通読箇所:申命記11章26節から32節/哀歌5章/エゼキエル書1章/テサロニケ人への第二の手紙3章
神殿が焼かれ、都が廃墟となり、祭司が祭司として立てなくなったとき、神の栄光はどこへ行ったのでしょうか。約束の地を失った民に、神はもう住む場所を持たないのでしょうか。
※本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。
【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(エゼキエル書)、第四部(新約と一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。
暑い日々が続きますね。 今日は、この涼しげな曲を小さく響かせて通読をしました。

第一部 トーラー——申命記11章26節から32節
「見よ」という一語から始まる週
ユダヤ教の会堂では、モーセ五書を一年かけて読み通します。一週間ごとの区切りを「トーラーポーション」と呼び、それぞれの区切りには名前がついています。名前の付け方は単純で、その週の最初の言葉がそのまま名前になるのです。
今日の通読箇所、申命記11章26節は、ちょうど新しい週の始まりにあたります。そしてその週の名前は「見よ」という意味の言葉、レエーです。
見よ、わたしは、きょう、あなたがたの前に祝福と、のろいとを置く。(申命記11章26節)
何かを説明する前に、まず「見よ」と言われる。理屈より先に、目を開けと言われている。ここから一週間の朗読が始まります。
単数で呼びかけ、複数に置く
この節には、日本語訳では見えにくい仕掛けがあります。
「見よ」という命令形は、一人に向かって言う形です。「あなた、見なさい」。ところが、その直後の「あなたがたの前に」は複数なのです。
一人称で呼びかけながら、置かれるのは全員の前。あるいはこう言い換えられます。神は会衆全体に語りかけながら、その中の一人ひとりの目を、まっすぐに見ている。
大勢の前で語られた言葉が、自分だけに向けられているように感じられる瞬間があります。この一節は、文法そのものがその構造を持っています。「みんなに言われたこと」で終わらせない仕掛けが、最初の二語に埋め込まれているのです。
「置いた」でも「置くだろう」でもなく
「置く」という動詞の形にも注目したいところです。
ヘブライ語には、完了した動作を表す形と、これから起こる動作を表す形があります。ところがこの「置く」は、そのどちらでもない分詞という形をとっています。日本語で無理に訳せば、「わたしは今、置きつつある」となります。
祝福とのろいは、過去に一度置かれて終わった記録ではありません。将来いつか置かれる予定でもありません。今日、この瞬間、目の前のテーブルに置かれつつある。
だからこそ、この短い段落の中で「きょう」という言葉が三度も繰り返されます(27節、28節、32節)。申命記全体を通して「きょう」は約七十回現れる言葉ですが、ここでの密度は際立っています。
選択は、いつも今日のものです。
二つの山が、そのまま二枚の絵になっている
29節で、二つの山の名が出てきます。
あなたはゲリジム山に祝福を置き、エバル山にのろいを置かなければならない。
この二つの山は、シェケム(現在のナブルス)という町を挟んで、南北に向かい合って立っています。谷を挟んだ距離はおよそ数百メートル。二つの山の間で声を出せば、反対側まで届くと言われるほど近い。
そして重要なのは、この二つの山が見た目からして違うということです。
南のゲリジム山は、地中海からの湿った風を受ける斜面にあたり、緑に覆われています。北のエバル山は雨陰にあたり、岩肌がむき出しで、木がほとんど育ちません。
つまり、この場所に立った人は、右を向けば緑の山、左を向けば石の山を見ることになります。祝福とのろいが、地形そのものによって絵になっているのです。
神は説明より先に「見よ」と言われました。そして実際に、目で見て分かる場所を選ばれました。
図解① ゲリジム山とエバル山の地理図(シェケムの谷/標高と植生/モレのテレビン/ギルガルとの方角)
約束が最初に語られた木の下で
30節に、地味ですが見逃せない地名が出てきます。
ギルガルに向かいあって、モレのテレビンの木の近くにあるではないか。
「モレのテレビンの木」——この木が聖書に初めて登場するのは、創世記12章6節です。
アブラハムが神の召しに従ってカナンの地に入り、最初に足を止めた場所。そこで神は現れて、「わたしはあなたの子孫にこの地を与える」と言われました。約束が最初に語られた場所が、このモレのテレビンの木のもとでした。
その同じ木の下で、四百年以上を経て、今度は約束を保つための条件が宣言されます。
ここで注目したいのは、順序です。約束が先にあり、条件が後から来ている。土地を得るために条件を満たすのではなく、すでに与えられた約束の中で、どう生きるかが問われている。
祝福とのろいは、神の愛を勝ち取るための試験ではありません。すでに与えられた関係の中で、その関係にとどまるか離れるかという話です。
「知らなかった他の神々」
28節に、静かですが鋭い表現があります。
あなたがたの知らなかった他の神々に従うならば
