通読箇所:出エジプト記27:20〜28:5 ヨブ記22〜23章 ヨハネ1:1〜28
※この記事は、要点だけを抜き出して理解できる内容ではありません。モーセ五書・旧約・新約の連続した文脈の中でのみ読まれることを意図しています。
【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。
目次
第一部:トーラー——永遠に燃え続けるメノラーの炎
聖所に暗闇は許されない
出エジプト記27章20節、神がモーセに命じた言葉は簡潔で、しかし重大だ。「燈火用に上質の純粋なオリーブ油を持って来させ、ともしびを絶えずともしておかなければならない。」
ここで「絶えず」と訳されたヘブライ語はתָּמִיד(タミード)、「継続的に、常に、絶え間なく」を意味する。これは単なる照明の指示ではない。神の臨在の場に暗闇が侵入することを、神ご自身が拒否されているのだ。
| ヘブライ語 | 発音 | 意味 |
| תָּמִיד | タミード | 常に、絶えず、継続的に |
| נֵר | ネール | ともしび、灯 |
| שֶׁמֶן זַיִת | シェメン・ザイット | オリーブ油 |
| זָךְ כָּתִית | ザーク・カーティット | 純粋な、打ち砕かれた(上質の) |
「打ち砕かれた」という意味を持つכָּתִית(カーティット)に注目したい。最高品質のオリーブ油は、石臼でゆっくりと押しつぶすのではなく、最初に軽く打って得られる最初の一滴から作られる。傷つけられることで、最も純粋なものが生み出される。これは後のイザヤ書53章「彼は傷つけられた」というメシヤの苦しみを先取りするような象徴性を持っている。
夜から朝まで——祭司の夜勤
27章21節、「夕方から朝まで」という規定が明記されている。アロンとその子らは会見の天幕で一晩中、このともしびを整えなければならない。これは美しい礼拝のイメージとはほど遠い、実に体力を要する奉仕だ。
レビ記8章と民数記8章を合わせて読むと、祭司たちの職務の重さが浮かび上がる。民数記8章25節には、レビ人が50歳になったら「奉仕の働きから退く」という規定がある。今日の感覚では早期退職のように見えるが、当時の体力的な消耗を考えれば、むしろこれは神の配慮だったと言えるだろう。神殿奉仕は若さと体力が必要な、文字通り命がけの働きだった。
「これはイスラエル人が代々守るべき永遠のおきてである」——この「永遠」の言葉が重要だ。灯台を守る命令は、ある特定の時代に限定されたものではない。神の臨在の前に光を保ち続けるという霊的な真理は、時代を超えて生き続ける。
栄光と美——アロンの装束が語るもの
28章に入ると、場面は一転してアロンの装束の設計図に移る。神が語られた言葉が印象的だ。「あなたの兄弟アロンのために、栄光と美を表す聖なる装束を作れ。」
| ヘブライ語 | 発音 | 意味 |
| כָּבוֹד | カーヴォード | 栄光、重さ、威厳 |
| תִּפְאֶרֶת | ティファエレット | 美、輝き、華麗さ |
| קֹדֶשׁ | コデシュ | 聖なる、区別された |
כָּבוֹד(カーヴォード)は本来、神ご自身の属性を表す言葉だ。詩篇24篇は「栄光の王は誰か、万軍の主、それが栄光の王だ」と歌う。その神の属性を人間のアロンが「まとう」——これは単なる礼服の話ではない。祭司とは、神の栄光の代理人としてイスラエルの前に立つ者という神学的宣言だ。
さらに注目したいのは28章3節の「知恵の霊を満たした、心に知恵のある者たち」という表現だ。装束を作る職人たちに、神は特別に「知恵の霊」を満たされた。芸術的・職人的な技術も聖霊の賜物であるという視点は、現代のクリスチャンに多くの示唆を与える。礼拝の場を整える奉仕——音楽、映像、環境作り——それらもまた聖霊に導かれた尊い働きなのだ。
五つの色が語る神学
28章5節には装束の材料が列挙される。「金色や、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに亜麻布」。この五つの色には深い象徴性がある。
