—エレミヤの石が黙示録で投げられるまで—
焼かれた巻物と、沈められた巻物。どちらも失われたはずなのに、なぜ私たちは今、その中身を読めるのでしょうか。バビロンの川底に消えた言葉が、七百年後にパトモス島でもう一度投げられるまで——三つの通読箇所を貫く一本の糸を、順に辿ってみたいと思います。
※本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。
【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。

【第一部:トーラー】申命記10章——砕かれた板の、二枚目
※この第一部だけで、「砕けた後の回復には人の手も使われるが、そこに刻むのは神である」という今日の中心メッセージが示されます。
二度目の板を、誰が切り出したのか
申命記10章は、静かな一行から始まります。
「その時、主はわたしに言われた、『おまえは、前のような石の板二枚を切って作り、山に登って、わたしのもとにきなさい』」(10:1)
読み飛ばしそうな命令ですが、一枚目の板と比べると、決定的な違いが浮かび上がります。
一枚目の板は、こう記されていました。
「その板は神の作られたもの、その文字は神が書かれたもの」(出エジプト記32:16)
石も神、文字も神。人間は何一つ関与していません。ところが二枚目は違う。モーセが石を切り出し、それを担いで山を登るのです。神は文字だけを書かれる。
ここに、聖書全体を貫く回復の原理が現れています。砕けた後の回復には、人の手が使われる。しかし、そこに何を刻むかを決めるのは、依然として神である。
金の子牛の事件で板を砕いたのは、モーセ自身でした(出エジプト記32:19)。彼は自分が砕いたものを、自分の手で切り直さなければならなかった。神は代わりに用意してくださらなかった。かといって、書くことまでモーセに委ねられたわけでもない。回復の作業には参加させられ、しかし内容には手を触れさせない。この距離感が、恵みの本質を示しているように思います。
もう一点、注目したいのは、同じ言葉が書かれたということです。
「主はかつて、かの集会の日に山で火の中からあなたがたに告げられた十誡を書きしるされたように、その板に書きしるし」(10:4)
内容は変わっていません。民が偶像を造ったからといって、要求水準が下がったわけではない。神は妥協された記録を残さなかった。赦しとは、基準を下げることではない——ここは静かに、しかし厳しく響きます。
木の箱という、小さな謎
3節に、注意深い読者ならつまずく記述があります。
「そこでわたしはアカシヤ材の箱一つを作り」
契約の箱を作ったのは、幕屋の職人ベツァルエルだったはずです(出エジプト記37:1)。しかもそれは金で覆われた壮麗なもので、ここに書かれている素朴な木箱とは印象が違います。
この食い違いについて、ユダヤの伝承では古くから二つの読み方がありました。ひとつは、箱は二つあったとする理解——モーセが作った簡素な木箱と、幕屋に安置された契約の箱は別物だ、という説です。もうひとつは、申命記は説教であって年代記ではない、という理解。
申命記全体が、モーセがヨルダン川の東岸で語った回顧の説教です。説教は、細部の時系列より、聞き手に届けるべき流れを優先します。ここでも「板を受け取り、それを収める場所が備えられた」という一つのまとまりとして語られている——そう読むほうが自然でしょう。
いずれにせよ、強調点は箱の作り手ではありません。「今なおその中にある」(10:5)という一句です。四十年経った今も、あの板はそこにある。砕かれた歴史も、書き直された歴史も、全部含めて、契約は生きている。
主が求められる、ただ一つのこと
12節から、この章の心臓部が始まります。
「イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求められる事はなんであるか。ただこれだけである」
「なんであるか」——ここは、ヘブライ語ではマーという短い言葉です。「何」という、ごくありふれた疑問詞にすぎません。
ところがこの一語は、後のユダヤ人の魂を捉え続けました。ラビの伝統では、マーの母音をわずかに変えてメア——「百」——と読み替え、「主があなたに求めるのは百のことである」と解釈するミドラシュが伝えられています。そこから、一日に百の祝福の祈りを唱えるという習慣が語られてきました。
これは本文の本来の意味とは区別すべき読み方ですが、こうした解釈が生まれたこと自体が興味深いところです。「主は私に何を求めておられるのか」という問いが、それほど切実に問われ続けてきた証拠だからです。
そして12〜13節に挙げられる答えは、驚くほど簡潔です。恐れること。歩むこと。愛すること。心をつくし精神をつくして仕えること。命令と定めを守ること。
一見、「ただこれだけ」とは言いがたい要求に見えます。しかし14節以降を読むと、順序が逆であることに気づきます。
「見よ、天と、もろもろの天の天、および地と、地にあるものとはみな、あなたの神、主のものである。そうであるのに、主はただあなたの先祖たちを喜び愛し」(10:14-15)
全宇宙を所有しておられる方が、この小さな民を選ばれた。要求が先にあるのではなく、選びが先にある。「そうであるのに」という接続が、恵みの理不尽さをそのまま伝えています。
心を覆っているものを、切り取れ
そして16節。
「それゆえ、あなたがたは心に割礼をおこない、もはや強情であってはならない」
「割礼をおこなう」——ここで使われている動詞は、カタカナで書けばムール、意味は「切り取る」「切り落とす」です。覆っているものを取り除くこと。
肉体の割礼は、アブラハム以来、契約のしるしとして行われてきました。しかしモーセはここで、しるしそのものを心に転移させるのです。外側の儀式は済んでいる。問題は、心を覆っている膜のほうだ、と。
続く「強情」も具体的な表現です。もとの言葉はうなじを固くするという意味です。首にくびきをかけられた牛が、首を突っ張って抵抗する姿を思わせる表現と言われます。神の手が首に触れているのに、頑なに向きを変えない。
さて、ここで一つ重大なことが起こります。
16節は、命令です。「あなたがたが、心に割礼をおこなえ」。
ところが同じ申命記の中で、モーセは同じ表現をもう一度使い、そのとき主語をすっかり入れ替えるのです。
「あなたの神、主はあなたの心とあなたの子孫の心に割礼を施し、あなたをして、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主を愛させ、こうしてあなたに命を得させられるであろう」(申命記30:6)