「知らなかった」——つまり、これまで何の関係もなかった神々。何もしてくれたことのない神々。エジプトから連れ出したわけでもなく、荒野で水を出したわけでもなく、四十年間衣服を古びさせなかったわけでもない神々。
四十年の実績がある神を離れて、実績ゼロの神に向かう。それが「のろい」と呼ばれる道の実体です。
ここには非難の響きよりも、むしろ当惑に近いものがあります。なぜ、知らない者のほうへ行くのか、と。
そして彼らは、まだ入っていない
この段落を締めくくる31節は、こう言います。
あなたがたはヨルダンを渡り、あなたがたの神、主が賜わる地にはいって、それを占領しようとしている。
大切なのは、この言葉が語られている場所です。彼らはまだヨルダン川の東側にいます。約束の地は、目の前に見えている。しかし、まだ足を踏み入れてはいない。
祝福とのろいの選択は、手に入れる前に提示されました。まだ何も持っていない段階で、持った後の生き方を問われている。
そしてこの「まだ入っていない民」への言葉が、今日の通読全体の出発点になります。今日はこのあと、地を失った民の嘆き(哀歌5章)と、地の外に連れ去られた祭司の幻(エゼキエル書1章)を読みます。
入る前、失った後、外にいるとき。三つの場所で、神との関係はどうなるのか。
聖書は、その全部に答えを持っています。
第二部 旧約——哀歌5章
形が崩れる、ということ
哀歌という書には、はっきりした形があります。
1章、2章、4章はそれぞれ22節。3章は66節(22の三倍)。そして5章も22節。すべての章が22という数に支配されています。
なぜ22なのか。ヘブライ語のアルファベットが22文字だからです。
1章から4章までは、各節の最初の文字がアルファベット順に並んでいます。第1節は第1文字で始まり、第2節は第2文字で始まり、最後の節は第22文字で始まる。こうした技法を「アクロスティック」、日本語では折句(おりく)と呼びます。
日本語で言えば「いろは歌」のような、決められた文字を順に置いていく形式です。
嘆きの詩に、なぜこんな厳密な形式が必要だったのでしょうか。
いくつかの説明があります。ひとつは「AからZまで、言葉を尽くして嘆く」という完全性の表現。もうひとつは、悲しみが際限なく溢れ出さないよう、器を用意しておくという理解です。形式は、感情を閉じ込める枠ではなく、感情が壊れてしまわないための骨組みだった。
ところが、5章だけは違う
そして哀歌5章。
節の数は、やはり22です。しかし——折句ではありません。各節の最初の文字は、アルファベット順に並んでいない。
四つの章にわたって守られてきた形式が、最後の章で崩れます。節の数だけが残って、中身の秩序が失われている。
これをどう読むか。学者の間には二つの読み方があります。
ひとつは、「もはや形を整える力も残っていなかった」という読み。悲しみが器を破ってしまった。
もうひとつは、「これはもう詩ではなく、祈りだから」という読み。1章から4章は、廃墟を前にした嘆きの描写でした。しかし5章は、最初から神に向かって「主よ」と呼びかけて始まります。
主よ、われわれに臨んだ事を覚えてください。(1節)
装いを解いて、直接向かい合う。形式を捨てたのは、力尽きたからではなく、相手が目の前にいるからかもしれません。
どちらの読みも成り立ちます。そして、その両方が同時に真実であることも、人の祈りにはよくあることです。
図解② 哀歌1〜5章の構造比較図(1〜4章の折句22文字と、5章の非折句を並べる)
「覚えてください」から始まる
1節の最初の願いは、「覚えてください」です。
ヘブライ語で「覚える」という言葉は、辞書的には「覚える、思い出す」です。ただし聖書の用例を追っていくと、この語はしばしば、思い出した神が動き出す場面で使われます。
神がノアを「覚えられた」とき、水は引き始めました(創世記8章1節)。神がイスラエルの叫びを聞いて契約を「覚えられた」とき、出エジプトが始まりました(出エジプト記2章24節)。
だから「覚えてください」は、「忘れないでいてください」という控えめな願いではありません。「動いてください」という叫びです。
失われたものの目録
2節から16節にかけて、失ったものが淡々と並べられます。
財産——嗣業の地は他国人のものになった(2節)。家族——父はなく、母はやもめのようだ(3節)。水と薪——買わなければ手に入らない(4節)。
この4節は、地味ですが胸に刺さります。水も薪も、自分の土地があれば、井戸を掘り、木を拾えば手に入るものです。それを金を出して買わなければならない。自分の土地で、よそ者として生きている。占領された民の日常が、ここに凝縮されています。
尊厳——首にくびきをかけられ、疲れても休めない(5節)。食糧——命がけで得る(9節)。若者たち——臼をひかされ、子どもは薪を負ってよろめく(13節)。
13節は特に重い。臼をひくのは、本来は奴隷か家畜の仕事でした。若者が担うべき未来が、すべて労役に飲み込まれている。
共同体の営み——長老は門に集まらなくなり、若者の音楽はやんだ(14節)。
町の門は、裁判と話し合いの場でした。そこに人が集まらないということは、共同体としての機能が停止したということです。そして音楽もやんだ。喜びも、正義も、両方が消えた町。
冠——こうべから落ちた(16節)。
