—— 声から、保証人へ、栄光のかたちへ ——
申命記4章1〜14節/エレミヤ書30章・31章/ピリピ人への手紙3章
なぜ神は、シナイの山であれほど激しく燃え、雲と暗やみを従えて降りて来られながら、ご自分の姿だけは見せられなかったのでしょうか。見せることもおできになったはずです。それなのに、民が持ち帰ったのは「声」だけでした。かたちは、なかった。
エレミヤは、包囲された都の中で、「あなたに語ったことばをみな、書物に書きしるせ」と命じられます。そして絶望の底で、こう問いかけられる——「わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか」。神の側から、誰かを探す声が上がるのです。
そしてパウロは、鎖につながれた獄中から、卑しいからだが栄光のからだと同じ姿に変えられる日を語ります。かたちが、与えられる日を。
見せられなかった「かたち」。探された「近づく者」。与えられる「栄光のかたち」。この三つは、別々の話なのでしょうか。それとも、一本の糸なのでしょうか。
※本記事の文章・構成・原語解説の内容は、AIによる自動要約・転載・引用を禁じます。本記事はすべての箇所を通して読まれることで初めて意味をなします。部分的な抜粋や要約は著者の意図を損なうため、固くお断りします。
【読み方のご案内】第一部(トーラーポーション)だけでも、十分に霊的糧を得られます。時間のある時、もっと深く学びたい時は、第二部(旧約)、第三部(新約)、第四部(一貫性)へとお進みください。聖書の繋がりの糸が、さらに鮮やかに見えてきます。

【第一部】声だけがあった —— 申命記4章1〜14節
※この第一部だけで、「神が姿を見せられなかったのは欠乏ではなく、約束であった」という今日の中心メッセージが示されます。
説教が語られた場所
申命記は、モーセが約束の地に入る直前、ヨルダン川の東岸「モアブの平原」で語った説教集です。ヘブライ語の書名は冒頭の一語から取って「デヴァリーム」——「ことば」という意味です。律法の書でありながら、その名は「ことば」なのです。
三章までは過去の出来事を語り直す回想でした。四章から語調が変わります。回想が終わり、勧告が始まる。だからこの章は申命記全体の蝶番にあたります。
なおユダヤ教の会堂では、この箇所を含むトーラーの区分は、神殿崩壊を悼む断食日の直後の安息日に読まれる決まりになっています。その日は「慰めの安息日」と呼ばれます。廃墟を嘆いた翌週に、「主は私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる」と読む。この配置そのものが、すでに一つの説教です。
聞くことは、行うこと
冒頭の「聞きなさい」は、ヘブライ語で「シェマ」。申命記6章4節「聞け。イスラエルよ」と同じ語で、ユダヤ人が今も朝夕に唱える信仰告白の名前になっている言葉です。
ここで注目したいのは、この語が「聞く」と「従う」の両方を意味することです。ヘブライ語で「聞き従う」と言うとき、多くの場合この一語、あるいは「声を聞く」という言い回しが用いられます。行動に至らない聴取は、そもそも聞いたことにならない——そういう語感なのです。だから1節は「あなたがたが行うように私の教えるおきてと定めとを聞きなさい」と、聞くことと行うことを最初から一続きにしています。
そして「聞きなさい。そうすれば、あなたがたは生き」と続きます。命令に先立って、いのちが約束されている。
加えてはならない、減らしてはならない
2節は不思議な条文に見えます。しかし古代オリエントの条約文書を知ると、意味がはっきりします。当時の宗主国と属国の契約書には、条文の改変を禁じる条項が必ず末尾に置かれていました。文書を書き換えることは、契約そのものへの背信とみなされたのです。
神はご自分を宗主とする契約の形式で、この民と関係を結ばれた。だから同じ定型が、この後も聖書を貫きます。箴言30章6節「神のことばにつけ加えてはならない」。そして聖書の最後、黙示録22章18節から19節。聖書は、加えるなという言葉で始まり、加えるなという言葉で閉じられるのです。
減らすことも、同じ重さで禁じられています。厳しすぎる箇所を削る誘惑と、足りないと感じて補う誘惑は、どちらも同じ一つの誘惑——神のことばを自分の寸法に合わせたいという誘惑です。
すがりつく、という言葉
3節でモーセは、つい最近の出来事を持ち出します。バアル・ペオルの事件です。民数記25章、荒野の旅の最終盤で、イスラエルの男たちがモアブの女たちに誘われ、その神々の祭儀に加わりました。疫病で二万四千人が死んでいます。
疫病で二万四千人が死んだ、その直後に置かれた言葉です。
4節、「あなたがたの神、主にすがってきたあなたがたはみな、きょう、生きている。」この「すがる」という言葉は、創世記2章24節「妻と結び合い」と同じ言葉です。夫婦が結びつくときに使う、強い言葉です。神への信仰は、規則を守ることである前に、離れずにくっついていることなのです。
そして「きょう、生きている」。この「きょう」という副詞は、申命記に約七十回現れる鍵語です。契約は過去の出来事ではない。契約はいつも「きょう」の出来事なのです。
近くにおられる神
6節から8節で、視野が一気に広がります。この律法を守り行うなら、周りの国々が見て「この偉大な国民は、確かに知恵のある、悟りのある民だ」と言うだろう、と。
「知恵」は「ホクマー」、「悟り」は「ビーナー」。ビーナーは「あいだ」を意味する語と同じ語根を持ち、物事の違いを見分ける力を指します。イスラエルの律法遵守は、内輪の宗教規則ではなく、諸国民に向けた展示として意図されていた。ここに、後のイザヤ書42章「国々の光」につながる線がすでに引かれています。
そしてその展示の内容が、7節です。「私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。」