金は神性と王権を象徴する。青(空の色)は天的・神的なものを示す。紫は王族と権威の色だ。緋色(赤)は犠牲の血と贖罪を指し示す。そして亜麻布(白)は純粋さと義を表す。
興味深いことに、この同じ色の組み合わせは幕屋の垂れ幕にも使われており、後に黙示録21章に描かれる新しいエルサレムの輝きとも響き合う。神の設計には、始まりから終わりまで一貫した色彩の神学が流れている。
第一部のまとめ
聖所の灯は夜通し消えることがない。それを守るために祭司たちは体を献げた。そして灯を守る者は「栄光と美」をまとい、神の代理人として民の前に立った。この構造全体が、後に来られる「大祭司なるイエス・キリスト」を指し示している。ヘブル書4章14節の「偉大な大祭司なるイエス」は、まさにこの出エジプト記の設計図の最終的な成就なのだ。灯は消えなかった。ことばは世に来られた。
第二部:旧約——ヨブ記22〜23章 正しい神学、間違った適用、そして暗闇の中の信仰
エリファズの第三の弁論——賢者の失敗
ヨブ記22章は、テマン人エリファズによる三度目の弁論だ。エリファズはヨブの三人の友人の中で最も年長と考えられており、おそらく最も知識と経験を持った人物だった。しかし、この章で彼は取り返しのつかない過ちを犯す。
冒頭の2〜3節からすでに問題が始まっている。「人は神の役に立つことができようか。賢い人さえ、ただ自分自身の役に立つだけだ。あなたが正しくても、それが全能者に何の喜びであろうか。」この神学的命題自体は、ある意味正しい。神は人間の義によって利益を得るわけではない。しかし、この言葉がヨブに向けられた瞬間、それは武器に変わる。「あなたの義など神には関係ない」という冷淡なメッセージだ。
そして22章6〜9節で、エリファズは致命的な一線を越える。「あなたは理由もないのにあなたの兄弟から質を取り、裸の者から着物をはぎ取り、疲れている者に水も飲ませず、飢えている者に食物を拒んだからだ。あなたはやもめを素手で去らせ、みなしごの腕を折った。」
これは偽証だ。ヨブ記1章1節で神ご自身が「彼は誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」と証言されている。さらに神は1章8節で「地上に彼のような者はいない」とまで言われた。エリファズが語る告発の一つとして、根拠があるものは何もない。
| ヘブライ語 | 発音 | 意味 |
| חִנָּם | ヒンナーム | 理由なく、根拠なく、無償で |
| אַלְמָנָה | アルマナー | やもめ |
| יָתוֹם | ヤトーム | みなしご |
| עָוֹן | アーヴォン | 不義、曲がり |
正しい言葉、間違った人に向けられた時
皮肉なことに、22章21〜30節でエリファズが語る内容は神学的に美しい。「さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ」「神の御口からおしえを受け、そのみことばを心にとどめよ」「神はへりくだる者を救われるからだ」——これらの言葉は正しい。もし罪を犯した人が悔い改めを促されているなら、まったく適切な言葉だ。
しかし、これをヨブに向けて語ることは、二重の残酷さを持つ。第一に、ヨブは神に対して罪を犯していない(神ご自身がそう証言している)。第二に、ヨブは今、想像を絶する苦しみの中にいる。財産を失い、子どもたちを失い、体を病に蝕まれ、妻にも見放されそうになっている。
そこに友人として来ながら、寄り添うことなく、苦しみを味わったことも理解しようとすることもなく、高みから「あなたが悔い改めれば良くなる」と告げる——これは牧会的にも人間的にも、完全な失敗だ。
ここに現代のクリスチャンが立ち止まって吟味すべき問いがある。正しい神学を、間違った人に、間違ったタイミングで、寄り添いなしに語ることはないか。エリファズは悪意を持っていたわけではないだろう。彼は自分の神学的枠組みの中で誠実だったかもしれない。しかし、その枠組みが現実のヨブの苦しみを受け止める器として、あまりにも小さかった。