二つの告白が並んでいる
この嘆きの中に、罪についての言葉が二度出てきます。ところが、その内容が違います。
われわれの先祖は罪を犯して、すでに世になく、われわれはその不義の責めを負っている。(7節)
わざわいなるかな、われわれは罪を犯したからである。(16節)
7節は「先祖のせいだ」と言い、16節は「われわれが罪を犯した」と言う。
矛盾しているように見えます。しかし、これはおそらく順序です。人が本当に自分の罪に向き合うとき、まず出てくるのは「自分だけのせいではない」という思いです。それは嘘ではない。実際、バビロン捕囚に至る道は何世代もかけて敷かれました。
けれども嘆きを続けていくうちに、7節の言葉は16節へと変わります。責任の所在を探す言葉から、自分を主語にする言葉へ。
ちなみに、この転換は預言者たちにとって重要な主題でした。エゼキエル書18章は、この「先祖の罪を子が負う」という考え方を正面から扱っています。エゼキエル自身が、まさにこの問題に答えることになるのです。
19節——何もない場所で
そして19節。ここが哀歌全体の心臓部です。
しかし主よ、あなたはとこしえに統べ治められる。あなたの、み位は世々絶えることがない。
「み位」とは、王座のことです。
思い出してください。この人たちは、今、何も持っていません。神殿は焼かれました。神の臨在の象徴だった契約の箱は失われました。王は目をえぐられてバビロンに引かれていきました。祭壇も、都も、城壁も、ない。
神が王であることを示す証拠が、地上から一つ残らず消えた状態です。
その場所で、この人は言います。「あなたの王座は絶えない」と。
証拠は何もありません。目に見えるものはすべて反対を語っています。それでもなお、王座は絶えないと告白する。
この19節を、覚えておいてください。第三部で、もう一度この言葉に戻ってきます。
帰る、という動詞が二度
21節は、原語で読むと形が美しく整っています。
主よ、あなたに帰らせてください、われわれは帰ります。
「帰る」という同じ動詞が、二度使われています。しかし形が違う。
前半は、神が主語です。「あなたが、わたしたちを帰らせてください」。誰かに何かをさせる、という形をとっています。
後半は、人が主語です。「そうすれば、わたしたちは帰ります」。
順序に注目してください。人が決意して帰るのが先ではありません。神が向き直らせてくださることが先で、人が帰るのはその後です。
悔い改めは、人の意志の力で始まるものではない。まず神が動いてくださる。この理解は、後にパウロが「神のいつくしみがあなたを悔い改めに導く」(ローマ2章4節)と書いたことと、まっすぐ繋がっています。
そして、この動詞にはもう一つ意味があります。「帰る」は「回復する」とも訳せる言葉です。続く「われわれの日を新たにして、いにしえの日のようにしてください」という願いは、その延長線上にあります。
最後の節と、会堂の慣習
哀歌は、こう終わります。
あなたは全くわれわれを捨てられたのですか、はなはだしく怒っていられるのですか。(22節)
答えのない問いです。神の返答は書かれていません。書は、疑問符のまま閉じます。
聖書には、こういう終わり方をする書がいくつかあります。ヨナ書も問いで終わり、マルコ福音書の最も古い写本も恐れで終わります。答えを与えないことによって、読者を立ち止まらせる。
ここで、ユダヤ教の会堂に古くからある慣習を紹介したいと思います。
哀歌を公に朗読するとき、22節を読み終えた後、もう一度21節に戻って読み直すのです。
主よ、あなたに帰らせてください、われわれは帰ります。われわれの日を新たにして、いにしえの日のようにしてください。
この扱いを受ける書は、聖書の中に四つあります。哀歌、イザヤ書、マラキ書、伝道の書。いずれも、最後の節が厳しい言葉で終わる書です。
聖書を暗い言葉で終わらせない。共同体が長い年月をかけて選び取った、静かな意志がここにあります。
これは本文の改変ではありません。22節は22節として、そのまま書に残っています。ただ、朗読の最後に置く言葉として、祈りを選んだというだけです。
嘆きを消さずに、それでも祈りで閉じる。この姿勢は、信仰生活そのものの形をしているように思います。
そして、次の書へ
哀歌は、廃墟の中で「あなたの王座は絶えない」と告白しました。証拠は一つもないまま。
このあと私たちが読むエゼキエル書1章で、一人の祭司が、異邦の地で天が開くのを見ます。そして彼が見たものの中心には——王座がありました。
告白が先で、確認が後です。
第三部 エゼキエル書1章
この書をどう読むか
エゼキエル書は、聖書の中でも特に難解とされる書です。奇怪な幻、意味の分からない象徴、極端な行動命令が続きます。読み始めて数章で止まってしまった人も多いのではないでしょうか。
しかし、この書は暗号ではありません。当時の人が見れば、意味の分かる絵で描かれています。
エゼキエルがいたのはバビロン。当時世界最大の帝国の中心地です。その神殿や宮殿の入り口には、翼を持ち、人の顔をした獣の巨像が守護者として据えられていました。王は車輪のついた戦車に乗って現れ、神々の像は台車に載せられて行列しました。
その世界のただ中で、エゼキエルは幻を見ます。翼のある生きもの、車輪、そして王座。バビロンの人々が知っている「王の威光」の語彙で、しかしそれをはるかに超える規模で、本当の王が現れるのです。