「近く」は「カローヴ」。古代世界の神々は遠く、気まぐれで、正しい呪文と正確な儀礼によってようやく動かせる存在でした。ところがイスラエルの神は、呼べば近い。しかも、近さを勝ち取る技術は何一つ要求されていません。世界に誇るべき国力ではなく、呼べば答える神を持っていることが、この民の偉大さだと言われているのです。
用心すべきは、外ではなく内
9節は、この段落全体で最も強い調子の命令です。直訳すると「ただ、あなたはあなた自身を守れ。あなたのたましいを、はなはだしく守れ」となります。「守る」は「シャーマル」——エデンの園を「守る」(創世記2章15節)と同じ語が、二度重ねられています。
何から守るのか。敵からではありません。忘却からです。「あなたが自分の目で見たことを忘れず」。
危機は外にありません。あれほどの体験をした世代が、それを忘れうるのです。だから続けて「あなたはそれらを、あなたの子どもや孫たちに知らせなさい」と命じられる。記憶は、語り継がれることによってしか生き残らないからです。
御姿は見なかった。御声だけであった
11節から12節が、今日の中心です。
「山は激しく燃え立ち、火は中天に達し、雲と暗やみの暗黒とがあった。主は火の中から、あなたがたに語られた。あなたがたはことばの声を聞いたが、御姿は見なかった。御声だけであった。」
「御姿」は「テムーナー」。輪郭、似姿、目に映るかたちを指す語です。
考えてみれば奇妙な光景です。神は圧倒的に臨在された。火があり、声があり、山が震えた。何も起こらなかったのではありません。すべてが起こった。ただ一つ、かたちだけがなかった。
これは欠落でしょうか。この直後(今日の箇所のすぐ先、15節以下)で、モーセはその理由を明かします。「あなたがたは何の形も見なかったから」——だから、いかなる像も造ってはならない、と。かたちを見なかったという記憶そのものが、偶像禁止の根拠とされるのです。
ここで思い起こすべきことがあります。神はすでに一度、ご自分の「かたち」について語っておられました。創世記1章26節——「われわれにかたどり、われわれに似せて、人を造ろう。」
神のかたちは、すでに造られていたのです。それは木でも石でも金属でもなく、人間でした。だから木を刻んで神を表す行為は、神について嘘をつくと同時に、人間の尊厳を石ころの位置まで引き下げることになる。偶像禁止は、神を守る規則であると同時に、人間を守る規則なのです。
13節、神が石の板に書かれたものを、聖書は「十戒」ではなく「十のことば」と呼びます(ヘブライ語で「アセレット・ハ・デヴァリーム」)。「十戒」を意味する「デカローグ」という語も、ここから出ています。命令である前に、語りかけである。関係のない相手に、人は語りかけません。
第一部のまとめ
シナイで与えられなかったものと、与えられたものを並べてみると、この日の出来事の形がはっきりします。
【図解① シナイで与えられたもの/与えられなかったもの zukai01_sinai.html】
かたちがなかったのは、神が遠かったからではありません。「呼ばわるとき、いつも、近くにおられる」神が、あえてかたちを差し控えられた。それは、ご自分のかたちをご自分で選ぶ日を、神が留保しておられたということです。
その日が来たとき、使徒はこう書きました——「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です」(コロサイ1章15節)。
シナイで見られなかったものが、ベツレヘムで見られるようになった。かたちの不在は、欠乏ではなく、約束の場所だったのです。
きょう、そのかたちを見た者として生きること。それが、この古い説教が現代に差し出している招きです。
【第二部】いのちをかけて近づく者 —— エレミヤ書30章・31章
※第二部は、シナイで与えられなかった「かたち」を、神ご自身が誰かに与えようとしておられる——その予告を預言書の中で確認する部分です。時間のない方は読み飛ばしても差し支えありません。
廃墟の中で「書きしるせ」と命じられた巻物
エレミヤ書30章から33章は、古くから「慰めの書」と呼ばれてきました。哀歌の預言者、涙の預言者と呼ばれるエレミヤの書の中に、この四章だけは希望の言葉が凝縮して置かれているからです。
見落としてはならないのは、この言葉が語られた時期です。エレミヤはこのとき、自由に街を歩いていたのではありません。バビロン軍がエルサレムを包囲し、都は落ちる寸前でした。その状況で神はこう命じられます。「わたしがあなたに語ったことばをみな、書物に書きしるせ」(30章2節)。
エレミヤの生涯で、まとまった巻物を書けと命じられた場面は数えるほどしかありません。そして今回、書き残せと命じられた内容は、裁きではなく回復でした。すべてが崩れ落ちる瞬間に、神は「元どおりにする」と書かせておられる。
ここで注目したいのは、希望は状況が好転してから語られたのではない、ということです。最も暗い時に、文書として固定された。火事の最中に、再建の設計図が手渡されたようなものです。
ヤコブの苦難の時
30章5節から7節の描写は異様です。男たちが産婦のように腰に手を当て、顔が青ざめている。戦士が陣痛に襲われる——男には決して起こらない苦痛という比喩で、経験したことのない種類の恐怖が表現されています。
そして7節。「ああ。その日は大いなる日、比べるものもない日だ。それはヤコブにも苦難の時だ。しかし彼はそれから救われる。」
「ヤコブの苦難の時」——この表現は、旧約でここにしか現れません。しかし「比べるものもない」という言い方は、ダニエル書12章1節「国が始まって以来、そのときまでなかったほどの苦難の時が来る」と重なり、主イエスご自身のことば「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです」(マタイ24章21節)とも重なります。