命令が、約束に変わっている。
モーセは、この命令を人間が果たせるとは考えていなかった、と読むほかありません。十戒を砕いた民を四十年見てきた人です。心の膜を自分で切り取れる者などいない。だから彼は、命じた上で、その命令を神ご自身が引き受けてくださる日を語った。
この構造——命令が先にあり、その後に「神ご自身がしてくださる」が来る——は、今日の第三部(テサロニケ人への第一の手紙5章)でパウロがまったく同じ形で繰り返します。三千年以上を隔てて、二人が同じ順路を通っている。
記憶が、倫理になる
17節以降には、この章のもう一つの顔が現れます。
「あなたがたの神である主は、神の神、主の主、大いにして力ある恐るべき神にましまし、人をかたより見ず、また、まいないを取らず」(10:17)
「かたより見ず」——直訳すれば「顔を上げない」となります。ひれ伏した者の顔を上げさせ、好意を示す——そうした所作を思わせる慣用句で、身分や賄賂によって扱いを変えないことを意味します。神は、誰の顔も上げない。
そしてこの絶対的な超越者が、次に何をされるかというと——
「みなし子とやもめのために正しいさばきを行い、また寄留の他国人を愛して、食物と着物を与えられる」(10:18)
万物の所有者が、社会の底辺にいる三種類の人々の側に立っておられる。この落差が、聖書の神の特徴です。
続く命令が、心に刺さります。
「それゆえ、あなたがたは寄留の他国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で寄留の他国人であった」(10:19)
理由が「神がそう命じたから」ではなく、「あなたがそうだったから」なのです。申命記が繰り返し用いる論法で、記憶がそのまま倫理の根拠になる。自分が寄る辺なかった日を忘れた民は、寄る辺ない者を踏みにじる。だから覚えよ、と。
そして章は、こう閉じられます。
「あなたの先祖たちは、わずか七十人でエジプトに下ったが、いま、あなたの神、主はあなたを天の星のように多くされた」(10:22)
七十人。数えられる数です。それが今、数えきれない。アブラハムに与えられた「天の星のように」という約束(創世記15:5)が、ここで一度、成就として確認されています。
砕かれた板が書き直されたように、絶えかけた家族も星の数にされた。神が回復されるとき、元通りになるだけでは終わらない——今日の第二部で、焼かれた巻物がもっと多くの言葉を加えて書き直される場面を見ることになります。
申命記10章において、神のことばは「砕かれても、同じ内容で書き直される」という形で示されました。
そして人間には、自分で自分の心の膜を切り取ることができない。だからこそモーセは、命じた後に、神ご自身が施される日を語ったのです。
この時点で、私たちはすでに知っています。回復の物語には、必ず神の手が最後に置かれるということを。
🔷【図解①】一枚目の板/二枚目の板の対比+「命令→約束」の矢印
【第二部:旧約】エレミヤ書50〜52章——焼かれた巻物、沈められた巻物
※第二部は、神のことばが物として滅ぼされても消えないことを、歴史の中で確認する箇所です。時間のない方は読み飛ばしても差し支えありません。
二つの「鎚」——道具として用いられた者が、砕かれる
エレミヤ書の46章から51章までは、諸国民への預言がまとめられています。エジプト、ペリシテ、モアブ、アンモン、エドム、ダマスコ、ケダル、エラム——次々と裁きが宣告され、その最後に、二章分をまるごと使ってバビロンが置かれます。分量そのものが、この帝国の位置を語っています。
50〜51章の骨格は、二つの節を並べると見えてきます。
「おまえはわたしの鎚であり、戦いの武器である。わたしはおまえをもってすべての国を砕き、おまえをもって万国を滅ぼす」(51:20)
「ああ、全地を砕いた鎚はついに折れ砕ける」(50:23)
日本語ではどちらも「鎚」ですが、原語では別の単語が使われています。
51章20節の「鎚」は、カタカナで示すとマペーツ——「打ち砕くもの」を意味する語で、旧約聖書ではこの一箇所にしか現れません。文脈から見て、戦場で敵を粉砕する武器を指しています。
一方、50章23節の「鎚」はパッティーシュ——こちらは鍛冶屋が金属を打つ、工房のハンマーです。
つまりエレミヤは、二つの異なる道具の像を使い分けています。バビロンは、神が振るう武器であり、同時に、鍛冶場で鉄を打ち続けたハンマーでもあった。そして今度は、そのハンマー自身が炉にかけられ、折れ砕ける。
強調点は語の一致ではなく、立場の逆転です。打つ側にいた者が、打たれる側へ移される。
バビロンがユダを打ったのは、バビロンの強さではなく、神の意志によるものでした。ところがその道具が、自分を道具だと思わなかった。
「彼がイスラエルの聖者である主に向かって高慢にふるまったからだ」(50:29)
これは、イザヤ書10章でアッシリアに向けられた論理とまったく同じです。斧が、それを振るう者に向かって自分を誇る。振り上げられている間、斧は自分の力で木が倒れていると思い込む。
ここで見過ごしたくない一節があります。
「これに会う者はみなこれを食べた。その敵は言った、『われわれに罪はない。彼らがそのまことのすみかである主、先祖たちの希望であった主に対して罪を犯したのだ』と」(50:7)
敵の言い分は、事実としては正しいのです。ユダは確かに罪を犯した。神ご自身がそう宣告してこられた。ところが、その正しい事実を口実にして暴虐を働いた者が、ここで裁かれています。
神の裁きを執行する側に立ったつもりでいる者への警告として、この一節は今も生きていると感じます。相手の非が事実であることは、こちらの残酷さを正当化しません。
もう一点、50章2節の名指しに注目してください。
「『バビロンは取られ、ベルははずかしめられ、メロダクは砕かれ、その像ははずかしめられ、その偶像は砕かれる』と」
「ベル」は「主」を意味する称号、「メロダク」はバビロンの主神マルドゥクの名です。古代世界では、都市の陥落はその都市の神々の敗北を意味しました。エレミヤはわざわざ神々の名を挙げる。戦いは軍隊同士のものではなく、神々の間のものだという理解が、ここに前提されています。
絶頂期のバビロンで、一人の役人が
51章の終わり、59節から64節に、ほとんど劇的とも言える場面が置かれています。
まず時期を確認してください。