ヨブの答え——暗闇の中の信仰宣言
23章でヨブが答える。その言葉は嘆きから始まる。「きょうもまた、私はそむく心でうめき、私の手は自分の嘆きのために重い。」しかし、この嘆きはやがて驚くべき方向へと転換していく。
「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知り、その御座にまで行きたい。私は御前に訴えを並べたて、ことばの限り討論したい。」
ヨブは神に背いているのではない。神から逃げているのでもない。むしろ、神の前に正々堂々と立ちたいと願っている。これは傲慢ではなく、神との関係を信じているがゆえの叫びだ。
そして23章8〜10節、この箇所はヨブ記の中でも最も心打たれる信仰告白の一つだ。「ああ、私が前へ進んでも、神はおられず、うしろに行っても、神を認めることができない。左に向かって行っても、私は神を見ず、右に向きを変えても、私は会うことができない。しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。」
| ヘブライ語 | 発音 | 意味 |
| יָדַע | ヤーダ | 知る、経験する、親密に知る |
| בָּחַן | バーハン | 試す、調べる、精錬する |
| זָהָב | ザーハーブ | 金 |
| דֶּרֶךְ | デレク | 道、歩み、生き方 |
前にも後ろにも左にも右にも、神が見えない。これはヨブの実際の経験だ。神の沈黙、神の不在感——それはヨブにとってリアルだった。それを否定しない。しかし、その暗闇の中で彼は「神は私の道を知っておられる」と告白する。見えないけれど、知られている。感じられないけれど、調べられている。そして試練の向こうに「金のように出て来る」という確信がある。
精錬された金という比喩は出エジプト記で見たכָּתִית(カーティット)、打ち砕かれて純粋になるオリーブ油と響き合う。苦しみは破壊ではなく、精錬だ——ヨブはその真理を、神学書からではなく、自らの苦しみの中から絞り出している。
23章13〜17節——神の絶対的主権と人間の恐れ
ヨブの信仰は単純な楽観主義ではない。23章13〜15節でヨブは言う。「しかし、みこころは一つである。だれがそれを翻すことができようか。神はこころの欲するところを行われる。神は、私について定めたことを、成し遂げられるからだ。だから、私は神の前でおびえ、これを思って、神を恐れているのだ。」
神が私の道を知っておられる——しかし、その神の御心は人間には翻せない。これは恐ろしいことでもある。ヨブはそれを隠さない。神を恐れている、おびえている、と正直に告白する。信仰とは恐れがないことではない。恐れながらも、神の定めを信頼することだ。
そして23章17節でヨブは言う。「私はやみによって消されず、彼が、暗黒を私の前からなくされたからだ。」これは出エジプト記のメノラーと深く響き合う。聖所の灯は消えてはならない——そしてヨブという一人の人間の中にも、神が消させない光がある。暗闇はヨブを飲み込めなかった。
第三部:新約——ヨハネ1章1〜28節 ことばは光であった
プロローグの衝撃——「初めに、ことばがあった」
ヨハネ福音書の冒頭1節は、聖書全体の中でも最も神学的に深く、最も挑戦的な一文だ。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」
この「初めに」という言葉、ギリシャ語ではἐν ἀρχῇ(エン・アルケー)だ。これは創世記1章1節「初めに神が天と地を創られた」のヘブライ語בְּרֵאשִׁית(ベレーシート)を意識した意図的な引用だ。ヨハネはここで宣言している——「この書物は創世記から始まる物語の完成だ」と。
| ギリシャ語 | 発音 | 意味 |