背景が分かれば、絵は読めます。一章ずつ、丁寧に進んでいきましょう。
「第三十年」という謎の日付
書の第一節は、こう始まります。
第三十年四月五日に、わたしがケバル川のほとりで、捕囚の人々のうちにいた時、天が開けて、神の幻を見た。(1節)
何の第三十年なのか、本文は言いません。聖書の中でも珍しい書き方です。
続く2節では、別の基準で日付が示されます。「エホヤキン王の捕え移された第五年」。こちらは明確で、紀元前593年頃にあたります。
では「第三十年」とは何か。有力な理解のひとつは、エゼキエル自身が三十歳だったという読み方です。
なぜ三十歳が重要なのか。民数記4章によれば、祭司とレビ人が幕屋での務めに就くのは三十歳からでした。
エゼキエルは祭司の子です。3節に「ブジの子祭司エゼキエル」と明記されています。つまり彼は、神殿で祭司として立ち始めるはずだった、その年齢にいました。
しかし彼がいたのは、エルサレムの神殿ではありません。バビロニアの運河のほとりでした。
生まれたときから決まっていた道が、完全に断ち切られた年。人生の予定表が白紙になった年。
その日に、天が開きます。
ケバル川という場所
「ケバル川」は自然の川ではなく、ユーフラテス川から引かれた大運河です。バビロニアの都市ニップール周辺を潤していました。
興味深いことに、この運河の名は考古学的にも確認されています。バビロニアの粘土板文書に「カバル運河」の名が記録されており、その周辺にユダヤ人が集められて住んでいたことも分かっています。
捕囚といっても、鎖につながれた牢獄生活ではありませんでした。彼らは土地を与えられ、農業や商業に従事し、共同体を作って暮らしていました。エレミヤも捕囚民に「家を建てて住み、園を作って産物を食べよ」と手紙を送っています(エレミヤ29章5節)。
つまり、生活はできた。しかし、神殿がない。祭壇がない。いけにえを捧げられない。祭司が祭司として存在できない場所です。
そこで彼は、祭司の務めではなく、預言者の召しを受けます。
陥落の六年前だということ
ここで年表を確認しておきましょう。
エゼキエルがこの幻を見たのは紀元前593年頃。エルサレムが陥落し神殿が焼かれるのは紀元前586年です。
つまり、この時点でエルサレムはまだ立っています。神殿もまだあります。
これは非常に重要です。エゼキエルは「すべてが終わった後」に慰めを語った人ではありません。まだ神殿が建っている間に、それが焼かれることを語らねばならなかった預言者です。
しかも捕囚民の中には「すぐに帰れる」「神殿がある限り大丈夫だ」という楽観が広がっていました。偽預言者たちがそう語っていたからです(エレミヤ28章)。
その空気の中で、エゼキエルは語り始めます。
先ほど読んだ哀歌は、エルサレム陥落後の嘆きでした。エゼキエルはその前にいる。同じ災いを、片方は後ろから嘆き、片方は前から語っている。今日の通読は、この二つを同じ日に並べています。
図解④ エゼキエルの立ち位置年表(前605/前597/前593この幻/前586陥落。哀歌との時間関係も同じ帯に)
北から来るもの
4節、幻が始まります。
わたしが見ていると、見よ、激しい風と大いなる雲が北から来て、その周囲に輝きがあり、たえず火を吹き出していた。
ここで足を止めたいのは、「北から」という一語です。
バビロンは、ユダから見れば東にあります。しかし東は広大な砂漠なので、軍隊は必ず北の道を迂回して南下しました。だから旧約聖書において、北は侵略者が来る方角です。
預言者エレミヤは、この方角について繰り返し語りました。「災いは北から起り、この地に住むすべての者の上に臨む」(エレミヤ1章14節)。捕囚民にとって「北から来るもの」は、恐怖と喪失の記憶そのものだったはずです。
その同じ方角から、エゼキエルが見たのは——神の栄光でした。
災いが来た方角から、栄光が来る。
この逆転は、エゼキエル書全体を貫く主題の予告になっています。彼らを砕いた出来事の只中に、神ご自身が来られる。
四つの生きもの
5節から、四つの生きものが現れます。
人の姿を基本としながら、四つの顔と四つの翼を持つ。足はまっすぐで、足の裏は子牛のようであり、磨いた青銅のように光っている。翼の下には人の手がある。
顔の配置はこうです。前は人、右は獅子、左は牛、後ろは鷲(10節)。
まず、本文が何を言っているかを確認しましょう。
本文が言っていること
エゼキエル書1章は、この四つの顔が何を意味するかを説明していません。ただ配置を記録するだけです。
そして本文が繰り返し強調するのは、顔の象徴的意味ではなく、動き方です。
翼は互に連なり、行く時は回らずに、おのおの顔の向かうところにまっすぐに進んだ。(9節)
「回らない」。この表現は9節、12節、17節と三度出てきます。四方向すべてに顔があるので、向きを変える必要がない。どの方向へも、即座に、まっすぐ進める。
そしてもう一つ、三度繰り返される言葉があります。「霊の行くところへ彼らも行き」(12節)、「霊の行く所には彼らも行き」(20節)、「生きものの霊が輪の中にあるからである」(21節)。
生きものたちは、自分の意志で動いているのではありません。霊が行くところへ行く。