「マアセヤの子であるネリヤの子セラヤが、ユダの王ゼデキヤと共に、その治世の四年にバビロンへ行くとき」(51:59)
ゼデキヤ治世の第四年——紀元前594年頃です。エルサレム陥落の七年前。この時点でネブカデネザルは無敵であり、ユダは属国にすぎません。しかもゼデキヤは、わざわざバビロンまで出向いている。おそらく反逆の噂を打ち消し、忠誠を証明するための旅でした。
その屈辱的な随行員の一人が、セラヤという人物です。役職は「宿営の長」。原語をカタカナで示すとサル・メヌハー、直訳すれば「休息の長」となります。旅程を組み、どこに宿営するかを決める役人。今でいう随行の総務責任者にあたるでしょう。
なお、このメヌハーという語は、詩篇23篇2節の「いこいのみぎわ」——羊が安らかに休む水辺——と同じ語根から来ています。旅人に休息の場所を用意する役目の人が、休息のない任務を託されたことになります。
そしてこのセラヤ、父の名がネリヤです。
エレミヤの書記バルクもまた、「ネリヤの子」と記されています(エレミヤ32:12)。つまり二人は兄弟でした。ここに、後で見るように、深い意味が宿ります。
エレミヤがセラヤに命じたのは、次の四つでした。
第一に、書くこと。
「エレミヤはバビロンに臨もうとするすべての災を巻物にしるした。これはすなわちバビロンの事についてしるしたすべての言葉である」(51:60)
第二に、読むこと。
「あなたはバビロンへ行ったならば、忘れることなくこのすべての言葉を読み」(51:61)
第三に、宣言すること。
「主よ、あなたはこの所を滅ぼし、人と獣とを問わず、すべてここに住む者のないようにし、永久にここを荒れ地としようと、この所について語られました」(51:62)
第四に、沈めること。
「あなたがこの巻物を読み終ったならば、これに石をむすびつけてユフラテ川の中に投げこみ、そして言いなさい、『バビロンはこのように沈んで、二度と上がってこない。わたしがこれに災を下すからである』と」(51:63-64)
帝国の首都のただ中で、その帝国の滅亡を朗読する。見つかれば命はありません。しかもエレミヤ自身は、その場にいないのです。セラヤが実際に読み上げたのか、投げ込んだのか、聖書は一言も記していません。
沈められたのは、石ではない
ここは慎重に読みたいところです。
川に沈んだのは、石ではありません。巻物です。
石は錘(おもり)にすぎない。水底へ落ちていくのは、バビロンに臨む災いを記した言葉そのものです。そしてエレミヤの論理は、こう組み立てられています。
言葉が沈んだから、都が沈む。
順番が逆なのです。都が沈んだから記録されるのではなく、言葉が先に沈み、後から現実がそれに追いつく。紀元前594年のある日、バビロンの未来は、すでにユーフラテスの川底に横たわっていました。
投げ込まれた川がユーフラテスであったことも、偶然ではありません。この大河こそが、バビロンの繁栄そのものを支えていました。運河が引かれ、農地が潤い、船が行き交う。この都に富をもたらした水が、この都の判決文を呑み込む。
エレミヤは、言葉だけでなく体と物で語る預言者でした。亜麻布の帯をユーフラテスのほとりに埋めて腐らせ(13章)、陶器の壺を谷で砕き(19章)、木のくびきを首に負って歩く(27章)。
これらに共通するのは、物が必ず失われるという点です。帯は腐り、壺は砕け、くびきは折られ、巻物は沈む。物が失われることこそ、預言の完成形なのです。帯が腐らなければ腐敗は語られず、壺が砕けなければ破滅は語られない。巻物が沈まなければ、バビロンの沈没は語られない。
では、なぜ私たちはこの巻物の中身を読めるのか
ここで、当然の疑問が生まれます。沈めたのなら、失われたはずです。なぜバビロンへの預言が、今も聖書の中に残っているのでしょうか。
答えは、60節の一句にあります。「バビロンの事についてしるしたすべての言葉」——沈められたのはエレミヤ書全体ではなく、バビロンに関する預言だけを抜き出して、この目的のために新しく書かれた一巻でした。
現代でいえば、判決文の謄本のようなものです。原本は残り、写しが執行のために持ち出される。エレミヤの手元にも、バルクの手元にも、言葉は残っていました。
そしてエレミヤ書には、この主題の前例が既にあります。
36章。エホヤキム王が、エレミヤの巻物を小刀で切り裂き、火鉢の火にくべた場面です。すべて燃え尽きました。ところが——
「エレミヤはほかの巻物を取って、これをネリヤの子書記バルクに与えた。バルクはエレミヤの口述にしたがって、ユダの王エホヤキムが火で焼いた書物のすべての言葉をそれにしるした。なおそのほかに、これに似た言葉を多く加えた」(36:32)
焼かれた巻物は、書き直され、しかも増えました。
エレミヤ書は、この主題を二度、異なる元素で繰り返しています。火に焼かれた巻物(36章)——書き直され、内容が増える。水に沈められた巻物(51章)——沈んでも、言葉は残る。
火も水も、巻物という物を滅ぼすことはできます。しかし言葉は滅ぼせない。エレミヤ書は、それを二度にわたって実証しているのです。
そしてもう一つ。この二つの場面には、どちらもネリヤの家の兄弟が関わっています。焼かれた巻物を書き直したのがバルク。沈めた巻物を運んだのがセラヤ。書物を失う経験を、この一家が二度引き受けている。兄が言葉の入口に立ち、弟が出口に立つ——あるいはその逆かもしれませんが——同じ家から出た二人が、巻物を受け渡しています。
さらに深く読むなら、この行為を記録した文書は、川に沈んでいないという事実があります。
消滅の記録は、消滅しなかった。
誰かが座って書き留めたのです。「セラヤは巻物に石を結んでユーフラテスに投げ込んだ」と。だから七百年後の読者が、それを読める。
51章の末尾に置かれた「ここまではエレミヤの言葉である」という一句も、編集者の手による注記です。誰かがエレミヤの言葉を集め、順序を決め、区切りを入れた。おそらくバルク、あるいはその系統の書記たちでしょう。巻物を沈めた家系が、巻物を保存した家系でもあったわけです。
バビロンの都のただ中で、バビロン滅亡の書が読まれていた
ここで、年代を並べてみてください。
紀元前605年——第一次捕囚。ダニエルがバビロンへ連行される。
紀元前594年——セラヤがバビロンで巻物を沈める。
紀元前586年——エルサレム陥落、神殿炎上。
紀元前539年頃——ダニエルがエレミヤの書を読む。
お気づきでしょうか。セラヤがバビロンに到着したとき、ダニエルはすでにその町にいました。