福音主義神学の多くは、この三つを同一の終末的患難として読みます。ただし、本文が明言しているのは「比べるもののない苦難の日があり、ヤコブはそこから救い出される」というところまでです。それを患難時代と同定するのは、他の聖句と突き合わせた解釈であることは押さえておきたいところです。
いずれにせよ、この節の重心は苦難ではなく、「しかし」にあります。神はヤコブを苦難から免除するとは言われません。「そこから救われる」と言われる。通り抜けさせる救いです。
もう死んでいる王が、なぜ王として立てられるのか
9節に、読者がつまずく一節があります。
「彼らは彼らの神、主と、わたしが彼らのために立てる彼らの王ダビデに仕えよう。」
エレミヤの時代、ダビデは死んで四百年が経っています。それなのに、これから立てられる王としてダビデの名が挙がる。
これは同じ用法が他の預言者にも見られます。ホセア書3章5節「後になって、イスラエルの子らは帰って来て、彼らの神、主と、彼らの王ダビデとを尋ね求める」。エゼキエル書34章23節「わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす」。エゼキエル書37章25節では、そのダビデが「とこしえに彼らの君主」だと言われます。とこしえに、です。歴史上のダビデは死にました。死んだ者が永遠に統治することはできません。
つまり「ダビデ」は、ここでは王朝の名を冠したメシア称号として使われています。ユダヤ教もこれらの箇所を伝統的にメシア預言として読み、来たるべき方を「メシア・ベン・ダビデ(ダビデの子なるメシア)」と呼んできました。
さらに注目したいのは、この節が「主と、王ダビデに仕えよう」と、二者への奉仕を並べていることです。神と、王と。旧約の信仰において、神以外の何者かに神と並べて仕えることは考えられません。それなのに、ここでは並んでいる。
同じ緊張が詩篇110篇1節にもあります。「主は私の主に仰せられる。『わたしの右の座に着いていよ』」。ダビデが誰かを「私の主」と呼んでいる。主イエスはまさにこの一節を取り上げて、パリサイ人たちに問われました——「ダビデ自身が彼を主と呼んでいるのなら、どうして彼がダビデの子でしょうか」(マタイ22章45節)。誰も答えられませんでした。
答えは受肉です。ダビデの子であり、同時にダビデの主である方。仕えるべき神であり、同時に立てられる王である方。エレミヤ30章9節の並列は、その方が来られるまで解けない謎として置かれていたのです。
いやしにくい傷
12節から15節は、痛烈です。「あなたの傷はいやしにくく」「あなたの訴えを弁護する者もなく」「あなたの恋人はみな、あなたを忘れ」。
「弁護する者」は法廷用語で、訴訟で当事者の側に立つ者を指します。誰も弁護に立たない。そして原因は隠されません。「あなたの咎が大きく、あなたの罪が重いために」。
しかし17節。「わたしがあなたの傷を直し、あなたの打ち傷をいやすからだ。」
打ったのが神であり(14節)、いやすのも神である。ここには人間側の条件が一つも書かれていません。ただ「あなたが、捨てられた女、だれも尋ねて来ないシオン、と呼ばれたからだ」——誰も来ないという事実そのものが、神が来られる理由とされているのです。
いったいだれなのか —— 30章21節
そして21節。今日の三箇所を貫く糸が、ここで結ばれます。
「その権力者は、彼らのうちのひとり、その支配者はその中から出る。わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか。」
原語を三つ、ほどいてみます。
一つめ。「わたしは彼を近づけ」——この「近づける」は「カーラヴ」という動詞の使役形で、「近くにある」を意味する「カローヴ」と同じ語根です。
この語は、今日の第一部にありました。申命記4章7節——「私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くに(カローヴ)おられる。このような神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか。」
モーセは「神が近い」と言いました。エレミヤでは「わたしが彼を近づける」と言われる。近さが、ひとりの人格に集中していくのです。なお、旧約の「ささげ物(コルバーン)」も同じ語根から出ています。近づけるために差し出されるもの、という意味です。
二つめ。「彼はわたしに近づく」——こちらは「ナーガシュ」。日常の「近寄る」ではなく、祭司が聖所に進み出るときの専門用語です。この語の重さは、レビ記10章のナダブとアビフを思えばわかります。無資格で神に近づいた祭司は、その場で死にました。民数記16章のコラの一党も同じです。神に近づくことは、命懸けの行為なのです。
三つめ。「いのちをかける」——ここが圧巻です。ヘブライ語を語義に沿って訳すと「自分の心を保証として差し出す」となります。「差し出す」は「アーラヴ」——商取引で保証人になる、身代わりの担保となる、という語です。
この語が印象深く使われている場面があります。創世記43章9節、ユダが父ヤコブに向かって言います。「私が彼の保証人になります。私の手からあなたは彼を求めてください。」弟ベニヤミンを連れて行くために、ユダは自分自身を担保に差し出しました。
ですからエレミヤ30章21節は、こう言っているのです。
「彼らの中から出る支配者が、自分自身を保証として差し出して、祭司として神に近づく。そんなことをする者が、いったいどこにいるのか。」
これは修辞疑問ではありますが、答えのない問いではありません。新約聖書が名指しで答えています——「イエスは、さらにすぐれた契約の保証となられたのです」(ヘブル7章22節)。ここで「保証」と訳されているギリシャ語「エングオス」は、まさに保証人・担保となる者を意味する語です。
そしてヘブル書7章の主題が何かといえば、メルキゼデク——王でありながら祭司である方の系列です。エレミヤ30章21節が求めているのは、まさに支配者でありながら祭司である方でした。「その支配者はその中から出る」——王です。「彼はわたしに近づく」——祭司です。