| ἐν ἀρχῇ | エン・アルケー | 初めに、根源において |
| λόγος | ロゴス | ことば、理性、論理、意味 |
| θεός | テオス | 神 |
| φῶς | フォース | 光 |
| σκοτία | スコティア | 闇、暗黒 |
「ことば」と訳されたλόγος(ロゴス)は、ギリシャ哲学では宇宙を貫く理性・秩序原理を意味していた。ストア哲学ではロゴスが世界を支配する神的理性だと考えられていた。しかしヨハネはこの概念を根底から書き換える。ロゴスは抽象的な原理ではない。人格を持つ方だ。神とともにおられ、神であり、すべてを創られた——そして14節で「人となって私たちの間に住まわれた」。
ギリシャ人に向けては「あなたがたが探し求めてきたロゴスはここにいる」、ユダヤ人に向けては「あなたがたが待ち望んできたメシヤはこの方だ」——ヨハネのプロローグはこの二つの文化に同時に語りかける、見事な宣教神学だ。
光と闇の宇宙的戦い
1章4〜5節でヨハネは言う。「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」
「打ち勝たなかった」と訳されたギリシャ語はκατέλαβεν(カテラベン)で、「捕らえる、制圧する、理解する」という複数の意味を持つ。つまり「闇は光を制圧できなかった」と同時に「闇は光を理解できなかった」という二重の意味がある。これは出エジプト記のメノラーと直接つながる。聖所の灯はתָּמִיד(タミード)、絶えず燃え続けなければならなかった——神の臨在の場に闇は入れない。そしてイエスというロゴスの到来によって、その灯は今や全世界を照らしている。
ヨブ記23章17節でヨブが「私はやみによって消されない」と告白したあの叫びも、ここで完全に裏付けられる。ヨブが暗闇の中で見えなかった神は、実はロゴスとして人類の歴史に来られようとしていた方だった。
洗礼者ヨハネの証言——光ではなく、光を指す者
1章6〜8節でヨハネは語り手の視点を大きく転換する。「神から遣わされたヨハネという人が現れた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。」
この繰り返しは強調だ。ヨハネは光ではない。光についてあかしする者だ。1章19〜27節を読むとその意味の深さが分かる。ユダヤ人たちが祭司とレビ人をヨハネのもとに遣わして問う。「あなたはキリストですか」「エリヤですか」「あの預言者ですか」——三度の問いに対して、ヨハネは三度否定する。
| ギリシャ語 | 発音 | 意味 |
| μαρτυρία | マルテュリア | 証言、あかし |
| φωνή | フォーネー | 声 |
| εὐθύνατε | エウテュナテ | まっすぐにせよ |
| ἄξιος | アクシオス | ふさわしい、価値ある |
「私は荒野で叫んでいる者の声です」——ヨハネの自己定義は「声」だ。声は内容ではない。内容を伝える媒体だ。ロゴス(ことば)を伝えるフォーネー(声)——この対比は言語論的に見ても見事だ。ことばは永遠に残るが、声は消える。ヨハネは自分が消えゆく存在であることを完全に受け入れている。
さらに27節の「私はその方のくつのひもを解く値うちもありません」という言葉は、当時の文化では弟子が師のために行う最も低い奉仕でさえ拒否されるほど自分を低くしている。ラビの伝統では、弟子が師のためにできないことの一つが靴の世話だったと言われる。ヨハネはその弟子以下の存在として自分を位置づけた。
1章14節——神学の頂点
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」
「住まわれた」と訳されたギリシャ語はἐσκήνωσεν(エスケーノーセン)、語根はσκηνή(スケーネー)、つまり「幕屋、テント」だ。これは出エジプト記の会見の天幕(ヘブライ語:מִשְׁכָּן・ミシュカン)と直接対応している。神はかつてモーセの幕屋に住まわれた。そして今、神のことばが人間の肉体という「幕屋」に住まわれた。