十一年前に連れて来られ、王宮で高官として仕えていた。年齢はおそらく二十代後半です。同じ都、同じ時期。エルサレムから来た王の使節団が、バビロンの宮廷に滞在する——その宮廷には、エルサレム出身の若きユダヤ人がいる。二人が顔を合わせたかどうか、聖書は何も語りません。断定はできません。ただ、その可能性を思うだけで、この場面の質感が変わってきます。
そして五十年以上たって、白髪になったダニエルが書物を広げます。
「わたしダニエルは書によって、主が預言者エレミヤに臨んだ言葉を悟った。すなわちエルサレムの荒廃が終るまでに七十年を経なければならないということである」(ダニエル書9:2)
「書によって」——ここは原語をカタカナで示すとバ・セファリーム、「諸書によって」という複数形です。ダニエルの手元には、エレミヤの言葉が書物として存在していました。
バビロンの滅亡を宣告した書が、バビロンの都のただ中で読まれていた。しかもそれが成就しようとしている、まさにその年に。
そしてダニエルは、そこから9章の壮絶な悔い改めの祈りへと進みます。書を読んで彼が最初にしたのは、バビロンの滅亡を喜ぶことではなく、自分の民の罪を告白することでした。沈められた言葉は、七十年後に一人の老人を悔い改めへ導いたのです。
「ここまではエレミヤの言葉である」——では52章は誰の言葉か
51章64節の最後に置かれたこの一句は、地味ですが重大です。52章はエレミヤの言葉ではない、と本文自身が宣言しているからです。
52章は、列王記下24〜25章とほぼ並行する記事で、付録として置かれています。なぜ付けられたのでしょうか。
理由の一つは、預言の検証でしょう。五十年語り続けて誰にも信じられなかった男の言葉が、その通りになったという記録。エレミヤの生涯は、外れた預言者と罵られ、井戸に投げ込まれ、裏切り者と呼ばれ続けた生涯でした。52章は、その全部に対する静かな返答です。
ゼデキヤの最期は、読むのがつらい箇所です。
「バビロンの王はゼデキヤの子たちをその目の前で殺させ……またゼデキヤの目をつぶさせた」(52:10-11)
彼が最後に見たものが、息子たちの死でした。そこで視力が奪われる。神殿は焼かれ、青銅の柱は砕かれて運び去られ、祭司長は処刑される。すべてが終わりました。
ところが、52章はそこで終わりません。
父と子——エホヤキムとエホヤキン
ここで、名前が一字違いの二人の王を整理しておきましょう。混同されやすいのですが、この二人の運命の対比こそが、エレミヤ書の主題を凝縮しています。
エホヤキム——巻物を焼いた王。エホヤキンの父です。
エホヤキン——三か月で連行され、三十七年後に牢から出された王。エホヤキムの子です。
日本語では「ム」と「ン」の一字違いですが、聖書における位置は正反対です。
巻物を焼いた王の、最期
エホヤキムは、エレミヤ書36章に登場する王です。冬の家で火鉢に当たりながら、書記が朗読するエレミヤの巻物を、三、四欄読み終わるごとに小刀で切り取り、火にくべ続けました。
「王とその家来たちはこのすべての言葉を聞いても恐れず、またその着物を裂くこともしなかった」(エレミヤ36:24)
祖父ヨシヤは、律法の書が発見されたとき衣を裂いて悔い改めました(列王記下22:11)。孫は、同じ神の言葉を火にくべて平然としています。わずか二代でここまで変わるという記録です。
この王に対して、エレミヤは二つの宣告を下しました。
第一に、埋葬されないこと。
「彼はろばが埋められるように埋められる。すなわち引かれて行って、エルサレムの門の外に投げすてられる」(エレミヤ22:19)
「彼の死体は投げすてられて、昼は暑さにあい、夜は霜にあう」(エレミヤ36:30)
古代において、埋葬されないことは最大級の恥辱でした。王家の墓に葬られることは、王の尊厳そのものです。ろばの死骸のように市外へ投げ捨てられる——「巻物を焼いた王には、自分の墓さえ与えられない」という宣告でした。
第二に、王座への道が閉ざされること。
「彼にはダビデの位に座する者がなくなる」(エレミヤ36:30)
これは「子孫が死に絶える」という意味ではありません。「この人の系統から、ダビデの王座に座る者は出ない」という宣告です。
実際、聖書はエホヤキムの死の状況を明記していません。列王記下24章6節は「エホヤキムは先祖たちと共に眠り」という定型表現で済ませ、歴代誌下36章6節はネブカデネザルが青銅の足かせにつないでバビロンへ引いて行こうとしたと記すのみで、連行が完了したとは書かれていない。どこでどう死んだのか、誰も記録しなかった。この記録の沈黙そのものが、宣告の成就に見えます。
三か月の王
父の死後、十八歳のエホヤキンが即位しました。在位は三か月と十日(歴代誌下36:9)。
その短い在位のうちにバビロン軍がエルサレムを包囲し、彼は母と家来たちを連れて降伏します。神殿の宝物は運び出され、王とその家族、職人たちがバビロンへ連行されました。これが第二次捕囚(紀元前597年)、預言者エゼキエルが連れて行かれたのもこの時です。
そして注目すべきことに、次にユダの王位に就いたのは、エホヤキンの子ではありませんでした。叔父のゼデキヤです。今日読んだ52章1節が、その人物の紹介から始まっています。母の名がハムタル、リブナのエレミヤの娘——エホヤキンの母ネフシタ(列王記下24:8)とは別人です。
エホヤキムの系統から、王座に座る者は出なかった。エレミヤの宣告は、静かに成就していました。
「子なき者と記録せよ」
エホヤキン本人にも、エレミヤは厳しい言葉を残しています。エレミヤ書22章で、彼は「コニヤ」という短縮形で呼ばれています。
「この人を、子なき者、その一生のうちに栄えない人と記録せよ。その子孫のうちのひとりも栄えて、ダビデの位に座し、ユダを治めることはない」(エレミヤ22:30)
ここでも「子なき者」は、生物学的に子がないという意味ではありません。実際、彼には息子たちがいました。これは王として数えるなという、記録上の宣告です。
つまり、父にも子にも、王座への扉は閉ざされた。エレミヤ書を通読してきた読者は、この一族に希望がないことを、はっきり知らされています。
それでも、系図に名が残る
ところが——マタイによる福音書の第一章を開くと、そこに彼の名があります。
「バビロンに移されたのち、エコニヤはサラテルを生み」(マタイ1:12)
エコニヤ、コニヤ、エホヤキン——すべて同一人物です。ヘブライ語の名前が、語順や短縮によって形を変えたものです。
ダビデの王座には二度と座らないと宣告された人が、イエス・キリストの系図に入っている。
ここに、聖書の緻密さが現れます。