つまり本文の関心は、この生きものたちがどれほど偉大かではなく、それを動かしている方の主権にあります。四つの顔も、四つの翼も、青銅の輝きも、すべては「その上に何があるか」へ向かう階段にすぎません。
後代のユダヤ伝承が言っていること
ここからは、本文ではなく解釈の話になります。
ユダヤ教のラビ文献には、この四つの顔について有名な説明があります。人は被造物の中で最も高貴なもの、獅子は野の獣の頂点、牛は家畜の頂点、鷲は鳥の頂点。したがって、被造物のすべてが神の御座を担いでいる——という理解です。
美しい解釈だと思います。実際、詩篇148篇のように、全被造物が神を賛美するという主題は聖書全体に流れています。
ただし、はっきりさせておきたいことがあります。これはエゼキエル書本文が述べていることではありません。
本文は「前は人、右は獅子、左は牛、後ろは鷲」としか言っていない。「なぜならそれぞれが被造物の頂点だからである」とは一言も書いていないのです。
なぜ、この区別にこだわるのか
聖書を読み続けていくと、「聖書に書いてあること」と「聖書について長年言われてきたこと」の境目が、だんだん見えにくくなっていきます。
説教で何度も聞いた解釈、注解書で読んだ説明、有名な図解——それらが記憶の中で本文と混ざり、いつの間にか「聖書にそう書いてある」と思い込むようになる。
これは知識の問題ではなく、聖書を独りで読み続ける力の問題です。誰かの解説がなければ聖書が読めない状態と、本文を自分で読んで「ここまでが本文、ここからは解釈」と見分けられる状態とでは、その後の信仰生活が変わってきます。
だから、この記事では層を分けて書きます。本文が言っていること——四つの顔の配置、回らずに進むこと、霊が動かしていること。後代の解釈——四つの頂点という理解。
解釈が悪いわけではありません。むしろ豊かです。ただ、どちらがどちらかを知った上で受け取りたい。
なお、この四つの顔は新約聖書にも現れます。そして教会の歴史の中で、さらに別の解釈が加えられました。それについては第四部で扱います。
バビロンで見ることの意味
最後に、当時の状況を重ねておきたいと思います。
エゼキエルがいたバビロニアでは、神殿や宮殿の入り口に、翼を持ち人の顔をした獣の巨像が据えられていました。守護の象徴です。人の頭、牛または獅子の体、鷲の翼——四つの要素が一体に組み合わされた像が、実際に街にありました。
捕囚民は毎日それを見て暮らしていたはずです。この帝国の神々は強い、だから我々は負けたのだ、と思っても不思議ではありません。
その中でエゼキエルは、翼を持つ生きものの幻を見ます。しかしその生きものたちは、神殿の門に立って守る守護獣ではありませんでした。彼らは運ぶ者です。自らは主権を持たず、霊の行くところへ動く。
そして彼らの上には、大空があり、王座があり、人の姿をした方がおられました。
バビロンの人々が知っている「威光」の語彙で描かれながら、その全部が一人の方の足元に置かれている。
これは捕囚民への静かな宣言です。あなたがたが毎日見上げているあの像は、守護者ではない。本当の御座は、あなたがたのすぐ上にある。
輪の中に輪
15節から、輪が登場します。
もろもろの輪の形と作りは、光る貴かんらん石のようである。四つのものは同じ形で、その作りは、あたかも、輪の中に輪があるようである。(16節)
「輪の中に輪」——直角に交差した二つの輪と理解するのが一般的です。そうであれば、どの方向にも転がることができる。生きものが「回らずに進む」ことと同じ仕組みです。
そして18節。「その輪縁の周囲は目をもって満たされていた。」
輪の縁に、無数の目。
この不気味な描写が語っているのは、おそらく全方位を見ておられるということです。バビロンの運河のほとりにいる捕囚民は、「神はエルサレムに置いてきてしまった」と感じていたでしょう。しかし御座には目があり、あらゆる方向を見ている。
見捨てられたと感じている場所も、その視野の中にあります。
大空、そして王座
22節。「生きものの頭の上に水晶のように輝く大空の形があって」。
ここで使われている「大空」という言葉は、創世記1章6節で神が天と地を分けるために造られた「大空」と同じ語です。
創造の秩序を示す言葉が、ここに置かれている。混沌の中に秩序を立てられた方が、今、混沌のただ中にいる民の前に現れようとしています。
そして26節。幻の頂点です。
彼らの頭の上の大空の上に、サファイヤのような位の形があった。またその位の形の上に、人の姿のような形があった。
王座です。
ここで、第二部を思い出してください。哀歌5章19節で、廃墟の中の民はこう告白しました。「あなたの、み位は世々絶えることがない」と。
証拠は何もありませんでした。神殿も箱も王も失われた状態で、それでも「王座は絶えない」と言った。
そして今、エゼキエルは、その王座を実際に見ています。
告白が先で、確認が後です。
順番は、たいていそうなのだと思います。見えたから信じるのではなく、信じた後で見せられる。しかも見せられる場所は、期待していた場所ではありませんでした。神殿ではなく、異邦の運河のほとりでした。
図解③ エゼキエル1章の幻の構造図(下から上へ:北の嵐雲→火→四つの生きもの→輪の中の輪→大空→サファイアの御座→人の姿)