| ギリシャ語 | 発音 | 意味 |
| ἐσκήνωσεν | エスケーノーセン | 幕屋を張った、住まわれた |
| σάρξ | サルクス | 肉、人間の本性 |
| δόξα | ドクサ | 栄光(ヘブライ語:כָּבוֹד・カーヴォード) |
| χάρις | カリス | 恵み |
| ἀλήθεια | アレーテイア | 真理、まこと |
出エジプト記28章2節でアロンの装束は「栄光(ヘブライ語:כָּבוֹד・カーヴォード)と美」をまとうものとして設計された——その栄光が、ヨハネ1章14節では「δόξα(ドクサ)」として、今やイエス・キリストの内に完全な形で現れた。「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」人間の祭司がまとっていた「栄光と美」の装束は、真の大祭司イエスの到来を指し示す影だったのだ。
1章17〜18節——モーセとキリストの対比
「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」
モーセは律法を伝えた。しかしモーセ自身、出エジプト記33章20節で「あなたは私の顔を見ることができない。人は私を見て、なお生きていることはできないからだ」と言われた。モーセは神の栄光の後ろ姿しか見ることができなかった。しかしイエスは「父のふところ」におられた方だ。神を完全に知る唯一の方が、神を人間に「説き明かされた」——この「説き明かす」というギリシャ語ἐξηγέομαι(エクセーゲオマイ)から英語の「exegesis(釈義)」が来ている。イエスご自身が、神というテキストの最終的な解釈者なのだ。
第三部のまとめ
ヨハネのプロローグは始まりであって、すでに終わりを内包している。ロゴスは創世の前からおられ、人間の歴史の中に来られ、幕屋に住まわれ、栄光を現された。洗礼者ヨハネはその光を指し示す声として自分を徹底的に小さくした。そしてヨブが暗闇の中で見えなかった神は、実はこのロゴスとして来られようとしていた方だった——「神は私の道を知っておられる」というヨブの信仰は、ヨハネ1章において完全に答えを得る。
第四部:全体の一貫性——消えない光、精錬される者、住まわれる神
三つの箇所を貫く一本の糸
今日の通読三箇所は、一見まったく異なる世界を描いているように見える。砂漠の幕屋で夜通し灯を守る祭司たち、灰の中で神に訴えるヨブ、そしてガリラヤのヨルダン川のほとりで叫ぶ洗礼者ヨハネ。時代も場所も人物も異なる。しかし三つの箇所を貫く一本の糸がある。神の光は消えない、そして神はご自分の民の道を知っておられる、という宣言だ。
第一の糸——消えない光
| 概念 | ヘブライ語 | ギリシャ語 | 日本語 |
| 絶えない光 | תָּמִיד(タミード) | ἀεί(アエイ) | 常に、絶えず |
| 光 | אוֹר(オール) | φῶς(フォース) | 光 |
| 闇 | חֹשֶׁך(ホシェク) | σκοτία(スコティア) | 闇、暗黒 |
出エジプト記27章20節のתָּמִיד(タミード、絶えず)は、単なる照明の規則ではなかった。神の臨在の場に闇が入ることへの拒否宣言だった。
その同じ真理をヨブは23章17節で個人の信仰として告白した。「私はやみによって消されない。」灰の中に座り、体を病に蝕まれ、友人たちに偽証され、神の声も聞こえない状況で——それでもヨブの内側の光は消えなかった。
そしてヨハネ1章5節でその真理は宇宙的な宣言として完成する。「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった(κατέλαβεν・カテラベン)。」幕屋の灯はメノラーが担っていた。ヨブの内側では信仰が灯を守った。そして真の光そのものが世に来られた——この三段階の展開は、神が歴史をかけて一つのことを語り続けていることを示している。闇は神の民を飲み込めない。