マタイの系図は、ヨセフの系図です。ヨセフはエホヤキンの子孫であり、法的にダビデの家に属します。ダビデ契約の相続権は、この系統にある。ところがエレミヤの宣告により、この系統から王は出ない。
血の糸は繋がった。しかし王座への道は閉ざされた。
そして、イエスの誕生の仕方が、ここで決定的な意味を持ちます。
イエスはヨセフから生まれたのではありません。処女降誕により、エホヤキンの血を受け継がずに、ヨセフの法的な子として系図に入られた。ダビデの家の相続権を受け継ぎ、しかしエホヤキンへの宣告は受け継がない。
ルカによる福音書3章の系図が、マタイとは異なる経路をたどっていることも、この文脈でしばしば議論されます。ルカの系図をマリヤの系図と読む立場を取るなら、血統としてはソロモンではなくダビデの別の子ナタンを経由することになり、エホヤキンの系統を通りません。ここは解釈の分かれる箇所ですので断定は控えますが、少なくとも一つ確かなことがあります。
エレミヤの宣告は取り消されず、それでいてダビデ契約は成就した。
神はご自身の語った言葉を曲げずに、ご自身の約束を果たされました。「王座に座る者は出ない」という宣告も本当であり、「あなたの家と王国とは、わたしの前に永遠に続くであろう」(サムエル記下7:16)というダビデへの約束も本当である。両方を成り立たせる道が、処女降誕でした。
一字違いの、二つの運命
整理すると、こうなります。
エホヤキム(父)——神の言葉を火にくべた。埋葬されず、その系統から王座に座る者は出ない。死の記録すら残されなかった。
エホヤキン(子)——三か月で連行された。三十七年間を牢で過ごし、王座に座らないと宣告されながら、キリストの系図に名を残した。
父は言葉を焼き、子は牢から出されて食卓に着きました。
そしてもう一つ、対比があります。エホヤキムが焼いた巻物は、書き直されて残りました(エレミヤ36:32)。焼いた王の名は死の記録さえなく、焼かれた言葉のほうが生き延びている。
エレミヤ書36章と52章は、そういう対をなしています。火にくべられた側が残り、火にくべた側が消えた。
バビロンの王の食卓
書の最後の四節が、この長大な預言書の結びです。
「ユダの王エホヤキンが捕え移されて後三十七年の十二月二十五日に、バビロンの王エビルメロダクはその即位の年に、ユダの王エホヤキンを獄屋から出し、そのこうべを挙げさせ、親切に彼を慰め、その位を、バビロンで共にいる王たちの位よりも高くした。こうしてエホヤキンは獄屋の服を脱いだ。そして生きている間は毎日王の食卓で食事し」(52:31-33)
三十七年間、牢にいた男が出されます。
領土はありません。王権もありません。軍隊も、神殿も、国もない。彼にあるのは、獄屋の服を脱いだという事実と、毎日、王の食卓に着いているという事実だけです。
しかし——ダビデの家系は、そこで途切れなかった。
エレミヤ書が最後に記録したのは、バビロン滅亡の預言でも、エルサレムの惨状でもなく、バビロンの王の食卓に着いている、名ばかりの王でした。
神殿が焼け落ちる音の中で、誰も気づかないほど細い糸が、獄屋から食卓へと繋がれていました。エレミヤは、そこまでは見届けていません。彼の生涯は、望まぬエジプトへ連れ去られて終わります。それでも彼の書物は、絶望の記録を絶望では終わらせませんでした。
焼かれた巻物は書き直され、沈められた巻物は記録として残り、断たれたはずの王家は食卓に生きていた。
失われたように見えるものの下で、神は糸を保っておられます。
🔷【図解②】焼かれた巻物/沈められた巻物/残った言葉——三段の流れ図
🔷【図解③】年表(BC605→594→586→539、ダニエルとセラヤが同じ町にいた時期)
【第三部:新約】テサロニケ人への第一の手紙5章——主語が入れ替わる場所
※第三部では、旧約で示されてきた「命じたかたが、してくださる」という形が、キリストにおいてどう完成しているかを見ます。
盗人のように来る日
パウロは、時期の詮索をあっさり退けるところから始めます。
「兄弟たちよ。その時期と場合とについては、書きおくる必要はない。あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る」(5:1-2)
「よく知っているとおり」——つまりこれは、すでに教えられていた内容です。そしてこの譬えは、パウロの創作ではありません。
「もし家の主人が、盗人がいつごろ来るかわかっていたなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう」(マタイによる福音書24:43)
イエスご自身の言葉が、そのまま初代教会に伝わり、パウロの手紙に反響しています。福音書が書かれるより前の手紙に、イエスの譬えが生きた形で残っている——初期の教会が何を語り継いでいたかが見える箇所です。
そして3節に、政治的な棘があります。
「人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る」
「平和だ無事だ」——原語をカタカナで示すとエイレーネー・カイ・アスファレイアです。エイレーネーが「平和」、アスファレイアが「安全」「揺るがないこと」。後者は「つまずく」という語に否定の接頭辞がついた形で、「つまずかされない状態」を指します。
この二語の組み合わせは、当時のローマ帝国が誇っていた統治理念——皇帝がもたらした秩序、街道の安全、海賊のいない海——を思わせる表現です。テサロニケは、ローマの属州マケドニアの首都でした。読者はその繁栄の只中で暮らしていたはずです。
パウロは、帝国が自らを讃えるその言葉を、滅びの前触れとして置きました。
ここに、今日の第二部と同じ構図があります。バビロンは自らの永続を誇り、ローマは平和と安全を掲げた。帝国が自らの揺るがなさを語る言葉こそが、その終わりの合図になる。
「産みの苦しみ」も見逃せません。ここで使われている語はオーディン、陣痛のことです。後のユダヤ教では、メシアの到来に先立つ苦難を「メシアの陣痛」と呼ぶようになります。この呼び名がパウロの時代に定着していたかは確かめようがありませんが、少なくとも陣痛という比喩の選択自体に、慰めが含まれています。陣痛は、避けられず、逃れられず、しかし死ではなく誕生に向かっている苦しみだからです。
すでに、光の中に置かれている者として
4節から、パウロの語り口が変わります。
「しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである」(5:4-5)
