2025年12月28日の通読 「神が見ておられるもの」― 創世記45章・第二列王記19-20章・マルコ12章に見る神の視点 ―

通読

今日の通読箇所には、一見すると無関係に見える三つの物語が含まれています。エジプトの宰相ヨセフと兄弟たちの和解、ユダ王ヒゼキヤとアッシリヤ帝国との対峙、そしてエルサレム神殿で献金する一人の貧しいやもめ。しかし、これらの箇所を注意深く読むとき、そこに共通して流れる一つのテーマが浮かび上がってきます。

それは「神がどこを見ておられるか」という問いです。

人間の目に見えるものと、神の目に映るものは、しばしば大きく異なります。今日の三つの箇所は、その真理を異なる角度から照らし出しています。

今日の賛美

一、ヨセフの涙 ― 赦しの源泉としての神の摂理

「制することができなくなった」瞬間

創世記45章は、聖書全体の中でも最も感動的な和解の場面の一つです。ヨセフは「そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって」(45:1)、ついに兄弟たちに自分の正体を明かします。

ヘブライ語で「自分を制する」は לְהִתְאַפֵּק(レヒトアペーク)という動詞です。これまでヨセフは、兄弟シメオンを見たとき(42:24)、弟ベニヤミンを見たとき(43:30)と、何度も感情を抑えてきました。しかしここで、その堰がついに決壊するのです。

注目すべきは、ヨセフが人払いをしてから泣いたことです。エジプトの宰相としての威厳、権力者としての仮面を脱ぎ捨て、兄弟たちの前で素の自分をさらけ出しました。本当の和解は、強さからではなく、弱さの共有から生まれるのかもしれません。

「近寄ってください」という懇願

45:4でヨセフは「どうか私に近寄ってください」と言います。ヘブライ語では גְּשׁוּ־נָא אֵלַי(ゲシュー・ナー・エライ)。これは命令ではなく、懇願です。権力者が弱さを見せ、かつて自分を売った兄たちに「近づいてほしい」と願う。ここに真の赦しの姿があります。

赦しを可能にしたもの ― 神の摂理への信頼

「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」(創世記45:5)

「だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。」(創世記45:8)

ヨセフが兄たちを赦せた理由は、単に時間が経ったからでも、自分が成功したからでもありません。彼は自分の人生全体を神の視点から見ることができたのです。人間の悪意さえも、神の救いの計画の中に組み込まれていることを理解したとき、怒りは感謝に変わりました。

人間は悪を行いました。しかし神は善を計画しておられました。この二つの現実を同時に認めることが、真の赦しへの道です。

45:7には「残りの者」(שְׁאֵרִית / シェエリート)という重要な概念が登場します。神は常に「残りの者」を通して働かれます。ヨセフは兄弟たちから排除された者でしたが、まさにその排除された者を通して、家族全体の救いがもたらされたのです。

二、ヒゼキヤの祈り ― 歴史の主体は誰か

アッシリヤの高慢

第二列王記19章は、古代世界最強の帝国アッシリヤと、小国ユダとの対峙を描いています。アッシリヤ王セナケリブは、エルサレムを包囲し、ヒゼキヤ王に降伏を迫りました。

主はアッシリヤの高慢を厳しく糾弾されます。

「あなたはだれをそしり、ののしったのか。だれに向かって声をあげ、高慢な目を上げたのか。イスラエルの聖なる方に対してだ。」(第二列王記19:22)

「イスラエルの聖なる方」は קְדוֹשׁ יִשְׂרָאֵל(ケドーシュ・イスラエル)。イザヤ書に頻出するこの称号は、神の超越性と聖さを強調します。

興味深いのは、19:21-22で「シオンの娘」を侮辱することが、そのまま「イスラエルの聖なる方」への冒涜と同義だと宣言されていることです。神とご自分の民との一体性がここに示されています。

「私が」という傲慢と「わたしが」という真実

アッシリヤの誇りは、19:23-24に明らかです。

「多くの戦車を率いて、私は山々の頂に…上って行った。…私は井戸を掘って、他国の水を飲み、足の裏でエジプトのすべての川を干上がらせた」

「私が」「私が」という自己栄光化の言葉が続きます。

しかし主は言われます。

「あなたは聞かなかったのか。昔から、それをわたしがなし、大昔から、それをわたしが計画し、今、それを果たしたことを。」(第二列王記19:25)

アッシリヤは自分を歴史の主体だと思っていましたが、実は神の計画の道具に過ぎませんでした。これはヨセフの物語と対照的です。ヨセフは「私をここに遣わしたのは神」と告白しましたが、アッシリヤは「私が成し遂げた」と誇りました。同じ「神に用いられた」という事実を、一方は謙遜に受け止め、一方は自己の栄光としたのです。

ヒゼキヤの祈りの模範

ヒゼキヤの対応は印象的です。セナケリブからの脅迫の手紙を受け取ったとき、彼は「主の宮に上って行って、それを主の前に広げた」(19:14)。問題をそのまま神の前に持ち出し、神に委ねる祈りの姿勢がここにあります。