歴史を見れば、この問いの重みがわかります。バビロン捕囚から帰還した後、ダビデの家系の王は二度と立ちませんでした。ペルシアの総督、ギリシアの支配者、そして最後はイドマヤ人ヘロデ。「彼らのうちのひとり」ではなかったのです。この節は、五百年以上のあいだ、空欄のまま置かれていました。
【図解② エレミヤ30章21節——支配者であり、近づく祭司である方 zukai02_jeremiah30_21.html】
ペルシアの総督 → ギリシアの支配者 → イドマヤ人ヘロデ
ナダブとアビフ(レビ10章)/コラの一党(民数16章)
ユダがベニヤミンの保証人となった語(創43:9)
ヘブル人への手紙7章22節 ― 主題はメルキゼデク、王であり祭司である方
終わりの日に、あなたがたはそれを悟ろう
30章の最後、24節はこう閉じます。「主の燃える怒りは、御心の思うところを行って、成し遂げるまで去ることはない。終わりの日に、あなたがたはそれを悟ろう。」
「終わりの日」は「アハリート・ハ・ヤーミーム」——直訳すれば「日々の後ろ」。これは聖書における終末を指す術語です。ヤコブが臨終の床で息子たちに語る創世記49章1節、バラムの預言である民数記24章14節、そして——申命記4章30節。今日の第一部の、すぐ数節先です。
「後の日になって、あなたが苦難の中にあり、これらのすべてのことが、あなたに臨むとき、あなたはあなたの神、主に立ち返り、御声に聞き従う。」
モーセもエレミヤも、同じ地平を見ていました。苦難の後の立ち返り。そして「悟ろう」という約束。今わからないことがある、という前提が置かれているのです。三十章の謎めいた問いかけも、その日には解けると。
永遠の愛と、ラケルの涙
31章に入ると、調子が変わります。裁きの言葉が退き、愛の言葉が前に出ます。
3節、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」
「誠実を尽くす」と訳された語(マーシャク)は、もともと「引く、引き寄せる」という意味の動詞です。井戸から水を汲み上げるときにも使われる語で、新改訳2017では「引き寄せた」系の訳になっています。神は愛したから、たぐり寄せられた。順序が逆ではありません。愛が先で、引き寄せが後です。
15節、突然、泣き声が挿入されます。「ラマで聞こえる。苦しみの嘆きと泣き声が。ラケルがその子らのために泣いている。慰められることを拒んで。」
ラケルはヤコブの妻、ヨセフとベニヤミンの母で、ベツレヘムへの道の途中で亡くなりました(創世記35章19節)。そしてラマは、バビロン捕囚のとき、捕虜たちが鎖につながれて集められた集合地点でした(エレミヤ40章1節)。地面に眠る母のそばを、子孫たちが鎖につながれて通り過ぎていく。その光景をエレミヤは「ラケルが泣いている」と表現したのです。
このことばを、マタイは思いがけない場所で引用します。ヘロデがベツレヘムの幼子たちを殺した場面です(マタイ2章18節)。メシアが来られたその年に、ラケルはもう一度泣いた。
しかし16節が続きます。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。」慰められることを拒む母に、神は「拒むな」と言われる。そして「あなたの将来には望みがある」(17節)。
なお22節「ひとりの女がひとりの男を抱こう」は、聖書の中でも最も解釈の難しい一句として知られています。教会の伝統では処女降誕の予告と読まれてきましたが、立場が分かれ、断定は避けるべき箇所です。ただ本文が「主は、この国に、一つの新しい事を創造される」と述べていること、そして「創造する(バーラー)」がもっぱら神の創造行為にのみ用いられる動詞であることは確かです。人間の営みの延長ではない、何かが起こる、と。
石の板から、心へ
31章31節から34節。旧約全体で「新しい契約」という表現が現れるのは、ここだけです。
「わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。(中略)わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。」
ここで、第一部の一節を思い出してください。申命記4章13節——「主はご自分の契約をあなたがたに告げて、それを行うように命じられた。十のことばである。主はそれを二枚の石の板に書きしるされた。」
「書きしるす」(カータヴ)は、同じ動詞です。
シナイでは、石の板に書かれた。エレミヤでは、心に書かれると言われる。内容が変わるのではありません。書かれる場所が変わるのです。律法が外側から人を規制するものから、内側から人を動かすものへ。
そして34節、その契約の土台が示されます。「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」新しい契約は、人間が心を入れ替えることで始まるのではありません。神が罪を思い出さないと決められることで始まるのです。
主イエスは最後の晩餐の席で、杯を取ってこう言われました——「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による、新しい契約です」(ルカ22章20節)。エレミヤが包囲された都で書き記した一語が、六百年後、上の間で杯とともに差し出されました。
天が測れるなら
35節から37節は、簡潔ですが決定的です。太陽と月と星の定めを与えられた方が言われます——もしこれらの定めが取り去られるなら、イスラエルも民でなくなる。もし天が測られ、地の基が探り出されるなら、イスラエルを退けよう、と。