ここは命令ではなく、事実の宣言です。「光の子になりなさい」ではなく「あなたがたは光の子である」。
そしてこの表現は、当時のユダヤ世界で実際に使われていた言い回しでした。死海のほとりで発見された文書群には「光の子ら」と「闇の子ら」という対比が繰り返し登場します。終わりの日に両者が戦うという構図が、当時のユダヤ人の想像力の中にあった。
パウロはその語彙を用いつつ、決定的に向きを変えています。光の子とは、闘って勝ち取る身分ではなく、すでに与えられている身分なのだ、と。
ここで今日の通読が繋がります。エレミヤは「バビロンのうちからのがれ出て、おのおのその命を救え」(51:6)、「わが民よ、あなたがたはその中から出て」(51:45)と叫びました。テサロニケの信徒たちに向けては、パウロは「出よ」とは言いません。もう出ていると言うのです。
エジプトから出た民(申命記10:19)、バビロンから出よと呼ばれた民(エレミヤ51:45)、そしてすでに光の中にいる者たち。脱出の主題が、ここで完了形になっています。
8節の武具は、イザヤ書59章17節が下敷きです。
「信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう」
イザヤでは、この武具を身につけているのは神ご自身でした。神が正義を胸当てとし、救いを頭のかぶととして立ち上がられる。その神の装備が、信じる者に貸し与えられている。
しかもここでは、信仰・愛・望みという三つ組が使われています。この三つ組は、この手紙の冒頭(1:3)にも置かれており、後にコリント人への第一の手紙13章で有名になる組み合わせです。防具であって、武器ではないことにも注意したいところです。パウロは、目を覚ましている者に剣を持たせていません。
そして9節。
「神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである」
第二部で見たバビロンへの怒り、ユダへの裁き——それを踏まえてこの一節を読むと、重みが違ってきます。怒りが実在するからこそ、「怒りにあわせるためではない」という言葉が意味を持つのです。
命令が、連打される
12節から、短い命令が矢継ぎ早に並びます。
指導する者を重んじよ。互に平和に過ごせ。怠惰な者を戒めよ。小心な者を励ませ。弱い者を助けよ。すべての人に寛容であれ。悪をもって悪に報いるな。いつも善を追い求めよ。
そして16節から、有名な三連が来ます。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである」(5:16-18)
ギリシャ語では、それぞれの副詞が印象的です。「いつも」はパントテ、「絶えず」はアディアレイプトース——「間を空けずに」「途切れなく」という意味の語です。「すべての事について」はエン・パンティ。
例外を許さない言い方が三つ続きます。
さらに続きます。
「御霊を消してはいけない。預言を軽んじてはならない。すべてのものを識別して、良いものを守り、あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい」(5:19-22)
「消してはいけない」——ここで使われている動詞はスベンヌミ、火を消すことを指す語です。水をかけて消す、覆って消す。御霊は火にたとえられており、それを人間が消すことがありうる、という前提でパウロは語っています。
今日の第二部を読んできた者には、この「火」が別の響きを持ちます。エホヤキム王は、神の言葉を記した巻物を火にくべて焼きました。神の言葉を火で消そうとした王がいた一方で、ここでは御霊の火を消すなと命じられている。同じ火が、片方では消す道具であり、片方では消されてはならないものとして現れます。
さて、この12節から22節までを通して読むと、どうなるでしょうか。
読めば読むほど、できていない自分のリストになります。
いつも喜んでいるだろうか。絶えず祈っているだろうか。悪をもって悪に報いていないだろうか。御霊を消していないだろうか。正直に自分を検めれば、一つとして胸を張れるものがない。
そして、主語が入れ替わる
ここが、この章のすべてが向かっていた場所です。
「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう」(5:23-24)
命令の連打の直後に置かれているのは、「頑張れ」でも「努力せよ」でもなく、祈りです。
そして主語が、完全に入れ替わっています。22節までは「あなたがたが」でした。23節から「神ご自身が」になる。
そして23節には、「全き」を表す語が二つ並んでいます。
「全くきよめて下さるように」の「全く」は、カタカナで示すとホロテレース。「ホロス(全体)」と「テロス(終わり・目標)」が合わさった語で、「全体が目標に達した状態」を意味します。新約聖書では、ここ一箇所にしか現れません。
「完全に守って」のほうはホロクレーロン。こちらは「ホロス(全体)」と「クレーロス(分け前・割り当て)」からなり、「部分が一つも欠けていない」ことを指します。
二つは、似ているようで方向が違います。ホロテレースは、完成へ向かう言葉です。まだ途上にあるものが、目標に到達する。ホロクレーロンは、欠けがないという言葉です。あるべきものが、一つも失われていない。
パウロは両方を祈っています。あなたがたが完成に至りますように。そして、その途中で何も失われませんように。
聖化とは、目標へ向かう歩みであり、同時に、その歩みの中で欠けが生じないよう守られることでもある——二つの語が並んでいることに、この祈りの周到さが表れています。
そして24節の「このことをして下さるであろう」——「このこと」とは何でしょうか。文脈上、23節の全き聖めを指します。
つまりパウロは、自分が並べた命令を人間が達成できるとは考えていないのです。だからこそ、命令の後に神へ向き直る。根拠は人間の決意ではなく、「召されたかたは真実であられる」という神の側の性質に置かれています。
三千年を隔てた、同じ順路
ここで、第一部を思い出してください。
モーセは申命記10章16節で、「あなたがたは心に割礼をおこない」と命じました。そして同じ書の30章6節で、「主はあなたの心に割礼を施し」と約束に変えました。
パウロは、テサロニケ人への第一の手紙5章16節から22節で、喜べ・祈れ・感謝せよと命じました。そして23節で、「平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように」と祈りに変えました。