第二の糸——打ち砕かれて純粋になる
出エジプト記27章20節の「上質の純粋なオリーブ油」——ヘブライ語でזַיִת כָּתִית(ザイット・カーティット)、「打ち砕かれたオリーブ」だ。最高の油は、実を打ち砕くことによって得られる。
ヨブ23章10節でヨブは言う。「神は私を調べられる。私は金(זָהָב・ザーハーブ)のように、出て来る。」打ち砕かれるオリーブ、精錬される金——苦しみが純粋さを生み出すという真理が、二つの異なる比喩で語られている。
そしてヨハネ1章14節でこの真理は肉体を持った神として完成する。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光(ヘブライ語:כָּבוֹד・カーヴォード、ギリシャ語:δόξα・ドクサ)を見た。」神のひとり子が人間の弱さをまとい、やがて十字架で打ち砕かれることによって、最も純粋な恵みが人類に注がれる——カーティットのオリーブ油はこの真理を先取りしていた。
第三の糸——神の臨在は場所から人格へ
| 段階 | 箇所 | 神の臨在の形 |
| 第一段階 | 出エジプト記 | 幕屋(מִשְׁכָּן・ミシュカン)という場所 |
| 第二段階 | ヨブ記 | 個人の歩みに寄り添う神 |
| 第三段階 | ヨハネ1章 | ロゴスが人間の肉体に幕屋を張られる |
出エジプト記の幕屋は、神が民と共におられる場所だった。神はמִשְׁכָּן(ミシュカン、幕屋)に住まわれた。祭司たちはその場所を守るために夜通し奉仕した。
しかしヨブ記では、神の臨在は特定の場所と結びついていない。ヨブは幕屋にアクセスできない。エルサレムからも遠い異邦の地にいる。それでも彼は「神は私の行く道をיָדַע(ヤーダ、親密に知る)しておられる」と告白する。神の臨在は場所を超えて、一人の人間の歩みに寄り添っている。
そしてヨハネ1章14節で決定的な転換が起きる。「ことばは人となって、私たちの間にἐσκήνωσεν(エスケーノーセン、幕屋を張られた)。」神の住まいはもはや布と木で作られた幕屋ではない。神ご自身が人間という幕屋に住まわれた。
エリファズとヨハネの対比——語り方の神学
今日の箇所には、もう一つ見落とせない対比がある。ヨブ記22章のエリファズと、ヨハネ1章の洗礼者ヨハネだ。
エリファズは知識を持っていた。神学的に正しい言葉を語ることができた。しかし彼は苦しむ人の前で自分を大きくし、根拠のない告発をし、答えを持っているかのように振る舞った。結果として、神はヨブ記42章7節でエリファズに向かって「あなたは私について正しいことを語らなかった」と言われることになる。
洗礼者ヨハネはどうか。彼は「私はキリストではない」「私はエリヤでもない」「私はあの預言者でもない」と三度否定し、自分を「荒野で叫ぶ声」と定義した。そして「私はその方のくつのひもを解く値うちもない」と語った。真の光を指し示す者は、自分を透明にする。
正しい神学は、自分を大きくするためではなく、真の光を指し示すために使われるべきだ。エリファズの失敗とヨハネの謙遜は、今日の私たちへの鋭い問いかけだ。
日本のクリスチャンへ
日本にはエリファズ的な語りかけへの強い警戒心がある。苦しんでいる人に「あなたの罪のせいだ」「信仰が足りない」と告げることへの、文化的・霊的な拒絶感だ。その感覚は正しい。ヨブ記はその語り方を神ご自身が否定された書物だ。
しかし同時に、ヨハネのような謙遜な証人への召しもある。「私は光ではない。ただ光についてあかしするために来た。」聖書を語り、イエスを指し示し、自分は透明になっていく——これが証人の姿だ。
幕屋の灯は夜通し燃え続けた。ヨブの信仰は暗闇の中でも消えなかった。そしてことばは人となって、私たちの間に幕屋を張られた。神の光は、歴史のどの時代においても、消えたことがない。

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