つまり、天体の運行が止まるとき、初めてイスラエルは捨てられる。裏を返せば、太陽が昇り続けるかぎり、この民は捨てられていません。パウロがローマ人への手紙11章1節で「それでは、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません」と書き、11章29節で「神の賜物と召命とは変わることがありません」と書いたのは、この確信の上でのことです。
谷が聖なるものとなる
そして書の締めくくり、40節。再建されるエルサレムの境界が測られ、その中に意外な場所が含まれます。「死体と灰との谷全体」——エルサレム南のヒノムの谷、かつて子どもたちが偶像に焼かれてささげられた場所です(エレミヤ7章31節)。エレミヤ自身が、そこで最も激しい裁きを語った谷でした。
その谷が、「みな主に聖別され」と言われる。最も汚れた場所が、聖なる場所として囲い込まれる。
さらに、「もはやとこしえに根こぎにされず、こわされることもない」。この「根こぎにする(ナータシュ)」という動詞は、エレミヤが召命を受けたときの言葉です——「見よ。わたしはきょう、あなたを諸国の民と王国の上に任命し、引き抜き、引き倒し、滅ぼし、くつがえし、また建て、また植えさせる」(エレミヤ1章10節)。
エレミヤの生涯は、引き抜くことに費やされました。その同じ動詞に、ここで「もはや、とこしえに」という否定がかぶせられる。預言者の任務が、完了する日が語られているのです。
第二部のまとめ
申命記4章では、神が「近い」と言われました。エレミヤ30章では、神が「彼を近づける」と言われる。近さが、ひとりの方に集中していきます。
申命記4章では、契約が石に書かれました。エレミヤ31章では、心に書かれると言われる。契約の場所が、外から内へ移っていきます。
そして「わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか」という問いは、空欄のまま置かれました。旧約は、この問いに答えられずに終わります。
答えは、次の部で来ます。
【第三部】同じかたちに —— ピリピ人への手紙3章
※第三部では、旧約で問われたまま空欄になっていた「いったいだれなのか」に、新約がどう答えているかを見ます。
ローマの町ではない町で、ローマ人として生きる人々
ピリピは、マケドニヤの内陸にありながら、ローマの植民市でした。紀元前42年、この平原でアントニウスとオクタヴィアヌスがカエサル暗殺者たちを破り、退役兵たちがこの地に入植します。やがてイタリア本土と同等の法的特権が与えられ、住民はローマ市民権を持ち、ローマの法で裁かれ、ラテン語を公用語としました。
使徒の働き16章で、パウロを訴えた人々はこう叫んでいます——「私たちはローマ人なのに、受け入れることも、行うこともできない風習を宣伝しています」(16章21節)。イタリアを見たこともない人々が、自分たちをローマ人と呼んでいる。遠く離れた本国の市民として生きる——これがピリピの日常でした。
この手紙は獄中から書かれています。鎖につながれた囚人が、市民権に誇りを持つ町へ書いた手紙。この設定を覚えておいてください。3章の最後で効いてきます。
三度くり返される「気をつけよ」
3章2節、それまで穏やかだった調子が急変します。
「どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。」
「犬」は当時、町の外をうろつく汚れた野良を指し、ユダヤ人が異邦人を蔑んで呼ぶ語でもありました。パウロはその言葉を、異邦人にではなく、割礼を強要するユダヤ主義者たちに向けて投げ返しているのです。
そして三つめが激烈です。「肉体だけの割礼」と訳された語は「カタトメー」——「切り刻み」という意味です。次の3節で「私たちのほうこそ割礼の者なのです」と言うときの「割礼」は「ペリトメー」。
カタ(下へ、打ち下ろすように)+ トメー(切ること)→ 切り刻み
ペリ(まわりを)+ トメー(切ること)→ 割礼
一音節しか違いません。しかしパウロが言っているのはこうです。「あなたがたがしているのは割礼ではない。ただの切り刻みだ。」
これは根拠のない罵倒ではありません。レビ記19章28節は「あなたがたは死者のために身に傷をつけてはならない」と定め、カルメル山でバアルの預言者たちは「彼らの習慣にしたがって、剣や槍で身を傷つけ」ました(第一列王記18章28節)。契約のしるしを、契約の実質なしに行うなら、それは異教の自傷と同じ場所に落ちる——そう言っているのです。
心の割礼は、どこから来た言葉か
では真の割礼とは何か。3節はこう定義します。「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。」
ここで、今日の第一部と第二部を思い出してください。
申命記10章16節——「あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もう、うなじのこわい者であってはならない。」
申命記30章6節——「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心とに割礼を施し、あなたが心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神、主を愛するようにされる。」
エレミヤ書4章4節——「ユダの人、エルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。」
モーセもエレミヤも、すでにこれを言っていました。パウロは新しい教えを持ち込んだのではありません。旧約が最初から求めていたものを、名指ししているのです。
そして、心の割礼を「施す」のは誰かといえば、申命記30章6節でもエレミヤ書31章33節でも、神ご自身です。人が自分の心を切ることはできません。だからエレミヤは「わたしが彼らの心に書きしるす」と言い、パウロは「神の御霊によって礼拝をし」と言うのです。
損益計算書
4節から6節で、パウロは自分の履歴書を提示します。七つの項目です。
