与えた。「あなたをケパと呼ぶことにします」。ナタナエルには、誰も見ていないと思っていたいちじくの木の下での祈りを、すでに見ていたと告げた。

これが聖書の神だ。名を知っている。見ている。担っている。

ビルダデは「人間はうじ虫だ」と言った。しかし神は「あなたはわたしの目に高価で尊い」(イザヤ43:4)と言う。この矛盾は、十字架で解決される。人間が「うじ虫」のように小さく弱い存在であることを神は知っている。それでもその名を石に刻み、肩に負い、ついには罪ごと担い上げて——神の小羊として来られた。

ヨハネ1:51でイエスは言う。「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを見る」。ベテルでヤコブが見た夢——天と地をつなぐはしご——その実体がイエスだ。

天は閉じていない。神は沈黙していない。ヨブの問いへの答えは、論理ではなく人格として来た。

見よ、神の小羊。

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