今日の通読箇所から、世代を超えて働かれる神の御手と、私たちの救いのために沈黙された主イエスの姿を見ていきます。
目次
創世記47:28-31 ― ヤコブの遺言と「ヘセド・ヴェ・エメット」
「もしあなたの心にかなうなら、どうかあなたの手を私のももの下に入れ、私に愛と真実を尽くしてくれ。どうか私をエジプトの地に葬らないでくれ。」(創世記47:29)
「愛と真実」の原語
ヤコブがヨセフに願った「愛と真実」は、ヘブライ語で「חֶסֶד וֶאֱמֶת」(ヘセド・ヴェ・エメット)です。これは聖書で繰り返される重要な対句で、神の契約的愛と真実を表します。
- 創世記24:27 ― アブラハムのしもべがリベカを見つけた時に同じ表現
- 出エジプト34:6 ― 主がモーセにご自身を啓示された時
- ヨハネ1:14 ― 「恵みとまこと」(χάριτος καὶ ἀληθείας)として新約に受け継がれる
ヤコブは死を前にして、神がご自身に示してくださった「ヘセド・ヴェ・エメット」を、息子に求めています。そしてヨセフはそれを完全に果たし、父の遺体をカナンまで運び、葬りました。神の契約的愛が、親子の間でも受け継がれていく美しい姿です。
ヤコブのおじぎ
47:31で「イスラエルは床に寝たまま、おじぎをした」とあります。使われているヘブライ語は「וַיִּשְׁתַּחוּ」(ヴァイィシュタフー)で、「שָׁחָה」(シャーハー=ひれ伏す、礼拝する)という動詞から来ています。
病床にあって起き上がれない状態でも、約束を守ってくれる息子への感謝と、神への感謝を表したのでしょう。これは単にヨセフの地位への敬意だけでなく、ヨセフの人格そのものへの尊敬です。かつて兄たちに売られ、奴隷となり、無実の罪で投獄され、それでも神を信頼し続け、恨みを捨てて家族を赦し養った息子。ヤコブは息子の中に「神の御手」を見たのではないでしょうか。
第一歴代誌6章 ― レビ人の系図と三人の歌い手
ダビデが立てた三人の歌い手
6:31-47に、ダビデが主の宮の歌をつかさどらせるために立てた人々が記されています。レビの三氏族すべてから歌い手のかしらが立てられました。
| 歌い手 | 氏族 | 位置 |
| ヘマン | ケハテ族 | 中央 |
| アサフ | ゲルショム族 | 右 |
| エタン | メラリ族 | 左 |
主の前での礼拝において、レビ族全体が一つとなって仕えている姿が見えます。
ヘマン ― サムエルの孫
6:33によると、歌い手ヘマンは「ヨエルの子、サムエルの子」とあります。このヨエルは第一サムエル8:2に登場するサムエルの長子ヨエルと同一人物です。サムエルの息子たちは「父の道に歩まず、利得を追い求め、わいろを取り、さばきを曲げていた」(Ⅰサム8:3)と記されています。
しかし、その息子(サムエルの孫)ヘマンは、ダビデの幕屋で主の前に歌をもって仕える栄誉ある役割を担いました。これは世代を超えた神の恵みを示しています。親の失敗が子どもの人生を決定するのではない。ヘマンは祖父サムエルの信仰の遺産を受け継ぎ、神に仕える者となったのです。
レビ人の各部族への分散配置
6:54-81には、レビ人が各部族に分散して配置されたことが記されています。申命記33:10には「彼らはヤコブにあなたのさばきを教え、イスラエルにあなたのみおしえを教えます」とあります。レビ人が全国に散らされたのは、主の律法を教えるためでした。神の民全体が神の言葉にアクセスできるようにするための配慮です。
第一歴代誌7章 ― ヨシュアの系図と重要な地名
ヨシュアはエフライム族
7:27に「その子はヌン、その子はヨシュア」とあります。系図を辿ると、エフライム → … → ヌン → ヨシュアとなります。
ヨセフの子エフライムの子孫が、イスラエルをカナンに導く指導者となりました。エジプトで生まれ育ったヨセフの血統から、約束の地征服のリーダーが出た。これは神の計画の不思議さを感じさせます。
エフライムの領土にある重要な地名
7:28には「ベテル」と「シェケム」が挙げられています。どちらもヤコブに関係する聖書的に重要な都市です。ベテルはヤコブが天に届くはしごの夢を見た場所(創28章)、シェケムはヤコブがカナン帰還後に祭壇を築いた場所(創33:18-20)です。
メギド ― 終末預言との関連
7:29に「メギド」が登場します。ここはマナセ族の土地とエフライム族の境界付近にありました。メギドは黙示録16:16の「ハルマゲドン」(ヘブライ語で「הַר מְגִדּוֹ」ハル・メギッド)の由来となった地名です。歴史的に交通の要衝で、多くの戦いが行われた場所でした。
※ メギドと終末預言の関連については、別記事「ハルマゲドン・ボツラ・ヨシャファテの谷 ― 終末の地理を整理する」で詳しくまとめています。
マルコ15:1-21 ― 沈黙のイエスと十字架を担いだ異邦人
沈黙されるイエス
「それでも、イエスは何もお答えにならなかった。それにはピラトも驚いた。」(マルコ15:5)
ピラトが「驚いた」と訳されているギリシャ語は「ἐθαύμαζεν」(エサウマゼン)です。普通、死刑になるかもしれない人は必死に弁明します。しかしイエスは沈黙された。
これはイザヤ53:7の成就です:「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」
なぜ沈黙されたのか?私たちを救うためには、沈黙する必要があったからです。もしイエスが雄弁に弁護されていたら、ピラトは釈放したかもしれない。でもそれでは十字架がなくなる。贖いがなくなる。イエスの沈黙は愛の沈黙でした。
十字架を担いだシモン・クレネ人
「そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。」(マルコ15:21)
「アレキサンデルとルポスとの父」と紹介されているのは、マルコの読者がこの二人を知っていたからでしょう。ローマ16:13には「主にあって選ばれた人ルポス」への挨拶があり、同一人物かもしれません。
十字架を無理やり担がされた異邦人シモンが、のちに信仰者となり、その息子たちも教会の一員となった可能性がある。イエスの十字架に触れた者が変えられるという証しです。偶然に見えることの中に、神のご計画があるのです。
今日の通読から
今日の通読を通して、神の計画の長いスパンを感じます。
- ヤコブの遺言は、何百年後のカナン帰還を見据えていた
- レビ人の分散配置は、民全体の霊的健康を守るためだった
- サムエルの孫ヘマンは、父の失敗を乗り越えて神に仕えた
- ヨセフの子孫ヨシュアが約束の地への導き手となった
- 十字架を担いだシモンの子孫が教会の一員となった
神は世代を超えて働かれる方です。私たちの今日の信仰の種が、どのような実を結ぶかは分かりません。でも確かなのは、神は忠実に働き続けておられるということ。すべてが一つの壮大な救いの物語として繋がっているのです。


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