八日目の割礼(生まれながらのユダヤ人であり、改宗者ではない)、イスラエル民族、ベニヤミンの分かれ(イスラエル最初の王を出した部族。パウロの元の名サウロは、その王の名です)、きっすいのヘブル人(ギリシア語圏育ちではなく、ヘブル語・アラム語で生きる家系)——ここまでが生まれで決まる四つ。
律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほど、律法による義については非難されるところがない——ここからが自分で勝ち取った三つ。
そして7節。「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。」
これは会計の言葉です。「得(ケルデー)」は複数形、「損(ゼーミア)」は単数形。七つの黒字項目が、まとめて一つの赤字に振り替えられた。しかも「思うようになりました」は完了形で、「かつてそう判断し、今もその判断のままでいる」という意味です。回心のときの計算が、獄中の今も有効なのです。
8節、さらに強められます。「私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」
「ちりあくた」は「スキュバラ」——ごみ、廃棄物、食べ残し、さらには汚物までを含む幅のある語で、共通しているのは「捨てられるもの」という一点です。新約聖書ではここにしか現れません。上品な語ではありません。
興味深いのは、この語が2節の「犬」からわずか数行の距離に置かれていることです。犬と呼ばれた者たちが誇っているもの——それは、捨て場に出されるものにすぎない。血統も、熱心も、非の打ちどころのない律法遵守も、キリストの隣に置いた瞬間に価値を失った。
ただし誤解してはならないのは、パウロがこれらをもともと無価値だったとは一度も言っていないことです。「私にとって得であった」と認めています。捨てられたのは、悪いものではなく、良いものでした。より良いものが現れたからです。
迫害した動詞で、追いかける
9節でパウロは、自分の義ではなく「キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義」を求めると言います。義の出どころが、自分から神へ移る。
そして10節。「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり」。
この「同じ状態になり」が、今日の鍵語です。「スュンモルフィゾメノス」——スュン(ともに、同じく)+ モルフェー(かたち)+ 現在分詞。つまり「今、同じかたちにされつつある」。この語は、この節にしか現れません。そしてもう一度、この章の最後に姿を変えて出てきます。
12節から14節は、競技場の絵です。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。」
ここで注目したいのは、「追求する」と訳された語が「ディオーコー」であることです。この動詞は、6節で「教会を迫害した」と訳されている語と、まったく同じです。
教会を追い回した男が、今はキリストを追い回している。方向が百八十度変わっただけで、その激しさは変わっていません。パウロは自分の性質を捨てたのではなく、向きを変えられたのです。神は人格を消去して救われるのではありません。
そして続きます。「それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです」——追いかけている者が、実はすでに捕らえられている。ダマスコ途上で、地に倒された日から。追跡は、捕獲の結果です。
13節、「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み」。この「進み」は「エペクテイノメノス」——エピ(〜に向かって)+ エク(自分の外へ)+ テイノー(引き伸ばす)。「自分の外へ、前方に向かって、身を引き伸ばし切りながら」。ゴールテープに飛び込む走者の姿です。頭が、胸が、手が、体より前に出ている。走者は自分自身より長くなっている。
そして14節、「栄冠を得るために」。「栄冠」は「ブラベイオン」——競技の審判が勝者に手渡す賞です。誰が渡すかが決まっている賞。自分で取りに行くのではなく、授けられるものです。
天の市民
18節から19節で、パウロは涙を流します。「多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいる」。彼らの神は自分の欲望であり、思いは地上のことだけ、と。
そして20節、対比が置かれます。
「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」
「国籍」は「ポリテウマ」——市民共同体、国家、そして市民としての身分そのものを指す語です。「私たちが所属し、法と忠誠を負っている共同体は、天にある」という意味になります。
ピリピの読者は、これを絵空事として聞きませんでした。彼ら自身が植民市の住民だったのです。イタリアを踏んだことのない人々が、ローマの法で生き、ローマの言葉を話し、皇帝が来訪する日を想定して町を整えていた。パウロは言います——「その通りだ。ただし本国はローマではない。」
さらに「救い主(ソーテール)」は、当時ローマ皇帝に捧げられていた称号のひとつです。この一節は、読者の日常風景をそのまま用いながら、その忠誠の宛先を静かに書き換えています。
卑しいからだが、栄光のからだと同じ姿に
そして21節。
「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」
原語を三つ見ます。
「卑しい」は「タペイノーシス」——低さ、卑下。この語は、この手紙の中ですでに使われていました。2章8節、「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた」。キリストが自ら降りた場所の名が、私たちの体の現状の名です。