王座の上に座しておられた方
26節の後半を、もう一度読みたいと思います。「その位の形の上に、人の姿のような形があった。」
王座の上におられたのは、人の姿をした方でした。
創世記1章で、人は神の「かたち」に造られたと言われます。そしてここでは、神が人の姿で現れます。
この箇所は、ユダヤ教の神秘思想において最も重要なテキストのひとつとなりました。「メルカバー」——御座の戦車と呼ばれる伝統です。あまりに畏れ多く、また危険であるとして、ラビたちはこの箇所の講解に厳しい制限を設けました。ミシュナには、この幻を教えてよいのは知恵ある者ただ一人に対してのみ、という規定が残っています。
彼らは、この「人の姿をした方」が誰であるのかを、確定できませんでした。
しかし私たちは知っています。
新約聖書は、ヨハネの黙示録4章で同じ光景を描き直します。御座、そこから出る稲妻、四つの生きもの、そして水晶のようなもの。ヨハネが見た御座には、屠られた小羊が立っておられました。
三十歳の祭司が異邦の運河で見た「人の姿のような形」は、やがて三十歳で公の生涯を始められる方(ルカ3章23節)を指し示していた——そう読むことは、決して無理な読みではないと思います。
そして、虹
28節。この壮大な幻は、意外な形で締めくくられます。
そのまわりにある輝きのさまは、雨の日に雲に起るにじのようであった。
虹です。
虹は、創世記9章で神がノアと結ばれた契約のしるしでした。「わたしは二度と、すべての肉なる者を洪水をもって滅ぼすことはしない」という約束の記憶です。
審判の預言を担う者に与えられた最初の幻が、契約のしるしで縁取られている。
これは偶然ではないと思います。エゼキエル書はこれから、極めて厳しい言葉を語り続けます。神殿から栄光が去る場面(10章)まで書かれます。しかしその全体が、最初から虹に囲まれている。
滅ぼし尽くさない、という約束の中で行われる審判です。
顔を伏せる
1章の最後です。
主の栄光の形のさまは、このようであった。わたしはこれを見て、わたしの顔をふせたとき、語る者の声を聞いた。
長い描写の末に、エゼキエルは「主の栄光の形のさま」と書きます。二重にぼかした言い方です。彼は最初から最後まで「〜のようであった」「〜のような形」という言葉を使い続けました。
見たものを、そのまま言い切ることをしていません。言葉が届かないことを、言葉で示している。
そして彼は顔を伏せます。分析でも記録でもなく、まず伏す。
その姿勢になったとき、声が聞こえました。
見ることから、聞くことへ。1章は幻で埋め尽くされていますが、2章からエゼキエルは言葉を受け取る者になります。幻は目的ではなく、召しへの入り口でした。
第四部 新約と全体の一貫性——テサロニケ人への第二の手紙3章
御座の幻を見た者に与えられるもの
エゼキエルは、天が開くのを見ました。四つの生きもの、輪の中の輪、大空、サファイアの王座、そして人の姿をした方。人が見うる限りの、最も壮大な幻です。
では、そのような幻を見た者は、その後どう生きるのでしょうか。
今日の新約の箇所は、その問いに、意外なほど地味な答えを返します。
静かに働いて自分で得たパンを食べるように(テサロニケ人への第二の手紙3章12節)
走ってほしい、という祈り
3章はパウロの祈願から始まります。
どうか主の言葉が、あなたがたの所と同じように、ここでも早く広まり、また、あがめられるように。(1節)
「早く広まる」と訳されている言葉は、原語では走るという動詞です。競技場を走者が駆け抜けるときに使う語。
パウロは「福音が広まりますように」ではなく、「み言葉が走りますように」と祈っています。主語が福音そのものになっているところが面白い。伝道者が言葉を運ぶのではなく、言葉自身が走る。詩篇147篇15節に「そのみ言葉は、すみやかに走る」とある表現とも響き合います。
なお、この手紙が書かれたのはコリント滞在中と考えられます。パウロが「ここでも」と書いている「ここ」は、決して伝道しやすい町ではありませんでした。それでも彼は、み言葉が走ることを祈ります。
終末の話の直後に、労働の話
この手紙の2章では、パウロは終わりの日について詳しく語りました。不法の者の出現、主の来臨、背教。テサロニケの信徒たちは「主の日はすでに来てしまった」という噂に動揺していたのです(2章2節)。
そして3章。壮大な終末論の直後に、パウロが語るのは——働きなさい、ということでした。
また、あなたがたの所にいた時に、「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」と命じておいた。(10節)
この言葉は誤解されやすいので、原語を確認しておきたいと思います。
「働こうとしない者」——ここは「働く意志のない者」という表現です。働きたくても働けない人のことではありません。パウロは病人や障害を持つ人を排除しているのではない。意図的に働かない選択をしている人について語っています。
なぜそんな人がいたのか。おそらく「主はすぐ来られる。ならば働いても無意味だ」という考えが広がっていたのでしょう。終末が近いことを理由に、日常を放棄する。
これは今日でも起こることです。大きな真理を握ったとき、目の前の小さな責任がつまらなく見えてくる。