同じ形です。
モーセは、四十年荒野を歩いて民を見てきた人です。パウロは、教会を建て、迫害され、自分自身の内なる矛盾を「わたしは自分のしていることが、わからない」(ローマ人への手紙7:15)と書いた人です。どちらも、人間の心の膜を人間の手で切り取れないことを、身をもって知っていました。
だから二人とも、命じた後に、神ご自身に向き直る。
命令が消えるわけではありません。「喜べ」も「祈れ」も、依然としてそこにあります。ただし、それを達成することが救いの条件ではない。命令は、神が完成させてくださる方向を指し示す矢印として置かれている。
この順路を通ってきた者は、自分の不足に絶望する必要がなくなります。できていないという痛みは、正しい痛みです。しかしその痛みが向かうべき先は、自分への断罪ではなく、「このことをして下さるであろう」と言われた方なのです。
火が焼かなかったもの
この章の最後の実務的な指示も、今日の流れの中で読むと味わい深いものになります。
「わたしは主によって命じる。この手紙を、みんなの兄弟に読み聞かせなさい。」(5:27)
パウロは、この手紙が読み上げられることを命じています。手元に置いて終わりではなく、声に出して、集まった全員に届けよ、と。
エレミヤはセラヤに、「忘れることなくこのすべての言葉を読み」(51:61)と命じました。バビロンの都で、滅亡の預言を声に出して読めと。
書かれた言葉は、読まれることで働き始めます。
エレミヤの巻物は、読まれた後に川へ沈められました。パウロの手紙は、読まれた後に写され、別の教会へ回され、今日まで残りました。方向は逆ですが、命じられていることは同じです——読め、と。
そして今朝、その言葉が日本語で読まれています。
🔷【図解④】Ⅰテサ5章の主語の転換——16〜22節「あなたがた」/23〜24節「神ご自身」
【第四部:全体の一貫性】命じたかたが、してくださる
三つの箇所が、同じ形をしている
今日読んだ三つの箇所は、時代も言語も文学類型もばらばらです。ヨルダン川東岸で語られた説教、バビロン捕囚期の預言書、ギリシャの港町に宛てた手紙。書かれた時期は、最も古いものと新しいものの間に千年以上の隔たりがあります。
それにもかかわらず、三つを並べると、同じ骨格が浮かび上がります。
申命記10章16節。「あなたがたは心に割礼をおこない、もはや強情であってはならない」——命令です。申命記30章6節。「あなたの神、主はあなたの心とあなたの子孫の心に割礼を施し」——約束に変わります。
エレミヤ書。ユダは罪を犯し、その罪ゆえに神殿は焼かれ、民は捕らえ移されました。人間の側の記録は、失敗の記録です。エレミヤ書50章20節。「その日その時には、イスラエルのとがを探しても見当らず、ユダの罪を探してもない。それはわたしが残しておく人々を、ゆるすからである」——罪が消えるのは、民が努力したからではなく、神が赦されるからです。
テサロニケ人への第一の手紙5章16〜22節。喜べ、祈れ、感謝せよ、御霊を消すな——命令の連打です。同5章23〜24節。「平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように……このことをして下さるであろう」——祈りに変わります。
三つとも、命令が先に置かれ、その後で主語が神に移る。
これは偶然の一致ではありません。聖書が人間について一貫して語っていることが、この形に現れているのだと思います。すなわち——神が求めておられる基準は下がらない。そして人間は、その基準に自力では届かない。だから神ご自身がなさる。
三つのうちどれか一つを削れば、福音でなくなります。基準を下げれば恵みは安くなり、人間の力を過信すれば律法主義になり、神がなさる部分を消せば絶望だけが残ります。
出よ、と呼ばれ続けてきた民
今日の三箇所には、もう一本、横に走る糸があります。脱出です。
申命記10章19節。「あなたがたは寄留の他国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で寄留の他国人であった」——すでに出た者として、記憶を根拠に生きよ。
エレミヤ書51章45節。「わが民よ、あなたがたはその中から出て、おのおの主の激しい怒りを免れ、その命を救え」——まだ中にいる者へ、出よ。
テサロニケ人への第一の手紙5章5節。「あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである」——もう出ている者として、その事実に立て。
エジプトから、バビロンから、そして闇から。同じ神が、同じことを三度なさっています。命令の形が、記憶(申命記)から呼びかけ(エレミヤ)を経て、事実の宣言(テサロニケ)へと変わっていく。
そしてこの呼びかけには、まだ続きがあります。
「わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ」(ヨハネの黙示録18:4)
エレミヤが六世紀に叫んだ言葉が、ヨハネの幻の中でもう一度、今度は世界の終わりに向かって叫ばれています。脱出の呼びかけは、まだ終わっていないのです。
エレミヤの石が、もう一度投げられる
紀元前594年、バビロンの都で、セラヤという役人が巻物に石を結んでユーフラテスに投げ込み、こう宣言しました。
「バビロンはこのように沈んで、二度と上がってこない」(エレミヤ51:64)
それから六百数十年、パトモス島に流された老人が幻を見ます。力ある御使いが、ひきうすのような大きな石を持ち上げ、それを海へ投げ込んで言うのです。大いなる都バビロンは、こうして激しく投げ倒され、もはや決して見出されることはない、と(黙示録18:21)。
同じ所作が、規模を変えて反復されています。しかし、いくつか変わっている点があります。
川が、海になりました。ユーフラテスは一つの国の川です。海は世界です。裁きの規模が、都市から地球全体へ広がっている。
巻物が消えて、石だけになりました。エレミヤにおいて、石は錘にすぎませんでした。黙示録では石そのものが投げられます。なぜでしょうか。言葉は、もう沈める必要がないからです。エレミヤの巻物は、すでに水底にある。判決はとうの昔に下されている。残っているのは、執行だけです。
石が「ひきうす」になりました。ここに、細やかな設計が見えます。「ひきうすのような」と訳される形容詞はミュリノスといい、新約聖書ではこの一箇所にしか現れません(名詞形のミュロス=ひきうす、はマタイ18章6節など複数箇所に登場します)。そしてその直後、黙示録18章22節で「ひきうすの音」が語られ、こちらも同じ語根です。