「変えてくださる」は「メタスケーマティゾー」——「スケーマ(外見・かたち)」を変える。そして2章8節には「人としての性質をもって現れ」(直訳すれば「スケーマにおいて人として見出され」)とあります。キリストが取られたスケーマが、私たちのスケーマを変える。
「同じ姿」は「スュンモルフォス」——10節の「スュンモルフィゾメノス」と同じ語根です。
つまりこの章には、二つの同形化が置かれています。今、キリストの死のかたちに同形化されつつあり(10節)、やがて、キリストの栄光のかたちに同形化される(21節)。
これは二つの別々の出来事ではありません。同じ一つの過程の、前半と後半です。今の苦しみが将来の栄光の準備工程であるとは、そういう意味です。
【図解③ スュンモルフォス——今、死のかたちに/やがて栄光のかたちに zukai03_symmorphos.html】
そして、シナイの山へ戻る
ここで、第一部の一節を思い出してください。
申命記4章12節——「あなたがたはことばの声を聞いたが、御姿は見なかった。」
この「御姿(テムーナー)」は、旧約のギリシア語訳(七十人訳)では「ホモイオーマ」と訳されています。「似姿」という語です。
そして、この同じ手紙の2章7節。「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。」——この「人間と同じように」が、ホモイオーマです。
シナイで与えられなかった「似姿」を、神ご自身が人間の似姿として取られた。
見せられなかったのではありません。取っておかれたのです。木や石で表されることを拒まれた神は、ご自分の手で、ご自分の似姿を選ばれた。そしてそれは肉体を持った一人の人でした。
保証人は、誰だったのか
第二部で空欄のまま残された問いに戻ります。
「わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか」(エレミヤ書30章21節)。自分自身を保証として差し出し、祭司として神に近づく者は誰か。
ヘブル人への手紙7章22節——「イエスは、さらにすぐれた契約の保証となられたのです。」この「保証」は「エングオス」、保証人・担保となる者を意味する語です。そしてヘブル書7章の主題は、王でありながら祭司であるメルキゼデクの系列でした。
その保証の中身が何であったかは、十字架が示しています。近づくには命が要る。ナダブとアビフは資格なしに近づいて死にました。しかしこの方は、保証として差し出されたご自分の命によって近づき、そして帰って来られた。「わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく」——近づけたのは神です。近づいたのは御子です。
そしてその結果、幕は上から下まで裂けました(マタイ27章51節)。祭司だけが年に一度近づけた場所への道が、開かれたのです。「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです」(ヘブル10章19節)。
旧約が問い、新約が答え、十字架が実行しました。
第三部のまとめ
パウロがこの章を書いたのは、獄中、生涯の終盤です。回心から二十数年、三度の伝道旅行を終え、多くの教会を建てた人が、「私は、すでに得たのでもなく」と書いている。
もし走り続けることが未熟さのしるしなら、パウロは失敗者です。そうではありません。「私は、キリストとその復活の力を知り」——この「知る」に終わりがないからです。
そして11節、「どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです」。ここでパウロが用いた「復活」という語は、通常の語ではなく、「そこから外へ立ち上がる」という接頭辞のついた形(エクサナスタシス)で、新約でここにしか現れません。彼が待っていたのは、思想の勝利でも記憶の中の永続でもなく、墓の中から立ち上がる体でした。
その体を、21節はこう呼んでいます——栄光のからだと同じ姿。
シナイで見られなかったかたちを、私たちが受ける日が来る。
【第四部】三つの箇所を貫くもの —— そして祈り
四本の糸
今日の三箇所は、別々の時代、別々の著者、別々の状況から生まれました。荒野の平原に立つモーセ。包囲された都の中のエレミヤ。ローマの獄中のパウロ。互いに千年以上を隔てています。それでも、四本の糸が三つを貫いています。
第一の糸——かたち。シナイで、民は御姿(テムーナー)を見ませんでした。声だけがありました。旧約のギリシア語訳はこの語を「ホモイオーマ(似姿)」と訳します。そしてピリピ人への手紙2章7節、神の御子は「人間と同じように(ホモイオーマ)」なられた。シナイで与えられなかった似姿を、神ご自身が取られたのです。そして3章21節、その栄光のかたちに、私たちが同じかたち(スュンモルフォス)とされる。かたちの不在から、受肉を経て、私たちの変貌へ。
第二の糸——書きしるす場所。申命記4章13節、契約は「二枚の石の板に書きしるされた」。エレミヤ書31章33節、「彼らの心にこれを書きしるす」。同じ動詞です。内容ではなく、場所が移った。そしてピリピ3章3節、「御霊によって礼拝をする私たちのほうこそ、割礼の者」。外側の規則から、内側の命へ。
第三の糸——保証人。エレミヤ書30章21節、「わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか」——自分自身を保証(アーラヴ)として差し出す者は誰か。ヘブル人への手紙7章22節、「イエスは、さらにすぐれた契約の保証(エングオス)となられた」。旧約が問い、新約が名を告げました。
第四の糸——近さ。申命記4章7節、「主は、私たちが呼ばわるとき、いつも近くに(カローヴ)おられる」。エレミヤ書30章21節、「わたしは彼を近づけ(カーラヴ)」。神の近さが、ひとりの方に集中し、その方を通してすべての者に開かれる。エペソ人への手紙2章13節——「以前は遠く離れていたあなたがたも、キリスト・イエスの中にあって、キリストの血によって近い者とされたのです。」