「私たちの神、主よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、主よ、あなただけが神であることを知りましょう。」(第二列王記19:19)

この祈りの動機は、単なる国家の救いではなく、「すべての王国が主だけが神であることを知る」ことでした。神の栄光が現れることを求める祈りに、主は答えてくださいました。

ヒゼキヤの病と「残りの者」の約束

第二列王記20章では、ヒゼキヤが病気になり、死を宣告されます。彼の祈りに応えて、主は15年の寿命を加え、日時計の影を10度戻すというしるしを与えられました。

この「日時計」はヘブライ語で מַעֲלוֹת(マアロート)、「階段」を意味します。おそらく「アハズの階段」のような構造物で、太陽の影の位置で時間を測っていたのでしょう。主はヒゼキヤの信仰を励ますために、自然法則さえも曲げてくださいました。

しかし、その後のヒゼキヤの行動には問題がありました。バビロンからの使者にすべての宝物を見せ、イザヤを通して将来のバビロン捕囚が預言されたとき、彼は「自分が生きている間は平和で安全ではなかろうか」(20:19)と思いました。

ここには後の世代への責任の欠如が見られます。個人的な祝福を受けた後の方が、霊的に危険な状態になりやすいという警告がここにあります。

それでも主は、19:30-31で約束されています。「ユダの家ののがれて残った者(שְׁאֵרִית)は下に根を張り、上に実を結ぶ。」ヨセフの物語と同様に、ここでも「残りの者」を通して神の救いが継続していくのです。

三、やもめの献金 ― 神が見ておられるもの

一番大切な命令

マルコ12章で、イエス様は一番大切な命令について問われます。

「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マルコ12:30)

「尽くす」という言葉が四回繰り返されています。心、思い、知性、力のすべてを注ぎ出して神を愛すること。これが律法全体の要約です。

「ダビデの子」の意味

12:35-37で、イエス様は興味深い問いを投げかけられます。「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子と言うのですか。ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どういうわけでキリストがダビデの子なのでしょう。」

「ダビデの子」(בֶּן־דָּוִד / ベン・ダビド)は、単なる系図的子孫という意味を超えて、ダビデ契約(第二サムエル7章)の成就者を指しています。イエス様がここで指摘しておられるのは、メシアはダビデの子孫であると同時に、ダビデよりも偉大な存在、すなわち神の子であるということです。人性においてはダビデの子、神性においてはダビデの主。受肉の神秘がここに暗示されています。

見えない者を見る神の目

イエス様は献金箱の向かいに座り、人々が金を投げ入れる様子を見ておられました。多くの金持ちが大金を投げ入れる中、一人の貧しいやもめがレプタ銅貨を二つ投げ入れました。

「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」(マルコ12:43-44)

レプタ銅貨2枚は、当時のローマ通貨で最も小さな単位でした(λεπτόν / レプトンはギリシア語で「薄い、小さい」の意)。人間の目には取るに足らない額ですが、イエス様の目には「どの人よりもたくさん」でした。

神が見ておられるのは、金額の大きさではなく、心の姿勢です。金持ちたちは「あり余る中から」投げ入れました。つまり「尽くして」はいなかった。余剰を捧げただけです。しかしやもめは文字通り「力を尽くして」捧げました。明日の食事も不確かなまま。

このやもめもまた、社会から見えない「残りの者」の一人でした。律法学者たちが「やもめの家を食いつぶし」(12:40)ている一方で、やもめは自分のすべてを神に捧げていた。人間の目には見えない存在が、神の目には最も大きな献げものをした者として見られているのです。

結び ― 神の視点で生きる

今日の三つの箇所に共通しているのは、人間の視点と神の視点のズレです。

兄たちは悪を行ったと思っていましたが、神は救いの計画を見ておられました。アッシリヤは自分が征服者だと思っていましたが、神は道具として見ておられました。金持ちたちは多く捧げたと思っていましたが、神はやもめの方を見ておられました。

そして三箇所に共通する「残りの者」(שְׁאֵרִית)のテーマ。排除された者ヨセフ、北イスラエルが滅んだ後のユダ、社会から見えないやもめ。神は常に「残りの者」を通して働かれます。

私たちが見ているものと、神が見ているものは違います。これは慰めでもあり、畏れでもあります。

自分の働きが「小さい」と感じるとき、自分が「残りの者」のように感じるとき、思い出したいのです。神はやもめがレプタ銅貨2枚を捧げたように、私たちが「あるだけを全部」捧げている姿を見ておられます。

ヨセフのように「私をここに遣わしたのは神」と告白し、ヒゼキヤのように問題を「主の前に広げ」、やもめのように「心を尽くし、力を尽くして」神を愛する者でありたいと願います。

― 2025年12月28日の通読より ―

聖書通読表は新宿シャローム教会のホームページから見られるトーラーポーションを使用させていただいています

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