ひきうすの音は、古代の町でいちばんありふれた生活音でした。毎朝、女たちが麦を挽く音。それが聞こえるかぎり、町は生きている。その音が止むことが、都市の死を意味しました。
つまり御使いが海へ投げ込んだのは、ただの重い石ではありません。バビロンの日常そのものです。朝の音が、海に沈む。
「二度と上がってこない」が「もはや見出されない」になりました。エレミヤは復活を否定し、ヨハネは存在そのものの消去を語ります。表現が一段深くなっている。
ここで、当然の問いが浮かびます。ヨハネはなぜ、これを知っていたのでしょうか。
答えは単純だと思います。ヨハネはエレミヤを読んでいたからです。黙示録17〜18章は、旧約の引用密度が聖書の中でも際立って高い箇所で、エレミヤ書50〜51章とイザヤ書13章・47章がほとんど骨格をなしています。「金の杯」(エレミヤ51:7)も、「わが民よ出よ」も、「その罰が天に達し」(51:9)も、原型は全部エレミヤにあります。
ヨハネは新しい幻を勝手に作ったのではありません。エレミヤの語った言葉が、まだ完全には成就していないことを知っていたのです。
事実、歴史上のバビロン陥落——紀元前539年、ペルシアのキュロスによる征服——は、ほぼ無血入城でした。城壁は崩れず、町は焼かれず、住民は生き続けました。エレミヤが語った「住む人のない荒れ地」「ソドムとゴモラのように」(50:40)という完全な廃墟は、その時点では起こっていません。バビロンが本当に無人の廃墟になるのは、その後何百年もかけて、じわじわとです。
預言の言葉が、歴史的成就の器からはみ出している。そのはみ出した部分を、ヨハネが受け取りました。
沈んだ言葉が、今朝ここにある
紀元前594年のある日、バビロンの町角で、一人の随行員が震える手で巻物を川に投げました。誰も見ていなかったかもしれません。エレミヤ本人はその場にいない。セラヤが本当に実行したのかどうかも、聖書は記していません。
それでも石は落ちました。
そして焼かれた巻物は書き直され、しかも言葉が増えました(エレミヤ36:32)。沈められた巻物の中身は、別の写しとして残り、七十年後にバビロンの都で、白髪のダニエルによって読まれました(ダニエル9:2)。ダニエルは、それを読んで悔い改めの祈りをささげます。
そして六百年後、パトモス島の老人が同じ言葉を握って、幻の中でもう一度、石が投げられるのを見ました。
エレミヤの生涯は、報われた生涯ではありません。外れた預言者と罵られ、井戸に投げ込まれ、裏切り者と呼ばれ、最後は望まぬエジプトへ連れ去られて消息を絶ちます。彼は自分の言葉の到達点を、生きているうちに一度も見ていません。
それでも言葉は、沈んだままそこにあり続けました。そして時が来たら、浮かび上がる代わりに——もう一度、投げられる。
火は巻物を焼きましたが、言葉は焼けませんでした。水は巻物を沈めましたが、言葉は沈みませんでした。神殿は焼け落ちましたが、ダビデの家系はバビロンの王の食卓で保たれていました。
そして紀元前594年に川底へ消えたはずの言葉が、二千六百年後の日本語で、今朝、私たちの手元にあります。
「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない」(マタイによる福音書24:35)
これ以上の証明を、思いつくことができません。
今日、覚えたいこと
命令の連打を読んで、できていない自分に打ちのめされることがあります。いつも喜んでいない。絶えず祈っていない。悪をもって悪に報いたことも、御霊の火を消したこともある。
その痛みは、正しい痛みです。ごまかす必要はありません。
ただ、その痛みが向かうべき先は、自分への断罪ではないのです。
「あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう」(テサロニケ人への第一の手紙5:24)
モーセが「心に割礼をおこなえ」と命じた後で「主が施される」と語り直したように。エレミヤが罪の記録を書き尽くした後で「とがを探しても見当らず」と語ったように。パウロは、命令を並べ切った後で、神に向き直りました。
命じたかたが、してくださる。
砕けた板を切り直す手は私たちのものですが、そこに刻むのは、今も神です。
🔷【図解】エレミヤ51章 → 黙示録18章の対応表
【語彙表】
ヘブライ語
| 原語 | カタカナ発音 | 意味 |
| מָה | マー | 何、なんであるか(申命記10:12) |
| מוּל | ムール | 割礼を施す、切り取る(申命記10:16/30:6) |
| עֹרֶף | オレフ | うなじ、首筋(申命記10:16) |
| נָשָׂא פָנִים | ナーサー・パニーム | 顔を上げる=えこひいきする(申命記10:17) |
| מַפֵּץ | マペーツ | 打ち砕く武器、粉砕具(エレミヤ51:20) |
| פַּטִּישׁ | パッティーシュ | 鍛冶屋の鎚(エレミヤ50:23) |
| שַׂר מְנוּחָה | サル・メヌハー | 宿営の長(直訳:休息の長)(エレミヤ51:59) |
| בַּסְּפָרִים | バ・セファリーム | 諸書によって(ダニエル9:2) |
ギリシャ語
| 原語 | カタカナ発音 | 意味 |
| εἰρήνη καὶ ἀσφάλεια | エイレーネー・カイ・アスファレイア | 平和と安全(Ⅰテサロニケ5:3) |
| ὠδίν | オーディン | 産みの苦しみ、陣痛(Ⅰテサロニケ5:3) |
| σβέννυμι | スベンヌミ | 火を消す(Ⅰテサロニケ5:19) |
| ὁλοτελής | ホロテレース | 全体が目標に達した(Ⅰテサロニケ5:23) |
| ὁλόκληρος | ホロクレーロス | 欠けが一つもない(Ⅰテサロニケ5:23) |
| μύλινος | ミュリノス | ひきうすの(黙示録18:21) |
※原語の表記・発音はClaude(AI)の支援を得てまとめています。発音はおおよそのカタカナ表記です。
本記事の聖書本文は、日本聖書協会発行の口語訳聖書(1954・1955年発行)を使用しています。著作権の保護期間(財産権)は満了していますが、本文の改変は行っておりません。※聖書語句訂正一覧に該当する語句は使用しておりません。

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