パウロの答えは明快でした。主が来られるからこそ、静かに働きなさい。
言葉遊びが一つ
11節に、原語でしか見えない仕掛けがあります。
あなたがたのうちのある者は怠惰な生活を送り、働かないで、ただいたずらに動きまわっているとのことである。
「働かない」と「いたずらに動きまわる」——この二つは、原語では同じ語根の言葉です。後者は前者に「周りを」という接頭辞がついた形。
無理に日本語にすれば、「仕事はしないが、余計な仕事はしている」となります。
働かない人が、何もしていないわけではない。むしろ忙しく動き回っている。ただし、その動きは自分の務めの周りをぐるぐる回っているだけで、中心には入らない。
パウロの観察は鋭い。そして少し可笑しい。この人は、深刻な問題を扱いながら、言葉で笑わせることのできる人でした。
兄弟として
14節から15節は、この段落で最も大切な部分かもしれません。
そのような人には注意をして、交際しないがよい。彼が自ら恥じるようになるためである。しかし、彼を敵のように思わないで、兄弟として訓戒しなさい。
距離を置きなさい、とパウロは言います。しかしすぐに続けて、敵と思うな、兄弟として扱えと言う。
目的は排除ではなく、回復です。距離を置くのは、関係を切るためではなく、本人が我に返るためです。
厳しさと温かさが、同じ息の中で語られている。どちらか一方だけなら簡単ですが、両方を保つのは難しい。パウロはそれをやってのけます。
自筆の署名
17節、パウロは筆記者から筆を受け取ります。
ここでパウロ自身が、手ずからあいさつを書く。これは、わたしのどの手紙にも書く印である。
なぜわざわざこれを書くのか。背景があります。2章2節でパウロは、「わたしたちから出たという手紙」によって動揺しないように、と警告していました。パウロの名を騙った偽の手紙が出回っていたのです。
だから彼は、自分の筆跡を証明のしるしとして残します。おそらく、それまで代筆者が整った小さな文字で書いてきた紙の末尾に、パウロ自身の大きく癖のある文字が現れたのでしょう(ガラテヤ6章11節に「大きな字」への言及があります)。
二千年前の一枚の紙の上で、筆跡が変わる瞬間。この手紙が実在の人物によって、実在の教会に宛てて書かれたことが、この一行から伝わってきます。
全体の一貫性——場所が語る物語
四つの場所
改めて、それぞれの箇所がどこで語られているかを並べてみます。
申命記11章——ヨルダン川の東側。まだ約束の地に入っていない。
哀歌5章——エルサレムの廃墟。約束の地を失った。
エゼキエル書1章——バビロニアの運河のほとり。約束の地の外。
テサロニケ第二3章——ギリシャの町。異邦人の中で、主の再臨を待っている。
入る前。失った後。外にいるとき。そして待つ日々。
四つの箇所は、それぞれ違う場所に立っています。そして共通しているのは、どの場所にも神がおられたということです。
図解⑤ 四箇所を貫く「場所」の統合図(ヨルダン東岸→エルサレム廃墟→ケバル川→テサロニケ/茶→青グラデーション)
王座に、車輪がついている
エゼキエル1章の幻には、一つ奇妙な点があります。王座に、車輪がついているのです。
地上のどんな王座も動きません。動かないことこそが、王の権威の証だからです。玉座は宮殿の最も奥に据えられ、人がそこへ赴く。
エルサレムの神殿も、そのように理解されていました。至聖所に契約の箱があり、そこに神は臨在される。だから神殿が焼かれたとき、人々は「神は住む場所を失った」と感じたのです。
しかしエゼキエルが見た御座は、動きました。しかも、どの方向へも、回ることなく、まっすぐに。
神の臨在は、建物に固定されていない。
この一点が、捕囚の民を支えました。神殿を失っても、神は共におられる。この理解から、やがてシナゴーグ(会堂)という形が生まれ、ディアスポラのユダヤ人は世界中で聖書を読み続けることになります。
そして時が満ちて、この理解の上に福音が走り出しました。「エルサレムから、ユダヤとサマリヤの全土、そして地の果てまで」(使徒1章8節)。
今、日本語で聖書を読んでいる私たちも、この延長線上にいます。動く御座がなければ、聖書は日本まで来ませんでした。
告白が先で、確認が後
もう一つ、今日の通読が見せてくれた順序があります。
哀歌5章19節。すべてを失った民が、証拠のない場所で「あなたの、み位は世々絶えることがない」と告白しました。
エゼキエル書1章26節。異邦の運河のほとりで、一人の祭司がその王座を見ました。
告白が先で、確認が後です。
見えたから信じるのではなく、信じた後で見せられる。しかも見せられる場所は、期待していた場所ではありませんでした。エルサレムではなく、バビロンでした。
これは、信仰生活の順序そのものだと思います。証拠がそろってから信じるのではない。何も見えない場所で「それでもあなたは王です」と言った後に、思いもよらない場所で御座が見える。
三つの解釈の層——四つの顔をめぐって
ここで、第三部で保留していた話に戻ります。四つの顔についてです。
第一の層は、聖書本文の対応です。
ヨハネの黙示録4章に、御座を囲む四つの生き物が現れます。獅子、雄牛、人の顔を持つもの、飛ぶ鷲。エゼキエル1章と同じ四つです。