【図解④ 三箇所を貫く四本の糸 zukai04_four_threads.html】
いのちをかけて近づく者は、まだ現れていない。
一貫性が意味すること
この一致は、後世の教会が旧約を読み替えて作り出したものではありません。旧約自身が、答えの出ない問いを抱えたまま終わっているのです。ダビデはもう死んでいる。契約は石に書かれたままである。いのちをかけて近づく者は、まだ現れていない。旧約は完結した書物ではなく、空欄を持った書物でした。
そして新約は、その空欄を一つずつ埋めていきます。しかも埋め方が予告と一致している。これは、一人の著者が最初から書いていた文章です。
適用 —— 今日、この御言葉をどう生きるか
一つめ。かたちを見た者として生きること。私たちは、シナイの民が持たなかったものを持っています。神のかたちを見た証言です。だから信仰は、暗闇の中の推測ではありません。「御子は、見えない神のかたち」(コロサイ1章15節)。私たちが見上げているのは、顔のある神です。
二つめ。石ではなく、心を差し出すこと。外側を整えることは、いつでも内側を整えることより簡単です。パウロが「切り刻み」と呼んだのは、まさに外側だけが残った信仰でした。ここで問われるのは、律法を守っているかではなく、それが心に書かれているかです。書けるのは神だけですから、私たちにできるのは、書いてくださいと差し出すことだけです。
三つめ。走り続けることを、恥じないこと。獄中のパウロが「私は、すでに得たのでもなく」と書いたことを思い出してください。走っていることは、未熟のしるしではありません。神を相手にした者の、正常な姿です。
栄光のからだの、その先
最後に、少し先まで見てみます。ここからは聖書が明言していることではなく、聖句をもとにした黙想であることを、はっきりお断りしておきます。
私たちの究極の希望は、栄光の体を受けることでしょうか。ピリピ3章10節は、パウロの願いをこう述べます——「私は、キリストとその復活の力を知り」。目的は「知る」ことでした。体は、その知りに耐えるための器です。
そして「知る」に、終わりはあるでしょうか。エペソ人への手紙2章7節は、「後の世々に、…恵みの…限りない豊かさを示すため」と書きます。復活の後にも「世々」があり、そこで神はまだ示していない豊かさを示されるのです。黙示録22章2節の生命の木は、毎月実を結びます。新しい創造にも、めぐる時間がある。
四世紀の教父ニュッサのグレゴリオスは、ピリピ3章13節の「身を伸ばし切る(エペクテイノメノス)」という一語から、こう考えました。神は無限であり、無限には端がない。だから被造物は永遠に神へ向かって伸び続ける。そしてそれは欠乏ではなく、祝福である、と。彼はその根拠を出エジプト記33章に見ました。山の上で神を見たモーセが、その後で「あなたの栄光を私に見せてください」と願ったことに。
(グレゴリオスには万人が最終的に救われるとする傾向があり、その点は福音主義の立場が受け入れないところです。ここで採り上げているのは、彼の思想全体ではなく、ピリピ3章13節から引き出されたこの一点に限られます。)
第一コリント13章13節「いつまでも残るものは信仰と希望と愛」の正確な意味については、古来議論があります。中世の神学者トマス・アクィナスは、信仰は見ることに、希望は所有に変わり、愛だけが残ると読みました。信仰の定義そのものが「目に見えないもの」を含み(ヘブル11章1節)、希望の定義そのものが「まだ見ていない」を含む(ローマ8章24節)以上、顔と顔とを合わせる日には、その条件が消えるからです。一方で、「残る(メノー)」と訳された語が、ヨハネ15章の「わたしにとどまりなさい」と同じ動詞であることを重く見て、三つとも本当に残ると読む立場もあります。
いずれにせよ、確かなことが一つあります。乗り物が変わるのは、旅が終わるからではなく、行ける場所が変わるからです。
祈り
天の父なる神様。
あなたはシナイの山で、御姿を見せずに御声だけを聞かせられました。あの日、民が受け取らなかったかたちを、あなたはご自分の手で選び、御子イエス・キリストとして与えてくださいました。見せてくださらなかったのではなく、取っておいてくださったのだと、今日、教えられました。感謝いたします。
「わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか」——あなたのその問いに、御子が答えてくださいました。ご自分を保証として差し出し、いのちをかけて近づき、幕を裂いてくださいました。そのおかげで、私のような者が、今こうしてあなたに呼ばわることができます。
どうか、私の心にあなたの律法を書きしるしてください。外側だけを整えて、内側が空のままである歩みから、私を守ってください。私には自分の心を切ることができません。あなたがしてくださらなければ、何も変わりません。
まだ得ていないこと、まだ完全にされていないことを、恥じずに走らせてください。うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばす者としてください。そしてその日、卑しいこのからだが、御子の栄光のからだと同じ姿に変えられ、顔と顔とを合わせてあなたを知る者とならせてください。
すべてを、私たちの保証人となってくださった主イエス・キリストの御名によって、お祈りいたします。アーメン。
【ここに語彙表を挿入 goihyou_20260726.html】
ハ・デヴァリーム
エト・リッボー
ハ・ヤーミーム
ハダシャー
ゾメノス
※原語の解説は、複数の辞書・注解に照らして確認していますが、語義には幅があります。

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