目次
2025年11月18日の通読箇所
創世記24章28-49節、第一サムエル15-16章、マタイ21章1-22節
今日は聖書箇所の中から、特にダビデの賛美についてお伝えしたいと思います。なぜなら…私自身、主を賛美することが大好きなので、ここが一番印象に残ったからです。
導入:ダビデの竪琴がサウルを癒した
「神の霊がサウルに臨むたびに、ダビデは立琴を手に取って、ひき、サウルは元気を回復して、良くなり、わざわいの霊は彼から離れた。」(1サムエル16:23)
なぜダビデの音楽には癒しの力があったのでしょうか?彼が技術的に優れた音楽家だったから?それとも、特別な曲を演奏したから?
聖書を注意深く読むと、ダビデの賛美に力があった理由は、技術でも方法でもなく、彼の心の姿勢にあったことがわかります。
サウルとダビデ:二人の王の決定的な違い
サウルの悲劇:人の目を恐れた王
サウルは外見的には理想的な王でした。背が高く、立派で、民の期待に応えようとしました。しかし、彼には致命的な弱点がありました。
「サウルはサムエルに言った。『私は民を恐れて、彼らの声に従ったため、主の命令とあなたのことばにそむいて、罪を犯しました。』」(1サムエル15:24)
さらに15:30では、サウルは「私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください」と懇願します。
サウルの関心は常に「人にどう見られるか」でした。彼は失敗を「民のせい」にし、悔い改めても罪の本質を理解していませんでした。彼が恐れたのは神ではなく、人の評価だったのです。
ダビデの秘密:誰も見ていない場所での礼拝
一方、ダビデは末っ子の羊飼いでした。誰も注目しない野原で、誰も見ていない場所で、彼は主に向かって心を注いでいました。
詩篇の多くはダビデによって書かれましたが、そこには主との親密な交わりがあふれています。荒野で、戦場で、逃亡生活の中で、ダビデは常に主を賛美し、主に叫び、主と対話していました。
神様がサムエルに言われた言葉が、すべてを語っています:
「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(1サムエル16:7)
「本物でいい」の難しさ
「完全でなくても本物でいい」— 私たちはこの言葉に励まされます。でも、これが一番難しいのではないでしょうか。
人間は、放っておくとサウルのようになる傾向があります。
- 人の目が気になる
- 評価が怖い
- 失敗したくない
- 良く見られたい
ダビデのようでありたいのに、気づくとサウルのように人の顔色をうかがっている自分がいる。
だからこそ、日ごろからみ言葉に親しみ、み言葉から養われていることが不可欠なのです。とっさの時に出てくる言葉や行動は、日々何を食べているかで決まります。ダビデが危機の時に主を賛美できたのは、普段から主との交わりの中に生きていたからです。
賛美の不思議な力
しかし、賛美には不思議な力があります。
頑張らなくても、なぜか心に喜びが湧き上がってくる。主の臨在の中に入ると、できないと思っていたことができる。赦せなかった人を赦せるようになる。心が自然に解放されていく。
賛美の中で心が主に向き直されると、すべてが変わるのです。
人の目ではなく、主だけを見る
賛美する時、最も大切なのは主だけを見ることです。
無理に笑顔を作っても、それは空虚です。でも、主から愛を受け、主の喜びが心に溢れてくると、笑顔を隠せなくなります。それは作られたものではなく、内側から溢れ出るものだからです。
賛美の実践:3つの鍵
1. 主がよくしてくださったことを思い出す
詩篇103:2「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」
具体的に、個人的に、主の恵みを思い起こすこと。それが感謝の泉となります。
2. 聖書の中で主のご性質の素晴らしさを味わう
詩篇34:8「主の恵み深さを味わい、これを見つめよ」
ヘブライ語で「味わう」はタアム(טָעַם)。単に知識として知るのではなく、舌で味わうように、経験的に知ること。御言葉を読みながら、「ああ、主はこういう方なんだ」と心で味わう時間が大切です。
3. 感謝する
感謝は信仰の表現です。まだ見えていなくても、主の真実を信じて感謝すること。その時、心の向きが変わります。
「霊と真」の礼拝とは
イエス様は言われました:
「まことの礼拝者たちが、霊と真によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、霊と真によって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:23-24)
原語で見る深い意味
「霊と真によって」 = ギリシャ語:ἐν πνεύματι καὶ ἀληθείᾳ(エン・プネウマティ・カイ・アレーセイア)
- πνεῦμα(プネウマ): 霊、息、風 — 聖霊による、内なる霊による礼拝
- ἀλήθεια(アレーセイア): 真理、真実、誠実 — 偽りのない、本物の心
これは2つの要素が必要だということです:
1. 聖霊による礼拝:人間の力や技術ではなく、聖霊の助けと導きによる礼拝
2. 真実な心:表面的な形式ではなく、心からの誠実な礼拝
ダビデの竪琴が癒しの力を持っていたのは、まさにこの「霊と真」の礼拝だったからです。
さらに深く:霊と真が指し示すもの
「霊と真」をさらに深く見ていくと、三位一体なる神様の働きが見えてきます。
霊 = 聖霊様 聖霊様は私たちの内に住み、私たちを真理へと導いてくださいます。
真 = み言葉、そして真理そのものである主イエス イエス様ご自身が「わたしは道であり、真理であり、いのちです」(ヨハネ14:6)と言われました。主イエスは真理そのものです。
主イエスは、霊も真も完全に持っておられます。そして聖霊様は、私たちを主イエスへと導いてくださるのです。
「真理の御霊が来ると…その方はわたしの栄光を現します」(ヨハネ16:13-14)
つまり、「霊と真による礼拝」とは:
- 聖霊様に導かれ
- み言葉(聖書)に基づき
- イエス様ご自身へと向かう礼拝
ダビデの賛美がなぜ力を持っていたか、ここにその秘密があります。彼の賛美は、神の霊に満たされ、神の言葉(律法)に根ざし、来るべきメシア(イエス様)を指し示していたのです。
ダビデの竪琴が今も響く
サウルを癒したダビデの竪琴は、単なる楽器ではありませんでした。それは主との親密な交わりから溢れ出る賛美でした。
現代の私たちが賛美の奉仕をする時も同じです:
- 完璧な演奏技術は必須ではない
- 人に良く見られることが目的ではない
- 主の臨在を運ぶ器となることが本質
友よ、あなたが賛美する時、「本物でいる」ことを恐れないでください。人の目を気にしてサウルのようになるのではなく、誰も見ていない場所でも主を見上げていたダビデの心を求めましょう。
不思議です、賛美は。
日々み言葉に養われ、主の良さを味わい、主だけを見上げる時、あなたの賛美は、かつてダビデの竪琴がそうであったように、人々を癒し、悪霊を追い出し、主の臨在を運ぶ力を持つのです。
祈り
主よ、私たちを本物の礼拝者としてください。人の目を恐れるサウルではなく、あなただけを見上げるダビデの心をください。私たちの賛美が、技術や完璧さではなく、あなたとの親密な交わりから溢れ出るものでありますように。霊と真をもって、あなたを礼拝させてください。アーメン

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