ただし違いもあります。エゼキエルの生きものは翼が四つでしたが、黙示録の生き物は六つ。六枚の翼はイザヤ書6章のセラピムの特徴です。また、エゼキエルでは一体が四つの顔を持ちますが、黙示録では一体につき一つの顔です。
そして黙示録の生き物は「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と叫びます。これはイザヤ書6章のセラピムの言葉そのものです。
つまり黙示録4章は、エゼキエル1章とイザヤ書6章という旧約の二つの御座の幻を、一つに重ねた場面です。これは聖書本文同士の明確な繋がりです。
そしてもう一つ。エゼキエルが見た王座には「人の姿のような形」がありました。ヨハネが見た御座の中央には、屠られたような小羊が立っておられました(黙示録5章6節)。
第二の層は、ユダヤ教の解釈です。
第三部で触れた「四つの頂点」——人・獅子・牛・鷲を被造物それぞれの頂点と見る理解。ラビ文献の解釈であって、本文が述べていることではありません。
第三の層は、教会の伝統です。
キリスト教の歴史の中で、この四つの顔は四福音書の象徴として用いられてきました。教会のステンドグラスや古い聖書写本の装飾に、必ずと言っていいほど現れます。
一般に知られている対応はこうです。マタイが人、マルコが獅子、ルカが牛、ヨハネが鷲。
理由づけも整っています。マタイ福音書は人の系図から始まる。マルコ福音書は荒野で叫ぶ声(獅子の声)から始まる。ルカ福音書は祭司ザカリヤが神殿で務める場面から始まる(牛はいけにえの動物)。ヨハネ福音書は「初めに言があった」と天の高みから始まる。
見事な整理です。しかし、ここで正直に記しておきたいことがあります。
この対応は、聖書に書かれていません。
そして興味深いことに、教父たちの間で割り当てが一致していません。この対応を最初に記した二世紀のエイレナイオスは、ヨハネを獅子、マルコを鷲としていました。今日知られている形に整理したのは、四世紀のヒエロニムスです。
もしこの対応が聖書の意図であったなら、初期の教父たちがこれほど食い違うはずがありません。
では無意味かというと、そうではないと思います。四福音書がそれぞれ違う角度からキリストを描いていることを覚えるための、優れた道具です。ただ、聖書の教えとしてではなく、教会の知恵として受け取りたい。
層を見分ける、ということ
今日、四つの顔をめぐって三つの層を並べました。聖書本文が言っていること。ユダヤ教の解釈。教会の伝統。
この三つを区別する目は、聖書を独りで読み続けるために欠かせないものだと思います。
区別することは、伝統を軽んじることではありません。むしろ逆です。どこまでが本文で、どこからが解釈かを知っている人は、解釈を安心して味わうことができます。混ざったままだと、解釈が崩れたときに本文まで一緒に崩れてしまう。
エゼキエル書は、これからさらに難解になっていきます。解釈の分かれる箇所が次々に現れます。だからこそ、最初の章で、この読み方の姿勢を確認しておきたいと思いました。
今日、あなたの前に置かれているもの
最後に、第一部に戻ります。
見よ、わたしは、きょう、あなたがたの前に祝福と、のろいとを置く。
この言葉が語られたとき、民はまだ地に入っていませんでした。
哀歌の民は、この言葉に背を向けた結果を生きていました。
エゼキエルは、その結果の只中で、動く御座を見ました。
テサロニケの信徒たちは、その御座に着いておられる方の再臨を待ちながら、静かに働くよう命じられました。
そして「きょう」は、まだ続いています。分詞の形で語られた「置く」は、今も進行中です。祝福とのろいは、過去の記録ではなく、今日のテーブルの上にあります。
御座は動きます。神殿になければならない、という制限はありません。福井の朝の食卓にも、通勤電車の中にも、その御座は届きます。
そして今日も、こう言われています。
見よ。
語彙表
ヘブライ語
| 原語 | カタカナ発音 | 意味 |
| רְאֵה | レエー | 見よ(男性単数への命令) |
| נֹתֵן | ノテーン | 置きつつある(分詞形。辞書形はナタン=与える、置く) |
| בְּרָכָה | ベラハー | 祝福 |
| קְלָלָה | ケララー | のろい、呪い(語根は「軽くする、軽んじる」) |
| זָכַר | ザハル | 覚える、思い出す |
| כִּסֵּא | キッセー | 王座、玉座、み座 |
| שׁוּב | シューヴ | 帰る、戻る、立ち返る |
| רָקִיעַ | ラキーア | 大空、天空(創世記1章と同じ語) |
| כָּבוֹד | カヴォード | 栄光、誉れ、重み |
ギリシャ語
| 原語 | カタカナ発音 | 意味 |
| τρέχω | トレコー | 走る(本文では、み言葉が速やかに広まる) |
| ἐργάζομαι | エルガゾマイ | 働く、仕事をする |
| περιεργάζομαι | ペリエルガゾマイ | 余計なことに関わる、おせっかいをする |
| ἀτάκτως | アタクトース | 秩序を外れて、規律を乱して、怠惰に |
聖書引用:口語訳聖書(1954年/1955年)

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